誰かを悪者にして小さくまとまって完成するのか? それとも? 【 序 】 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
秋、柿の実が紅くなる頃に医者が暇になり、寺が忙しくなる。
人は満潮時の間は息をひきとれない。
人間誰もが、オギャーと産まれるときに初めて息を吐いてから肺をふくらませ 
死ぬときには、ほとんどの人間が息を吸ってから亡くなる。
破壊された肉体、この世で使い終わった肉体から、心、魂が離脱ときが人間の死。
一人、人間の寿命は、今生に形つくられる以前に 
自分が生きてゆくために備えられた必要な能力と共に 
母親の胎内の中で、既に受胎の瞬間に決められている。
生涯、その肉体を支配して動かす人間の魂は
過去・未来・現在の三世を廻り、永遠であっても 
今生における肉体の自由は己次第でどうにでもなる。
本来、与えられた能力の職責職能のまっとう、
創られた時に決められた義務を生きている間に堂々と果たすのなら 
この世で汚れた部分は死んだあとにきれいにされて
また再び、使えるように、自分が子孫繁栄の義務を果たした先の家系、
未来の世に生きるの自分の家族へ入れられる。
ある一定の整然とまとめられた数の一部として。
   
禍福に門無し、すべて己の招く所による。
何事であっても、やっているのは、すべて自分。他人ではない。
   
要するに、医学や宗教、哲学や科学で人間を解るほど
人間は利口に創られてはいない。
人間の造作した、すべての教育や思想では 
人間が人間を教育することはできないし 
人間がこの世に創られ、産まれ、育ち、死に逝くという事実からは
絶対に誰も逃れることはできないし、変えることはできない。

   
   
俺の実の母親は 
俺が高校の入学式を終え、登校第一日目のある晴れた日の朝、
発狂して、それから三日三晩、大声で歌を歌っていた。
真夏の炎天下、JR沿線の小便臭い線路の脇で、
何も呑まず喰わず、一日中、そこへずっと立ち尽くしていたこともある。 
ただじっと一点を見つめたまま。
雨の日に、全裸で24時間、一匹のシャム猫を抱きかかえて 
住宅街を歩き回っていたこともあった。
家の中にいる時は、潰れた笛を噴き鳴らしながら一日中、
狭い範囲をグルグルと右回りして踊っていた。
ある日、布団を剥がして寝床を見ると 
そこは何か、ケモノの巣のように思えた。
   
どこからどう見ても、それは人間ではなかった。
顔も目つきも。側にいる雰囲気そのものも。
そういうことを17年間、毎日やってた。厭きもせず。
   
世の中の神経内科や、その類いの診療所に限らず 
ヘンな拝み屋や様々な宗教法人と、
人間、色々な処を回りに回っても
行き着く先は精神病院だ。
   
「躁」というのは、肉体も心も涸れて乾いた状態。虚【キョ】してる。
この極めてドライな状態は燃えやすいし、
常に険しく、殺伐とした精神状態。目つきも態度も。
痩せすぎの人は苛々してる時が要注意だ。かなり危険な場合もある。
反対に、
「鬱」というのは、肉体に必要以上に水分・不純物が目詰まりしていて、実【ジツ】
満たされない心も重く暗い。
重圧な肉体の重みが身体の中の心を支配するかのように、ダルイ。
   
「虚」と「実」、「燥」と「湿」、「寒と「熱」、「陰」と「陽」。
いわゆる陰陽八綱【いんようはっこう】というモノのたとえの中で、
その関係は、肉体的にも精神的にも両者、同時にある。常に。
そして、そういう紙一重な部分は肉体と心のバランスが崩れると
誰にでも生じてくる。
俺の母親の場合は、その二つが常に混合して
一日のうち、泣いたり怒ったり笑ったり驚いたり、憂うということも 
数分間のうちに いっぺんにやっていた。何日も。
心臓も肝臓も肺も腎臓も脾臓も、五臓の成せる業がメチャクチャになってる状態。
これは、全体を司る肉体の「線」に異常がある。
   
精神病院という処は、自分の意思で入院できれば 
自分の意思で決め、担当医と相談の上、
好きな時にいつでも自分で退院できる。
いくらかカネに余裕ある独り暮らしの老人が、
自炊が面倒で、精神病を装い入院している…というケースもある。
「悪いことをすれば牢獄の中で喰わせてもらえる」
都会の片隅に潜む何人かの物乞いの発想に似てる。
ただ違うのは、自由に遣えるカネがあるかないか…。
余談人間、生きている限り、物乞いの世界にも階級と縄張がある
で、そういう本人は毎日がラクで楽しいのか、
病院の中でも人気者だ。
自由で我儘な元気な お爺さん、威張ってる元気な お婆さん。
ただ、根性がしたたかな、狡賢い生き方に徹している。
…孤独や死、老化や病、差別などの恐怖を乗り越えてしまっているのか?
年齢的にも…。
       -------- 中略 --------    
俺の母親は、自分の意思ではなく、家族の意思で入院した。
自分では出られない。牢獄みてぇなもんだ。
何も悪いことなんてしてないのに…ほんとうはな。
ただ、俺を含めて家族以外の人に
「アカの他人に これ以上の迷惑をかけてはマズイ」
ということで入院させる。強制的に。
精神病院の看護士なんてスゴイのがいるぞ。
暴れる患者を取り押さえる力は、まるでプロレスラーだ。
女なのに。
しかも、一向に落ち着きを見せず
言う事を利かないもんなら、猿轡に皮ベルト。
鉄格子の小部屋に引き摺りこんでベッドへ縛り付ける。
誰も、そんなことしてくれと頼んでもいないのに。
       -------- 中略 -------- 

