何かしら作品を鑑賞したり、或いは景色でも美味しいモノでも偶然の出会いでも、感受した瞬間に、もしくは感受した事柄から反射的に発生したイデアを、即座に時差無く生け捕りにし、言葉にする、という行為を疑ったことは無かった。SNS等々で殆ど反射的に感想は述べられ、作り手としても所謂エゴサーチでそれらを収集し、まだ新鮮な香りの残る作品の波紋を見ることが出来る。それは良いことだ、と思う。しかし、とも思う。今回は、そのしかしの感性を大切にしたいと考えた。「桃」について映像としての記憶は大幅に薄れ、確かに知覚したはずの音や匂いや、1時間強の時間軸の中で起きた物語性やその構成の一部始終は目を閉じて再現する事も叶わず、あの時のあのシーンと他者から言われても、そんなシーンあったっけ?となる可能性も大きいような蒙昧とした記憶になりつつある。そのように鮮明な記憶の量を削がれながら日々は続き、そうして沈澱し、臓腑にへばりつくように残った残骸の中からようやく作品が見え始めるという意識がある。回顧録で無く、いや回顧録に成りようもない程形を変えて立ち現れてくる桃の残像をこそ私は言葉にしたい。それは何故なのか。
spooky action at a distance というアインシュタインの言葉が副題としてあるように、桃は量子力学的観点を意識して創られたようである。鯨井氏は、ダンサーとして身体的に獲得している厳然たるファクトにようやく科学技術や学問が追い付いて来た、というような事を言っていたのを記憶している。ダンサーに限らずとも、その事はよく分かる事のような気がする。なぜなら、広く人間の「知」にとって、あらゆる存在の起源とされる宇宙の始まりからして未だ研究対象であるのだから。そして、その宇宙の始まりを解明する為に(為には語弊があるかと思うが)、量子力学、量子論とは生み出されたとも解釈出来得ると思う。私達は、光を知覚する事は出来ても、その全てを言葉や数式によって説明する事には未だ成功していない。しかし、光の存在を否定する人はいないだろう。同じように、私達は素粒子を知覚する事が出来るようになった(勿論特殊な実験環境下において)。この事は単に学術的分野に及ぼされる影響に留まらず、少なくとも人類にとって、素粒子という最小単位の有無がようやく問題ではなくなったという事である。私達の身体は、恐らくずっとその素粒子で形成され、或いは素粒子の中を生きてきたはずなのに、である。鯨井氏の言う通り、ダンサーがその自我と身体との関係の中に、或いは他者の身体との関係の中で、学術的に未だ解明不能な何かを知覚していたとしても何の不思議も無いだろうと思う。というよりは、そこに人類にとって新しい意識が生まれたのであれば、それがどこかの実験室に及ぼす影響は大きいはずである。そのようにして、ダンスに限らず、どこかの誰かの中に生まれた「新しい意識」が、後に(或いは同時進行で)学術的に普遍化され、現象化されるのではないだろうか。学術的に証明された(発見された)現象を、初めて我々は共有し、享受するかのようなイメージを現代では持ちがちである。全く逆であると私は思う。先ず「新しい意識」が個の中で誕生し、それが学問や技術を通して現象化され普遍化されるのではないだろうか。
話はアインシュタインに戻る。
spooky action at a distance とは奇妙な遠隔作用と訳されるようだが、この遠隔作用とは何か。端的に言うならば、アインシュタインは量子力学について、因果律、実在性、局所性を物理学の根本哲学として放棄する事を拒んだ為、批判したようである。この批判は勿論量子力学の完全拒否では全くなく、量子力学をあくまでも実験的に検証可能な普遍的物理法則にキチンと落とし込みたかった故の批判である。因果律とは、ある事象が何が原因で起きたのか「分かる」という前提の事である。その前提の為に必要なのが、局所性である。ある閉じた「系」が、空間的に遠く離れた別の「系」の影響を受けている可能性を容認するならば、系そのものを閉鎖系(正確には準閉鎖系)と認定出来ず物理法則を定式化出来なくなる。その「系」が知覚出来得る限り独立した一個の「系」であるとの認定をこそ実在と呼ぶのだが、この知覚行為そのものが系に影響を及ぼすとすると、実在概念そのものが覆りこれまた物理法則を定式化出来なくなるのである。そして、この系と系を独立させる為に必要な概念が「近接作用」であり、この系と系を結び付けてしまい現象的な物理概念を壊してしまうのが「遠隔作用」である。
2つの完全に密閉された箱を想像してみる。そこに例えばスプーンとフォークを入れてみる。この2つの箱の内部は外界と完全に遮断されている。空気も光も電子も通らない(これが閉鎖系、局所性)。どちらかにスプーンがあり、どちらかにフォークがある(これが実在性)。この2つの箱の一方を観測する。観測した箱の中身がスプーンであれば、もう一方に入っているのはフォークである(これが因果律)。
