俺はワイルド・カリスじゃない     追記 7月20日 蝉の啼く晴天にて。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
   
このところ、色々な方のページへお邪魔して
コメント欄へ好き勝手なことを書き込んだりしてる俺だけど
先日の“カマキリの話 ” 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014231687.html
から発展して、(?)
常日頃の俺が、俺自身の鈍い“ひらめき”や“直感”を頼りに生きてる中で
色々な人の心の中に在る「謎」や「疑問」、「不思議」についてを考えているうちに
センスのない俺の中にも色々と視えてくるものがあった。
    
「私はなんで生きてるのか?」
「自分とは何か?」 
って意味での問題だ。 (…例の成分分析 の話ではない)
   
んで、
俺がこのウェブログを開設した当初、
昨年の夏の終わり、
   
   takeyan 2005.08.20
   「芸能ブローカー」という響きにとっても惹かれます。
   最近、海外のロックの歌詞が気になります。
   ストーンズもそうなのですが、ボン・ジョヴィが意外に社会派で驚きます。
   日本は社会派の歌が少ないのですが、
   それ自体「陰謀である」という説も多し。

   
ということで、
はじめて読者になってくれた心の友、
takeyan さん こと、タケちゃんと 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014231687.html#cbox  (先に触れた「カマキリ」の話が出てくる、)
ここのコメント欄で、こんなやりとりがあった。
   
   ■最近迷惑なのは
   ☆、奈津子、あと誰だったか・・・。
   そういえば、大人になってから
   ばあちゃんの子供の頃から戦後すぐくらいまでのことを書いたメモを渡されました。
   最近それをじっくり読んで、データに起こしているんですが、
   結構なドラマで、自分の人生はどうなんだろうな、とちょくちょく考えていたところです。
   
   最近、副業のほうの追い込みで引きこもっていますw
   
takeyan (2006-07-04 13:17:05)
   
   ■ Re.最近迷惑なのは
   連中は、アメーバのトップ画面で
   新着記事の表示を待ち構えて
   メ●ラめっぽうに打ちまくってる。
   それでも、ここだけは…
   俺のページに打ち回すごとに
   己の生命が圧迫されるスピードが速まることになるのに
   知らずにやってるメデタイ連中だ。
   (…普通の人は大丈夫だよ。アブノーマルなアタマの輩だけな。)  
    
   それはともかく、その、
   「メモを渡されました」
   ってことがスゲェ! 
   それは何よりも、どんな歴史資料やデータ文献より貴重な『手記』だと思う。
   とくに、タケちゃんの家系にとっては重要な「生命の証」だ。
   自分が今日までここに存在する理由を明らかにするための資料(手がかり)であって
   仏壇の奥にしまわれた家系図とはワケがちがう。
   それこそが次の世代への“橋渡し”なんだ。
   ご本人にとって、どんなにありふれた戦後の苦労話であろうと、(失礼な云い方お許しください)
   あと何十年もしないうちには
   今の日本の高齢者(戦争体験者)はみんないなくなる。
   するってぇと、ヒロシマ・ナガサキのことも
   中国侵略の話も
   昭和の経済成長期のカラクリも
   巷の学校で教えることは全部、うわべだけの『捏造物語』になっちまう。
   事実を捻じ曲げるのが得意なメディアも
   西洋常識に偏った日本文化も、
   次の世代が自分の力で生きるためには役に立たないモノになっちまう。
   そういう“手がかり”もないために。
   いま我々日本人に必要なのは
   たとえば、アレックス・ヘイリーという作家が、          (人名 訂正 2006-11-27)
   なんのために、あの『ルーツ』という文献を書き記したのか? 
   そういうことが非常に重要な時期にある。
   あの書物の映画化により
   現代アメリカはかなりの範囲で
   時代の清算をできたと思う。
   五木さんや中西さん、森村さんをはじめ
   日本の作家の人たちも そういうことに取り組んでいる。
   「誰かがやってくれるだろ」
   「それを買って読めば判るだろう…」
   ではない。
   自分のことは自分でやるべきだ。
   (注意「自叙伝を書く」ということではない)
   新聞の連載記事なんてのはクズだ。
   自分のことは自分で決着つけないと
   自分の次の世代が真っ暗闇を歩くことになる。
   今の自分自身以上にね。
   
みなみ まさあき (2006-07-04 15:22:16)
   
