「惚け老人が惚けた理由」と、命の修復に関する考察…のようなもの。 【編集中】…もっと過激に。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
仮題: 「惚け老人が惚けた理由」と、命の修復に関する考察…のようなもの。
   
   
   
   
   
   
みんな、聞いてくれ!
・・・・って、呼びかけるほどの人はいないかも知れないけど。
今日はまた お知らせしたいことがある。
この内容は、この“Mind Resolve”の読者の方一人一人の“今”に関わる重要な問題だ。
って、別にそんな かしこまるほどのことでもないかも知れないな…
んまぁ、そんなに難しく構えず、興味あって暇つぶし程度に読んでもらえるだけでもいい。

   
   
酒について、音楽について、
いま未だ この地球上に生息が許されている人類について…。
今日まで俺は自分と自分の家族の話を題材に
読む人によっては、色々と難しいことも書いてきた。
インターネット上に公開されるものの、
単なる「日記」なんだから
そんなモノは誰かの人生を大きく左右することはない。
ところが、俺自身にとっては
「自分を変えない限り世界は変わらない」
という意味で、このウェブサイトの内容が全面的に
俺自身の意識変革の役に立っている。
この命は、あと60年と望んでも
それがどこまで持ち応えられるものなのかは判らないし、
たとえ今の自分が そのように決めても
この世に産まれる以前に決められた寿命が変わるわけでもない。
だから俺は、何かを悟って幸福に暮らしてゆこうとか、
自分の人生に、この手で摑む成功を実現しようとか、
そんなありふれたことは考えていない。
つい最近までは、自分の役割が何なのかがハッキリとしないために
特定の者に操られることを拒みながらも、またそれを望んできた。
結局のところ何もない自分には「何ができる」ということでもないので
これまで経験してきたことを題材に
自分のオマケの人生を
ここにこうして書き綴ることしかできない。
今はまだ趣味の領域として
頭に思い描いたストーリー展開のいくつかを組み合わせ
誰の何になぞることなく
独自の『物語』を書き連ねるという作業もあるけど
それはそれで、「次の世代への“橋渡し”になるといいなぁ…」
と思っている程度で、英訳化とか絵本の形にするとか、
次回の出版に向けて意欲的な創作をつづける…ということも
今はまだ、このインターネット上で本格的に取り組んではいない。
自分が世間に合わせられる人間として、
再び人間社会に溶け込めるようになるための軌道修正の段階だからな。
この途中経過(軌道修正)が、いつまで続くかは判らないけど、
自然の成り行きに任せたオマケの人生のはずなのに
万人にとってクオリティ性の高いモノに仕上げたい…
という格好をつけた欲もある。
んまぁ、そう思っているうちはそんなモノはできないだろうし、
自分が好きでやっていることも、今後いつどうなるかは何も判らない。
投げ出さずにやるいかない。
ただ、「なるべく早くに…」というような
以前にあった焦りはなくなってきた。
ありのままの自分で、何か余分なことに囚われることなく
自由に描いてゆけばいいだけのことだ。
自分の本質を曲げてまで無理に何かを産み出そうとしても
あとになって嘘っぱちな箇所がボロボロとに目立つ有様になるだけだろ、
格好をつけて気取ってるうちはな。
そういう意味で俺は、今後二度と自費出版はしないし、したくない。
そんなモノは誰も読みはしないし、ペーパー資源の無駄だ。
焦っても意味はない。
俺の人生に関してはな。
   
さしあたり、問題は
いま現実の生活の、自分の目の前にある問題の一つ一つに
経験豊富な人の意見を参考にしながら
その問題解決に真剣に取り組むことを怠らないように注意しないとだ。
これに関しては時間の制限がある。
俺の人生とは別の他人の人生がかかってる問題が多いからな。
   
