2ch上で見かけたやり取りです。
(※もう何年も利用していません)
509 :通常の名無しさんの3倍:2009/06/06(土) 03:37:06 ID:???
>>504
ぶっちゃけ幻想と言われながらティファの超能力は消えてなかった件について
本当に幻想なら15年前に死亡したカトックの家族の顔を把握して絵は描けないわな
↓
513 :通常の名無しさんの3倍:2009/06/06(土) 03:45:31 ID:???
>>509
あれは、人類の革新であるニュータイプと、能力者であるサイキッカーは別物だってことだよ
革新型ニュータイプと、能力型ニュータイプは別って感じ
DOMEは、
>そう思いたい気持ちは理解できるけど、残念ながらそれは違う。人を超えた力と、人の革新とは別の事なんだ。
とあるように、そういう意味でニュータイプは幻想と言ったわけ
ガンダムXは、過去や幻想に捕らわれて生きる大人たちと、
過去に捕らわれず未来に生きる子供たちの、確執の物語だから
>それは不可能な事ではない。そこにいる少年は、それを繰り返してきた。そうだろ、ガロード・ラン。
>キミは、ティファの予見した未来をことごとく変えてきた。
>その心の強さが、キミに未来を変える力を与えたんだ。そしてそれは戦争を知らない世代に、共通した希望の光だ。
>古い時代に左右されず、新しい時代を生きる力がある。
とあるように、過去や既存の価値観にとらわれていない子供たちこそが、未来を作れるのだ、ってのがガンダムXのテーマだったのだ
ああ、もうちょっと忘れてしまっていたけど、やっぱりガンダムXは良い物語だったんだなあと再認識した。
引用先であるガンダム演説まとめサイト
から一部をさらに引き出すとさらに良くわかる。
戦争か、よくも飽きずに続けるものだ。ニュータイプを神と等しく崇拝する者、封印し力を利用しようとする者、かつて力を持っていた者、みんなそれぞれにニュータイプという言葉を捉えている。そしてそれがまた、次の戦争の引き金になろうとしている。でもそれは、ある意味では仕方が無い事かもしれない。僕らはニュータイプという幻想で繋がった世代なのだから。
(ジャミル)ニュータイプが幻想だと言うのか!
(ブラッドマン)バカな。
(ザイデル)1stニュータイプ自らが、何故そのような事を言う!?己を幻と定義するなら、この超常はどう説明する!?
それは、僕にある力によるものだ。
(ジャミル)その力こそ、人の革新、ニュータイプと呼ばれる力ではないのか?
そう思いたい気持ちは理解できるけど、残念ながらそれは違う。人を超えた力と、人の革新とは別の事なんだ。
かつて、僕らは全ての価値観を失っていた。道を示すべき大人は沈黙し、平和と豊かさの中で、僕らは何かを求め続けていた。そんな世界に戦争が起きて、やがて僕が生まれた。僕に何故力があったのか、それは僕自身にも分からない。人が言うように、時代が生んだ突然変異だったのかもしれない。だけど僕の力は、道を失った人々にとって、新たなる価値観となってしまった。それが、ニュータイプという言葉だった。僕の終わりと共に、ニュータイプという言葉も消えるべきだった。けれどもそれに捕らわれてしまった人々は、その次を求めてしまった。
そうなのだ
人を超えた力と、人の革新とは別の事なんだ。
この台詞、これこそがガンダムX最大の価値であり、今も燦然と輝く部分である。
確かに人間は力の弱い存在であるから、巨大な力や超常の力に頼りたいという気持ちになる、ましてや現実とは違い超常の力を描きやすいアニメにおいては、その超常の力や新たな力を獲得した人類を人間の進化と感じたり、人類の革新と勘違いしやすい。けれどそれはDOMEの言うとおり全く違う次元でしかない。
なぜなら超常の力と心の成長は全くの別の次元の話であり、逆に超常の力さえあれば偉いのであれば、某新興宗教のように教祖が空を飛べて超能力が使えて釈迦の生まれ変わりなのだから、女侍らそうが、金の亡者だろうが、人を殺そうが良いという事になってしまう。
