とあるアーティストに見習って…。 平成18年、鶯の鳴く孤島にて。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか? 
   
これは、どのような場合においても、
人間が生きている上で重要なことだ。
俺は常に、いま現時点の状態へ辿りつくまでの、
そういう原因と結果の過程や発端についてを
物事のずうっと先の方まで見据えていくことが、
あらゆる問題の解決に繋がることと思っている。
どんな肉体の病気や支障、怪我や事故、事件も、
精神の問題も、
「原因はこれで決まり!」ということはないし、
その原因がハッキリと解らないために悩み苦しんでいる者も多い。
   
たとえば、
世の中の進化論や遺伝子についての研究と、巷の人々の見解も、
ああゆうものは「ゼロ」の部分万事の起源、物事のはじまりについては
何も、どこにも到達してはいない。
浅はかにも学者や学識は、自分達で突き止めた“手柄”のようなつもりでいることを
世間の教育の枠の中に押し込めて、
「人類の進化はこうなっている」とか、
「遺伝子の情報には こういうことがあった」などと、
あたかもそれが最初から決められていたかのような解釈で、
当然の常識であるかのように騙ってはいるけど、
実は非常に曖昧な推測や憶測が多いのも事実だ。
ところが問題は、そういう誤った情報、偏った情報を、
世間の学校の先生の頭や学校教科書の内容、または国営放送の番組が、
たかだか数千年の人類の歴史の中でしかない科学分野というものを
「素晴らしい」こととして、見る者・聞く物・教えられる者の意識までも曲解している。
人間が猿から進化したという仮説を、
目の前に事実として現すことが絶対にできないのに、
それが地球上の当然な環境による影響の
当然な突然変異の繰り返しで進化したものだと教え、
それが完全な嘘だということを誰にも暴けないようにするかのように、
その上から更に嘘を塗り固めようとしている。
「私達のカラダの中にある一つ一つの遺伝子情報が教えてくれます」
などという言い方で。
そして世界中の宗教の一部が、そういうことに猛反発してたりする。
どちらも嘘の擦りあいでしかない。
  
「人間が人間を解るほど、人間は利口に創られてはいない」
  
このことを認められない人々の集まり。
この地球上では直立二足歩行で生息する人類ほど高等な生命体はないが、
現代に生きる人間ほど地球の使い方を間違えている下等な生命体はない。
そしてこの事態を変えようとする者が非常に少ない。
戦争や平和についてを論じる者も、
環境保全や自然保護を考える団体も研究者も、
人類の未来や展望についてを騙り合う学者も、
人間の愛や自由、欲望の意味についてを曲解してきた宗教の教えも、
今一度、自分という人間が
自然界の大いなる意志の中の一つでしかないことに気づくべきだ。
そしてその中で、
自分に与えられた本来の役割、果たすべく義務とは、何なのか? 
    
この地球上で何者かの意志により生かされているという事実を素直に受け入れ、
それが人間の手では誰にも変えられない自然界の道理の中にあることを
一人一人の人間が、本来の人間として認識できない限りは、
この世には戦争もテロもなくなりはしない。
各国の病気の流行も災害も、社会の事件や事故も、増え続ける一方でしかない。
   
いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか? 
   
目に見える問題も見えない問題も、
あらゆることにおいて、それを追究してゆくことが大切だ。
それは決して、学問ではなく、教育の在り方でもなく、特定の思想でもなく、
また、追究する役割にない人は、追求する必要はない。
最初から創られ方が異なるのに、
すべて者が同じ方向へ流れると、世の中は何の進歩もない偏った方向へ流されてしまう。
それが今の日本の社会。人類のワルイ見本だ。
   
いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか? 
   
医者も学者も、宗教の教祖も、何かの会社の経営者も、政治家も、
もしも、「先生」と呼ばれる世の中の指導者なら、
そのことを深く、自分自身に問い詰めるべきだ。
   
幸い、芸術家という者の中には、何かを作る上で、
そのことをよく理解しておられる方々もいる。
音楽や文学、絵画や舞台、映像芸術に関わらず、
人間が本当の意味で進化し、成長することを、
自分の魂で感じ得て、日々を進歩して生きている。
なぜなら、自分の中から生み出し、創るモノのすべてに、   
「いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか?」
という事実を知っているからだ。
何もないところから何かを想像し、創造してゆくということは、
実に大変な作業だ。
自分自身は愚か、運命(ああるいは神)に許されない限りは、
完全なモノを創りあげるまでに、作業を中断させられてしまう。
命がけで取り組まない限りは、
出来あがるモノも中途半端になってしまう。
それは他人から見て、どんなに精巧に精密で、
緻密な構造のモノの出来栄えに見えてたとしても、
創った者にしてみると納得がいかない場合が多い。
ところが、
誰が創ったのか? 
人間だけは、パーフェクトに創られていた。
   
そう、パーフェクトに「創られている」のではなく、
「創られていたはずだった」ということだ。
    
神の姿に似せて、万物の構造と対照的に創られた人間は、
神の許しを得て、この地球上の使用を許されている。今のところは…。
ところがそれは、決して、「支配」ということではない。
自分の肉体が自分の心の支配下にあって、
そのコントロール制御が利かない人間。その集団に、
なにを他の者を支配できるような力量、器があるのか。
今、人類ほど愚かで勝手な動物は、この地球上に存在しない。
   
なんのために言葉を交わすことができるのか? 
なんのために五感を働かせる能力を兼ね備えた肉体を持っているのか?
そして、なんのために、
想像するという能力を何か形に変えることができるほど
優れた力として持たされているのか? 
   
男が女を愛するということが、どういうことなのか? 
母親が子供を思う気持ちに何があるのか? 
女が男を慕う心にどんな迷いがあったのか? 
   
そういうことさえ想像しても創造できない人も多くなっちまった。
テレビを点けても、朝から晩まで、ウスノロな内容の報道をやってる。
それでも、漫画やドラマ、映画だけは、(…最近のモノはどうか知らんが)
想像して創造することの大切さを伝えようとしている。
   
俺がいま書いていることは、「芸術が素晴らしい」ということではない。
人類や社会が失い、失いかけているモノが何か? 
自分自身は何か? 
ということだ。
   
今さら何かを反省して考えてみても、
その答えを出せる人は少ないかも知れないけど(俺も含めてな)、
今ならまだ、遅くはないかも知れない。
たぶんな。
   
自分が何なのか? 
何者なのか?
この地球上で、どんな役割を持って創られ、産まれ、育ち、死に逝く人間なのか?
己に気づくための第一歩としても、
   
いつ、どこで、なにが、何によって、
どのようにはじまって、どうなって、この結果に至っているのか? 
   
ここが重要だ。