Miracle Drug の基本  前略、マーガレット・パターソン先生、お元気ですか?  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
目醒めよニッポン人!☂ネタ:起きづらい朝の眠気ざましの方法は? 参加中 
    
    
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8. 忘れ路のリタ  
    
The Rolling Stones の初期 の名曲にMother's Little Helper という歌がある。 
    
    
    
簡単にいうと、「そのクスリがないと生きてゆけません。先生、どうかクスリをください」 
というような内容の、単なる歌なんだけど 
文明社会に生きる人間が薬物に頼らなければ生きていけないという問題は 
実の母親が長年にわたり精神安定剤を飲まされている事実 も踏まえて 
俺にとっては他人事として片付けることはできない。 
本草綱目 に従い、上薬・中薬・下薬 を正確に把握して処方できる正しい漢方医学で
取り扱われる一部の薬は別として、科学的に生成されたどんな薬物にも必ず副作用がある。 
人間の心と身体をトータルして捉えることができなくなった西洋医学に偏る現代医療では 
病院も製薬会社もクスリを売り捌くことで経営を保持してるようなもんで 
抗癌剤タミフル ほか、全国の年寄り連中に配られる、安っぽいようで長い目で見て危険な胃薬ひとつ、 
国そのもの、戦時中の翼賛政権の支配下でヒロポン という覚せい剤を
世の中に広めていた時代から変わってない…ように思えてしまうのは果たして俺だけか? 
日本の厚生労働省の指導(規制)により、2007年10月26日、
リタリンとよばれる薬が、いわゆる鬱病への適応から除外され 
世の中の底辺に位置する個人個人の日常において たいへんな苦労を虐げられている方々もいる。 
現在では一部の医療機関を除いて使用が禁止されているらしい。
そういう事態へ至った経緯…一部の者の悪行により、
ある日を境に大勢の者が多大な迷惑を被ることになった…
という社会的な背景や体制側の企てなどについての詳細は、ここでは省く。 
    
楽曲解説がどうして、行き詰まる現代医療を攻撃するような云い回しの内容なのか? 
とくに、リタリンというクスリの問題が、Tetsuya Itami 2008 の、この忘れ路のリタ という、
今この時期に発表された新作のひとつに関係あるわけではない。 …まったく関係ない。 また、 
かつて、The Beatles の『 LSDLucy in the Sky with Diamonds 』という曲 が放送禁止になった、
あの社会問題のようになってほしいと願うような気持ちなどもない。 
いわゆるドラッグムーブメントと呼ばれた1960年代から70年代にかけて、
ロックンロールとドラッグの関係は世間的に
非常に色濃く密接な感じに捉えられがちな風潮にあった。
麻薬でトリップしてhighになることで、そこから何かが生み出せるように感じたり 
みんなで似たような幻覚の中に浸ることで、何か世の中が変わると思い込んでいたような時代… 
でもクスリのちからでは何も変わらなかった。 
ひとつ、80年代に移り変わる途中に、パンクというカテゴリーで騒ぎはじめた連中が二手に別れ 
一方は「ロックは死んだ」と云い、もう一方は、死に賭けたロックを受け継いで 
ハリウッド映画産業とともに西側メディアの成長を築きあげていった。 
そして、あの20世紀を生き抜いて、運よく生き残ったロック・アーティストの代表みてぇなもんで 
ピート・タウンゼントエリック・クラプトンキース・リチャーズ という、
この3人 は今も健在。60代を越えても 
それぞれに現役で音楽活動をつづけている。 …あの風の中で。 おそらく。 
それでも、 
Tetsuya Itami 2008忘れ路のリタ は、サイケやフラワーパワーなどとも関係ない。 
クスリの常用と乱用ということについて誰にどこまで、ケジメや区切があるとかないとか 
自由意志の暴走を制御する境や、人々の精神力の云々を紐解こうにも、
副作用や後遺症、依存症、中毒症状、禁断症状… 
果たして、肉体が必要とするクスリなのか? 心が必要とするクスリなのか? 
そんな問いかけを持ち出して、ここで誰かにコールドターキー法のようなモノをススメルわけでもない。 
それはそれで、ヒトそれぞれの問題なので、
そういうことはもう自分でなんとかするしかない。 
俺自身は誰に何を勧められても、これまでいっさいクスリに手を出したことはない。 
それこそ、風邪薬ひとつ、子供の頃それなりに飲まされた経験はあっても、
この二十数年以上、ほとんど飲んだためしがない 。だから呑むと、スグに効く。少量でいい。 
問題はここだ。 自分で加減しなければならない。 
そのために自分自身の“肉体の今”を常に自覚していなければならない。 
治癒力というものが備えられた人間の肉体。その自分自身をどこまで信じられるか? 
ということなんだけど そんなことほざいてみても、既に、今日を生きるためには 
どうしても欠かせないクスリと、その量が、ある程度 確保できてないと不安で仕方がない… 
そうした方々にとって、薬箱の胃薬ひとつ、飲む前にビビってしまうような俺の話なんて 
どうでもいいかもしれない。 
世の中には俺とは正反対に、病院の匂いや お薬ダイスキ人間もいるし 
誰の言葉や忠告に耳を傾けることなく、病院、治療院、診療所、変な社務所…等あちこちを
カネを積んで訪問して歩き回った他力本願寺の住職みてぇな顔で誰も他人を信用できなくなっちまって 
趣味で病気をやってる年寄りも大勢いる。 
そしてそういったヒトの人生ほど疲れきったものはない。 
    