世界中すべての精神病院が
これと同じようなことをやってるとは云わないけど
それに近いような見事な治療を施してる場所も
かつては今よりあった。
で、精神安定剤という薬を
俺の母親は今でも呑んでる。
毎日欠かさず。
アトピー性皮膚炎 のステロイド剤と同じように
強弱の段階があるから、
強いモノでは、本人が出したくもない涎を
ダラダラといつまでも垂らしながら
話す言葉も完全に呂律が回らないほど
頭の中を強制的にトリップさせてしまう。
   
自律神経失調症の人も、慢性疲労症の人も、
「精神分裂症です」と言われた人も、
本人は、絶対に、その薬を飲みたくて呑んでいるわけではない。
飲まずにはいられない状態にさせられている。
これに間違いはない。絶対に。 
   
で、精神安定剤という薬を飲み続けると 
人間、どうなっちまうのか?
泣くことも笑うことも怒ることもマトモに表情には表せない…
…というより、ほとんど完全に、そういう自然体には相反する状態をつくる。
薬は飲まずにはいられない。
家族も、本人に、その薬を飲み続けてもらわなければ困る。
人間を、
泣くことも笑うことも怒ることも考えることもできない廃人にしてしまう。
それが精神安定剤。
俺の母親も呑んでる。毎日な。
       -------- 中略 -------- 
結局、何が原因で「精神分裂症」というアホな病名を付けられたのか?
そりゃ、お医者さんも立派にお勉強されて
無理に呑ませる薬の種類の見極め(…たいしてないけど)、
その成分の濃度や強弱のタイミングも
「俺に任せれば右に出る者はいない」
と、自負しておられ なさる お方 様 先生殿もいるかも知れない。
たとえどんなに、カウンセリングのお勉強をされていても、
結局はクスリだ。精神安定剤。
基本的にコレがないとやっていけない。  
呑まされる側に必要なクスリではなく、呑ませる側に必要なクスリ。 
「統計学と対症療法のマニュアル」という狭い檻の範囲で。 
な。 
      
お陰さまで、今は俺の母親も、軽いヤツを毎日 胃に押し込めてる。義務として。
以前は嫌がって、飲むのをサボっていたこともあったけど、
もうそんなことも考えられなくなった。
それでも、かつてのように近所を徘徊して周囲に迷惑をかけたりはしなくなった分、
「クスリで抑える」って やり方にも便利なところはある・と思う。
でも、心の病の原因が取り除かれたわけじゃない。決して。
   
まず第一に、要は、肉体と心のバランスの崩れだ。
しかも、女性における精神的な不具合…精神障害ってのには 
本人の子宮の位置と、生理のリズムと期間が大きく関わってくる。
俺の母親の場合は、二人の子供を産む時に、
本来はお産には絶対に不必要な医療行為、
“会陰切開”【えいんせっかい】というのをされている。2回とも。
これに問題がある。
       -------- 中略 -------- 
“会陰”っていう場所は、男女共に陰部と肛門の間にある
特殊な硬い筋肉のことを指す。
 
   tokumyaku014  
 
で、そこは、上にある中身…大腸、小腸、膀胱、(女性は子宮や卵巣も)。
そういう大切な内臓をバランスよく支えて固定するために必要な
大事な筋肉なんだ。
医学の解剖学では、こんなことは教えてない。だから連中には解らない。
お産の時、「この人には医療行為を施した」とする、保険を適応させるためだけ理由で
無闇にその部分を ジャキっと鋭利なハサミみてぇな道具で切って、
最近は縫い合わせることも少なく、ホッチキスのようなもんでバチバチ止めるだけ。
上手な人もいるみてぇだから何日かすれば、見た目には治る。
でも、そこは非常に硬い特殊な筋肉で、
一度 切断された細胞はなかなか元に戻らない。
人によっては時間がかかるし、
いつまでも皮膚の裏側あたりがグチュグチュした違和感がある人もいれば 
鈍痛感がある人もいて様々だ。人間みんな一緒ではない。
お産婆さんは、子供のお産に立ち会った時に、その会陰の部分を
マッサージするか何かして、無理にでも裂けないように心がけてくれる。
たとえちょっとくらい裂けても対処方法を知ってる(と思う)。
   
