「海賊戦隊ゴーカイジャー」に見る、ヒーローからの円満な卒業 | といず・くろすおーばー!

「海賊戦隊ゴーカイジャー」に見る、ヒーローからの円満な卒業

「海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン」をしばらく見に行けないので、ちょっと毛色を変えてコラムっぽいものを書いてみる。

物語内部の理屈とか脇に置いた「海賊戦隊ゴーカイジャー」の考察ってことで。



・ゴーカイジャーとディケイド


 2011年度スーパー戦隊作品「海賊戦隊ゴーカイジャー」の目玉の一つに、レジェンド戦士と呼ばれる過去のオリジナルキャストの出演があります。

 過去の同種ヒーローに変身出来るヒーローが、オリジンと出会って力を手に入れる、という展開は2009年度平成ライダー「仮面ライダーディケイド」でも行われた趣向ですが、「ディケイド」ではオリジナル役者を集められない都合からか、ファーストネームやオリジナルの特徴を受け継ぐ別人=リ・イマジネーションライダーを創造するという変則的な手段を取りました。

 これにより「ディケイド」は、不完全な若者たちのもがきを取り扱った平成ライダーの特徴的な空気をデフォルメするように、ヒーローとして不完全なリ・イマジネーションライダーたちをディケイドこと門矢士が(例の説教BGMに乗せて)総括し、肯定し、ディケイドが失ってしまったライダーカードを再取得し、ちょっとくすぐったくする、というのを各エピソードの基本ラインにした作劇を推し進めて行きました。

(「ネガの世界」以降でも、士が諭される側に回った「BLACK・RX編」と士自身が自らの旅のあり方を唱えた「ライダー大戦編」以外でもエピソードの進行フォーマット自体はだいたい同じ)


 これに比べると「ゴーカイジャー」は、出てくるレジェンド戦士は原則的に原典作品のオリジナルキャスト(変身後の姿のみだったドラゴンレンジャータイムファイヤーはともかく)であること、等身大の過去ヒーローへの多段変身(豪快チェンジ)自体は最初の段階でほぼ問題なく出来ること(当初バスコが所有していたキーはともかく)など、「ディケイド」とは対照的な作りになっています。

「ディケイド」でも一部でオリジナルキャストを連れてきた回の方が、設定上リ・イマジネーションキャラであっても説得力と存在感に満ちていた、という手応えもあったのでしょうけれど、こうした先輩ヒーロー客演タイプの番組を作る上では「ディケイド」の方が変則的だったわけで、先輩ヒーローが出るなら「ご本人登場」を期待するのは、視聴者視点から見れば普通でしょう。


 というか戦隊をリ・イマジネーションする場合、ゴーカイジャー以外にコンスタントに5人ばかりゲストを出さなきゃいけないのでキャラを立てる意味ではどちらに対してもマイナスになり、本人登場以外の選択肢はなかったと思います。

 また、ゴーカイジャーにレジェンド1人を加えた6~7人で当該戦隊にチェンジする手もあるにはあるんですが、2週に1度チーム内に異物を抱えるような演出はゴーカイジャーのキャラクター性や連携を損ない、通常回の豪快チェンジと異なり誰が何色か直観的に把握しづらくなる欠点があるのでメリットよりデメリットの方が大きいです。ニンジャマンは原典でもカクレンジャーの仲間というよりは距離を置いた協力者だったので一緒に戦っても違和感がなかったわけです。閑話休題。



・変身出来なくなったヒーローたち

 しかし「ゴーカイジャー」はここで、驚きの設定を視聴者に提示してきました。

 ゴレンジャー~ゴセイジャーの34大スーパー戦隊がザンギャックの第一次地球侵攻軍との戦いで変身能力を失ってしまったというのです。

 これはディープな戦隊視聴者の多くには戸惑いを持って迎えられた感があります。

 不思議な力で変身するファンタジー系戦隊ならまだしも、単に支給された只の物体である戦隊スーツを着ているだけの科学テクノロジー系戦隊までもスーパー戦隊ファイヤー(仮)で力を失ったってどういうことだよ、といった感じです。