人間誰もが、自分独りで勝手に産まれて勝手に死んで、その後も
勝手にクタバリ損ないになるようには創られていない。 
そんな判りきったようなことでも、自分自身というものが何なのか解らないために 
ヒトは様々に悩み苦しむ。 
それをすべて解る…解ってしまうことは、とうてい不可能だし、また解ったツモリで 
出来あがったりヒラキなおったりしてみても決して、独り抱える苦しみから解放されることはない。 
    
たとえば とある田舎町で 父親も母親も爺さんも婆さんも
国の減反政策に縛られながら毎年マジメに田んぼ作業やっていても
(息子)はそんな苦労を知ってか知らずか
流行りのクルマを乗り回して土曜の夜は駅のターミナルをグルグル旋回し
似たり寄ったりの仲でナンパして遊んでいる。
目的は とにかくSEX。思春期~20歳前半の連中。
あるとき、幼少の頃、近所の変質野郎に陰部をイタズラされたオンナが 
そのトラウマを逆手に 部屋へ引きこもって精神安定剤 呑まされる日々に厭きて
世の中の男に逆襲に出る。
巧みに男(30代オヤジも含め)を惹きつけ 
相手の男が いつもオンナを漁ってるだけの自分より 
男前を上げられたように喜ばせる。
情事の間のセリフもすべて演技。
そうやってホテルで抱かせた朝に静かに立ち去り 
その立ち去る前に 備え付けのドレッサーの鏡に大きく 口紅で
 
   AIDSの世界へようこそ ドキドキ 
 
と書いておく。
それはもう1980~90年代にAIDS問題が世間を賑わせてた頃の話だけど 
俺たちのあとの もっと過酷な現実を生きることになる次の世代の心の中は 
あの頃よりもっと荒んでるヤツも多い…と想う。
ケータイ操作もアニメやゲームの情報も見るモノ訊くモノ、
それが凄まじく速いスピードの展開で様変わりしてるように想えるのか? 思わされているのか? 
水も空気も喰ってる物も昔とちがい、産まれながらに全身筋力の低下した肉体で
そこへ追いついていくだけがやっとの状態。
肉体に余裕がないために精神の余力が充電切れのようになってる。
そういう若者が今 世の中に多い…という俺の見方でしかないんだけど
行政や教育機関その他の学者アタマな狭い常識範囲内でしか生きられない連中が 
学習障害だのLDやダウンロードがどうしただのADHDだの他動症だの、
「ゼロ」については何も知ろうとせずに人間を解ったツモリ、解ったフリの決めつけやレッテル貼りで 
人間の肉体と精神のバランスを整えるどころか、メディアとグルになって日毎に破壊している。 
たとえば、「精神病」という病名ひとつにしても、これほど馬鹿げた曖昧な表現はない。 
人間そのものをどんなに素晴らしい統計データに当てはめてみても 
人間ひとりひとりの創られ方が最初からちがうかぎり、そんなデータは時間が経てば経つほど旧くなるし 
昨日の書類にあった馬鹿げな能書きが今日の人間の役にたつわけがない。 
そういったことにとにかく、煩わしくも面倒に苛まれ 
来る日も来る日も無駄に机に縛りつけられただけの子供も半社会人みてぇな格好の大人も 
考える余裕が肉体的にも精神的にも無理にちかい状態。
それだけ旧い社会常識と新しく変わるべき大衆意識の狭間にいて疲労がピーク。
学力には関係なく長文を読むパワーも、ほとんどない。 …俺のページは論外な。) 
んじゃ何をどうすりゃいいのか? 2008年5月5日23:40  
    
