もう1つの明治維新 その8 | お試しブログ

もう1つの明治維新 その8

2016年



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あけまして、

おめでとうございます。

2017 / 今年は酉 (とり/ ) の年になっています。

今では多く人々に忘れられていますが、かつて日本列島には「が『ある所』に連れて行ってくれる。」と信じられていました。

古代の農人は鶏 (ニワトリ)  ⇔ 海人は鵜 (う) が「常世 (とこよ) の国へ連れて行ってくれる。」と考えていました。そして、その「常世 (とこよ) の国」が何処にあったか?と、解釈も意見が分別しています。

例えば、

沖縄方面では『ニライカナイ』と言葉が「常世の国」を意味し、遥か彼方 (ニライカナイ)、根浦金海 (ニライカナイ)、根来金浦 (ニライカナイ) など、常世の国 ≒ ニライカナイ が何処にあったのか? というと、沖縄方面よりも東にあった事は確かなようですが、その東にある日本列島の何処にあったのか? 太陽は海 (産み) から ⇔ 天 (あま / 海) から? 非常に難しい問題です。


「常世の国」は太陽の東方 (あがりかた) にあった説、根の国 (海の底) → 竜宮城にあった説。太陽の東方 (あがりかた) は、空の上 ⇔ 海の底?


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古代には、弓矢を作る「弓削部」、麻糸を績む「麻績部」、馬具を作る「鞍作部」、玉を作る「玉造部」、番犬を育てる「犬飼部」、南方の防人「久米部」、北方の防人「佐伯部」‥‥、鵜飼部、日下部 (くさかべ / 草壁)、日置部 (ひおきべ) など‥‥ 職業部民があり、そのうち日置部という祭祀儀礼に関する職業部は、土師 (はじ) 氏がを担当していました。*日置 (ひき / へき / ひおき) は「火起」に通じ、日置族の長が土師氏。


最初ころ、日置部は太陽祭祀 (太陽観測) を司り、暦に精通し、豊漁、豊作に通じていました。そして、太陽祭祀の使用道具である埴輪や土偶、土器製作に使用する『火』は製土の他、製鉄、 製塩にも通じ、やがて日置族は一部をシャーマン(太陽祭祀)に残し、製土、製塩、製鉄 → それに関連する職業部に通じて行きます。

彼ら (日置族) は、太陽の祭祀集団(土器職人)であると同時に武力集団(鉄器職人)のような役割をしていました。そして次代に、日置部 / 日置族は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵 (久米部や佐伯部) にも通じたようです。
*南方の防人「久米部」は もと熊襲 (クマソ)、北方の防人「佐伯部」は もと蝦夷 (エミシ) だった人々が多いと云われています。


http://ameblo.jp/yuukata/entry-12092722148.html

また日置族は、もと海部族だった人々が多く、古代の海部族は「蛇 (ヘビ / 長)」をトーテム (蛇信仰) としていたので、蛇 ≒ 長 / 那珂 / 中、海蛇 ≒ 宇嘉 / 宇賀、久米や佐伯、などといった地名が日本全国「日置の里」近くに多く見られます。*もと海部族 → 日置族 / 日置部 → 久米部 (南方防人) 、佐伯部 (北方の防人) など

ー (・・? ー・ー

内容は飛んでいますが、
日置部 / 日置族の長である土師 (はじ) 氏は「が『常世の国 (ニライカナイ) に連れて行ってくれる。」という考えを強く持っており、その『常世の国 (ニライカナイ)』が何処にあったか?と、事を少し考えてみました。



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むかし、

日本島の西側と東側、そして裏玄関に『豊浦町』がありました。

ー (・・? ー?→

ヤマト朝廷の裏玄関が「近江朝+越の国」になる時代が何度かありました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-12006957897.html 関門海峡 (瀬戸内海) が封鎖されたとき、裏玄関 (日本海) がよく登場します。


晩年の織田信長も裏玄関を重要視していました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12136825099.html 織田信長は浦港を重要視 → 豊臣秀吉にはと文字 → 徳川家康は摂津の海人を江戸に住まわせましたが、摂津の海人は浄土思想的な「住吉信仰」を持つ人々が多く、その住吉信仰には豊 (トヨ) と文字に何か重要な意味があるようです。

また、明治に関する歴史小説家の司馬遼太郎氏は『明治維新の資金源は 「サトウキビ / 黒糖の生産」 と言っても過言はない』と言っていました。

一向宗 (浄土真宗) の信徒であった儀間真常が「さとうきびの黒糖生産法」 を広めました。


日本から帰国した儀間真常は 「住吉信仰」 を持ち帰り、 儀間真常が住んでいた 「儀間村」 はいま『那覇市住吉町』という住所になりました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12127385306.html

