第1回 光の国を求めて | お試しブログ

第1回 光の国を求めて

5世紀の応神朝ころ、
秦 (はた) 氏と漢 (あや) 氏が日本にやって来ました。

秦氏と漢氏は、政治や祭祀 (経済) に関わる渡来人で、1度に1方向から来たのではなく中国大陸や朝鮮半島での 政変 / 戦乱時 を主に、時間差でやって来たと云われています。

よく云われるのは、
東漢 (やまとのあや) 氏は 大和 国に、西文 (かわちのふみ) 氏は 河内 国に、秦 (はた) 氏は 山の後ろ → 山背 (やましろ / 山城) 国に多く住んでいたと云われています。
*東漢氏と西文氏は漢氏

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そのほか、秦 (はた) 氏と漢 (あや) 氏の渡来以前に、呉族と越族が日本に渡来していました。

呉族と越族は、鵜飼い漁と稲作、太陽祭祀、入れ墨 (イレズミ) などの特徴 / 風習を持ち、海部族の源 (みなもと) 云われています。

古代の防人 ≒ 久米部には、呉族 (海部族) や越族 (海部族) をルーツに持つ人々が多く、彼らは『鵜 (ウ / 鳥) がニライカナイ (光の国) に連れて行く』という信仰を持っていたようです。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12235586514.html

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一説によると、
秦氏は秦帝国の末裔、漢氏は漢帝国の末裔、呉族と越族は「海部族」の源 (みなもと) 云われ、秦氏は経済的、漢氏は政治的、呉族と越族は軍事的な役割を持っていたようです。

ともに、1度に1方向から来たのではありませんが、中国大陸や朝鮮半島での「政変 / 戦乱」時を主に、5世紀の応神朝ころ、6世紀の継体朝ころ、多く渡来し。前半は秦氏と漢氏 → 後半は百済系漢人と新羅系秦人が多く見られます。

そして、漢人 (あやぴと) と秦人 (はたびと) の中にも呉族や越族をルーツに持つ者もおり、「漢人と秦人」と言葉は、民族 (集団) の名前というよりも派閥 (組織) の名前で、
(・・?  「秦氏と漢氏」いうと支配層?『秦人と漢人』いうと仕えていた人々も含む? ようにも思われます。



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日本への渡来人の順序は、

南方の呉族 (海部族) と 越族 (海部族) → ‥?‥ → 西方の秦氏と漢氏 → 後ほど、百済系 漢人と新羅系 秦人。云われています。

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また彼らが持っていた? 光の国 ≒ 太陽崇拝 / 石信仰の起源を辿ると?

紀元前の ペルシア に たどり着く? 云われています。

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言葉の発音では、
南方の「呉音」が飛鳥時代 → 北方の『漢音』は奈良 ~ 平安時代ころ。普及したようです。


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時代も方向も飛んでいるように思われますが、本当にその起源を辿ると? 紀元前の ペルシア に たどり着く? と事を考えて見ました。

 

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紀元前3~2世紀にかけて、
春秋戦国時代に 中国大陸の西方にあった 秦 という国が中国政府を統一する計画を建てていました。

その頃すでに、中国大陸の南方に住んでいた呉族と越族は『楚の国』に亡ぼされ、呉族と越族は『楚の国』に住む者もいれば ⇔ 越南 (ベトナム) 方面や 山東半島 → 朝鮮半島の南 → 日本列島に亡命した者もいたようです。

「徐福伝説」で知られる徐福一行も山東半島から日本列島へ亡命した説もあります。


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まづ、
秦 は最初に 韓 という国を亡ぼし、
秦 に亡ぼされた 韓 の人々は山東半島を経由して朝鮮半島の南側に移り住んだと云われています。

(・・!その前に!
山東半島 → 朝鮮半島の南 → 日本列島には『楚 の国』に亡ぼされた 呉族と越族 ≒ 海部族 が移り住んでいました。

その後に 秦 は、北の『燕』を亡ぼし → 南の『楚』を亡ぼし → 最後に山東半島の『斉』を亡ぼして『秦』は中国を統一した。そのため、山東半島 → 朝鮮半島の南 → 日本列島には、中国大陸の政変 / 戦乱から逃れて来た人々が多くいたかもしれません。

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そのほか、
秦帝国が中国を統一した後の紀元前221年に、秦の始皇帝の厳しい圧政から秦人が朝鮮半島の南にあった『韓』の国に亡命して来ました。
『韓』の人々は、秦帝国から亡命して来た秦人を韓半島の東部に住まわせ、『韓』は 辰韓、馬韓、弁韓という3つ国に分別しました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/三韓

三韓 (馬韓・辰韓・弁韓) のうち、辰韓 の別名は『秦韓』とも呼ばれ、秦帝国から亡命して来た秦人が多く住んでいたようです。



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また、朝鮮半島の 南 と 北 では、民族の移動が違っていたといいます。