 しかも34スーパー戦隊には「各戦隊の力を完全に使いこなすための"大いなる力"」が残留しているというオマケつき。設定を重視するファンはここで頭を抱えてしまったことでしょう。

 この辺りは、34もスーパー戦隊があって、それらがゴーカイジャーを認めることでゴーカイマシンが登場する、という販促展開を進めるためには、細かい設定は度外視して各戦隊の基本フォーマットを統一してしまった方が都合がいい、という事情があったわけで、それを受け入れるしかなさそうです。

(余談ですが、大いなる力というターム自体に「各戦隊を象徴する精神的テーマ」「レジェンドからレンジャーキーやバスコの手元へと移動する光る物体」「輝きを見せたレンジャーキーを使うことで召喚ないし発動する戦力」という三つの意味が含まれていてその時々でニュアンスを使い分けているので、文章にする時はたまにややこしくなります)


 何はともあれこうして、変身出来ない元ヒーローであるレジェンドとゴーカイジャーが出会い、ゴーカイジャーの中に自分たちに通じる要素が秘められた後継者だと認め、レジェンドが大いなる力を託す、というレジェンド回の基本フォーマットが生まれました。

 そして「ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」 や「ゴーカイジャー」2526話 ではレジェンド戦士がレンジャーキーを取り戻して変身して戦う展開にもなりました。

アバレキラーこと仲代壬琴ブラックコンドルこと結城凱もイメージオーバーラップに留まらない変身を見せてくれていますが、これに関しては後述)


 こうなると、他のレジェンドにも変身してゴーカイジャーと戦ってもらいたい!という意見が出てくるのは当然のことです。特に思い入れのある戦隊ならその思いはひとしおでしょう。チェンジマンがバスコに大いなる力を奪われてしまった展開 にショックを受けた人も多いと思われます。


 ただ、それでも壱伏はあえて言います。

 変身出来なくなったのは、レジェンドたちにとっての福音であったと。



・ヒーローとは青春の1ページで、寄り道である


 スーパー戦隊に限らずヒーローであることが一つの職業として成立している、仕事の中でヒーローの力を使う作品も案外と多いのですが、各論ではなく総論でざっくり切り取るので個々の事例に対する言及はあえて避けると、まずもって変身して戦うことは典型的な非日常であると言えます。

 特にスーパー戦隊は第1話開始時点では互いに面識がない(あるいは薄い、レッドだけ外様等)メンバーが招集され、基地で疑似家族を形成しながら1年間戦い、終われば解散する、というケースが多いです。

 要するに、日常から非日常に足を踏み入れながらも、最終的には日常に回帰するわけです。

 さらに言い換えれば、大人として成熟しきる前の青年が一度ヒーローとなり、一回り大きく成長して大人として社会に戻る、という構図です。

 だから、原則的にヒーローは卒業して(大人になって)いくものなのです。


 この発想は別に珍しいものではなく、少なくとも1970年代の時点ですでに存在した視点です。


 例えば、1973年度ウルトラシリーズ「ウルトラマンタロウ」

 この作品は当初、青年・東光太郎が怪獣との戦いで命を落とし、ウルトラの母にウルトラの命を与えられてウルトラマンタロウとして転生する、というストーリーで描かれていました。

 結局のところウルトラ兄弟や光の国を押し出す方針により、東光太郎と一体化する前のウルトラマンタロウさん(12,000歳)が設定されてしまい当初のもくろみは立ち消えになったかに見えましたが、最終回で東光太郎がタロウに変身することなくバルキー星人を倒し、変身アイテム・ウルトラバッジを捨てて一人の人間として旅立つ、という形で企画の初志を取り戻しています。


 2006年「魔弾戦記リュウケンドー」も、最終回で「ヒーローを卒業し、剣二たちは自分たち自身を発動していくのだ」という卒業ENDでした。

(リュウケンドーとトミカヒーローは最終回で「卒業」のタームが用いられているので分かりやすい)


