2017.11.25 朗読劇と冠した公演「#三島由紀夫」が無事幕を下ろした。
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前半は舞台を白布で覆い、それはある結界であり、境界であった訳だが、やがて解かれ、逆転し、統一され、最後には何も無くなる。だから、幕が上がった、という方がしっくり来るかもしれない。終演して2週間。確かに幕が上がった先を生きているような気がしている。
2014年以降、私は自分を「朗唱家」と名付けている。「朗読」よりも音声としての響きを意識した読み手である事が伝わるかと思ったからだ。しかし、これが中々しっくりこない。何故なら舞台上で私は踊りもするからだ。では、ダンサーか。これもどうやら恥ずかしさがある。技巧的に訓練を受けていないからだ。そして私は書きもする。では、詩人か。作家か。さて。
どれでも無いしどれでも在るというのが正直な気持ちだが、しかし何か名付けなければならないようだ。
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作品の感想の中で、本作に限らず、もっと説明が欲しい、といった意見を頂戴する事がある。意味が分からなかった。分かる人が見れば楽しめるのだろうけど。素人には難しかった。等々。この手の感想は、割合としてはとても多い。そして、それは嬉しい感想だ。分からない、という事が伝わっているから。そして、分かりたい、という意志が発生しているから。
何か伝えたいメッセージがあって、舞台活動をしていると思い込んでいる人も多い。だから、そのメッセージを受信できなかったから、もっと分かりやすく発信してくれという事なのだと思う。しかし、私には特に伝えたい具体的なメッセージは殆ど無いと言って良いと思う。せめて在るとするなら、「問い」だろうか。いやそれも源に過ぎない。つまり、こちら側には何も無いのだ。私は何も持たずに舞台に立っている。どんなに精緻に台本を書き、構成し、演出していたとしても、本番直前の暗闇の中、開始のアナウンスを聞きながら、私はいつも同じ事を思っている。「これから何が始まるのだろう」と。
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未だ言葉になっていないコトやモノに対して、名前を付けることこそ芸術である、とミヒャエル・エンデは言った。しかし、私はその時代は終わったと思っている。言葉に多義性が生まれると文学は死ぬ、と三島由紀夫は言った。ならば、文学はとっくに死んでいる。記号化された言葉は人間の内面にまで及び、言葉の真は個人の解釈と心象の内にしか無く、言葉そのものはある形としての記号の役割を担わされているように見える。名付ける事も世界には無く、言葉の真を世界に見ることも叶わぬ時代に、今、私の仕事は何か。
私は、詩人の役割がこれからの時代に大きな力となる事を信じている。翼が熔けるほどのロゴスと、抗えない墜落のエロスとの相反の人生を、三島由紀夫はイカロスという「詩」に託したと私は考えている。文学と散文の「誰そ彼」の領域でも描き切れなかった世界を、三島由紀夫は詩に託した。涙が出るほどのクエスチョンマークと共に。
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私が願う「詩」の力とは、エンデのそれと逆説的に、未だ言葉になっていないコトやモノを新たに産み出す力(つまり、分からない、を産み出す力)であり、その決して暴かれない嘘である。この力こそ、今、言葉にもたらされた新しい役割では無いだろうか。言葉が、決して自らを説明するものであってはならず、芸術が、決して自らを名乗ってはならず、身体が、決して自らを語ってはならない。
それら全て、ある主体が意識の中に読み取ろうとする、眼差しという、傾聴という、あらゆる感覚による「認識という行為」によってのみ開示され得るその秘密こそ、私には眩い太陽に向かう、人間が新しく手にした仮面という武器に思えるのだ。
2017.12.12
富田真人