今日まで俺も いろいろ考えた。結果、やはり音楽しかない  
かといって、オリバー・サックス 先生がやってるような音楽療法とか を推奨するわけでもない。 
最早、今この時代は学者や宗教家の訴え、唱える方法や策にしても 
それが万人に通用して普遍的に次の世まで普及されるようなことも不可能に近いほど 
何か犯罪に巻き込まれる可能性も災害による被災も、明日は我が身…  
今まで通りの常識では誰も生きてゆけず、神や仏も人間を救うようなことはなくなってきている。 
自分で自分を救える能力が誰にどこまであるのか? 
とくに老いる以前に手足の自由を失い、風呂へ入るにもトイレへ行くにも下着を取り替えるにも 
その人間生活、最低限の営みの中で、自分で自分の身体を運び動かせなくなるという不安。 
これを解消するためには、年寄りや大人・子供、男女や人種、貧富の差や学歴、社会的地位などに関係なく 
言葉や価値観の相違も超えて、ごく自然に判りやすいところで 
たとえ一時的にでも心が解放され、それによって肉体の自由が視えてくるような作用をかもし出せる… 
そんなMiracle Drug が必要になる。奇跡のクスリ、魔法のクスリ。それがあればいい! 
    
    
    
んまぁ、この場合は U2 というバンドMiracle Drug という、
人類すべてを解放へ導く「奇跡のクスリがあってほしい!」と願いを込めて歌った歌だ。 
ところが! (ここから本題!) 
    
あるとき、[ 伊丹哲也 ]という四文字のキーワード検索でネットを徘徊しているときに気づいたことなんだけど 
街が泣いてた という1981年ヒット曲 を覚えているヒトのうち、世の中には 
自分自身で単身、どこかへ引っ越すとか 
独り不安や期待を胸に旅立つ準備段階にある瞬間とか 
幾人かの方々が、申し合わせたような心境を綴り、その曲のメロディや歌詞の一部を 
自分で歌うのではなく、その潜在した記憶に蘇るらしき、あの声を想いうかべている… 
そういうことを誰を意識することなく、確かに書き留めておきたかった気持ちとして 
自分自分のブログやサイトへわずかな行数で記録している。 
これがいったい何を意味するのか? 
その曲をつくり、歌っていた方自ご身は… 
    
    世間を見ると暗いニュースばかり
    おれのLIVEに来い!
    すべてを吹き飛ばしてあげよう。
    真面目にネジまがったやつが多い世の中で
    ネジまがった心を真すぐにしてあげよう。
    おれはやっぱり歌う為に生まれてきたんだろう。
    歌って直してあげなさい。
    くすんだ心を晴天にしてあげなさい。
    おれ自身が自分の歌で真すぐに矯正される。
    今日のおれには輝く未来しかない。
    歌って素晴らしい力があると思う。
    たかが歌だけれど、人を元気づけたり
    立ち直らさせたり、慰めたり、晴れさせたり、
    雨を降らせたり、いろいろ出来るんだな、
    新ためてそんな風に思ってます。

                        
2007.02.26  
    
かつてそう云っていてたことがある。 そして、
いつかここを初めて覗いた誰かが、街が泣いてた という一曲ばかりか、 
あの頃の自分の心の奥底を歌いあげてくれた存在を憶えていることで 
ここからの内容に少なからず共感したとき、この世にMiracle Drugが実在する事実は明らかになる。
     
  何かの思想とか宗教とかヌキの話で
  ごく純粋に人間が自然に心の中で想い念じたりする フツーの感覚の問題ですが
  ヒトってのわモノゴコロついて 言葉を覚え 
  自分の目で見て 耳で聴こえる音 匂いが判ることも 好みの味とか 
  服を着たり物体を手に持ったりする肌で触れる感触が判ることも 
  今いる場所を意識せず自由に歩きまわったり 
  そうした生活の中で 咄嗟の瞬間に 「あ!かみさま!」とか「おーまいガーッ!」とか
  口にしなくても手をあわせなくても カミサマという存在に声をかけたり 唱えたりする。
  それは、自分自身の肉体の中に既に 教育の知識や宗教宗派の問題とは別に
  創った側に通じてるなにかにより生かされているという確かな実感が潜在してる わけです。