しっかしまぁ、こんだけ湿度の高い雨の日がつづくと
日照時間をじゅうぶんに必要とする稲穂の命が
細々として貧弱なものになっちまう。
人間の愛や人生が細く長くあるにはいいかも知れないが、
太く短い命としての稲…。
このような異常な天候がつづくと旨い米もへったくれもあったもんじゃない。
人間が食べる米。あるいは飲む飲まないは別として
神により、その製造を許された“酒”というモノに関して云うなら、
稲作という農作業ほど清らかで人間の心を浄化する肉体労働はない。
そして丹念に磨き上げられた米の一粒一粒から、
精魂こめて拵える酒づくりほど、神聖な“ものづくり”はない。
誰がどんな分野で何を生み出し、作りあげようとも…。
まず、
人間が生きる絶対条件が、この世に産まれ出でてはじめて、
要らないモノを吐き出してから取り入れるという「呼吸」をすることであり、
その、空気を吸うという呼吸により、
次なる生きる絶対条件である筋肉に、
自分の肉体に備えられた能力で血液が回るということ。
そしてその血液を回して生きるという絶対条件に、
「食べる」ということがある。 (…音楽を楽しむ心は その次だな。)
そこに関わる自然の恵み、太陽の恵み、水の恵み、大地の恵み…
これらの恩恵のすべてを網羅した食物が、米だ。その次が豆。
かつての優秀な日本人は、この米から、更に
酒をつくり、味噌をつくり、それらを応用して醤油を造り、納豆を作り・・・・(なんで納豆が出てくる?
そうやって田んぼや畑を耕すことを繰り返して生きてきた。先祖代々。
稀に、どうしても稲作ができなかった地域もあるので
漁や狩りを行うことで食べる物を補ってきた人たちもいたかも知れないけど、
その人たちにしても、一年中、魚や動物の肉を食べるばかりではなく、
その魚介類や獣の肉と米を交換して生きる生活もあった。
   
『ザ・ネットワーク』というタイトルの映画あったか? 
緒方拳さんが主演で、西田敏行さん共演の、
江戸時代の漁師の漁船が異国の地に漂流してしまう物語があった。
ソビエト…ロシアの方の非常に寒い地域に漂着してしまい、
そこで、それまで食べたことのないような(食べることがご法度とされていた時代の?
鹿やその他の獣類の肉の味を口にする。その江戸時代の漁師連中がな。
最初は、焼いてから自分の歯と顎の力で喰いちぎる肉を「美味い、ウマイ」と喰っている。
そうした演技の中で、西田敏行さんが扮する役どころは、ある日、
「おら、米が喰いてぇ!」
と、泣き叫んで、厳寒な荒地には育たない植物(稲穂)を探し求め、
氷のように冷たい大地を駆けずり回って、その辺りのどうでもいい雑草にムシャブリつく。
そういうワンシーンがあった。
仲間の漂流者に肉を差し出されても、  
その物語の中では結局、「もうそんなもんは喰いたくねぇ!」ということで、
足の筋肉から腐りはじめる凍傷によって死んでしまうんだけど、
西田さんのあの芝居ほど、日本人そのものの姿を表現した芝居は、
今の現代劇には・・・・ない。
日本人がいかに米によって肉体と精神の調和を育んだ歴史があるのか?
については、かつてこのウェブログの中でも『ベルツの日記』の未公開部分を紹介することで
それを題材に、俺なりの解釈で“米の大切さ”を書いたページもあるけど、 
   参照  http://ameblo.jp/badlife/entry-10004456818.html
米づくり、稲作というものは、俺が云うほど簡単なモノではない。
一年を通しての自分との闘いに加えて、自然界との勝負がある。
俺は今、妻の実家にいて稲作農家へ嫁いだ息子の立場ではあるけど
この5年間、実際にこの目で田んぼ作業を身近に見るまでは
正直、米はスーパーマーケットに売っている米でしかなかった。
台所で丁寧に米を研いでも、余ったゴハンは平気で捨ててしまう。
これは、そこいらへんの主婦の感覚と変わりない。
なんせ、スーパーで買った米だし、稲作はテレビや雑誌の中でしか見てなかったからな。
貧乏で食材や食費を無駄にしないとか、
ありがたみがあるとかないとかの以前に、
自分の身体で実際に、春夏秋冬を通しての稲作を経験しない限りは
「ひとつぶの米」というものがどんなものなのかは、都会暮らしが長い人間には判らない。
と、そんなことを云って、今年は去年ほど家の手伝いをしてる俺ではないんだけど、
そんな俺が何か偉そうなことをほざくことができる分際ではない。
     