 また、卒業とはニュアンスが違いますが、ヒーローの力を失ってただの人間に戻ることを肯定的に描く作劇は結構ポピュラーです。


 1975年ライダーシリーズ「仮面ライダーストロンガー」の成井紀郎版コミカライズ「7大ライダー 最後の大決戦!」では、戦いを終えた7人ライダーが普通の人間に戻ることで話に区切りをつけています。


 平成においても「ウルトラマンティガ(1996年8月~1997年8月)」の最終回でスパークレンスは砂に還りました。

 延々続編を繰り出して「電王商法」と一部で揶揄される2007年度平成ライダー「仮面ライダー電王」も、TVシリーズ放映終了後に白倉・小林両氏インタビューにて「電車に乗ってから電車を降りるまでのストーリー」と証言されています。

 近年でこうした考えが最も端的に出ているのは2000年度「仮面ライダークウガ」でしょう。五代雄介を一人の冒険家に戻したいがあまり、次作「仮面ライダーアギト」にまで大きな影響を及ぼしてしまったわけで……


 いずれにせよ制作側にはヒーローであることは痛みを伴うので、いずれ戦わなくてもいい存在にしてやりたいという考えが存在していることが窺えます(「ガオレンジャー」放映期頃のマテリアルブック でも「変身は痛みを伴う行為なので変身状態で日常生活を行わない」という旨の記述があります)。

 それは、ライダーとは逆に身体的に重荷を背負っていないヒーローとして始まった(ジャッカー電撃隊はともかく)スーパー戦隊シリーズにも受け継がれ、より前向きな卒業として昇華されることになりました。


 しかし年季の入ったヒーロー番組視聴者はヒーローがヒーローであることを至上のものとして見なすため、ヒーローにはずっとヒーローでいてほしいという思いが大なり小なりあるわけです。

 そして制作側の上層部でもオールスターズ商法で客を呼びたいという考えがあり、結局東光太郎はタロウとして宇宙警備隊の筆頭教官になってしまいました

 ヒーローを卒業して一人の人間として生きて行くのは、非常に難しいわけです。


 そんなわけで「ゴーカイジャー」では、変身能力を失うことでようやくヒーローを卒業出来る、という道を示したわけです。



・守り手から作り手へ


「ゴーカイジャー」はあくまで宇宙海賊である海賊戦隊ゴーカイジャーの成長を描くドラマであり、レジェンド同窓会の面を強調しないという旨の発言が宇都宮プロデューサーからなされています。

 そのため重点的に描く戦隊は過去10年前後(「ガオレンジャー」~「ゴセイジャー」)あたりに限定する予定もあったそうですが、イエローライオン大原丈役の西村和彦氏の逆オファーなどもあり、現在知られているスタイルへと移行した経緯があります。

 従って「ゴーカイジャー」の初志を確かめたいならば第1クールのレジェンド回(シンケンジャー前後編 まで。199ヒーロー大決戦含む)に注目することになります。


 実はここだけ見るとややこしく、ヒーローを卒業しても同じことをしている人が思いの外多かったりするんですね(笑)

 レジェンド代表で最初にゴーカイジャーを見極めに来た魁 はインフェルシアとの親善大使の格好で「魔法を忘れた魔法使い」を自称しながらフレイジェルの助力で魔法を使っているようでしたし、デカレンジャー は変身出来なくとも宇宙警察であることに違いはなく、日々高みを目指して学び変わるゲキレンジャーのジャン は拳法家、姫シンケンレッド志葉薫やゴセイジャーはレンジャーキー奪還に動きました。

 ジャンの場合はマスター・ジャンとして教える側に回っているので戦士から卒業したと言えなくもないのですが、一般的に見た非日常が就職先になっているマジ・デカなんかはやることを変えようがない

 この辺はオタク気質な塚田Pがヒーローであり続けることを割と肯定的に捉えて設定しているため、というのもあるでしょう。

 ただそんなデカレンジャーにしても「倒しても悪がなくなることはないが、それでもよりよい明日を作っていきたい」という「199ヒーロー大決戦」でのウメコの台詞でフォローはされています。