  
2008年 4月18日 07:08  
    
べつに、伊丹哲也という人間がだとか神にちかいとか、単純に神の使いということではない。
神の存在が人間の心、たましい、精神単語表現はどうでもに潜在するなら 
天職として、生涯、歌うことを任務、義務…。
その人間の、人類における役割分担、仕事として与えられ、備えられた能力だとすると 
それを素直に 
やってみたい事をやっただけの事よ!大した事じゃない。結果は結果として受け止めている。 2007年 4月30日(月)19時07分27秒  
と自分に正直に自信を持って云えるほど忠実に実行したことは何者も否定できない事実でしかない。 
そしてそれが今もなお、大勢の者の心の中や脳裏で鮮明に甦る瞬間がある。 
一年や二年前の想い出だとか、単なる懐メロ歌謡に慣れ親しむ感覚とはちがう。 
ときどき、メディアにデッチアゲラレタ「あのひとは今~」とか「一発屋どーのこーの」の、そういう世間の風潮に 
隠れてしまいがちだったことも俺はもう見逃さない。 
なぜなら、歌い伝えられた側から受け止めたメロディと歌詞によって
自分の心の中に大きく共鳴するモノがあった確かさは 
どんなに時代が変貌しても、今の歌 の中にも在る。 
ただ、誰の心に何が失われたのか? 
それがどんなふうに大衆意識として単一方向へ流されているのか? 
同じような文明圏に位置するミュージシャンで、THETHE というバンドのマット・ジョンソン
そういったことを判りやすく解釈していたことのひとつには 
    
  若者は実質、中身のあるものを求めてはいるが
  現代のポピュラーカルチャーの中には殆どない。
  音楽・映画・TV… 文化を大衆化する目的のものすべてが
  人気とり主義で内容に欠ける。
  ただ得ることのできないスピリットを求めてはいる。
  満たされた気持ちになれるヨーロッパの映画、文学、クラシック…
  そういった高いレベルに触発される満足感を
  ポピュラーカルチャーのフォーマットを借りて伝えたい

                by 
Matt Johnson 1990  
  
という、既に20世紀末に、世界的に偏る西洋文化圏の音楽産業に挑戦的な構えを持っていた。
世間の多くは、メディアが一方的に押しつけてくるモノ。それを実力のあるモノ、
あるいは新鮮なモノとして錯覚させられ、店頭に並べられたモノを何の疑いもなく
安心して手に取ることに夢中になり 
踊らされても、それが溢れかえることでの乏しさは感知せず、
次々に本物の実感を求めては偽者だけを捨ててゆく。やがて、似たり拠ったリの内容しか見えなくなり、
それらを聞き流すことに飼い馴らされた人間そのものが生きることに順応性も失い、嘘っぽくなる。 
では、本物とは何なのか? 
いっときの成功や一夜にして終わる情熱なのか? 
言葉にはできない想いに満たされることの快楽なのか? 
大勢の者の前で輝ける人間の命が燃える瞬間なのか… 
それは自分の耳を通して心で聴き獲るしかない。 
質の高さや低さとか、狭い範囲で何かと何かを比較する価値観の相違の問題ではなく 
創った側と創られた側、演奏する側と聴く側、その区別、識別、判別… 
自分自身が今どこまで、自分に正直に本物でいられるかどうか? 
自分の心が素直に正直に、いま目の前にある何を認められるか? それだけのことだ。 
たったそれだけのことができない者が大勢になってしまった日本の音楽シーンは 
見ての通り、荒れ果てた荒野どころか、
誰も片づけない黴たパンが胞子を撒き散らすかのように乾き、腐っている。 
これはいつ、どこから、こんな状態になってしまったのか? 
もうここでは、それを改めて名指しで非難したり 、誰かを悪者に仕立てあげることで 
小さくまとまるような考えも要らないし、今からたったの150年くらい前に日本という国が開国してからしばらくして 
人々を自由へ解放させる兆しにあったJAZZの一部が世の中を活気づけていた時代まで遡る ことも必要ない。 
それぞれが自分自身に素直に正直に、建て直しを図ればいい。 
そういう意味で 、 
誰においても生かされている感謝のもとに 歌う義務はあっても歌う権利などない!  
そういった俺がいた。 
 
 
 
 
 
 
 
    
    黙っていては 友達になれない 
     叫ばなければ 消え去ってしまう 
      私たちが産まれてきた時から育ててきた 
       何かを伝えあうために 
        ちぎれかけた世界の 
         心と心をつなぎあうために 
           私たちの歌が 今ここにある…
 
    
    次の曲は 
    
              展望台から   です。