     koshihikariaugust
     
妻の父親は何十年も稲作をやっている“米づくりのプロ”だが、
もともとは水中ポンプを扱う設備業者の商いの家に生まれ、
佐渡島内では、書籍配達を主とする田舎の文房具屋の月給取りだった。
要するに俺と同様、婿として農家に嫁いで
何もまったく判らないところから、見よう見まねで稲作を体得した人間。
兄弟は4人いたらしいが兄や弟は既に、自殺や精神的な病で伏せたのちに病死してる) 
なんでなのか、クルマの運転はできるのにバイクの免許しか持ってない。
雨の日も風の日も、スーパー・カブで学習誌や婦人雑誌の配達をしながら、
近所の五人組 に頭を下げ、笑い者にされながらも失敗を繰り返し、
今では一区画の地区では誰にも負けない稲作技術を持っている。
俺もいろいろと盗み取り、受け継ごうという覚悟で、
父親の丁寧な教え方に従ってはみるんだけど・・・・
どうも難しい。覚えなければならないことが沢山ありすぎて
30代後半の頭では制覇できないことが多い。
当たり前だ。稲作は学問ではなく、マニュアルなんてもんもなく、
優れたアーティストが一つの楽器を使いこなすことと同じように
一日一日の積み重ねで、身体で覚えなければ習得不可能なことばかりだ。
生半可、コンサートステージの立て込み作業や水道工事で
何をどんなに経験豊かな肉体労働をした根性であろうとも、
そんなものは自然界の流れに直接的に従わなくては成らない稲作には通用しない。
俺もこの歳になって、つくづく、世の中の役に立たない人間であることを思い知らされる。
手伝うなんてことも返って迷惑。足手まといになることが多い。
それでも俺は跡継ぎなので、
「朱鷺の舞い降りる田園風景を夢見て…」などという悠長なことは云ってらんない。
   
http://ameblo.jp/badlife/entry-10009510907.html
自然界は甘くはない。
現在、どんなにベテランの高齢者農家の人たちであろうと、
ここ最近の異常気象がつづく天候の明日は読めなくなってしまった。
稲や苗の品種改良をどんなに繰り返しても
上手に実った年と同じように稲作を繰り返すことは不可能というよりバクチに近い。
科学肥料の散布や害虫対策を施す時期がほんの何日か適応すべき時期にズレただけでも
米の出来栄えに大きく左右するというのに、
それ以上に重要な水質は愚か、
ほぼすべての緑の植物が必要とする光合成や、
米や麦であれば“ソバガラミ”という大切な交配時期に必要な陽の光りが不足することにより、
そこへ投資したカネはすべてがパァになることもある。
しかも、機械や燃料の設備管理費も含め、年間の稲作作業にかかる費用と
作った米が買い取られた収益の差し引きは、田んぼの面積が広いほど儲けはあるが、
一兆分二兆分の田んぼでは二束三文でしかない。
現在、佐渡には、そういう稲作農家が非常に多い。
しかも高齢者ばかりで跡継ぎはいない。
息子や娘は島の外で大企業の人間関係に揉まれ、
日々、疲れきった生活を送って過ごされている人たちばかり。
盆や正月に里帰りはするものの、実家から送られる飯米がなければ、
やはり、他人の作った米をスーパーで買う始末。
おもしれぇ世の中だぜ。
稲作民族の日本は どこへ行っちまったんだ? 
焼きたてのパンと高級ワインが誰の贅沢な心を満たしてる? 
一合枡の角に塩を盛って酒の味を噛みしめる星一徹は、 (???)
どこの老人介護施設の窓から遠い景色を眺めてるんだ? 
日本政府の農林水産業部門の関係者のみなさん、
減反政策や漁業組合の監督監視はマニュアル通りでも
あんた方がレストランや料亭で湯気を立たせてる香りのいい一膳のゴハンは
真っ白な色かも知れないけど、
真っ赤な血が流れる人間の汗と涙の結晶だぜ。
どうだ、ウマイか? 
一粒たりとも茶碗や箸に こびリつかせたまま席を立つんじゃねぇぞ。
おまえらの保身のために徳利からお猪口に注がれた酒の一滴もおんなじだ。
残さず最期まで呑めよ。
下手糞なカラオケなんて歌ってる場合じゃねぇぞ! 
   