「未来の守り手たるヒーロー」から「未来の作り手たる大人」へとちゃんとシフトしているんですね

(ヒーローとは世界の守り手であり作り手ではない、という構図は「ゴセイジャー」でも何度か強調されています)


 またゴセイジャーは直近のスーパー戦隊ですし、志葉薫は終盤に出てきたため1年の戦いを通じて精神的に成長する機会がなかったキャラなので、まだ大人未満として見なすことにも違和感がないポジションにいます。


 そんな第1クールの中で最も端的に卒業を体現していたレジェンドは、元ガオレッド・獅子走だったりします

 一人の落ち着いた獣医として日々を生き、かつて「ぃよっしゃあ! やる気まんまんだぜぇっ!」とか荒ぶっていたことを懐かしんでか「ったく、あいつら口が悪いんだよ」とゴーカイジャーを見て眩しそうに懐かしむ獅子走の姿は、ヒーローを卒業してよりよく生きる一人前の大人を思わせました。

 元々金子昇氏は「ガオレンジャー」出演時に20代後半と、近年の戦隊の中では現役時点で年を食っている方なので、それよりも上の世代のレジェンドを描く際のアーキタイプとなった可能性もあります。


 そして第2クール以降は、バスコ出現や鎧加入を経て、戦隊を離れて各人の人生を歩むレジェンドたちの姿が時折描かれることになります。

「ゴーカイジャー」の各エピソードの都合に沿った物ではありますし、元々「ゴーカイジャー」独自の設定として割り切った方が良かったりするところもありますが、レジェンドたちが戦士を卒業し、一人ひとりの人間として生きていることが描写されていったのです。


 こうした作劇スタイルを意識すると、逆に結城凱や仲代壬琴は「死者であるがゆえに(顔立ちはともかく)本質的には時間の止まった成長しない存在」なので、レンジャーキーの形で力を放出した後も(少なくとも外観は)変身能力を保っていたのだろうと分かります。

 第2クール終盤の「ハリケンジャー編」ではハリケンジャーが力を一時返却してもらい本人変身を実現させましたが、これは大人になってしまったことで現役時代の大事な気持ちを忘れていた鷹介たちがゴーカイジャーを見て初心を取り戻す構図もあったから成立したわけです(これはカクレンジャー後編のニンジャマンも同じ。大人云々言っておいてこういう表現もちょっと乱暴なんですが、中2病に対する高2病みたいなものを発症して、その後落ち着いた、っていうのが一番分かりやすいかも。大抵のレジェンドはその辺りをすでに乗り越えているので、鷹揚にゴーカイジャーの活躍を見守ることが出来ると)。



・昔取った杵柄。元ヒーローが暢気に生きていける世界


「海賊戦隊ゴーカイジャー」は、歴代レジェンド戦士との共演を前提とした企画であり、レジェンドと並んで埋没しないため、各エピソードのコントラストを際立たせるために宇宙海賊という設定になりました。

 そのため、ゴーカイジャーの敵は宇宙海賊に懸賞金を懸ける宇宙帝国という、実体ある敵に設定されています。

 ということは設定面から追いかけて行くと、そんな(自然発生する妖怪変化の類ではない)実体ある敵が地球近くにいる場合、もしレジェンドたちが現役なら常に臨戦態勢を強いられることになります。

 そしてスーパー戦隊は規定人数が揃うことで本来の力を発揮するため、臨戦態勢=チーム単位で一つ屋根の下で共同生活、です。

 変身能力を保ったレジェンドが一人出てくるということは、すなわち同じ戦隊の他メンバーも事実上拘束されていることを意味するわけです。

 つまり、戦隊一つをクローズアップしたいなら5人前後のスケジュール(引退した役者諸氏含む)を押さえなくてはならなくなり、制作側の負担が高くなります。

 レジェンドが変身能力を失った、という設定は、各戦隊の代表者1名しか出てこないことをフォローするものでもあるわけです。

 そして元戦隊ヒーローの役者諸氏がそれぞれの人生を歩んでいるように、各戦隊のレジェンド回に出てこなかったメンバーもそれぞれの人生を歩んでいけるのです。


 チェンジペガサスは、地球を守り続けるために電撃戦隊チェンジマンを辞められない。しかしただの地球守備隊員・大空勇馬に戻ったなら、地球守備隊を辞して夢だったとんかつ屋を開業することが出来る。