   ■で、気付いたのは
   ばあちゃん、結構な商売人だったって事なんですよ。
   アイスクリームからコーヒー、お茶まで、まあ、大して儲けてはいないけど。
   とにかくおしゃれなだけで1日の半分も働かないじいちゃんと
   子ども3人を食わせてきた、中身を読んでとてもワクワクします。
   ほとんどはく◎らない親戚へのグチですが。(笑
   
takeyan (2006-07-04 23:28:27)
   
   ■ 中身を読んでとてもワクワクします。
   って、
   タケちゃんらしい。
   もしも俺ならボロボロ泣いてしまうかも知れない。(真面目なハナシ)
   でもさぁ、ホント、スゲェことだと思うよ。
   その『手記』を渡してくれたってことは。
   うちの奥さんに このことを伝えたら、
   「おばあちゃん、やるじゃん!」て云ってたよ。
   たとえば、
   世の中で、介護されてる側の高齢者のうち、
   若い人と話をしたいと思ってるお爺さんお婆さんが大勢いる。
   でも今はもう、同じ日本人なのに
   言葉が通じないんだ。
   ここに大きく、戦後教育と戦後の社会常識のギャップがある。
   話すことを諦めて
   介護する側がどんなに優しく語りかけても
   本人達は口を閉ざしてしまう。
   「もう遅いよ…」てな感じでな。
   ちっとも遅くないじゃん。まだ生きてるじゃん。
   でも、そんなエネルギーが通じるほど
   肉体的にも元気がない。
   とくに下半身の筋肉に血液の循環が悪い。 
   医者もカウンセラーもリハビリの理学療法士の人も
   介護ヘルパーも、相手の意思がハッキリしないことが
   肉体のどこに問題があるのかが判らない。
   その上、年寄りを年寄り扱いし過ぎてる。
   まだ元気な人なら、シルバーシートなんて無理に譲る必要もない。
   立ってりゃいいんだ。元気なんだから。
   今の若者より丈夫に生きてきた人もいるし、まだ丈夫に生きている。
   粗末だったけど、食べてきた物もちがう。
   ありゃぁみんな、人生の先輩だ。
   俺たちよりも“知っていること”は遙かに多い。
   なのに今の若者は訊き出そうともしないし
   本人達(高齢者の方々)も話そうとしない。
   実に孤独な人の集まりで社会が構成されてる。
   そのために病気と死の区別もつかない人でいっぱいだ。
   病気で死ぬってことは、本来は嘘なんだ。
   人間には一人一人にちゃんと決められた寿命がある。
   年寄りは、映画『ブレードランナー』でも観て
   自分の人生をもう一度 見つめ直した方がいい。
   
   ああ、なんだか話がまた、普通の人には通じなくなってきた。
   なんか喰って寝るか? 明日は仕事だし。
   
1966年生まれ、みなみ (2006-07-05 01:52:27)
   
   
して、
「これが何なの?」って思う人もいるかも知れないけど、
云うまでもなく、
なっちゃんメグちゃん のことは、 

アメーバブログリニューアル されたことで、どうでもよくなっちまった。 
もはや、遠くネットの“クズな想い出”に置き去りにされた、スパム被害の残骸に過ぎない。
んで、こっからの話は、
パスカルも古代ギリシャの哲学者も
ニーチェもカミュも途中までしか解けなかった問題で
ウェブスターの辞書にも載ってない。
NYアクタースタジオの基礎となった
リー・ストラスバーグが記した幾つかの文献や
サンフォード・マイズナーの貴重なメモ…
あとは…仲代達也さんやゼン・ヒラノ氏の話(著書)の中には、
ちょっとは出てくるかも知れないけど
あれはあれで“芝居”という芸術分野において人間性の幅を広げるためのような話なので
「演じるか・演じないか」の特定の表現者ないしは役者さんたち以外には、
あまり追究されないし、それらが本当に役に立つ人と、
途中まで なぞって枝別れしてしまう部分も多いので (…まぁ色々なケースがある
万人に共通する意味での確かな方向性へ結びつくまでに限定的なモノにされがちだな。
宗教も叱り、何かの成功哲学にしても、一種、特定の思想に過ぎない。
・・・・ということになると、俺自身が書いている内容にしても、
人間が形になったあとで云っていることなので、
それを参考にしても直接的に“日常の自分”に役立つモノは少ない…かも知れない。
だから他人の経験、他人がやったことなんてのはどうでもいいんだけど
このウェブログをスタートした時の自分と今の自分では
昨年の12月26日 のあたりから 