          meshi01
   
   
いかんいかん、またいつもの調子になっちまった。
俺は小泉さんとジェンキンス氏と三人で、
森さんがオデン屋のおやじを務める木枯らしの屋台で酒を呑むのが夢 だったんだ。
   http://ameblo.jp/badlife/entry-10013588835.html
すまんスマン、官公庁の皆様方。
   
さて、俺の妻の父親と母親は、そういう日本の大地の一つである佐渡という島の中で
小さな小さな畑や田んぼを耕し、手入れを怠ることなく、
魚沼の米に並ぶ品質の、人間が食べる米を作ってきたわけだが、
ここへ来て、厚生労働省の管轄下にある小さな小さな町の病院の医者に
「アルツハイマー」と診断された妻の母親は
去年より今年の方が症状も悪化して
最早、畑作業も稲作も以前のように出来る状態ではない。
趣味で、庭や畑の脇とか、敷地周りの道端で草むしりをやる趣味はあっても
自分で脱ぎ捨てた軍手は鎌を持ち替えた瞬間に忘れてしまう。
去年の今頃は、朝早く起きて作った味噌汁を置いて、
10分もしないうちに別の鍋で新しい味噌汁を作るということもやってたけど
自分の箸をやっと握れるような震える手では
台所仕事も何ひとつやらなくなってしまった。
というより、その娘である俺の妻が、やらせない。
どうも迷惑らしい。
もっと早いうちに入れ歯を作っておきゃぁよかったものの、
頭蓋骨の中の脳味噌が萎縮して白く涸れ、惚けちまってから
何本かない歯並びの調節のためにデカイ入れ歯を作っちまったために
その入れ歯を自分で管理する方法がまったく覚えられない。
「申し訳ありません。ごめんなさい。覚えられません。堪忍してください」
本人は小声で言い訳をするけど、
娘と旦那(父)にとってもそうは問屋が卸さない。
「ほれっおめぇ゛オレが こうやって洗うのをちゃんと見てろっ!」
「自分のことなのに どうしてお父さんに洗わせるの!?」
「さっき自分で苦労して外した入れ歯は、どこへ置き忘れたの!?」
など、その他にも入れ歯問題に止まらず、朝から晩まで二人で怒鳴りつけている。
はたから見れば虐待だ。
俺と俺の一人息子(もうスグ6歳)は
「また はじまったよ」
てな具合で、傍観者でしかないけど
同じ家族なのに俺はそういう時間帯の騒ぎを無視していることが多い。
それでもときどきは何か危険なことをすると
「お母さん、危ねぇよ、
なんで こんな人が頻繁に歩くところへ
鋭く研いだ鎌を置きっぱなしにしとくんだ?」
などと、なるべく丁寧に注意しても、
本人は俺のことを外国人のように思っているのか何なのか? 
自分が何を言われているのか解らない様子なので、
「あんだよっ! しっかりしてくれっ! 
まだ生きてんだろっ! 何にも終わってねぇぞっ!」

などと、つい いきり立ってしまうこともあった。
…そんな有様は、横で遊びながら見ている子供の環境にもよくないよな。
妻は、そんな俺に対し、
「自分の親じゃないから
無責任に平気で言いたいこと言えるかも知れないけど、…あーたらこーたら
と攻め立てる。
まったくだ。俺の実の親ではない。
でも同じ屋根の下に住む家族だ。他に何がある?
   
