映画「the Body」の定冠詞theは何故小文字で始まるのか。 | 映画監督・富田真人のブログ

映画監督・富田真人のブログ

舞台
2002年「死ぬる華」
2015年「宇宙ごっこ」
2016年「人でなしの恋」
2017年「#三島由紀夫」
2018年「詩の朗読会」

監督作
2020年「the Body」
2023年「不在という存在」

目に見えないモノに支配された年である。
2020年。記録的なパンデミックの中、私の処女監督映画「the Body」は一応の完成をみた。





幼少期より、映画の作り手になる事を夢見てきた。夢見てはいたが、現実的に出来る事は限られていた。専門の学校へ行く事や、下積みをしながら現場を学ぶ事も、生活という言い訳の元、私には勇気の持てぬアクションであった。一眼レフカメラで遊ぶ他、沢山の映画を観る事、舞台をつくること、生業であるバーのカウンターで人間を学ぶ事、その全てが映画をつくる修練である、と嘯くのが精一杯の39年であった。

別に卑下している訳ではない。これで良かった、これしか無かった、と自分では得心している。

そんな私が曲がりなりにも一本の映画を制作出来たのは、月並みだが周囲の人々のお力添え、出会いという奇跡、そしてテクノロジーの進化のおかげである。
私の恥知らずな性質や、部分的に怖いもの知らずな性格が背中を押して、幾重にも重なった奇跡が映画を撮らせてくれたと心底思う。周囲のどの方々にも伝えても伝えきれない程の感謝で一杯だ。





自分自身を評価する際、私という人間は「惜しい人間」であると考えてきた。あと一歩何か突き抜けない、バランスを取ってしまう、惜しい感じのする人。それは長い間コンプレックスであったし、どう解消すべきものなのかも分からない課題であった。いや、現在もそうである。しかし、漠然と根拠無く傲慢な青春を通り抜け、いつしか身に馴染んだ「惜しさ」は「未完成」という美しい言葉に正当化され、腑に落ちるに到った。今風に言うなら「with 惜しさ」である。


自分語りが長くなった。
ともかく、映画をディレクションする事は「自分らしさ」みたいな部分をいかに排除し普遍化出来るかどうかが「寒さ」の有無に関わる重大な使命であると思っていた。
語りたいのは自身ではなく、世界なのだから。


しかし結果として、自分の映画をスクリーンで観た感想は「私らしい」というものだった。


どの演者も、それぞれのキャラクターを、それぞれの歴史の中で、台本も無く、それでも私の想像を遥かに上回る力で語り、演じ、祈り、踊ってくれた。そして私は全ての撮影を終えた後、台本を書き上げた。その意味でも、私が演者に役を与えたのでは無く、彼ら彼女らから役を与えてもらったと思う。これは本当にそう思っている。


それでもこの映画は「私らし」かった。


この映画の断片化された私のイメージ群に背骨を与えて形象化して下さったのは、詩人・広瀬大志さんの詩<肉体の悪魔>から引用させて頂いた、「死んでるのか?」「それ以上よ」の2行である。この言葉が律動として秩序を産み、膨張するカオスを1つの貫かれた形象として観客に提示する事が出来た。これは、「言葉」にしか為せなかった業だと思うし、「詩」でしか納得の出来なかった形だと思う。名も無き私の作品に快く大切な作品の引用を許して下さった広瀬さんの懐の深さには尊敬と深い感謝しかない。






それでも、それなのに、この映画は「私らし」かったのだ。





広く、青い海を見る時、私たちは何を思うだろうか。

遠く未だ見ぬ外国を思うだろうか。
2011.3.11を思うだろうか。
忘れ難い恋を、不安な将来を、絶え間なく押し寄せる支払いの波を。
あなたなら、一体、何を思うだろうか。

驚くべき事に、海はただ海である。
何かを表している訳ではない。
感情的な事だけでなく、色も、匂いも、何を知覚し、何を想起し、どんな作用を及ぼすのかは私たちの勝手な認識と活動だ。正解や不正解は無い。物理学的なアプローチも、心理学的なアプローチも、海が海であり、それを見た者が何を知覚するのか、という広大な自由にはコミット出来ないだろう。




映画をつくる、とは何であるか。
映画、とは何であるか。

私は「海」をつくる事をイメージしていた。
映画、とは「見られるもの」なのだと。

上映して2週間。
今私は朧げに考えている。
私は海に見られているのではないだろうか。
私がつくった映画は、私にとっては、私を映す鏡のようである。


私、私、私。
私、とは何であるか。
私は私を何故私だと認識出来るのだろう。

部屋の鏡にはただ「惜しい人間」が映っている。
映画にはただ「未完成」が映っている。


2020.10.25  富田真人


追記
2019年から2020年。
この映画をつくるに当たりとりわけ影響を受けた本と映画をご紹介したい。

・広瀬大志詩集 現代詩文庫 思潮社
・フィラメント 小川三郎 港の人
・なぜ世界は存在しないのか
・「私」は脳ではない
      マルクス・ガブリエル 講談社選書メチエ
・ゲーテ的世界観の認識論要綱 ルドルフ・シュタイナー  浅田豊訳 筑摩書房
・フレームの外へ 赤坂太輔 森話社
・眼がスクリーンになるとき 福尾匠 フィルムアート社


・儀式 大島渚 1971年
・哭村 ナ・ホンジン 2017年
・うる星やつら2ビューティフルドリーマー 
     押井守 1984年
・ザ・グランドマザー デビッド・リンチ 1970年
・ゴッドファーザーpart.Ⅱ 
 フランシス・ フォード・コッポラ1974年
・マザー! ダーレン・アロノフスキー2017年

他多数あるが書ききれない。
本当をいえば人生の中で見聞きした全ての本や映画や音楽が今日の私をつくっている訳で、むしろそちらの影響が大きいとは思うが、制作中に摂取したものから敢えて抽出してみた。

映画をつくる前より、何倍も映画を好きになった事はここに記しておきたい。

拙映画への主に無形な影響ではあるが、ご興味のある方はどれもオススメなので是非ご鑑賞頂きたい。