封切り前から楽しみにしていたけど、仕事の都合で今更に。
主演俳優と、歌舞伎の話、ってこと以外は何にも知らずに見たけども、久々に物凄い映画を見た。
これは今週もう一回行かないと。
以下めっちゃネタバレ。
いろんな見方、切り口で楽しめるんだろうけど、とりあえず吉沢亮の美しさにびびった(月並)
女形が異次元に美しいのはもちろんのこと、地の顔もあらゆるシーンが全て美しくてちょっと狼狽える。
それから冒頭の任侠シーンがやばい。
ついぞ見かけなくなった任侠映画のカッコ良さと、ズッシリ腹に響く重みを本気で再現する心意気。
任侠だけじゃなく、時代劇とか花街ものとか日活ロマンポルノだとか、活気に満ちていた往時の日本映画のエッセンスが一堂に会して3本立てを見た満足感だし、ストーリーが進むにつれてそれが歌舞伎の舞台一本に集約されていく流れにも何か象徴的なものを感じる。
で、歌舞伎の松竹じゃなく、アイドルを本格ミュージカル俳優に育て上げてブイブイ言わせてる東宝が映画化したというのも個人的にちょっと興味深かったりする。
あと、人間国宝役のじいちゃんw
かつての歌右衛門を思い出すバケモノっぷり。
手招きするしわくちゃの手がこの世のものと思えないほど美しい不思議。
そして引退後の晩年、ドヤ街で死の床にいて、「ここには美しいものが何もないのがいい」的なことを言うのがまた美しいのは、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」よ。藤原定家よ。
(ここで吉沢亮に手渡される扇子が、新品のように硬そうで使い込まれてないのが気になると娘が言っておりましたが、そこに何か意図はあるんだろうか。)
そして吉沢亮だってば。
裾捌きとか所作とか、ウチの娘もお稽古で色々苦労してたあれこれをピタっと決めてる(少なくともそう見える)のはもちろんのこと、その上での目の演技・・歌舞伎のというより主人公キクオとしての?目使いの一つ一つが良すぎて、もしこんな歌舞伎役者が実在したら絶対沼る自信がある。
対する横浜流星は男っぽくて、終始「うまいけど、ぶっちゃけ女形としてはゴツい」「渡辺謙が代役に選ばなかったのも納得」なオーラを出し続けているんだけど、それが最後の最後で大化けして吉沢亮を完全に食ってくるという反則っぷり。
ちょっとだけ違和感あったのは、キクオがことあるごとに「血が」「血が」って言うこと。
キクオのモデルでもあると思われる坂東玉三郎のように、梨園の出じゃない役者さんが大出世するケースも実際にはあって、もちろん、同い年の実子を差し置いて、というのは異例中の異例だとしても、キクオが抱える問題は「血」だけじゃなくない?って思いながら見てました。
でも映画の最後の最後、スタッフロールの最後に「李相日」という監督名を見た時に、この「血」についての一連のドラマは、監督自身の生きた実感なんだろうな、と符合しました。
少なくともキクオの目線で目た時に、梨園は血縁が全ての世界だったということなんだと思う。
映画では俊ちゃんのエピソードがほとんど描かれていないんだけども、それは監督から見れば私たちのほとんどは「俊ちゃん」であって、あえて描く必要がなかったから、なのかもしれないな。
まとまらないまとめ
主人公は、雪の中で極道の父親が殺された場面を「美しい」と思ってしまったわけですよね。
で、彼はその感覚に一種の躊躇いや罪悪感を持ったんだろうと思われるんですけど、彼を迎え入れた歌舞伎の世界は、そういう陰惨で残酷で非道でグロテスクなものを、美しいと手放しで言い切って肯定するから、彼はそこに居場所を見つけ、その価値観や死生観に自ら進んでズブズブと取り込まれていってしまう。
このあたり、「オペラ座の怪人」とか「ブラック・スワン」に似ていて、天才芸術家であるゆえに芝居の中に真実を見てしまって、だんだん虚実の境がなくなっていく感じ。
だから何の悪気もなく残酷で非道なことをやらかしていくし、何をやっても、あの美貌と芸で全てを黙らせてしまうという理不尽なんだよね。
一方横浜流星演じる俊ちゃんにとっては、芝居は生まれた時からそこにあるもので、それが真っ赤な虚だというのは自明のことなわけですよ。
芸は芸と割り切ってるから役者としては並なんだけど、でも一瞬で自分と役を切り変えられるし、ぼんぼんゆえの人の良さ、要領の良さもある。血統がどうという以前に、どの世界でも、実際に世の中に重宝がられるのはそういう人だよね。
ただ、渡辺謙もわかってたし、国宝のじいちゃんもわかってたし、俊ちゃんもわかってるんですよ。本物の芸術というのはこんなもんじゃないと。
で、キクオとの舞台で、とうとう芝居の虚実がピタリと一致する経験をするわけなんですよね。
一方でキクオは、これまで一人で見てきた景色を俊ちゃんと一緒に見てしまったことで、もう後戻りできない高みというか、良くも悪くも芸の権化ともいうようなステージまで行ってしまう。
で、実際、そういうものを、人は「芸術」って言って尊ぶんだよ。たぶん。
芸術も因果なら、それを見るのもまた因果な行為だなと、それは私自身も常々思うんだけど、でもやっぱり美しいものは美しいと思っちゃうんですよ。
彼の生き方が善なのか悪なのか、幸せなのか不幸なのかは他人にはわからないし、主観や時代の価値観でいくらでも変わる。
でもこのような域に達した芸術が時代の価値観で揺らぐことなんて、たぶんないんじゃないのかな。
少なくとも彼らはそう信じて人生を芸に捧げているんだと思うし、だからこそ観客は、その内情を知っていようが知るまいが、黙ってその覚悟と美に拍手を送る。
キクオの幼馴染の態度に象徴されると思うんですけど、観客が優しい気持ちで役者自身の人生に入り込めるうちは、その芸は「一時の花」であって。
本物の芸は、演じる人間と見る人間を残酷に切り離して、ただそこに景色として人生を散らす極道なのだということを描いた任侠映画なのかもしれないな、と思いました。
最後に。
お涙頂戴じゃない、正しさを説かない、説明的な音楽がない映画が日本映画(実写)として存在できていることにびっくりしてます。
特に音楽が視点をガイドしていないと、「話はわかった、で、結論は?」ってなる人もいると思うし、不道徳な内容に疑問を持つ人もいると思うんです。
でも、たとえ映画そのものが腑に落ちなくても、この映画は美しい吉沢亮や横浜流星や、なんか知らんが凄い田中泯の舞台を見た満足感でスクリーンを後にできるし、歌舞伎って凄いなと思うし・・
結局、深く理解しようがしまいが、最後はそこに行き着いてしまう、そこが素晴らしいと思いました。