で、産婦人科というか病院で子供を産む時に、斬られた人。
これはもう、いま全国に大勢いる。俺の母親だけじゃない。
要するに、斬られた(…字が違わねーか?)その部分の
筋肉の血液の循環が悪くなると、
身体の色々な所に、これまた様々な不具合が生じてくる。
その一つに、極端な内臓下垂。極端な子宮下垂がある。
女性の子宮ってのは基本的には お腹の筋肉。つまり腹筋で支えられてるわけ
なんだけど、もともと「人類の子孫を繁栄して、人間の持つ愛の存在を継承する」
という役割、義務を果たすための特殊な臓器なので、
他の臓器とは、ちょっと(…かなり)構造が違う。
人間の女性の子宮は、後と前から伸びる四本の靱帯で吊られている。
そして子宮口のスグ下(膣の中)に子宮を支えるための特別な筋肉もある。
そして会陰部分の筋肉。
おおまかに云って、この4点の筋肉と臓器の位置。
その関連のバランスが狂ってしまうと、生理前後は特に、
精神的に支障を来たしてくることになる。
自分の子宮が本来あるべき正常な位置ってのは
臍から指3本下の辺りに、子宮の中心が位置しているのが正常な位置。
…スケルトンでもないし、見えないから判らねぇよな。
そんなこと考えた女の人なんてのも、まずいないとおもうし。
でも、そうなってるわけ。
それが生理の時は子宮壁が充血して普段より比重が重くなるから
生理前後の子宮はやや下へさがる。
まったくの余談世の中には、このことを知ってるAV男優もいて、
その人の仕事…見事だ。かつて、“芸能ブローカー ”の現場より。
…そのうち紹介するよ。但し、ニヤニヤしてる男のために書くわけじゃない

   
で、生理中に下がった子宮も、生理が終ればまた再び自分の位置に戻る。
本来ならな。
この、本来なら戻るべきはずの正常な位置に、
戻らないで下垂したままの子宮を下腹部に抱えて毎日を過ごしてる人がいる。
いっぱいいる。
それは、小学生3~4年生なんていう早い時期に生理が初まった人ほど 
自分の正常な位置に子宮がない。
中には膣の外へ飛び出るほど下垂してる人もいる。
まず、お産の後遺症とは別に、お産の経験がない女性も
下腹部から下半身の筋肉が全体的に歪んで弛んでる人。
俗にいう「下半身デヴ」だ。
ごめんね。
「ヤバイ、だいえっと しなきゃ…」という問題ではない。 
そういう人は間違いなく、100%、子宮下垂【しきゅうかすい】の典型。 
(…ちゃんと自分で治す方法もあるんだよ。本来の状態に…)
で、女性の子宮ってのは、自分の正常な位置から髪の毛一本でもズレてると 
精神的にも正常を保てなくなってくる。
   
俺の母親の場合は極端に異常だった・らしい。
子宮を吊ってる四本の筋肉(靱帯)が、ヨーヨーのゴムのようになってた。
腹筋もブヨブヨ。
そんなの生理の時は、もうタイヘンかもな。
あっちこっちに子宮が移動しまくって、平常心なんて保てるわけもない。
俺が小さい時からおかしかったよ。
よく寝込んでたし、やさしい顔なんて一年のうちに何日もなかったかも知れない。
子育て終って、「自分の人生に何が残ってたか?」
なんて目が覚めた日には、借金と朝から晩まで仕事に追われる毎日。
あとは何もない。女としての楽しみも。核家族4人で、独りだけ女だったし…。
発狂しても当然だったかもな。
今はもう、生理もあがってしまった年齢なので、
いくらかは落ち着いてる。でもクスリ(精神安定剤)は止められない。
死ぬまで一生、呑み続けるのか? 
まぁ、こっから先、どうするか。
あとは俺の両親。夫婦間の問題だ。もう俺が立ち入ることでもない。
   
かつては俺も自分の父親に向って、
「SEX してやれよっ!」 
と、
何度も怒鳴りつけたことがあった。面と向って。
そんな息子、いねぇーよな。ふつー。 
俺以外には。
entry-10006430345.html  November 24, 2005 より。
   