しかしそれは違う。人類の革新に超常の力、ましてやDOMEの言うようなニュータイプ能力の獲得の有無でもって判断するのは全く間違いなのだ。あくまでそれは「力は力」でしかない。野球が巧いとか相撲が強いとか言うのと、ニュータイプ能力に代表されるような超常の力とは究極的には同じ事なのだ。
獲得することに努力や鍛錬が必要で、副次的に能力を獲得した時点で精神も発達していた・・・という事はあるだろう。だけれど多くのアニメが描くような偶然や才能や運命だけで授かった超常の力がどれほど偉大でも、それには価値は無い。
ガンダムXの凄い所は、商業的には失敗したとは言え、ちゃんと最初からファーストガンダムとニュータイプ幻想を乗り越える(または否定する)という裏目標をストーリーや設定の段階から組み込み、それを全体のテーマとした所にある。そしてそれは放映期間が短縮されてしまったとは言え、このDOMEの演説によってある程度完成したと言える。
が、翻ってガンダム00はどうなのか?これがファーストガンダムを乗り越える所か、ファーストガンダムよりもまだ幼い超常信仰、革新信仰に陥ってしまっている。どこにも心の成長や発達が描かれない。
自分が一番ガンダム00の中で違和感を感じたのが、リボンズやヒリングなど自分達をイノベイターだと思い込んで居た連中が、実は天然イノベイターを誘発する為の存在のイノベイドだったという設定。
何がおかしいって、紛争根絶だの人類の革新だの平和だのわかり合いだのと言い合いながらも、そういった精神的な部分は一切おざなりで、どうでも良い超能力者ランクみたいな部分で、どっちが偉いみたいなどうしようもない低レベルな争いをしていた部分である。それは唯の能力者バトルでしかない。いや、それどころか能力者ランクバトルと言うべきか。
さらに目も当てられないのは、通常のアニメが超越者的存在の力の暴走を、一般の人間がなんとか阻止して、ガンダムXのように「力は力」でしかない、本当に大切なのは「心」って感じに収まる物が多いのだが、ガンダム00の場合は、敵よりもさらに偉大な能力者様に進化しました、だからえらいでしょ?だから歯向かう敵は撃滅させればいいでしょ?って感じになってしまった所である。
そして分かり合いに関しては、GN粒子を介在した無線通信を人体で達成した状態を「判り合い」とでも言わんばかり。当然ながら、ただ超常の力で他人と繋がる事と、お互いの違いを認識して話し合い、分かり合う事は全く別次元なのだが、結局判り合いなんて一切描かれない始末。
不老長寿の天然イノベイター一号に進化した刹那、しかし彼は全く精神的には成長していないどころか、常に自分の行動を正当化するだけの抑圧者に成り下がってしまった。
同時期に放映されていたキャシャーンSINSでは、長命を分け与えるルナを称して、キャシャーンが「ルナの永遠の命は歪んでいる」と言うと、登場人物の壊れかけロボットのオンジが、不老不死のキャシャーンに「限りある命の者の気持ちはわかるまい」と反論する。そのやり取りには双方の悲しさや苦しみが強く描かれて、迫真に迫る場面だった。是非観て欲しい作品だが、果たしてガンダム00に同じような葛藤や苦しみが描かれていたのだろうか?
やがてキャシャーンは命の支配者であるルナに脅しを利かし、だけれど自分が世界に関わる権利は無いと姿を消してしまった。しかし同じ声優が出演していたガンダム00は全く逆の道を辿る。
世界の歪みが生み出した象徴のような人物のアリーや、自分勝手な妄想で繰り広げられた計画で歪められた生を与えられたリボンズ、両者のように人間と本当に分かり合ってこそ、物語の価値が知れるような相手はあっさり殺害して終わりという始末。逆に身内だけはなんとか庇うという浅ましさ。
その上びっくりさせられるのが、そういった精神面や内面の部分で全くファースト以前の時代に逆戻りしてしまった作品でありながら、劇中に登場させた初代そっくりの安易なパクリ機体をラスボスに乗せて、これを主人公の刹那が倒したから、ファーストを越えた、俺たちのガンダムでファーストをぶっつぶした!などと言い出す始末。
それは乗り越えたのじゃなくて、唯の後退、能力の足らない者の下衆の八つ当たりでしかない。
やはりガンダム00は日本アニメ史上、稀に見る空前の駄作品としか言いようが無い。