下半身の筋肉に対して極端に血液循環が悪いために
身体全体にまんべんなく回るはずの血液に
上昇する勢いすらない状態。
そのために、脳細胞にも血液循環が不足して
脳味噌が涸れ、白く萎縮してしまう。
ただそれだけのことだ。惚け老人の惚けた肉体的な原因はな。
詳細は、
      
http://ameblo.jp/badlife/entry-10013364666.html
                          このページ にある。
人より数千時間も多く勉強をして、
死亡診断書にサインができる資格のある医師免許を取得していながら、
現代医学という狭い枠の中にいる医者には、このことは絶対に解らないし、
理解している暇もないほど、本来の人間の創られ方とは別の世界にいる。 (息が詰まるほどの…な
ただ、人の名前から取ってつけられた病名だけは
そうした統計データに当てはめて患者や家族へ伝えればいいだけのことなので
簡単に「アルツハイマー(博士)病」と言っている。
原因は解らない。未だに解明できない。
初版の『人間の設計図 』を著述した“カツオ爺さん”。
今や、世界の鍼灸学の頂点に位置する『村上流派
そういうものから、人間の創られ方の本質に気づかされた俺は、
手足十本の指と関連する人間の各臓器にまつわる筋肉に流れる血液と気が
自然界に創られた道理に反する人間の肉体に病気や障害を齎していることを
このウェブサイトの中でも訴えている。
そんな俺は、別に世の中の医者や医療関係者に敵対心はない。
俺は治す側の係りではないので、物の道理と事実だけを伝える。
して、根本的な原因を追究してゆく。
原因が判れば治す手立てに結びつく。
それは心も身体もおんなじだよ。 なぁ、世のカウンセラーのみなさん! 
   
妻の母親の場合…今の俺のお母さんの場合、
過去に必ず、本人の心の中で
自分の人生を投げ出してしまった瞬間がある。必ず。
それがいつなのか? 
あぁ~あ、もういいやいいや…
そう思ったのがどこでなのか? 
それは本人にしか判らない。
そこから惚けがはじまっている。
要するに、
肉体を持って生きているうちに 
強く心に決めて断ったことが 
いい方向へも悪い方向へも転がることになる人間のうち
俺の妻の母親(70手前の惚け老人)は、
悪い方向へ自分を自分で導いて行ったってわけだ。
肉体は心の容器だからな。 
以前の俺のような自殺願望 にしても、多くの惚け老人 にしても 
やっているのは他人ではなく、本人。
どうあっても、他人の所為ではなく、自分自身で招いた結果でしかない。
   
禍福に門なし、すべて己の招く所による。
   
過去に本人の心の中で
自分の人生を投げ出してしまった
瞬間
それがいつなのか? 
あ~あもういいやいいや…
そう思ったのが、いつ、どこでなのか?   ヒント  http://ameblo.jp/badlife/entry-10013725551.html
   
今になってそれを本人に問いただしてみても 俺も実際に何回か尋ねたよ)
そう簡単には想い出せはしない。
なんせ、生きることを無責任にも投げ出してしまったからな。
もっと以前の昔のことは、よく覚えている。
「コシヒカリ」の素の品種は「カメノコ」というらしい。
今はない稲の品種の名前の発音まで俺に教えてくれる。
そして朝昼晩の3色以外にも、腹が空けば駄菓子も食べる。
子供のようにムシャムシャと一袋の駄菓子を全部、独りで食べてしまう。
生きることを投げ出したと云っても、
人間が生きる絶対条件の「食べる」ということは惜しまないし、
辞められないし、止まらない。 (今のところはな。)
トイレは今のところ、なんとかして自分でできる。
そのトイレから部屋へ戻っても、さっき自分が食べた物は覚えてない。
また食べる。
「食べたんなら『食べた』って正直に言えっ!
おめぇは、なんでそんなに卑しいんだっ!」
「お母さん、『やらないで』って言われたことは やらないでっ!
そのタオルは一龍が使う物なの! 
自分と他人の物の区別をハッキリしてちょうだいっ!」