   
もうすぐ6歳になるんだけど、一龍【いちろう】は未だ、
ハシカとオタフクをやってない。
世間では「小学校へあがる前に済ませておいた方がいい」と言うが 
最近(…小児科のお医者さんが言うには30年くらい前から)は 
オタフク風邪にも予防接種があるらしい。
任意で4,000円くらい。(佐渡では)
俺が子供のときは、そんなものはなく 
幼稚園かどこかでうつされたモノを兄弟でうつしあって 
俺の父親も母親もそれなりの対処をして育ててくれたんだろうけど 
この歳になって、自分の子供が大病を患うことが何よりも恐ろしい。俺はな。
平成12年の7月23日に産まれて、ゼロ歳から今日までの7年間、
10回以上も熱性痙攣を起こさせてしまったものの 、  
badlife/entry-10004918651.html
「よくも元気に今日まで生きてきてくれた。ありがたい…」
と思うと、
人間には、どんな障害や体質の支障があろうとも、
生きる目的がある限り、寿命が訪れるまでは大丈夫なんだろう…
とか、勝手に納得している。
   
   数日前、久々に鮮明な映像の夢を見た。
   くだらん執筆に頭を回すことに疲れ、明け方まで眠っていた時。)
   
   なぜか、実家のある街の駅前のターミナルで
   午後10時ごろ、なんの仕事なのか? 仕事へ行く途中の俺が
   自分の白い軽トラックの前にいる。セブンイレブンの脇。
   ふと見ると、街灯のある歩道に立てられた時計の鉄柱の前に
   なぜか一龍(俺の息子)がいて、上を見て興奮してる。
   
   「スゲェッ! でっけぇぇーっ!」
   見上げると、ぞっとする光景。
   その時計台の上に
   でかいカマキリが停まって辺りを見回していた。
   
   「ダメだ! 近寄るなっ! 速くクルマに乗れ!」
   俺は思わず そう叫んで、一龍を呼び寄せた。
   昆虫とはいえど、肉食だ。
   あんな者に捕らえられて頭からムシャムシャ喰われたら一貫の終わりだ。
   今日までそれなりに健康に生きてきた意味がない。
   
   「だめだよ、あんなもんの近くに寄っては…」
   そんなことを云いながら、いつものように子供を助手席へ乗せた俺が
   クルマを発進させようとすると
   その、くすんだ緑色のバケモノは、目の前で
   時計台から飛び降りる瞬間に
   どこかで見たような顔の“女”に姿を変え、
   薄暗い街の中へ消えて行った。
   白っぽい洋服を着ていた後ろ姿も確かに女だったが
   年齢は俺と同じくらいか? 
   誰なのかは判らない。
   ただそういう夢の一場面だった。
   
   いま想うと、母親の兄(既に他界)の子供、親戚の四人姉妹のうちの一人
   にも似ていたような気もするが、(ご本人には失礼。でも、そう思ったの。)
   今の俺がなんで、あんな夢を見たのか? 
   あまり考えても意味はないけど、そのうち何か判ってくるような気もする。
   
   それにしても、なんでカマキリ? 
   気味は悪いが、何も危害を加えなかったところを見ると
   何かを知らせに来た…のかも知れない。

   
俺の母親の実家は群馬県の高崎市、観音山の麓なんだけど 
そこで今も長生きしてるお婆さん は、甘楽郡の山奥の出身。
映画『野麦峠』の撮影場所でもあった蚕農村の多い田舎。
その村落の、とある貯水池の近所に、旧い城跡がある。
江戸時代よりずっと昔の城跡だ。
俺の母方のお婆さんの旦那、今は亡きお爺さんは、その城にいた者の末裔らしい。
生前は優秀な大工だった。
ステンレスを中心とした金属加工の会社も経営してた時期もある。
昭和の総理大臣の一人、故・福田元首相とも大の仲良しで、
葬式のとき、ちょうど国会の仕事が忙しく、
他の電報や花輪とは別に、肉声の録音テープが贈られて来てた。
葬式会場(本人が建てた家屋)にデカイ音で鳴り響いて、
自分達が戦前から今日まで生きてきた友情の証を淡々と喋っていた。
ちょうど今の俺の子供、一龍と同じくらいの歳だった俺は、
夏の日に癌で死んだお爺さんの顔は、ワケあって覚えてはいないが 
あとになって母親から色々と訊かされた想いデ噺から察するところ、
かなりの頑固ジジイだったらしい。
職人にも厳しく、自分にも厳しい大工。
普段、家族には優しいが、怒らせると相手が土下座するまで一歩も弾かない。
戦後当時の天皇皇后夫妻が何かの用事で群馬県を訪れた際、
「高崎ハムを食べてみたい」ということで 
そのハムを献上するための特性の桐箱を作るように頼まれたとか 
まぁ、高度経済成長期の実業家のハシクレだったらしい。
さほど迷惑にも感じなかったけど、20代の俺が高崎市に住んでいた頃も 
仕事で訪れた先で、それまで逢ったこともないような人に
自分の母親の実家が「アソコです」と云うと 
「あんたが●井さんちの孫かい!」ということで一目おかれたりもした。
そのお爺さんと一緒になったお婆さんは、
大農家の出身で、甘楽の山奥(サファリパーク近辺)にも知人が多かった。
幾つもの山が丸ごと桑畑のようなもんで、 
かつての群馬県のシルク産業の土台でもあった地域だ。
俺の母親の兄が自分がやりたい事業(再生燃料の設備開発)のために 
そういうすべての財産を注ぎ込んで、わずか数年のうちにパァにしちまった。
母親の兄は、台湾の再婚先の自宅で亡くなっている。(90年代)
そんで、お婆さんの地元。山奥の産まれ元の家には、
俺が中学生くらいまで、曾お婆さんが住んでた。
この人がまた特殊な人で、世間では霊能力があるとされ、
今もご健在の毒マムシ三太夫さんフルハシ隊員とかが 
その手の番組のテレビ取材とかに来てたりもした。
一説には、その曾お婆さんも白蛇(大蛇)に関連する霊能力があったらしいけど 
それを詳しく調べようにも今は生き証人がいない。
注意:俺がその血筋を受け継いでいるわけではない…と思う
霊能者と呼ばれる人はほとんどすべてが、人間とは別の能力に支配されてしまう瞬間に
見えたり、聴こえたり、感じたり…してしまう者であって、
肉体と心(本来の自分の魂)の歪みに紛れ込んだクタバリ損ないの動物の霊のシワザ…
によるものが多い。
まぁ、今日は、その辺の話は置いといて。また別の機会に…な。 
   