ちっとは前向きになってきたので
これまでハッキリとした目標の定まらなかった人生も
インターネットを通じて、かなりのスピードで軌道修正されてきた…ように思う。
もちろん、自分の日常生活における直接的な関係(家族や仕事仲間など)の影響も大きいけど
世間の秩序や社会常識から大きく脱線して、人間ぽさを失ってしまう部分は
だいぶ回避されている。
そこには、読者のみなさんとの交流が、かなりのウェイトをしめてる。
   
参照  http://ameblo.jp/badlife/entry-10014839960.html
俺自身は精神安定剤を服用したり、そうした類いの病院の世話になることはなかったけど
世の中のカウンセラーや精神科、神経内科の先生。あるいは信仰宗教の教祖様では
治せないことの方が多いし、連中には根本的に
人間てもんが何なのか解ってない。
だから心理学や宗教思想の一部を引っ張り出して
その知識を頭の中に並べてしまってから自分を見つめてみても
そんなことは、冷や飯に濃厚な味のするジュースをかけて喰ってるようなもんだ。 
(? ・・・・古くて不味い遣い物にならないモノに頼っているだけのあまちゃんという意味での解釈
   
自分が真面目に生きているつもりでも、周囲には不真面目で怠けているように思われたり、
反対に、どうしても自分自身を許せないところから解放されない自分がいたり、
挙句の果てに自殺をする・しないとか、未遂を繰り返す人にしても
どうしても自分自身から逃げられないところも含めて
割り切った考えの生き方を選択できない人も世の中には多い。
俺自身もそうだった。 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014390773.html
ただ、個人個人の思い悩みや苛まれ方がどうあろうとも
生きている限りは、老いぼれて投げ出したりする以前に
今日の自分をわずかでも前進させなければ…ならねぇんだよな。
そういう意味で、俺の場合、
まずは、このページに原点がある。
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10013725551.html  self text
title: とあるアーティストに見習って…。 平成18年、鶯の鳴く孤島にて。 June 18, 2006
   
要は、“自分の今まで”を知ることによって
    “自分の今”と、“これからの自分”が見えてくるように
「どうすりゃぁいいんだ?」ってことだ。
方法論として考えてしまうと、やはり
さっき云ったような感じで、ある特定の学問体系や何かの思想に偏ってしまいがちなので、
できる限り、この世に生まれてから昨日までの間に自分が身につけた知識は退けといた方がいい。
その上、一人一人の人間が、その創られ方が完全に違う限りは、
“他人の場合”をなぞる必要はない。
問題は、他人ではなく、
「自分は何なのか?」
ちゅうことだ。
   
一見、難しい気もするかも知れないけど
その問題をある程度クリアーできないと、
病気も人間関係の悩みもカネ(経済)の問題も、
政治や宗教の面においても、戦争や平和についても
どんな問題も、人類は克服することはできないまま、
嘆き悲しみで慰めあったり、誰か何者かを悪者にして終わっちまうだけの、
小さくまとまった人間になっちまうし
人類の意識向上につながる一人一人の魂の成長は止まっちまうぜ。
「それでもいい」っていうなら、こっから先は読む必要もないし…な。
   
とくに、自分と他人の区別をハッキリさせることは
どんな場合においても重要だ。
自分自身がどんなに
「オレはそういう人間だ」
そう思っていても、
それが本当は自分ではないかも知れない。
   
この、今の自分が「自分ではないかも知れない」
誰なのか? 何なのか? 
ってことは、その答えを出すまでに
時間がかかる人もいれば
簡単にできる人も(この広い人類には)若干は いるかも知れない。
それでも、多くの場合、世間で「勉強家」「読書家」などと呼ばれる人のうちには
途中で、何かの宗教や哲学思想に惑わされたりしてしまいがちなので
コツコツと勉強した人や努力家という人が、
「いずれ悟り得る」という問題でもない。 残念ながら。
自分が生きるために持って生まれた能力とは別に
必要以上に身につけた知識は、自分が生きるために最大の敵になる。
だから捨てなくてもいいと思うけど
「どっかへ置いとく」くらいの余裕はあっていいんじゃねぇのか? って思うよ。
そういう意味では、たとえば アメーバ・ブログ内の
   
http://ameblo.jp/mydearjohnnydepp/  ふりむけば人間ウォッチング
   
ショコラ さん のブログは俺もちょくちょく読んでるんだけど
いろいろと参考になる。ちょっと云い方は わるいけど、
俗世間に埋もれながらも俗世間に染まらない感覚…というか
日常の物事に対する素直で謙虚な捉え方が
今のこの変な世の中(現代)に生きる人間として、
いろいろと気づかせられることがある。
   
