Boxing Day ~ 12月の地上にて  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

 
 
「たまには肩の力を抜きなよ」
と云わんばかりに、
伊丹哲也さんのサイトが更新された。
http://home.p02.itscom.net/fighting/T.ITAMI%20OFFICIAL.html
 
「もう、そのへんでいいだろ」
って、云ってくれてるように…。
おれのたわ事”、05,12,24 のページには そんなこと ひとことも書いてないけど、
DEMO! ページ Gallery の、NEXTNEXT。 3ページ目に新曲、
 
     “山河の如く” 
 
そして、たぶん、昨日(24日に)つくって 今日、
ファンのみなさんへのクリスマス・プレゼントとして発表してくれた・らしき(と思う)
更に NEXT の 4ページ目。
心あたたまる、この曲、
 
     “12月の街” (real player のタイトルには「12月の街2」とあるので”テイク2”か?)
 
この2曲を聴いて、泣きもしない、たじろぎもしない今の俺は、
“何かに感動する”という気持ちまで、どこか遠くの方へ行ってしまってるように思う。
   注意、哲也さんの歌に対してではない ) 
 
また俺は、フツーの世間一般の世界から外れにハズレてしまっている。
よくも平気な顔して生きていられると思う。
という一面と、
「…ちょっと 煙草を吸わせて落ち着かせてくれ、
もうちょっとしてから また俺なりの生きる術を獲り戻せるから、
きっとその時には一龍(子供)にも みゆきちゃん(妻)にも
変わらぬ笑顔で接することができるから…」
という気持ちと、
「ざけんじゃねぇ、こんな世の中で潰されてたまるか! クソッ、」
という、いつもの”きちがいじみたテンション”を保とうとする葛藤がある。
混在してる。
 
 
酒づくりの仕事に携わっている時間は、少なからず、
そういう、どーしよーもない自分を忘れていられる。
あまり考えず、自分の存在理由を気にしないようにして、
仕事に没頭できる。少なからず。
(別に元気がないわけじゃないよ。佐渡は寒いけど風邪も引いてない。今のところは)
 
上に紹介した2曲を聴きながら、
哲也さんの、“おれのたわ事”、05,12,24 のページに、色々書いてある中で、
(…哲也さんの過去に、ミュージシャンになる以前、“建築家を志した”
という背景も伺える意味も含め…)

「俺も姉歯みたくやりゃよかったのか?」
「売れなくて良かったのかもとも思っている」
「きっと人や人生なんてものは本人にしか分らん複雑なものなんだろう」
そういう言葉があった。それを読んで、
自分でも自分の、“これまでの俺”を様々に振り返ってみたりする。
「俺はもう、死ぬ日が近いのか?」
と思うほど、そういったモノが脳裏に浮かんでは消える。
何を悟ったわけでもない。
何を手に入れて来たわけでもない。
何もない自分に、胸を撫で下ろすように案心できることもある。
でもそれは、これまで、いろんなことから逃げてきた自分の結果でしかない。
音楽業界についても、役者の道も、作家…“もの書き”という志も、
家族の自由、カネも未来も、希望も夢も、
かつて俺の中にあった俺だけの理想は、
すべてにおいて俺を破壊するかのように
この地球上で、ただ一点、なんてことなく宙に舞う埃が、
どこかどうでもいいところへ吹き飛ばされるように
何の変化もない。
 
そこに、いくらかは、この世の進歩、発展に関わる役割…
そういう俺の成長もあるんじゃないか…と信じたいけど、
こんな くだらない精神論モドキさえ、塵やホコリの一つ でしかないんだよな。
つくづくそう思う。
何にも役立ってやしない。
ただ過去の延長の今日へ
今日の延長の未来へ
自分が何者かを模索して生きてるだけだ。勝手 気ままに。
だから、“生かされてる”という事実も、まだ心の底から認められないし、
その事実を素直に受け入れ、自分に与えられた義務を遂行…
人間という生き物を まっとうしようという覚悟さえも中途半端だ。
 
野に咲く花や樹木。
そうした植物や それに恩恵を受ける動物も、海の魚たちも、
自分達がいきとしいけることに悩んだり、考え込んだりはしない。
そもそも、他人に、他の生き物に迷惑をかけるということはしないし、
しようともしない。
そんな植物や動物、魚、虫もいない。本来は。
人間が(俺も含め)、あらゆる場所を破壊した結果に
山猿や熊が民家や畑を荒らし、スズメバチが異常発生し、
渡り鳥が病原体を運び、花粉が人の鼻をグズグズさせる。
この猛威も止みはしない。
もっと増えてもっと盛って、人間を悩ませ、
俺も、ただ見ていることしかできない自分に苛む。
明日の大災害も、隣の町の凶悪犯罪も、事故も、奇病も難病も…。
 
インドの釈迦や宮沢賢治は、
かつて、そういう自分の周りを見ては嘆き、
自分という人間を追究することで、ひとつの思想や教え、心理を導き出そうとしたのか。
それに影響を受けたあとの人類、キリストの教えの分裂や
イスラムの一部の破壊精神、テロ、侵略行為…
領土や物資を奪い合い、争う人間の破滅も、
そのままで、それが人類の本来の姿だというなら、
嘘と真実の区別に頭を混乱させることもなく、
他の動植物と同じように生きていけるのかも知れない。
自由や進歩、発展に拘ることもなく。
 
釈迦やキリストの教えが、マホメットの教義が、
宮沢賢治の文学世界が、
何を救えるというのか?
それで何とか釣り合いを保っていたような時代が、
これ以上 先へ続くと思える者が何人いるのか?
また、ジョン・レノンという人は、かつて、
「世界中のすべての人が幸福でない限り、個人の幸福は決して在り得ない」
と云って、 「世の中は少しずつ良い方向へ向かって動いてるんだよ」
と、歌っていた。
本当にそうなのか? 
 
俺独りにはどうにも、
地球の自転と公転に逆らってるような人類にしか見えないんだけどな。
俺も一緒に生きて、生かされているこの時代は とくに。 
 
かつて、自分の中に在った(今でもある)
神の存在を否定してしまったことに問題あるなら
それもいつ、心の底から改められることなのか?
 
逃げたいよ、でも、逃げられない。
「たまには肩の力を抜きなよ」
「もう、そのへんでいいだろ」
っていうように、哲也さんが歌ってくれても、
今の俺は
「ちょっと 煙草を吸わせて落ち着かせて…」
そういう気持ちでしかない。
 
   もっと喜んでもいいじゃないか。
    もっと楽しんでもいいじゃないか。
     クリスマスも正月も。
      フツーな暮らしでいいじゃないか。
       いったい何が不足なんだ?
 
そんな自分に涙も出ねぇよ、今は。
 
ここで一つ質問がある。
誰に対してってことでもない。
どっかでこれを見てる神なら神でもいい。
隣の町の寺の、見ず知らずの坊さんの先祖でもいい。
明日、自爆しようとするテロリストの狂気な思想を生んだ何者かの意識、
そこに潜在する何者かの意志、そこにいる悪魔でもいい。
俺に教えてくれ、
 
俺は今のまま生き継けてもいいのか、どうかを。
 
 
その答えを本当は知っている俺も、
「おまえ等の嘘には、もう付き合いきれねぇよ、人間を自由にしてくれ!」
そんなふうに、また叫び声をあげたまま狂って死ぬのかどうか…。
 
これも見物だ。