これまで旧日本海軍の花形軍艦である戦艦、航空母艦についてシリーズ記事を書いてきました。これに続くとしたら巡洋艦、駆逐艦、という感じになるのでしょうが、これらは数も多く全てを網羅する意味もありませんので、まず駆逐艦シリーズとして現在もその姿(残骸)を写真などで確認できるものを中心に、少し取り上げてみたいと思います。
その1回目として今回の記事は、福岡県・北九州市の若松港(現:北九州港)の通称・軍艦防波堤についてです(因みに、旧日本海軍では分類定義上、駆逐艦や潜水艦は「軍艦」に含まれないそうです。もちろん狭義の意味で、ですけれど)。

 

 


ここには駆逐艦「柳」、「涼月」、「冬月」が護岸を守るための防波堤として、戦後の1948年に沈設され今も横たわっています。
防波堤の正式名称は響灘沈艦護岸。上の2枚はWikipediaからの引用で、現在は柳の船体形状のみ確認でき、涼月、冬月は完全にコンクリートに埋設された状態です。

グーグルマップで見てみた航空写真が下のもの(→軍艦防波堤)。写真下部に柳の形がハッキリと確認出来ます。

 

 


涼月と冬月は「秋月型」駆逐艦の3番艦、8番艦として、それぞれ1942年12月と1944年5月に竣工。共に1945年4月の戦艦大和・沖縄特攻に随伴し、坊ノ岬沖海戦を戦っています。
終戦を涼月は佐世保、冬月は門司港で迎え、その後軍艦防波堤としてその身を若松港に沈めました。
下左側写真は大和(後方)と共に戦う冬月が高角砲を発砲した瞬間。下中は坊ノ岬沖海戦時の涼月。下右側は終戦直後に佐世保・相ノ浦港で撮影された涼月(いずれもWikipediaより)。

 

 

 


一方、この防波堤に使われた柳の船体ですが、1917年竣工の初代・柳(桃型駆逐艦)のもので、対米戦争開戦前に除籍されており、練習船として使用されていたものでした。ところが、その名を受け継いだ2代目・柳(松型駆逐艦、1945年竣工、1947年解体完了)と混同され、多くの文献などでそちらの方が紹介されているそうです。

今から70年前、群がる米艦載機の波状攻撃の中を戦い耐え抜いた涼月と冬月は、今日も玄界灘の波涛から本土を護っています。


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