   
んで、話は冒頭のタケちゃんとのコメントやりとり の話に戻る。
たとえば、先祖の家系図から辿って“自分の今”を発見してもいいんだけど
俺自身の場合は、自分の好きなモノを通して
“自分自身の今”と過去の人類の関係をつなぎあわせることをやっている。
もっとも最初はそんなことをやるつもりもなく
できるとも思ってなかったし、想像もつかなかった。
ただ自分なりに、ローリングストーンズというロックバンドをネタにした記事を書いて
それをトラックバックしてインターネット上を徘徊していただけのことだ。
昨年までの俺が生きる唯一の世間との交流としてな。
それによって、こういうことがあったわけ。
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10004556706.html  self text
title: 発見! 哲也さんは まだ生きていた。 September 24, 2005
   
これは衝撃的だったぞ! 
   
俺自身の中では、かつて夢や情熱を持って
最初に思い描いた理想が徐々に
現実とは食い違った壁にぶちあたって
そこから途絶えて途切れてしまったものが
assimilate さん
との出逢いによって一瞬にしてつなぎあわされた。
あんなことは今までになかったよ。
その素になったのが、
先の、falls with the coconutの悪夢から復帰した
キース・リチャーズ っていう人のエネルギーだ。
俺はミュージシャンでも音楽評論家でもないし、
どっかのCDショップの店長でもない。
ただ単に、キース・リチャーズという人間が好きでローリングストーンズのファンをやってる。
その上で、チャーリー・ワッツの存在を知り、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10004134331.html
こういう内容で、アホなネット徘徊を何日かやっていた。昨年の秋
   
都内から佐渡へ移り住んで
「今後は自分から東京へ行くことなんて、何か仕事の用でもない限りはない」
と思っていた俺が、伊丹哲也というアーティストのLIVEへ
二度も、“あの東京”へ足を運んでる。
21日には子供を連れて、“太鼓の人”… assimilateさん のライヴ にも行く予定だ。
最近はもう、田舎暮らしが沁みついたせいか、もともとの性分なのか、
たまぁに都会へ出るにも、その精神的疲労はハンパじゃない。
あのように慌しい人の群れの、目の前を行き交う雑踏の逆巻き、
我が身に押し寄せる“ひしめきあう魂のエネルギー”には圧倒されてしまうし、
池袋の地下なんて西部も東部も まるっきり判らん状態だ。
正直、東京の地下鉄とか、あんな複雑な地下街(?)
以前の俺は よくもまぁ 迷うことなく通り抜けてたもんだ。 (大阪の方がもっと複雑らしいけど
佐渡なんて、クルマを運転していても、ヘンな山道に登らない限りは
いつかは海岸線へ出る。だからちょっとくらい道に迷っても家へは帰れる。
今の俺は、いちど東京都内へ出ると
「このまま あの島へ帰れるだろうか?」
心配になっちまうよ。
自分の命がスゲェ小さく心細いモノに思えちまう。
カマキリなんて昆虫にも めったにお目にかかれないだろうしな。
   
   
さて、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014231687.html  July 01, 2006
この記事になんとなく書いた「カマキリとの遭遇」の問題点。
先日、いま書いているページを書く前に、
そのコメント欄 で、こういう予告をしておいた。
   
    この記事にある
    「カマキリの夢」の件、
    
       今の俺がなんで、あんな夢を見たのか? 
       あまり考えても意味はないけど、
       そのうち何か判ってくるような気もする。

       それにしても、なんでカマキリ? 
       気味は悪いが、何も危害を加えなかったところを見ると、
       何かを知らせに来た…のかも知れない。
   
    の記述につづいて。
    翌日、蔵元で製品づくりの仕事を手伝っている際、
    手元にやや小麦色の小さなカマキリが出現した。
    カマキリの子供だ。一匹だけ。
    付近には草むらのようなところもあるので
    自然環境が まだそれほど壊されていない田舎なら
    カマキリなんてのは どこにでも生息してるかも知れないけど
    偶然にしては単なる“虫の知らせ”とも思えず
    実家に電話してみたけど
    別に(今のところ)は何も問題なかった。
    して、これは家族や親戚に関係することでもなく
    どうやら俺自身の問題なのかも知れない。
    