んで、その母方の実家にいる今も健在の お婆さんは
自分の母親(俺の曾お婆さん)のことはあまり喋らない。
口をあければ自分の旦那の過去の栄光を話すくらいだな。
「お爺さんは孫の一人一人みんなに勉強机を拵えてやったんだがね…」とかな。
足腰も割りと丈夫で、あまり惚けてもいないけど、耳が遠くなった。
だから話をするにも時間がかかるし、群馬弁の通訳も必要だ。
ゲートボールと踊りが好きで、部屋中に賞状やトロフィーが飾られている。
96歳だったかな。戦後の日本社会を堂々と強く生きてきた女性の一人なので 
そういう意味では“貴重品”かも知れないけど、
本人にとっては哀しみを乗り越えることの方が多かったかも知れない。
空襲に明け暮れた戦前戦後、
山奥から商業都市へ移り住んで事業を起こし、
4人目に授かるはずの娘の死産もあったり 
大勢の孫に囲まれた矢先に、旦那と死に別れ、
成人した息子も借金を残したまま異国の地で死に、
自分の姉妹も次々に先立って、
旦那と二人でいちばん可愛がって育てた娘(俺の実の母親)も 
17年間も精神病院を出入りして…など。
普通の人が経験するかしないかのことをほとんど全部やってしまった。
それでも、いつ会っても笑顔でいる。
あれは凄まじい精神力だ。並みの人間ではない。しかも女性で。
おそらく、この日本には今まだ、俺のお婆さんのような人も生きているとは思うけど 
見習えるもんなら見習ってみたいもんだ。
   
生きるということは、投げ出したくなっても、堪えて、踏ん張って、
自分が愛した人間を死んでからも愛し続ける。
そして、好きなことを思う存分、堂々とやってりゃぁ、惚けることもない。
わがままを言ってる暇はない。好きな物は何でも食べる。寝るときは寝る。
座ったり立ち上がったりするのに少々の不自由はあっても 
他人の手は借りず、最期まで自分で自分の肉体を運び動かす。
孫の顔を見れば笑顔でお小遣いを差し出す。
「これで何か旨いもんでも食べておくんな…」
しかも本人にとっては、それが、そういうことが当たり前なんだ。
entry-10014231687.html  July 01, 2006 より。
   
   
俺のお婆さん。
どうやらこのひと月前あたりに具合が悪くなって入院してたらしい。
実家の親は、佐渡へ島流し…じゃなくって、佐渡へ嫁いだ俺には
関係ないと思ったのかなんなのか。
前回の電話のときには言いそびれてたらしい。
それもまた“和マサ ”の一件 の“親戚一同包み隠し”風で気に喰わないが
…おそらく、心臓の関係(現代医学で言うだけのところの循環器系)だと思うけど
実家に電話して訊いてみただけなので詳細はまだ判らない。
やはり俺が観た、あの『カマキリの夢』は、“虫の知らせ ”だったのか? 
実は、あの夢を見る以前、数日前に、
assimilate さんのページで、そのお婆さんの話をちょっとだけ書いてた。
http://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50540820.html#comments
ここへまたそれをバックするのもなんだか失礼な気もするけど
日付は ちょうど一ヶ月前だった。
んで、あの夢の中へ出てきた白っぽい洋服の女も
やはり、「陽子」という、死んだ伯父さんの長女だったのかも知れない。
9人の孫の中では誰よりも仲がよかったからな。
まだ あの家に住んでた頃は。
   
