昨年11月に#三島由紀夫という舞台を行ったのだが、その際に最後のシーンで読んだ「イカロス」という三島由紀夫の書いた詩に啓示を受けた気持ちがしていて、次は詩を読もう、と決めていた。
「詩」との付き合いは、幼少期を除けば、恐らく中学生の頃。尾崎豊やブルーハーツなどの歌詞との出会いが思い出される。恐らく、現代における詩との出会いとは歌詞との出会いなのではないか、などとも思うが私もそうであった。今で言う中二病というやつなのか、私も大人達への反抗や自由への憧れをノートに綴り、同じ病にかかった人々と見せ合ったりしていた記憶がある。もう少し時が進むと、バンドを組んだりしてオリジナル楽曲の歌詞を書いたりもした。この辺りのものは現存していて、命を懸けて門外不出だが、捨てる事も出来ず、たまに見ては腹を抱えて笑っている。この頃から、歌詞により着目する中で、詩そのものへの関心も芽生えたように思う。或いは1つの教養の証として、あれを読んだこれを読んだという実績を欲すかのように様々な詩を読んだ。それが10代の後半だったように思う。当時は流行歌の中でも所謂「良い事言う系」の歌詞が人気で、書店の詩コーナーで幅を利かせているのもその類だった。自分でも散々寒々しい詩を綴っていながら、それらの美しい言葉で語られる良い事に詩の魅力を感じられなかった記憶がある。詩が恥ずかしい中二病の延長であってはならず、そういう自分とすっかり切り離された「イケてる」ものであって欲しかったのかもしれない。もっと言えば、頼りない自分の感受性では掴みきれない、「分からない世界」を期待していて、「分かる分かる」と頷けるような言葉にはなんの魅力も感じなかった。
自分で言う事ではないかもしれないが、私は言語を用いたアウトプットが非常に得意な若者であった。言葉巧みに周りの友人や大人達を誤魔化しながら自分の座りたい椅子に座るようなタイプ。クラスの中のヒエラルキーや付き合う友人の選別など過敏に意識しながら、ずる賢く「こう見られたい自分」を演出していたように思う。そしてそれは、言葉という武器を持ってすると意外に容易い事であった。
そのような嫌なガキだった私にとって、「言葉」の底を見る事は人生への絶望であったのかもしれない。言葉を用いて「分かっていない」人や社会に「分からせる」ような何かは私にはありふれていた。言葉という共通理解の為の最強ツールを使って、なお私に「分からなさ」をもたらしてくれるもの。その分からなさが、言葉の深淵を覗かせ、虚無から私を救い出してくれるような気がしていた。
2002年に、「usubakagerou」という詩集をつくった。目まぐるしく変化していく青春から大人への自分自身の人生と共に溢れ出た、言葉そのものへの挑戦だったようにも思う。淵の見えない程の言葉という意識の海を、100%の信頼を持って浮かんでいた青い時代だからこそ作れた作品と思う。
それ以降、ライブパフォーマンス的な、所謂発声や身体表現としての言葉との関わりに向かい、詩を書く事も少なくなっていた。
2015年、ダンサー鯨井謙太郎と「宇宙ごっこ」を公演した際、縁あって詩人の一方井亜稀さんと制作をご一緒した。一方井さんの第2詩集、「白日窓」を頂き読ませて頂いた。同世代、同じ時代に、こんな風に言葉を使う人がいる、という事実にとても感動したのを記憶している。
2016年には彼女が主宰する仙台ポエトリーフェスにも出演させて頂き、多くの詩人と出会い、様々な刺激を受けた。
一市民としての社会生活の中で、詩、或いは詩的な感受性、は全く不要である、と思われてはいないか。
この不安は、ファンタージエンに拡がる虚無のように、私の中で大きくなっていった。
詩は、今もどこかで書かれている。
人間が殺されて、また産声をあげるているように。戦争が起こり、飢餓があり、住処が奪われ、家族の行方も分からない人が在るように。宝くじが当たって、突然6億円を手にする人がいるように。生活の為に満員電車であらゆる感覚を遮断しながら生きる事を強いられている人が在るように。
詩は、今もどこかで書かれている。
その事が、世界にとって何であるのか。
それらが書かれる力は、世界にとって何であるのか。それらが読まれる力は、世界にとって何であるのか。
ファンタージエンを覆おうとする虚無を、私は甘んじて受け入れる気は無い。その事を示す、一条の光となるよう、詩に魂を捧げて読もうと思う。