劇場の内と外はいかにして繋がるのか。 | 映画監督・富田真人のブログ

映画監督・富田真人のブログ

舞台
2002年「死ぬる華」
2015年「宇宙ごっこ」
2016年「人でなしの恋」
2017年「#三島由紀夫」
2018年「詩の朗読会」

監督作
2020年「the Body」
2023年「不在という存在」

2020年11月15日。神楽坂セッションハウスにて鯨井謙太郒と定方まこと氏によるユニット「corvus コルヴス」の新作「IRIS」が行われた。この新作は、セッションハウスという神楽坂の劇場が企画する「ダンスブリッジ」「どこでもシアター」として映像生配信、ストリーミング、を基本の公開形態としたコロナ禍における劇場としての新たな可能性を探るような試みの一部として行われた。

光栄な事に撮影、カメラディレクターとして呼んで頂き、「素人監督」としてとりあえずは「普通でない」撮影は出来たのでは無いかと思っている。普通以下か以上かは観た方の判断に委ねるしかないのだが。



成り行きはともかくとして、撮影を終えて数日、意外にもこの体験を「言葉」にしたいと思い立った。

タイトルのIRIS・イリス・アイリスなど読み方は様々だが、ギリシャ神話の虹の女神の事らしい。天と地を繋ぐ虹の女神。シューベルト「死と乙女」の1楽章2楽章をオイリュトミーとダンスで踊る。TOKYOの街の風景の映像や、リルケの詩が挿入されながら約40分弱の作品。

私へのオーダーとしては
・入れ子構造
・ライブ感
・当たり前で無い構図
・手持ちカメラによる熱量
といった感じ。

カメラ割りをザックリだけ作り、眠い目を擦りながら辿り着いた日曜日の神楽坂は人が極端に少ない訳でもなく、まだオープンテラスでも心地良く過ごせる程の秋と冬の間の乾いた空気であった。



この週は金土日と3日連続でそれぞれ別の作品の公開が行われたようで、それは想像するに劇場側の負担は相当の情熱無しには成せない業であり、その相当の負担の最終日に突如謎の異分子が現れて撮影をするというのだから私がスタッフなら舌打ちしか出ない所だが、皆さん快く受け入れて下さり、そのサポートぶりはプロフェッショナルであった。その事にまず何よりも胸を打たれた。裏方サポートの方々も「マドモアゼルシネマ」というセッションハウスのレジデントカンパニーに所属されているダンサーであり、だからこそだと思ったが随所で働く「勘」のような先読み力に相当助けられた。

とにかく、自分達の「場所」である劇場を如何に活かし、殺さないか。コロナ禍において「生」を封じられたパフォーミングアーツの未来を能動的に切り開こうとする情熱に心から感服した。



話はコルヴスに戻る。
ディレクションの窓口として鯨井氏と幾度か電話やメールでやり取りをさせてもらった。40年の付き合いだが、いつに無く鯨井氏は素直に私の意見を受け入れてくれた。図々しい私はカメラの事だけでなく演出にも口を出してしまったが(もちろん撮影という前提があるから)、その殆どを素直に聞き入れて下さり、それは気持ちが悪いほどだった。

作品は大きく分けて2部構成で、死と乙女の第1楽章をオイリュトミーで。第2楽章を途中までダンス、途中からオイリュトミーとダンスに分かれて。その間に野本直輝氏による映像が流れ、合唱団NoemaNoisisの堅田ユイさん、あゆみさんによる声が入る、といった構成。

オイリュトミーは「空間芸術」とも感じていて、平面であるデバイスと視聴者の二次元で二元的な関係性からはどうにも平べったく映り、オイリュトミーの力の10分の1も伝わらない事が課題であった。