時間てもんもホントに面倒だな。  
entry-10014887424.html
   
できることなら、そのお婆さんが生きているうちに
台湾で病死したの伯父さん(お婆さんの長男)の借金の肩代わりにされた
お爺さんが造った高崎の家を買い戻そうと、俺は思ってる。
一億もありぁ釣りがくるだろ。
「釣りはいらねぇよ」ってことで、
今はもう誰も住んでないような形で封鎖されたあの家の敷居を
お婆さんの自分の足で跨がせたい。まだ元気なうちに。
本人はそんなことは一言も口にしてなかったし、望んではいないかも知れない。
そんな一億なんて金が二日や三日で手に入るとも思えない。
思考を現実化するための計画と実行なんてのも
文房具の赤いクリップを豪邸に替えた人のような根気や努力。時間も必要になる。
今はもう、そんな悠長なこともやってらんない。
   
明日、21日のライヴ の帰りに見舞いへ行くか。
もう一度 再び元気になってから子供を連れて会いに行くか。
検討中。
まだ死んでないけど、医学が治せない病気で死んでもらいたくはないな。
できることなら。
entry-10014899989.html  July 20, 2006 より。
   
   
治しようもないし、家族なのにどうすることもできない。                   
現代の医学を批判し、愚弄する俺にしても                          
妻の母親であるということだけで他人のままだ。まるで外国人。             
どう考えても、自分の母親とは思い込めない。                        
何もしてやれない。俺の人生じゃねぇしな。                          
でも、俺の子供にとっては、お祖母ちゃんなんだよな。                   
そういう家族として、本人は一度も                               
「ほら、こっちへおいで」なんて気持ちで子供の相手をしたこともないまま       
無駄に老いぼれちまった。                                   
あれはあれで、ああゆう人生なんだろうか?                        
それほどつまらなく時を過ごすことが                            
どうして人間にできることなのか?                              
俺には不思議で仕方ないよ。                                 
   
そういう人生 とは対照的に、
強く逞しく、明るく元気な笑顔で戦後日本を生き抜いてきた、 
俺の母親の実家の祖母も、もう今は入院したきり 
自分の娘の顔がやっと判る状態らしい。
別のページではタケちゃんのコメントに対してもキツイこと を書いてしまったけど
実はここへ来て、俺の実の母親も最近は
精神安定剤のほかに、血管口拡剤を飲みはじめたらしい。
内臓が足の付け根の太い血管を圧迫して
下半身の筋肉に血液の循環が鈍い。
そのために上半身の血液循環に負担がかかり血圧が高くなる。
それだけのことだ。
必要以上に下垂した内臓が基の位置に戻りゃぁいいだけのこった。
俺の父親は、あれほど俺たちが伝えて来たことも
もうどうでもよくなっちまってる。
こんなヤツの話を誰が聞くもんか! 
信憑性がないどころか、俺の周りの人間は誰一人として救われてない。
ただこれ以上、何かが悪化しないように
現代医学のアホなクスリで持ち堪えてきただけだ。
つくづく、自分で自分を救えない人間に落ちぶれさせる常識を
俺は憎む。
誰が造った、こんな世の中 !? 
   
今から一月以上前のassimilate さんのページに
http://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50608542.html  2006年08月28日
こういうのがあった。
「自分の親への愛や感謝、心配などは自分のため。
自分の子供への愛などは、子供のため」
なるほど。
80を越えた お婆さんが、60過ぎの娘と一緒に風呂へ入っても 
「ほらほら、おまえ背中をちゃんと拭きなさいよ」と云って
自分の娘の身体を拭いてあげようとする。
それが人間の親ってもんなのか。
反対に、誰がどんなに自分の親の幸福を願っても
そんなことは当の本人には通じないし 
「余計な心配しなくていいよ」というほどに
親は子供よりも先に死ぬ道理の中にいる。
   
明日の朝、自分が無事に目覚めることは
誰とも約束を交わしているわけでもないのに
平気で目を閉じて眠ることができる人間は 
この地球が、一人の人間の一生を遥かに超える長さで
自転と公転を繰り返している中、
自分自分が心臓の鼓動を意識せずに
何百、何千、何万回も脈うって生きている。
   
心臓ってのは、その延長がすべての血管だ。
ぜんぶの血管をすべて一本に繋ぎ合わせると
成人にして地球を2週半。もしくは月と地球の間の距離を往復する長さがある。
心臓はそこへ、24秒間で一回転する速さで
頭の天辺から足の爪先まで全身の血管を通して全身の筋肉へ血液を送る。
そういう人間のうちの一人が、かつてアポロの宇宙船の窓から
「地球は青かった」と云っていた。
   
