阿吽山水 | 映画監督・富田真人のブログ

映画監督・富田真人のブログ

舞台
2002年「死ぬる華」
2015年「宇宙ごっこ」
2016年「人でなしの恋」
2017年「#三島由紀夫」
2018年「詩の朗読会」

監督作
2020年「the Body」
2023年「不在という存在」

2018年11月9日から11日までの間、シアター バビロンの流れのほとりにて、鯨井謙太郒×奥山ばらば×藤田陽介×TOJU による「阿吽山水」が行われた。

鯨井とは、所謂幼馴染であり、記憶こそ鮮明でないが幼少期を共に過ごしたり、青春時代には彼の悪業に無理矢理巻き込まれたり(これは鮮明)、かと思えば共に詩を書き、哲学的な議論を重ねたり、2014年から2015年にかけては「宇宙ごっこ」という作品を共につくり、劇場公演をしたりもした。という間柄であるからなのか、彼の創作活動に関しては基本的には、観るか観ないかの選択をしない。物理的に不可能な場合を除いては、必ず立ち合う。無意味な言だが、立ち合いたいのでは無い。wantでもmustでもなく、そこに行く事が自動的に決定している。冷静に考えると不思議な事だが、そうなのだから仕方ない。そしてこれも不要な言だが、その事に疑問を持たせるようなものを彼は創らない。

阿吽山水の空間美術は、TOJUさんという方が担った。TOJUさんとは鯨井の父親であり、私も幼き頃より大変よく知っており、男性ヒエラルキーの極端に低い鯨井家の中で、私のやすらぎのヨスガのような人である。鯨井の他作品でも幾度か美術を提供なさっているが、今回の阿吽山水が私には初めてのTOJUさんの登場のような気がした。恐らく、はっきりとTOJUさんのプレゼンスが中心となって構成された作品だったからかもしれない。ともかく、TOJUさんの関わりが、普段発生しないwantを私に齎した事は間違いない。


もう少し鯨井の悪口を書きたい。
男の子の名前に願いを込めてつけると真逆の効果を生む、という話を彼の母がため息混じりに嘆いていたのを覚えているが、彼の名前は謙虚の謙から始まる。言い伝え通り、彼から謙虚さを感じた事は長い付き合いの中で一度も無い。
青春時代、当時まだ残存していた「ヤンキー」だった彼は、私のような中途半端な不良ではなく、突き抜けた暴れん坊であった。松本大洋が、「ヤンキーはすぐに写真を撮る。未来の自分がヤンチャだったあの頃を他者に見せるために」というような事を書いていたが、ヤンキーの9割はこの視点から自らの像を作り上げていたと思う。私もその類。鯨井氏も多少はその部分もあったかもしれないが、基本的に彼は「ホンモノ」であった。「純粋」と言い換えても良いか。それは他の不良達とは違い、何か分からないが「ホンモノ」しか愛さない彼の純粋な衝動のように思い出される。悪であるかどうかはどうでも良い事で、とにかく「上へ」行きたい。本物に触れたい。時に相対的に、しかし本質的には絶対的な純粋性へ、彼の荒御魂が行き場のない夜の帳へ盗んだバイクを走らせていた。

奥山ばらばさん、藤田陽介さん、というお二人と組むと聞いて、あの頃感じていた若き日の鯨井氏の「もっと」という衝動を想起した。私は東京のアートシーンの中でその2人がどのような存在なのかはっきりと掴めないが、鯨井氏の「もっと」に応えて余りある存在なのだろう事を直感した。奥山ばらばさんの公演は、昨年セッションハウスで行われたBUTOUプロジェクトの中で拝見した。衝撃的な身体で、1年経った今でも鮮やかに蘇る。
藤田陽介さんの音楽は未体験であったで鯨井氏の毒と劔という作品に対して、ツイッター上で興味深いリプライを書いていらして、只者では無いという印象と共にずっと頭に入っていた。
ともかくその2人と、TOJUさんである。
wantから強いmustに変わったのも頷ける。