    劇作家の石ノ森章太郎さんが
    『仮面ライダー・ブレイド』という物語…原作をしておられるおか? 入力ミス 訂正 しておられるなか、
    その中に、“仮面ライダー・カリス”という
    カマキリの化身(?)が出てくる。
    んで、そのカリスは
    もともとは人間から変身する仮面ライダーではなくって
    “ジョーカー”というトランプの「ばば」を題材にして
    人間(人類)の「愛」と「憎」の関係を
    “人間の祖たる不死生物”という表現で、
    “ヒューマン・アンデッド”っていうもんを登場させてるんだけど
    (子供と一緒にテレビ番組を観てた人は知っている)
    いずれ、その話をひとつの題材にして
    俺自身の問題を解いていくと
    なにかハッキリしたモノ…
    「我々人類は今後これから
    どうしてどのように生きて行けばいいのか?」
    という意味で、
    この時代から次の時代へ生きるための
    “生きる手がかり足がかり”
    が、つかめてくるような気がするわけ。
   
    乞うご期待!
    
    
幼児や児童、そういう男の子供がまだいない家庭…あるいは既にいない家庭の方とか、
最近のテレビの「スーパーヒーロータイム」を観たことがない人もいると思うので
まったく知らない人もいるから
仮面ライダー剣 (ブレイド)』
 2004年1月25日~2005年1月23日(全49話)東映
という“ジャリ番”の物語の概要を話すと…
トランプの、][][][というA~キングまでの13枚のそれぞれのカードに
アンテッド(不死生物)という怪物(怪人)が出てくる。
最近は一つの番組内に、覚えきらないほどの数で
色々な名前と形の違う仮面ライダーが登場して
その手のテレビ雑誌を子供と一緒に把握してないと話についてゆけなくなっちまうんだけど
『仮面ライダーブレイド』の場合は割り合い覚えやすかった。
がヘラクレス大カブトの青いライダー戦士で、
が臙脂のクワガタ、が緑の蜘蛛、が黒いカマキリだった。
んで、通常の(?)仮面ライダー…俳優の藤岡 弘さんが演ってた初代の頃とはちがって
アンテッドというのは「ライダぁ~キッーク!」とかやっても、死なない。
テレビを見ている“よい子のみなさん”が喜ぶように、
それぞれのライダー戦士が
それなりに持っている武器で(決められた時間枠で)適当にやっつけて、
そのアンテッドという怪物(昆虫や猛獣などをモチーフにしたヒューマノイド)の
腹にあるベルト中央部分からカードを抜かないと
消えたり爆発(?)したりしないような設定になってた。
そういう中で、森本亮治
さんという
素晴らしい演技力を兼ね備えた若手俳優が役を演じた
仮面ライダー・カリスというカマキリの戦士がいた。
その番組内では通常、ライダー戦士に変身するのは、
ある機密組織の科学研究所(ショッカーではない)が開発した
「ライダー・システム」によって人間の青年が変身するんだけど、
仮面ライダー・カリスだけは特別で、普通の人間ではなかった。
古代の更に太古の昔、人類がこの世に誕生する以前に、
「この世を支配する生物の主体は何か?」
というようなことで、その素(先祖)となる不死の生命体が、この地球上においてバトルを繰り広げ、
その時の勝者が人間(ヒューマン・アンデッド)ということになっている。
   
カマキリの特質を持つ仮面ライダーも、もともとは不死生物(アンデッド)なので
それがどうして人間の祖先と関係するのかは
原作の石ノ森章太郎さんに訊いてみないと判らないけど
巷の『進化論』をまっこうから否定する俺にとっては画期的発想! 
子供(一龍)と一緒になって毎週たのしみに日曜の朝、テレビを観てた。
で、その“森本亮治 ” 偶然にもキース・リチャーズ ステージ復活の初日 誕生日 だった!(蟹座の人
という若手役者演じるところの「始さん!」という役柄が、
古代の戦いで唯一生き残った戦士 人間の祖先…ということになっていたんだけど
物語の中では、子供向けにはちょっと難しそうな部分で
人間の持つ原罪のようなものが、トランプの53枚目、ジョーカーに譬えられて
その存在が愛と憎悪の狭間で苦悩する話のくだりがあった。
要するに、“はじめさん”という役は、(変身前の)人間体の姿と
仮面ライダーという「正義」と、ジョーカーという邪悪で最強の怪物としての「悪」の
三体に変身して、
途中、バイクの事故で記憶喪失になってしまい、
そこから周囲の人間の友情や慈しみに触れることにより
愛ある戦士「ワイルド・カリス」にパワーアップしてゆく。     wildkaris
そして最初の覚醒のシーンでは、              
とある森の茂みで、腰の両脇に差した武器(カマ)にゆっくりと手を伸ばし、
それを構え、敵に挑んでゆく。                              
しかも、ライダー・カリスは、トランプの「ハートのエース」ドキドキ を司る戦士…
という粋な設定だった。                        
あの辺りは大人が観ていても面白い。
   