量子力学では、この原理が崩れてしまう理論があるのだそうだ。箱の中身はスプーンでありフォークである(実在性の崩壊)。観測の瞬間に光を超える速度でもう片方の実在が決定する(因果律の崩壊)。という事は媒介するもの無しでも相互的に影響し合っている(局所性の崩壊)。となるとつまり遠隔作用(物理公式の崩壊)を認めなければならないような事態がある。という事だそうだ。
素人が随分と乱暴にまとめたが、個人的な現段階ではこんな風にspooky action at a distanceという言葉を上記のいずれか、或いは全てを否定した物理学者の言葉と捉えている。
話は桃に戻る。
舞台芸術や個展、ライブなどを観に行く時。
私は決して何かの「良さ」を享受しようと思わない。誰かの創った「コト」を享受しようと思わない。デートでも食事でもお酒でも、そうは思わない。私がいて、その日その場所でその瞬間に生まれる「コト」があると思うからだ。なんなら観に行かない場合も同様だ。私がそれを想う事で、或いはその場にいない事で、変わる何かがあるはずだから。これを私特有の自己顕示欲の発露だと思われると心外なのだが、「私」の意識がそこに通じているかどうかで作品が変わると思うからこそ、そこにいてそれを見たいと思うのだ。
いつともなく開演する。日常的動作。個人の癖。ランダムにそれらを半開きに歩き回る各人。視線は分散され、「どこを見るか」を委ねられ能動性が生まれる。境界線がぼかされながら、気付いたら世界は変わっている。
何か常人では出来得ない運動行為の技を享受したいと思って劇場に来れば、やはりそれはつまらない光景だったかもしれない。私はダンサーではないが、いつでも踊りたいし、お風呂上がりは大体踊っている。それを人に見せたいとはあまり思わないが、見せたとしたら途端にそれは作品になると思う。私がダンサーだからではない。見た人が私をダンサーにするのだ。ダンサーの卓越した激しい運動を見てすげーと感嘆するのもあるにはあるだろう。だが、私にとっては順番が逆である。見られる事で初めてその運動は「激しい」のであり、「すげー」と名付けられるのである。その順番が分からないのは、宿っていない赤ん坊に男の子か女の子かも分からないのに名前だけ付けて産まれて来ないかなーと椅子にふんぞり返ってセックスもしないカップルと同じに見える。
桃を通じて、私はその事を強く認識した。
導入部の大倉さんの空気を動かしていくような手の動き。表情。これだけの時間を経てもその動きが今も迫ってくる。
四戸さんの機械的でありながらどうしても人間であるような、人工と自然が互いに人間という中心に向かって求心されていくような運動。機械が人間化するのか、人間が機械化するのか。
敬愛する桃澤さんの存在感、超越性、疾走、狂気、母性、動きからでなく存在そのものから発されるようなエネルギー。
定方さんの半分マン。ナイフ。滑稽でありながら全てを繋げるかのような軸としての半分マン。コントロールする側でも流れに揺蕩う背骨無き葉でも無い半分マン。声のようなピアノ。
浮浪者(役?地?)鯨井。
鯨井作品としては初めて見る、はっきりとした男性性、女性性。形而上的に産まれてくる神性。鯨井家を間近で見ていた私としては、その男性観女性観に思わず納得してしまった。これは、仙台公演と東京公演の1番大きな違いだったように思う。仙台公演では、それぞれの個性やキャラクターは未だ薄く、まるでそれぞれが1つの量子であるかの如き印象であった。東京公演では、それぞれの「技」が最大化されてキャラクターが生まれていた。どちらにも良さがあり、私は好きだ。が、前述の通り、能動的に作品に関わる意識で見ていると東京公演ではなかなか入り込む隙がなく、油断するとキャチボールのつもりが千本ノックみたいになって叩きのめされてしまう。こちらにもかなりの覚悟が必要だと思った。マチネでは、私も白黒の衣装に着替えて臨んだ。私が演者だったらそんな自意識過剰なお客さんは嫌だが、キャチボールをするのにグローブをはめない訳にもいかない。結果的にはグローブの意味が無いほど打ちのめされた訳だが。
視線や他者の存在を通して完成される行為とは一体なんだろうか。
と書いて私は今足を組み換えた。この運動が世界に与える影響は果たして……。物質は決して0にならない。形を変えるだけだ。運動から発されるエネルギーも同じはずである。桃は間違いなく私に新しい意識をもたらした。それは、鯨井の前作である灰のオホカミからも、コルヴス作品からも、全く別のあの人のあの作品からも、あの絵画からも、あの映画からも、その蓄積された私の宇宙の中で決して0にならずに存在し続ける。変化し続けながら。
work in progress。絶対に消費されない。そんな思いを込めて時間を置いて言葉にしてみたかったのでした。
2017.8.23
富田 真人