 バスコにチェンジマンの大いなる力を奪われたショッキングなシーン(見た感じ、抜き取られたのはチェンジグリフォンこと疾風翔っぽい?)は、しかし彼らが一人の人間として生きていることを示してもいたわけです。


 ここで思い出していただきたいのがライブマン編ジェットマン編

 ゲストライターとして井上敏樹氏を招いた後者だけならともかく、事実上第2のメインライターとなっている香村純子氏執筆のライブマン編でも感じられたことですが、どうも一部レジェンド回はレジェンド大戦の存在をあえて度外視しているように思えます。

 もちろんレジェンド大戦パート放映の時はオリジナル役者諸氏が登場せず、当該レジェンド回で「○○年ぶりに××が帰ってきた」扱いになるため、役者諸氏のオーラがそんな錯覚をさせている部分もあるのですが、数年前にレジェンド大戦があったばかりという時代設定の中で「アクション出来る理由を昔取った杵柄で片付ける大原丈」、「仲間を戦いに巻き込まないためにマーベラス一味に接触する結城凱」はどこか奇異に映ります。

 そう思って見返せば、レジェンド大戦の影響で有名人になっているケースがあるくらいで、ほとんどのレジェンド回でレジェンドたち自身が現役時代のことを引きずっていても、レジェンド大戦で誰それに会えた失った、あれこれが壊れたといったことを引きずっているような描写はなされていないことにも気付かされます(それこそ直近の戦隊であるゴセイジャーや薫姫、宇宙忍者相手なので復帰の必要があったハリケンジャーは例外)。

 一部レジェンド回におけるレジェンド大戦は、レジェンドが力を失った(=ヒーローを卒業した)ことの理由づけとしてしか扱われておらず、作劇上はむしろ大人になるにつれて自然に変身能力を失ったような形になっているわけです。



・客演のこれから


 ヒーローがヒーローでなくなることは肯定的なニュアンスが含まれている、ということをこうして提示してきたわけですが、一方で再び過去のヒーローが現れることを求める声はどうしたってあるわけです。

「ゴーカイジャー」ではレジェンドが登場するたびにこの人も変身すればいいのにという意見が上がりますし、事実今年のゴールデンウィークには「オールライダーVSオール戦隊」をやるということです。

 そもそも「ゴーカイジャー」最終決戦においてレンジャーキーや宇宙最大のお宝がどう推移し、レジェンドたちが変身能力を取り戻すか否かも分かりません(ネタバレは出ているかも知れませんが壱伏はチェックしていません)。

 ただ「そこに自分の好きなヒーローがいない」ことを否定的に捉えて不満を垂れるばかりでなく、それが憧れたヒーローたちの人生にとって実はプラスである、という視点を持っていただけたらこれ幸い。


※ヒーローの客演を当然のもの、よくあることとして捉えている人に一番考えてもらいたい言葉が「都合のいい神様にしちゃいけない」だと思う。現役ですらキツいのに、当面の戦いを終えた後もヒーローが命を懸けることを待望してしまう特撮ファンの業は深い。

※こうして見ると「ディケイド」のリ・イマジネーションは一つの誠意ですらあったんだなぁ……)


 だって、オールスターズの告知を見るたびに思うんですよ。

 いつまでプリキュアたちは中学2年(一部例外あり)でい続けることを強いられているの、と?

 プリキュアは成長途上の少女たちの瑞々しさの象徴であるがゆえに、なぎさやほのかはプリキュアオールスターズに出続けるためいつまで経っても成人出来やしないんですよ? これってひどいと思いま(略)