人間の祖先の素質を持ちながら、
完全なる人間にはなれない「人間の悪」の部分が
恐ろしい姿の怪物(ジョーカー)に変身することで
人間の魂に潜む謎や宿命(産まれ持ったサガ)を描こうとしていたように思える。俺はな。
そういう意味で、子供と一緒になってテレビを観ていながらも
俺は自分の中の“和マサ ”の問題 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014390773.html
と、ソレがダブって、毎週テレビの子供番組の中に出てくる“はじめさん”に親近感があった。
   
その話と俺が観た夢の「カマキリ」の話は ぜんぜん関係ないんだけど
人間が作った諺の中に、蟷螂の斧【とうろうのおの】という言葉がある。
意味は、「弱者が自分の弱さをかえりみず強敵に立ち向かう」ということの譬えで、
「力のないものが、力量もかえりみず強い相手に立ち向かうこと」
ちゅうことで、国語辞典とかには そう書いてあった。   
   
本を読まない俺としては
ネットで検索してみると、

   http://homepage2.nifty.com/m_maki/haha/haha_k.htm  より引用させていただきます
   3.蟷螂の斧(荘子:天地)
     (とうろうのおの)
   むかし、ある王が車で狩りに出かけたとき、
   一匹のかまきりが両方の前足をあげて車に向かってきたという話がある。
   「蟷螂の斧」とは、弱くて小さいものが、
   おのれの力量を考えずに強くて大きいものに立ち向かっていくようなこと、
   つまり無謀な行いのことをいう。
   弱いものが強いものに立ち向かっていく姿は、勇気があってとても感動するが、
   ただの無謀な行動にならないようにしたいものです。

   
また、
   
http://wageiidiom.cocolog-nifty.com/takmat/cat3249692/index.html  (より引用させていただきます)
この方のサイトに、次のようなデータもあった。
   
   蟷螂の斧をもって龍車に向かう (とうろうのおのをもってりゅうしゃにむかう):
   【意味】蟷螂はかまきり、龍車(隆車)は大きな車。
   弱い者が身の程を弁えずに、強大な者に立ち向かう様子を例えた表現。
   (講・清水次郎長、梁川庄八、大石内蔵助、赤穂義士本伝、三家三勇士、加賀騒動、落・蚊いくさ)
   
更には、

   蟷螂蝉を窺えば夜鳥蟷螂を窺う (とうろうせみをうかがえばやちょうとうろうをうかがう):
   【意味】弱い者を食い物にしようと狙っている悪党よりも、
   更に一枚上を行く者があって、背後から命を取ろうと隙を窺っている。
   世の中は油断も隙もあったものではない。上には上があるものである、ということ。(講・妲妃のお百)
   
江守 徹 さんの『漢詩紀行 』みてぇな感じだけど
もしかすると石ノ森章太郎さんは、こういうことを踏まえた上で
仮面ライダー・カリスがワイルド・カリスに成るまでを描いていた…のかも知れない。
   
   
自分で云うのもなんだけど、
なんだか両方とも今の俺にピッタリじゃねぇえか? 
    
笑ってる場合ではない。 (誰も笑ってない)
   
俺は何者なのか? 
俺が立ち向かう相手とは
果たして、何なのか? 
   
医療、教育、経済、宗教、政治…
この順番どおりに人類の底辺が大きく動く気配…
今はまだハッキリと視えねぇぞ。
己との闘いってのは
俺の人生という舞台には とどまらない問題だからな。
がある。
   
              つづく。
   
   
   
   追記 7月20日 蝉の啼く晴天にて。
   
   
   
   編集中だけど、長くなっちまって
   
   記事内容は半角40000文字以内で入力してください。
   
   てことなので、ページを移動する。    編集画面で こんなの見たことない人も多いよな。
                            …いつも長くてすみませんねぇ。

   
   
   
   
   ☞ http://ameblo.jp/badlife/entry-10014899989.html