舞踏計画 剥製の光へ vol.1「UBUSUNA異聞」と題された公演が2025年1月17日にエルパーク仙台にて行われた。そして関連企画として「からだの原風景」という土方巽の「疱瘡譚」という貴重な映像上映、そして慶應義塾大学アート・センター所蔵の土方巽の舞踏資料と仙台を拠点に活動した画家TOJUの作品展示、会期中連日異なるゲストを招いてトークとパフォーマンスが大町「TERNAROUND」にて公演翌週より行われた。
公演の構成・振付・演出は旧友鯨井謙太郒、出演は金森裕寿、定方まこと、野口泉が名を連ね、ヨーロッパ公演からの凱旋公演でもありツアー最終地点の東京テルプシコールへと続く公演でもあった。公演翌週からの関連企画「からだの原風景」も連日多彩なゲストが招かれていてどういう訳か私も朗読と即興詩を鯨井のダンスと共にパフォーマンスさせて頂いた。
ここまで書いて改めて思う。なんという情報量の多さだ...幕の内弁当なら白飯が3合は必要になる豪華なおかずである。
「舞踏」「剥製の光へ」「うぶすな」「土方巽」「TOJU」「疱瘡譚」...
このどのワードにもはじめましての方が居たはずで、いや聞き齧った者にとってもどこにフォーカスして理解を試みればよいのか途方に暮れるような、どこかに引っかかってくれれば良いという底引き網漁的マーケティングなのか、あえての詰み込み式アリスインワンダーランド戦法なのか分からないが、私の映画に「引き算をせよ」と命じてくる鯨井の割には、観ようと思う私たちを溺死させるような情報の多さと重量であった。
一方で、作品自体は私にとっては非常にダイレクトにノンバーバルで伝わってくるものだった。
非言語的であるか否かは作品側というよりむしろ受け取り手の問題である気がしている。台詞を用いないダンス作品でも、こちらが言語的に掴みにいってしまうものもあるように思う。それは身体が何かを「説明」しているという受け取りとも言えてしまうので、私はあまり好まない。
自明の事であるが、私たちは言語=意識と錯覚するほど言葉に埋め尽くされて世界を認識している。それは感覚においては「視覚」と強く結びついているように思う。
待ち合わせ場所に立ち、人や車の往来の直中に居る時、非言語的に非視覚的に状況を認識する事は困難である。しかし、視界の奥から見たことのない動きで表情をぐちゃぐちゃに歪ませ四つ足だったり奇妙にぴょんぴょん跳ねてみたり床に寝転がって地面と繋がってみたりしながらこちらへ向かってくる人間がいたならどうだろうか。いかなる言語的理解も追い付かず、視覚と言語の結合は断ち切られる。それは「驚き」という真の意識体験だ。
私が鯨井作品を好きなのは、「言語を用いて言語を断つ」「視覚を通じて視覚を断つ」という体験が出来る所にもある。
本作でもその体験を大いに享受した。
「割と激しめの始まり方だな」「定さん神様みたいだな」「照明めちゃくちゃカッコいいな」など視覚を通じて様々な言語活動が止めどなく走り回る。
しかしある地点ある瞬間に、私は目を見開きながら「見ていない」時間があったように思う。静かな驚きを通じてアクセス出来る「自分自身」への通路をこの作品が与えてくれたように感じている。
伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人は世界をどう見ているのか」に3次元世界を真に3次元的に知覚出来るのは目の見えない人だけである、といった主旨のことが書いてあった。視覚とはどこまでいっても実は2次元認識でしかない。どんな現実世界も1枚の絵として見えている。それを記憶や言葉、或いは多感覚で補完することで3次元として理解しているに過ぎない。つまり視覚とは3次元認知にとっては「邪魔」であるとも言えるのだ。これは目を瞑ればすぐに感受出来る事である。
目を見開いて目の前でライトを浴びる他者の姿を消す事を「想像力」と呼ぶなら、その「力」は観る者と観られる者のどちらに宿るのだろうか。月並みだが作品と観客の協働なのだろうと思っている。その想像力の扉は把手と鍵が内と外にバラバラに付いている。作品が鍵を開け、私が把手を開けたのだ。
野口泉さんの重力を中心に成り立つシーンが多かった。重力とは、自然界における4つの力のうち最も微弱であるのだがその理由は他次元を横断して漏れ出しているからだという説を聞いたことがあるが、正に次元の不可視の奥行へと繋がる魔境のように、大地にぽっかりと開く虚無への入り口のように、「存在そのもの」が剥き出しで転がっていた。
金森裕寿さんを観るのは初めてであったが、熱感のある見る者を捉えて離さない力を持つダンサーだと感じた。出演者全体の中でも不思議と違和感なく溶け込んでいるように見えて、ある種の安心感と共に目を奪われた。
定方まことさんはやはり霊性の人だと改めて感じた。滑稽な動きであっても、「秘められたもの」を常に携えているように見えて、ナチュラルに「見る見られる」を超越する稀有な存在感であった。前述の想像力の鍵を開けてくれるのはこの霊性の力かもしれない。
作品全体を構成し振付し主催し踊る鯨井には改めて深い尊敬を感じている。話が少し飛ぶが、関連企画のからだの原風景において彼と共にパフォーマンスをしたのだが、その冒頭で私が中途半端にしか話せなかったことをここに改めて書きたい。
内と外の話である。
内と外というフレームは恐らく宗教起源の時代から言葉は違えど語り続けられてきた命題であろうと思う。
生きる事を内と呼び死ぬ事を外と呼ぶとして、私たちは内に居ながらにして外を獲得出来るのか、という命題である。林檎の芯が赤い表面を、でも良いし私が他者を、でも良いし、気体が液体を、でも良い。
その答えは宗教でも文学でも哲学でも科学でも辿り着けていない。踊りでも、である。
天動説から地動説への議論は200年以上論じられ、現代ではほぼ論じられる事は無い。それは人間存在がその命題を獲得した、もっと言うならば身体化した、と言えるのかもしれない。そのように、私たちが生の内にいて死を獲得するという命題の答えは、誰か1人の身体の中に死が獲得された瞬間に終止符の打たれるものなのかもしれない。
鯨井は常に何かのプロセスの中にいて、人類が未だ到達する事の出来ていない何かに対して手を伸ばしている。その意味で彼の作る作品「だけ」は徹底して利他的である。反動で彼個人の人間性は徹底して利己的である事ははっきりと書いておきたいが、彼の作品から私がいつも受け取るのはサクリファイスと救済、そして最もミクロな身体細胞の変容が世界を変えると信じる力だ。
今日がツアー最終地点の中野テルプシコールの初日である。このツアーの行われる前と後で、世界がどのように変わっているのか。それも歴史という大いなるX軸と次元という不可視のY軸の中では1塵のプロセスに過ぎないのだとしても。
2025.2.28 富田真人