理論的には私達は3次元までしか言葉を持たない訳だが、言葉にならずとも多次元を予感したり知覚したりして私達は生きているだろうと思う。作中のリルケの詩では無いが、オイリュトミーは目を閉じていても私には視える。凝視すると聴こえてくる。聴いていると動かされる。というような理屈ではなかなか説明出来ないような体験を齎してくれる事がオイリュトミーにはあると感じている。運動としての人の動きは、それ自体がどんなに美しくとも、観察者と被観察者の二元性をなかなか超えられない。映像は、ただ正確に映された時、どんな踊りもその二元性の中に閉じ込められてしまう。つまり、オイリュトミーの力を映像の中に持ってくるには「映さない」の一択しか私には発想出来なかった。全体が映らないように。手持ちはブレるように。フォーカスは甘く。人の目線にならないように。不自然に。第三者の観察の眼差しが、踊り手と視聴者の間に在るように。
生で観る2人のオイリュトミーは神々しいまでに美しかった。そこからレンズを背ける事は私のように無神経な人間にしか出来なかっただろうと思う。ズバズバと空間が彫刻されていく最中に身を置いて、それに飲まれないようにカメラを揺らし続けるのは、一言で言えば「勿体無い」と感じざるを得なかった。だけど、「生」じゃない所へ「.生」を越えて届けるにはそれしか私には術が無かった。どんなに勿体無くても、歯を食いしばって「映さない」に徹するしか。


一方、2部のダンスはガラリと空気が変わり、定方氏のこの世のものとは思えぬ動きや、鯨井氏のカッコ良すぎて笑ってしまうようなシーンなど、心を掴まれるシーンが目まぐるしく展開した。カメラの方は相変わらずあまり正確に映さない事を基本としながらも、瞬間瞬間の照明や踊り手の位置関係や曲調に反応しながら直感的に回した。「もっとこうすべきだった」はいくらでも見つけられるのだが、「これしか無かった」と心地良く諦められるような時間だった。


「越境」が1つのテーマでもあると聞いていて、「オイリュトミー」と「ダンス」がどんな風に結ばれるのかもこの作品の見所だろうと思うが、ここは映像では「これ」という答えを見出せなかったと思っている。2人にとっても今後のテーマとして長く付き合っていくのだろうと勝手に思ってもいる。


随分と長くなってしまったが、ようやく書きたい本題に入る。


この作品における、劇場、スタッフ、コルヴスの2人、彼らの彼女らの、踊りへの、表現への、社会への挑戦や情熱はどこに届けられるモノなのか。私は半ば外側から関わり、その情熱に心を打たれた。

これを読んでくださっているアナタはどうだろうか。

多くの現代人は「忙しい」と「面倒臭い」に支配されていると感じる。20年前とは比較にならない程効率化され、高度に合理化された社会は溢れかえる「好きな事」「気持ちの良い事」に押し潰されて我々から時間と自由な好奇心を奪っている。
自粛期間を何不自由無く過ごせるように、映画は枕元へ届けられ、笑いは自分のツボに合うものを選択しリビングへ届けられ、食事すら玄関の前に届けられる。これらを一度でも味わえば、嫌なキャラメルポップコーンの匂いを嗅ぎながら尿意を我慢して大勢の他人と映像を観ることは「面倒臭い」と感じるだろうし、感じの悪い店員に苛々しながら、隣のアホカップルの痴話喧嘩を聞きながら食事をするのも「面倒」である。
忙しくて面倒臭い私達は、「なんなのかよく分からないけど小難しい事言って自分に酔ってる感じの自己満足ゲイジュツ」なんかに割く時間は1分も無いだろう。だって自分に合うものは自分がもう選択してアクセスしてるのだし、Amazonも Googleも自分に合いそうなものを次々と紹介してくれるし、これまでアニメは見た事無かったけど鬼滅の刃には激ハマりして劇場版見に行って世界は広がるのだし。


スペインの哲学者オルテガはその名著「大衆の反逆」の中で、「文化とは共生への意思である」と書いた。異なる価値観、異なる指向性の尊厳をどれ程尊重出来るかが人間の文化度である。
「売れているもの」は確かに「失敗しない買い物」の1つの信頼度の指標になるだろう。しかし、あなたが文化的であろうと思うなら買い物の物差しを一度置いて、あなた自身の未知の領域へ時間という命を捧げるところから始めなければならないだろう。それは、インターネットサービスにおけるAIの薦めるマーケティングに乗っかる事でも、テレビの番組欄から面白そうなものを録画して休みの日に見る事でもない。あなたの無関心が誰かの情熱とすれ違った時、惜しみなく振り返る事である。惜しみなく眼差しを向け、その情熱の温度を浴び、感じ、呼応し、可能ならば手を取り、抱き締める事があなたを文化的にするだろう。