全身の筋肉、全身の60兆個の細胞が生きるために
血管に血液が循環してる。
職業的なものは別としても、(プロ・ボクサーとか) 
人間、どこの一ヶ所も、どんなに細い毛細血管であろうと
滞りや断絶、絶縁があっては 
その筋肉も細胞も、決して正直に素直に生きることはできない。
これは当然の道理なんだ。
そういう容器、イレモノ、肉体の中に、生きている人間の心がある。
そうして、そういう人間のイレモノ、容器が、
この青い地球だ。
鉄分の多い人間の血は真っ赤なのに
鉄を錆びさせる塩分の多い海がひろがる地球は、青い色をしている。
全身のすべての血管へ正常な血液循環があるのなら 
人間に病気はありえない。
たとえ、細菌やウィルスに侵されようとも
人間の身体は、その苦難を乗り越えようとする。
自然治癒力が妨げられて、どんなに苦しんでも、死ぬ間際には
自分が生きてきた時間に後悔しないように正常に思考が働く時間も用意されてる。
そういうことさえも放棄するように
自分が人間として生きる人生を怠けている人が、今はあまりにも多い時代だ。
   
赤と青の色は人間が決めたわけじゃない。
それを混ぜた色で着色した劇物を間違えないようにするための工夫は 
豊富な抗癌剤の種類を選べない医学マニュアルとも関係ない。
badlife/entry-10014612599.html  July 12, 2006
青地の上へ赤色を乗せようと、赤地の上へ原色の青を並べようと
今の人類は目をくらませるハレーションのように 
自分の血液の色が地球の青さとは関係ないように動いてる。
そのハレーションがいつしか紫色に見えるとでも言うのか? 
entry-10017931895.html  October 03, 2006 より 
   

      
今日(2006-10-14)、仕事場での昼休みに
駐車場の奥の酒の瓶が積んである場所で煙草を吸っているとき 
またカマキリ を見た。

秋が深まるまでには死んでしまう昆虫の命であっても 
今回のそれは立派な成虫だった。
緑色の容姿に、スルドイ鎌を構え、ひとつの位置に静止している。
数々の空き瓶に巣くう蜘蛛の訪れでも待ち構えているのか? あるいは、
ほかの小さな虫の通りがかりを狙っていたのか? 
そのスグ近くに、蝉の抜け殻が転がっていた。
夏に儚い命を輝かせ消えていった者の成長の証…。
   
今日は めいっぱい暗いな。
もともと“ヘヴィ・ウェヴログ”としてやってきたんだから 
それはそれでいいんだけど 
今日は妻の誕生日なので、佐渡でも有数のケーキ屋で
一個¥250~¥300のカットケーキを5個買って 
夕方、家へ帰ってから眠くなったのでソファーへ横になっていると 
俺の実家から電話があった。
96歳で入院中の母方の祖母は、今日・明日の状態らしい。
おそらく、心臓
に負担がかかっていた肉体(全身の筋肉)が 
完全な限界を超えてしまったんだと思う。
つい何ヶ月か前までは、とても元気で 
自分の身体は最期まで自分の力で運び動かす責任を怠ることはなかったものの 
何十年も使って生きてきた肉体という道具の老化と、
この時代に用意された“便利さ”や“快適さ”との代償は
やはり、いつの日か清算する日はやってくる。
そういう覚悟もあったかも知れないけど 
そんなことを暇に考えてる間もなく、本人は孫や曾孫に囲まれ 
毎日を笑顔で過ごして生きる時間の中で 
戦前戦後から今日までの様々な想い出と共に
自分は自分として生きてきたんだと思う。
その存在(母親の母親)がなければ、俺も俺の子供も この世には存在していない。
命の尊さというものを実感するのには、そういう自覚も必要な第一歩だな。
   
人間は痛いときに泣く。
それがどこか肉体の一部なのか、その時の心なのかは別としても 
「泣く、」ということは五臓の働き、管轄、“五つの志”の中で、
人間の心臓と関連している。
こころの蔵。 心臓。 Heart & Soul . 
生きている肉体には魂が宿る。 
人間の場合それは、自由意志と感情で構成されている。 
魂は目に見えないけど
一人の人間の肉体に在るうちは  
何かを想い描いたり、想像することや、言葉を発することができる。
先天性で障害のある人であっても 
“自分の今”として感じることはすべて、
それが喜びでも怒りでも哀しみでも、慈しみも憂いも 
“今の自分”が持っているできる限りの力で 
何かを訴え、時には無意識な表現もある。
本来の人間は肉体的にも五体満足で産まれることで
心は何不自由なく、迷いも悩み苦しみもなく 
自分を自分らしく表現して生きることができるようにはなっていた。
多くの場合はな。
ところが、十月十日【とつきとおか】という正常な人間の妊娠期間の中で
胎児として成長し、人間本来の正常な形となって産まれ育つ途中で
ことごとく肉体を破壊してしまう教育
や 食生活 ## 春夏秋冬を狂わせた環境 は 
戦後わずか60年ほどの間に大きく、社会までも変貌させてきた。
物事の道理、基礎、人間の創られ方事実からは、
人間が勝手に造作した教育を育んで、成り行き任せな常識を築きあげ、
外れに外れようとしている。
とくにこの日本では、今もってして。
   