(・・;) もう一度 ; 巻き戻して ←
BC 195年ころ、
中国大陸北部に燕 (えん) という国があり、
燕 の亡命者である衛満 (えいまん)
 は、今の朝鮮半島の北西部に「朝鮮 (衛氏朝鮮) 」を建国したと云われています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/衛満

 の故郷である 燕 は 秦 に亡ぼされ、秦 は中国政府を統一して行きます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/燕_(春秋)

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その後、秦帝国 は 漢帝国 に亡ぼされ、漢 が中国大陸を支配して行きます。 

BC 108年ころ、
漢 (前漢) の武帝が「朝鮮 (衛氏朝鮮) 」を亡ぼして、遼東半島と朝鮮半島の北西部に4つの郡を設置して直接統治を行うようになりました。
*楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真蕃郡、4つの直轄地。

その頃、
中国大陸北東部の吉林省 ~ 朝鮮半島の北東部には高句麗という国があり、高句麗によつて玄菟郡や臨屯郡は縮小され、しだいに4郡うち楽浪郡のみ残ります。

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AD 189年、
漢 (後漢) の時代に遼東郡の太守 (知事) に任命された公孫度という人物は、漢 (後漢) が放棄した朝鮮半島へ進出、楽浪郡を支配下に置いた。その後を継いだ嫡子・公孫康は、AD 204年に楽浪郡の南半分を自分の領土とし、帯方郡が設置されるようになりました。

*楽浪郡は平壌 (ピョンヤン) 辺り、帯方郡は漢城 (ソウル) 辺り。

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朝鮮半島の北部には高句麗 と 漢帝国の直轄地である楽浪郡 と 帯方郡 ⇔ 南部には三韓 (馬韓・辰韓・弁韓) の国があったようです。


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もう少しまとめてみると?
紀元前1100年頃、朝鮮半島の北部には『箕子朝鮮』が存在していた。

紀元前3~2世紀にかけての中国・春秋戦国時代に、秦の始皇帝に亡ぼされた『燕』の衛満が同じく秦の始皇帝に滅ぼされた『斉』の遺民を率いて『箕子朝鮮』を亡ぼし『衛氏朝鮮』を建国した。その後、紀元前108年に 漢 (前漢) に滅ぼされた衛氏朝鮮の遺民が三韓 (馬韓や辰韓や弁韓) に移動した。 

(・・? そうすると?
馬韓には漢帝国の末裔? 辰韓 (秦韓) には秦帝国の末裔? が多く住んでいたように思えるし、また? それ以前に 南方の呉族や越族、北方の衛氏朝鮮の遺民など、当時の朝鮮半島の南側には、韓族を中心とした東西南北からの超・多民族国家であった様子が伺えます。

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中国大陸は、
秦帝国 → 漢帝国 (前漢と後漢) → 魏・呉・蜀の三国時代に突入し、

AD 238年 魏が漢帝国の公孫氏を亡ぼし、帯方郡を支配。

AD 313年 高句麗が楽浪郡を亡ぼし、帯方郡も滅びる。

魏・呉・蜀の三国時代に、邪馬台国の女王・卑弥呼も登場します。

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魏志倭人伝によると、
朝鮮半島の南側に『韓の国』、その南に『倭の国』があったとされ、
朝鮮半島の南側に「韓族」という民族がいたのではなく⇔『韓』に住む人も「倭族」と呼んでいました。また、倭族という民族がいたのでもなく、『倭』とは蔑称で、亡命した人々の事を『倭人』と呼んでいたようです。

その頃の『韓の国』や『倭の国』は1つの国 (クニ) ではなく ⇔ 多民族の人々が集まる連なる邦 (クニ) で、
さいしょ、呉族と越族が多く移り住んでいたようです。



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日本への渡来人の順序は、

南方の呉族 (海部族) と 越族 (海部族) → ‥?‥ → 西方の秦氏と漢氏 → 後ほど、百済系 漢人と新羅系 秦人。云われています。

そして呉族と越族は、ほぼ同じ民族だけど不仲でした。似ている磁石は反発するものです。

「呉越同舟」と言葉は、呉族と越族は不仲だけど同じ舟に乗れば助け合う。と ことわざ ようです。https://kotobank.jp/word/呉越同舟-498116

紀元前 中国大陸の春秋戦国時代に、
「呉の国」は「越の国」に亡ぼされ、「越の国」は『楚の国』に滅ぼされました。

そのため、呉族と越族は『楚の国』の人になった者もいれば、越南 (ベトナム) 方面に渡った者、朝鮮半島の南や日本列島に渡った者もおり、韓族や倭族と呼ばれた人々は南方の呉族と越族が多かったようです。
*「韓族や倭族」は民族の名前ではなく『呉族や越族』など、多種多様な民族の総称


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(・・? なんとなく?!
何かが見えて来たように思いますが、より一層、長くなりそうなので、今回はここでおしまい。