「なんだかよく分からないもの」への好奇心は絶対に絶対に奪われてはならない。よく分かるものに囲まれただけの人生は貧しい。よく分からないものを能動的に掴もうとする事だけが私達を豊かにすると確信している。

「小難しい話」を切り捨てる事は知性の放棄であり、ビジネスがどんなに得意だろうが知性を放棄した生き方は貧しい。答えを予め持たずに問いに向き合っているか。そうでないなら、この世界はあなたの小さな脳より更に小さい矮小なものでしかなく、生きるに値しない虚無だろう。何かを小難しいと感じた時、理解出来ない自分を責めるよりも、小難しい話をしている目の前の人をマウンティングしてくる人だと決め付けていないだろうか。勝った負けた知ってる知ってないはハナクソ程の問題だ。理解に向けて問い続ける事だけが私達を豊かにすると確信している。

「ゲイジュツは自己満足」だとしか感じられない感受性ならば、その世界は貧しい。分からない→伝える能力が低い→作品として質が低い→不親切→自己満足。それは牛丼屋にしか行った事の無い人がその物差しでロマネコンティを断罪するようなものだ。牛丼には牛丼の価値が有り、赤ワインには赤ワインの価値基準が有る。ロマネコンティの真髄を味わうなら、それなりの経験値が必要だろうし、初めて飲み味わうチャンスがあるのなら、せめて牛丼の物差しは捨てるべきだ。別にクリエイティブなものがロマネコンティである必要は無い。逆の例えの方が良かったか。牛丼を食べるのに器を時計回りに揺らして牛肉を酸化させてトップノーズから産地を思い、口の中でトゥルルルと空気を含ませてテロワールを感じても仕方がない。ましてやこの牛丼は樽香もしないしタンニンも控えめで350円に値しないなどと口走るのは言語道断だ。詩やダンスや絵を資本主義的な物差しで測るのは上記の如く狂気の沙汰だ。何かを見て親切さが足りないと思えば思っただけ、自身のアンテナを磨く方向に舵を切らなければ文化の船はお金の海に沈没するだろう。

確かに自己満足、自己陶酔の表現行為を私は何度も見た事がある。自分自身もその罠に陥る危うさを幾度となく経験している。だからこそ、そうで無いものが、それを理由に社会から排除される事がこの上なく悲しい。それを断罪し、私達の時間から追い出す自由も当然あるだろう。ただ、それを断罪する根拠が「分かりやすさ」という「サービス精神」の欠如によるものではあって欲しくない。自己満足、自己陶酔から逃れる為に表現者は「技術」を研鑽し、「情熱」を欲望から切り離し純化させ、「観客」に頭を下げて大赤字の公演を打つのだ。それは単に「社会にこれが必要である」と頑なに信じる故なのだ。「生きていたいと思える世界」の実現の為にそれしか手立ての無い者たちが、必死に叫ぶ声なのだ。

決して高い所から盲目の大衆へ手を差し伸べようと表現行為をしている訳ではないだろう。けれど、勝った負けたのマウンティングゴリラの世界で「分からなさ」の宿命を背負った「ゲイジュツ」は「分からない=負けた」と思ってしまう多くの人々から憎まれている。


劇場の中で、踊る2人をレンズ越しに見て、懸命に場所を守ろうと動き続ける人々を見て、この声なき声は、劇場の外を行き交う、忙しく面倒臭い私達に届いているのか。いや、届いて欲しいと強く思った。劇場の内側で木霊のように止まるのでなく、それは外側にいる私達の耳にこそ届くべき声である。

是非日々の忙しい生活の中、立ち止まり耳を傾けて欲しい。その時間が、どんなに無駄であったとしても、あなたを真に豊かにする事を私は約束します。
2020.11.19 富田真人