産まれ育った場所で生きて、それが なに不自由なく 
着る物にも食べる物にも住む処にもこと欠くことなく 
自分が想い描き、考えた通りにすべてが旨くいくことなんてのはありえない。
ありえないけど、その(単純な言葉で云うとするなら)自由や幸福というものを
手に入れるためには、一生懸命に努力する者もいれば 
他人より狡賢く生きることを頑張る人もいる。
また何かに躊躇したり、思い、踏み止まったりして、考えてるだけの人もいる。
妬みや恨み辛み、憎悪というものが 
何か取り返しのつかないことをしでかしてしまう場合は別としても 
人は常に、愛と哀しみと死の裏側を素直には受け入れず 
必要としながらも避けるように生きてしまう。
そのために、自分がこの地球上に
ほんのわずかな間だけ生かされていることへの感謝も忘れてしまう。
手足が自由に動かせて
、眼も見えて、耳も聞こえて、匂いも味も判って 
普通に息を吐いて吸って、言葉も発せられる。歌も歌える。楽器を弾いたり 
みんなで演奏や合唱することもできる。
素晴らしいことじゃないか。
なぜに、自分が生かされていることへの感謝の芽生えが 
アスファルトやコンクリートの下に押しつぶされるようなことになっちまうのか?  
   
陽の光を浴びて、雨、露の恵みを受けて、グングンと伸びて育つ雑草、草花は 
決して高望みをすることも、買い被りも、驕りも、自由の錯覚もしない。
創られた通りに生きている。
それが、その生命が、生かされていることに感謝してるかどうか? 
してはいない。
草は、人間のようには生き死にの理由を考えはしないし 
悩むことも、何かを疑問に思うこともない。
一定に決められた義務しか果していない。
人間も、かつて創られ、自分が産まれ育った場所で 
そこからどんな移動をよぎなくされ、あるいは何者かによる迫害があろうとも 
大地にしっかりと根を張り、堂々と自分は自分として自分らしく生きられるのなら 
それは理想でもなんでもなく、生かされている事実への感謝を思い知るべきだ…と思う。
かといって、獲物を捕らえるヤリの先のヤジリを研いでいた時代とはちがう。
今はもう誰も、そんなところへあと戻りはできない。
あらゆる知識や学識や、そういうことからコネ繰り回した常識やシキタリとか 
見栄や体裁、大義名分も、言い訳も、不条理も 
すべてが“重い鑓”となって、思いやりや犠牲という愛情までも
他人への迷惑になりかねない。たとえ老人介護であろうとな
この地球上の北半球で栄えた多くの先進諸国では…。
   
口で、どんなに立派なことを云っても書いてみても 
それが実行に伴わなければ意味はないし 
ただ単に格好をつけているだけの、つまらない人間になっちまう。
んまぁ、それもそれで、そういう人の生き方、やり方、
生き残り方、生存の仕方のひとつなんだろうけど 
今日はねぇ、つくづく、嘘と真実をゴチャ雑ぜにしてる人たちを
「暢気だなぁ。気楽だねぇ。
見えそうで視えない不安が いっぺんに訪れるまでは平和だねぇ…」
と思ってしまう俺がいる。
いいよ、みんなそのままで。自由なんだから。
ある一定の枠の中ではな。
   
先へ進むためには、まず、生かされていることへの感謝。
そして、自分とは何なのか? 
いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか? 
必要なら、変わることは変えることよりも難しくはない。
   
それとも、小さな王国の小山の大将を気取り 
誰か何者かを悪者にして小さく纏って完成してしまうのか? 
それも魂の無駄遣いの一つだよな。 
   
渡る世間に鬼のクソ。
神や仏も、偶像や想像物は人を救いはしない。
神は、一人一人、人間の心の中に確実に存在する。 
神に似せて創られた限りは
自分で自分を救うしかない。
大丈夫、人間の世の中にも 
押してくれて引っ張ってくれる人もいる。
人が人を信じなくてどうするよ。
宗教なんてクソ喰らえだぜ。
赤組の思想もな。
だって役に立たねぇじゃん、あんなもんは。
操り人形でいることの幸せと科学の過信も 
人類に何を残せるというのか? 
今だけ、そん時だけが気持ちよけりゃぁいいのか? 
   
…そういう俺も煙草に火を点けて吸ってるようなニコチン中毒だけどな。
あの新聞広告に出てた大勢の芸能人さんが止めることが出来た奴って 
いいのかなぁ? 
買ってみようかなぁ…。
と、思うこともある。
煙草やめると、もっと頭の回転も善くなるかなぁ? 
   
どうなんだんべ? 群馬弁
   
   
   
   
俺は このままクタバリはしない。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   関連先 
   
   
   あなた、内臓あげますか? それとも、人生なげますか?