会場は、王子にあった。
古い商店街や、団地、アパートやマンションが隙間なく立ち並び、大地が「重たいよ!」と叫んでいるような都市空間であった。途中、詩人城戸朱理さん、桂子さんと運良くお会い出来て、会場までご一緒した。会場前では90年代かのように喫煙者が多く、私も安心して煙草を吸った。東京の路上で喫煙するなど、それだけで異空間だ。
鯨井氏のパートナー、泉さんの優しい笑顔に迎えられ会場入り。運良く真ん中の真ん中に座れた。
逆光の客電が会場の全体像をまるで把握させない。特に左右の広がりが全く掴めずどこからどこまでがどうなっているのか分からない。真ん中にTOJU氏の空間儀という馴染みのある造形が鎮座している事だけは分かった。これは、鯨井氏の幻のデビュー(?)である、仙台時代TOJU氏の個展内で行った自作詩の詩集発表に伴う朗読会にもあったものだと本人が言っていた(私も出演したが記憶に無い)。開演までの間約20年前のその日の事を思い出していた。だから起きた幻聴なのかもしれない。客電が落ちると異様な大きさの白い塊が暗転を切り裂いている。そしてあの日の始まりで使った、グラスの縁を指でなぞると出るキーンという音(カッコよく説明出来ず)が聞こえてきた。もしかしたらそれでなかったかもしれない。だが、私にはその日の記憶と共に、グラスをなぞる音が聞こえてきたのだった。
間も無く白い塊は奥山氏である事が判明した。
黒い衣装の鯨井氏との対比も必要無いほど、輪郭のはっきりとした、完全に外界と遮断された、人間とは形である事を感じるような身体であった。
一方で鯨井氏は、空間に溶け込むような、揺蕩うような身体を感じた。そのコントラストが、収縮と拡散、水平と垂直、呼気と吸気のように、対立し、対決し、しかしあくまで一個として見える。
途中、「運動」としての動きを鯨井氏が奥山氏に挑んでいるように見えた部分があった。前半部分である。ユニゾンでは不思議と感じない2人の身体性の違いが、「運動」的に対決し始めると奥山氏に吸収されていくような気がしていた。前述のような、対極のベクトルにお互いがハッキリと向かっていく事で一つになるのではないか、そんな懸念が頭を擡げた時、救いの手のように藤田氏の音楽にリズムが宿り始めた。リズムは熱を産んで、2人の身体が明らかに変化した。音を動いている、のではない。音に動かされている。音やリズムが、彼らの骨や臓器や筋肉に直接アクセスしている、と感じた。藤田氏の身体がそこにあるかのように舞台空間が変容した。やがて、音が会場中に充満していくと、その中に存在するどの存在も、踊り手も観客も、白い粉の一粒一粒も、孤独でなくなっていくような、そんな気持ちがした。

TOJU氏の空間儀は、最後にご本人が仰っていたように(この言葉が啓示のように私には強く響いた)、「何も表現せず」にそこに在り続けていた。光によって呼吸しながら。何も表現しない、というのは本当に重要な言葉だ。作り手の意図を正確に汲み取ろう、汲み取る事こそその作品の本質を享受する唯一の道である、といった態度は結局何も産まない。例え何かを表現している作品であったとしても、結局私たちは「それ自体全体の中の何か」を感受する事しか出来ないからだ。「作り手の意図」「作り手の背景」「歴史的観点」「時代性」「脳科学的に」「エンターテイメントとして」「鯨井の幼馴染として」そのどの観点からも作品そのものの全体性は感受出来ない。仮に考え得る全ての観点から作品を知覚出来る人間がいたとしても、それは叶わない。何故なら、鑑賞者全ての、いやもっと言えばその場には居合わせないが作品から影響を受ける全ての人間の真実を知る事は出来ないからだ。これは、哲学者マルクス・ガブリエルの著書「世界は何故存在しないのか」によって描かれた認識論に通じるが、「作品」という全体の実在は無い。作り手自身にとってみても、予想し得ない奇跡の連続のような本番の化学反応の中で、ましてや鑑賞者の内実の中で起きるコト、時間の中で生成されるそれぞれの波紋に至るまでその意識下に置く事は不可能である。つまり、作り手自身も作品の全体性などというものは把握出来ないのである。これは、私にとって良い作品であればあるほどにそうである。多面性が、360度に近付けば近付くほど鑑賞者に自由を与える。この事をTOJU氏の「これ(空間儀)自体は何も表現しない」という言葉と共鳴して聞こえてきたのだった。

TOJU氏からその昔、山水についてお話しを伺った事があった。一つであったものが二つに分かたれて、また一つになる。そのメタモルフォーゼが一つの画の中に描かれている、と。

阿吽とは、究極の「二」である。
発声でいうなら、無限の拡散と永遠の収束だ。
山水のメタモルフォーゼの中で「二」が「一」へと成り得る予感を公演のクライマックスで予感した。それは「三」であるだろうが、しかし新しい「一」に違いない。



岡崎京子の「リバーズエッジ」という作品の中にこんな台詞がある。
「あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた
   何かを言わないですますために
   えんえんと放課後 お喋りをしていたのだ」


本公演では、「言葉」は皆無であった。
ダンス公演とはそもそもそういうものなのかもしれないが、鯨井氏にとっては新しい挑戦だったように思う。しかし公演の終盤まで私はその事に気が付かなかった。それほどに2人の身体は雄弁であった。「言葉」を可視化する、その事がオイリュトミーの一つの側面であるとすれば、言葉を脱ぎ去る事が鯨井氏にとっては新しい身体との出会いであったはずである。当然そこに至るまでに彼が泳いできた言葉の海は想像も出来ないほどに豊かであったのであろう。それ故に、言葉を用いず、且つあれほどまでに雄弁に語りかける作品を作ろうと考えた事が、私には38歳にして彼が立ったスタートラインであると思う。

ヤンキーの頃から彼はいつもスタートラインでクラウチングスタートの姿勢を崩さない人だった。上へ上へ、もっともっと、純粋さを、本物を、本当を。
今作品も彼の集大成などでは決してない。彼が新たに見出したゼロポイントである。
奇跡のように同時代に存在した4つの眩いような創造性が作り出した見事な阿吽山水だった。

2018.11.12 富田真人