本人は、「ごめんなさい」としか言わないし、言えない。
それ以上のことはもう解らない。
娘も、稲作のプロフェョナルの父親も、本来は温厚な性格なんだ…ったんだけどぉ、
最近は俺よりも(?)他人のことで苛立っている時間が長い。
健康にもよくないな。
   
ただ、自分が自分の肉体を使ってやっていることに気づけばいいだけのことだ。
何が必要なことなのか? 
何が必要以上のことなのか? 
   
田んぼに生える稲の穂一本にしても、
何度も何度も耕しつづけた畑で野菜を作るにも、
その育つ過程の脇に余分な雑草があると、
土や泥にある栄養分は、育てようとする植物の成長の妨げになる。
雑草も雑草で、大地にしっかりと自分の根を張って力強く生きているが、
人間は、それを邪魔と判断して必要以上なら、根こそぎ取って毟る。容赦はしない。
必要なら除草剤を撒いて、
それらの草にとっては直接的に、もの凄い有害な化学成分を浴びるだけ浴びさせ、
凄まじい速さで雑草を枯らす。…あらゆる微生物も死滅させる勢い。
次の年も次の年も同じことを繰り返し、必要以上の者を排除する。
自然界に生かされる人間も・・・・省略
   
現代医学に「アルツハイマー」と診断された、今の俺の義理の母親は、
独り娘としてこの家に産まれ、
敗戦後、舞い鶴港へ降り立ち、帰ってきた父親が、その後、
浮気して出て行った先の他人の家で病死している。
祖母と母親と娘の三人暮らしで農業を営み、
途中、若い時分には数キロ離れた商店街の縫製屋で働いていたらしいが
ミシンや編み物が好きで上手でも、その才能を活かし、
島の外へ出て「自分の力を試してみたい」という夢を
明治・大正・昭和の親の躾により、ことごとく覆され、
自分の家の庭先や畑の脇で、草花や植木を育てて生きてきた。
島の外へ出たことがないわけではないが、ほとんどない。
女も男も水商売をするなんてことは不埒なこととしか思ってない。
あとは父親を憎み、
戦争から帰還した父親を自分の家に繋ぎとめておけなかった母親を憎み、
しばらくの間は、結婚も諦め、独身で生きてきた人間らしい。
俺がはじめて妻と一緒に この家へ訪れたときは元気だった。
料理も洗濯も庭先の花壇の手入れも、実に見事に行き届いた状態で
近所でも定評だったという。
花が好きなんだ。
だから草むしりが趣味だ。
それでも今の本人は、無意識で草を毟っている。
雨が降っても、激しくならない限りは気がつかない。
そしてまた、父親が鋭く研いだ道具は、そこいらじゅうに置き忘れる。
   
生きることを投げ出したのはいつだったのか? 
なんのためだったのか? 
   
本人が、それを想い出して、思い改められるなら、
惚けの進行を食い止めることが、ある程度は可能になる。
唯一、残された道は、
自分の好きなことを忘れてはいない、身体で覚えた習慣。
美しく花びらを輝かせる瞬間を見たいがために、
花が育つ場所の草を毟る。
ただそれだけのことだ。
   
それを他人が気づかせるには、タイミングが大事だ。
親子である実の娘や長年 連れ添った旦那には無理だ。
感情が邪魔をしてしまうからな。
外国人には可能かも知れない。
   
「お母さん、今やってることは何なの?
   
妻の母親が草むしりをする横で
なにげなく遊ぶ俺の子供。
その相手をしながら、
俺は密かに、そのタイミングを狙っている。
あんまり時間もねぇんだけどな。
俺の人生じゃねぇし。