函館市船見町の外国人墓地を出発した後に向かったのは、函館山を挟んで反対側にある住吉町の「立待岬」。

やって来たのはいいものの、車のドアを開けるのも憚られるような強い風雨でした。

 

 

大森浜及び函館市街地方面を望みます。

また天候が良ければ岬からは下北半島も見えるのですが、この天候じゃあねぇ・・・

 

 

スマホの調子が悪いので、iPadでの撮影がメイン。

しかしスマホに比べて大きく重いiPadでは、強風の影響で撮影が難しかったりします。思ったより手ぶれのピンボケ写真が多く、結構ボツにした写真が続出しました。

 

 

後方の山は函館山。

立待岬の近くには「石川啄木一族の墓」もあり、ここに来る途中で見かけたのですが、啄木には興味がなく天候も悪いのでスルー。

 

 

立待岬への道路は一方通行になっており、帰路は往路とは違う道になります。

木々の合間からは、函館市街が見えました。

 

 

帰路の途中に、「碧血碑」という箱館戦争時の旧幕府軍戦没者(約800名)の慰霊碑へ至る小路がありましたので、車を道の脇に停めて徒歩で行ってみます。

明治新政府は当初、賊軍への慰霊を許さなかったのですが、1874(明治7)年にそれが正式に許可されると、かつて賊軍戦没者の遺体を政府の命令に反しながらも回収して埋葬した侠客・柳川熊吉や、旧幕府軍中心メンバーだった榎本武揚、大鳥圭介らによって1875(明治8)年に建立されました。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」との中国の故事によるものだそうです。

実際見てみると、堂々とした威容を持つ碑でしたね。建てた人たちの思いが込められているようです。

 

 

 

車に戻り、さらに道を進むと「函館八幡宮」(函館市谷地頭町2-5)がありましたので、そこでお参りをしていきます。

(左)境内の駐車場に車を停めて、くぐってきた鳥居を振り返ったところ。

(右)函館八幡宮社殿に向かって歩いて行くと、「鶴若稲荷神社」の赤い社殿が左側に建っていました。因みに稲荷神社の狐は食物の神である稲荷神の「お使い」であり、神様そのものを表している訳ではありません。
 

 

 

この時は、着物姿の若い女性が家族とともに何かの祈願(あるいは結婚式の下見かも)に来ていました。

 

 

拝殿前からメインの参道方向を振り返ります。

 

 

立派で歴史がありそうな拝殿ですね。

函館八幡宮の由緒は社伝によると1445年にまで遡るそうで、1880(明治13)年からこの地に鎮座しています。現在の社殿は1912(明治45)~1915(大正4)年建築との事。

戦前の近代社格制度では国幣中社に当たり、現在では神社本庁の別表神社になっています(別表神社については→こちらの記事を参照)。戦前の社格の高さこそ北海道神宮に譲りますが、歴史的由緒という点では、北海道随一なのでしょうね。

 

 

右に写っている社務所の左手にも古くからの社殿が。

具体的には何に相当するのでしょうか?

 

 

 

(左)第二鳥居から拝殿方向を望みます。

(右)振り返ると階段下に第一鳥居が見えました。梅之助らが車で来たところの鳥居は第三鳥居になるのでしょう。

 

函館八幡宮の参拝を終え、時計を見ると16:30まで約30分ほどあります。

ならば、旅行の前段階では行ってみたいと思いつつ、スケジュール的に無理と諦めていた護国神社にも行ってみましょう。幸い、比較的近くです。

 

 

「函館護国神社」(函館市青柳町9-23)です。

1869(明治2)年、箱館戦争が終結した際に新政府軍は自軍の戦死者の招魂祭を大森浜で行い、この地に招魂場を造ったのが始まりです。

現在の社殿は1942(昭和17)年の建築。

同じ護国神社とはいえ、行き慣れた北海道護国神社とはまた違った雰囲気です。

 

 

社殿右奥にある箱館戦争で戦死した官軍兵士の墓地。

 

 

約60基あるそうです。

 

 

鳥居越しに函館市街地を望みます。

 

 

護国神社坂。

結局この日は一日中、雨だったなぁ。

 

 

階段下から鳥居を見上げます。

 

 

 

(左)阿部慧月の句碑。写真では文字が見えなくなっていますが、「いわし雲 港の景は 暮れにけり」とあります。

(右)偕行会記念碑。

 

 

 

(左)帝国海軍駆逐艦「橘」鎮魂の碑。

1945(昭和20)年7月14日午前5時、青函連絡船及び船舶の護衛任務にあたっていた駆逐艦「橘」は、来襲した敵機約100機の襲撃を一手に引き受け、湾内、湾外に勇戦奮闘し、敵機6機撃墜、1機撃破しましたが、午前6時53分葛登支岬灯台(北海道北斗市)の90度2分にて沈没。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名を悼む慰霊碑です。

(右)少年海員の碑。

1941(昭和16)年5月、日本海運報国は函館市の協力で函館普通海員養成所を開設し、後に船舶運営会に継承され、1945(昭和20)年8月の終戦を迎えました。この間、卒業生にして戦時の海上輸送に挺身した若人は2000名を超え、そのうち120名は帰らぬ人となっています。また、国鉄函館船員養成所の生徒14名も戦死しており、これら少年海員を偲んで御霊安かれと祈った碑です。

 

HPを見ると、この他にも記念碑・慰霊碑があったようですが、時間の都合上、これくらいしか回れませんでした。

 

最後に、護国神社に向かう途中、チラリと見かけた建物を確認しに行きます。

それは「函館公園」(函館市青柳町17)内にあるものでした。

 

 

「旧函館博物館2号」で、1884(明治17)年のもの。

 

 

こちらは「旧函館博物館1号」。1879(明治12)年のもので、日本の地方博物館としては最も古い歴史があるそうです。

 

 

車に戻る際、1879(明治12)年に造成された函館公園の遠景を展望台から望みました。この公園造成には、以前書いた初代・渡辺熊四郎ら「函館の四天王」が尽力をしています。

 

さあ、出発時間がやって参りました。

これで函館も見納め。

またいつか必ず来ようと思います。

 

 

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