その事を考えると政権交代 (明治維新) する時など、浄土思想的な「住吉信仰」に何かが隠れているようにも見えてきます。


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(・・;) ー ; → ひとまづ、裏玄関に『豊浦町』があった事は置いといて、

日本島の西側と東側に『豊浦町』があった事について考えてみました。



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むかし、

西の豊浦町 / 土井が浜遺跡から「鵜 (う) とともに眠る女性」が出土していました。


「鵜 (う) ≒ とともに眠る女性」が見つかった土井が浜遺跡 (豊浦郡) は『日置の里』とも近く、やはり古くから「鳥が『常世の国 (ニライカナイ) に連れて行ってくれる。」という考えを持つ人々がいたと事が見えてきます。


 ⇔ 一方、

今では『鵜飼い』儀式といえば、美濃国の長良川がよく知られていますが、長良川の鵜は常陸 (ひたち) 国の「日立市」で生まれ育てられているといいます。

常陸 (ひたち) 国の「日立市」は『鵜 (う) の里』になっており、実はその「日立市」の古名が『豊浦町』でした。
*むかし豊浦町、いまは日立市

ー・→

諸説ありますが、
「常世 (とこよ) の国」→『常陸 (ひたち) 国』という語源と説もあります。

また、

日立市 (むかし豊浦町) のとなりに「常陸太田市」がありますが、実はその「常陸太田市」の古名は『久米村』でした。
*むかし久米村、いまは常陸太田市

上記文の「日置部 (祭祀と軍事) から派生した久米部 (防人) の‥ 」と お話が見えてくると思います。*豊浦町と久米村は「日置の里」


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マニアックな展開なってしまいますが、
古代史ブログでは「明治維新」は『日置族の反乱』と云われています。

常陸太田市 (むかし久米村) で編纂された『大日本史 (水戸学 ≒ 朱子学) 』の思想が幕末の志士に強く影響を与え、明治維新に通じています。
*明治維新の資金源は「さとうきび」→  思想は『大日本史 (水戸学 ≒ 朱子学) 』

ー (・・? ー?→

むかし、中国政府は明朝から清朝に政権交代しました。
*明清交替

そのとき、清朝に不満を持つ朱舜水という明朝の重臣が「久留米方面 ~ 水戸方面」にラーメンとともに新しい朱子学を持って来ました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-11993726407.html 常陸国の水戸と並ぶラーメン発祥地の久留米には 水天宮 という「お社」があり、

『だん』の浦に沈んだ → 水に沈んだとされる五歳の安徳天皇 (平家の血筋を引く) に関する「お社」だといいます。
ー (・・? → 水天宮は竜宮城?

安徳天皇の時代 (日宋貿易の時代) ころ、朱熹 (しゅき) により朱子学は生まれ、朱子学思想の祖は 朱熹 (しゅき) → 水戸学思想の祖は朱舜水という明朝の重臣でありました。*大日本史 (水戸学 ≒ 朱子学)



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結論からいうと、
中国政府・朝の「」と治維新の『』は 明 (マニ / 摩尼) 教 に通じます。

むかしの中国政府・明 (みん) という国の名前に、鳥 (とり) に関する重要な鍵 (カギ) が隠れていました。

中国政府・明 (みん) という国の名前は、

明 (マニ / 摩尼) 教 が 語源になっています。


明 (マニ / 摩尼) 教 の開祖は、ペルシア人のマニで、ペルシア由来のゾロアスター教 と仏教の弥勒信仰を合わせて 明 (マニ / 摩尼) 教 を作りました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マニ教

初代 明 (みん) の太祖・朱元璋 (後の洪武帝) は、農民出身で白蓮教徒であった。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12014390041.html

白蓮教とは、阿弥陀信仰と弥勒信仰、ペルシアから伝わったマニ教 (明教) を混合した宗教。マニ教 (明教) は、ペルシア由来のゾロアスター教から派生している。

ー・→

むかし TV東京の番組で、

聖徳太子や平家は『ペルシア人説』という放送をしていました。その説は半分くらい「トンデモ説」ですが、まったく荒唐無稽の説ではなかった。

聖徳太子の時代 (飛鳥時代) と平家の時代 (平安時代末期) は離れているけど、その2つ時代は「鳥 (とり) 」に関する重要な鍵 (カギ) が隠れていました。

 ⇔ 一方、

 雷 雷 雷 

爆弾  んな訳ない 雷むかっ ‥ と、おもう人もいるかもしれませんが、その2つ時代に日本の教科書では伝えにくい部分が隠れています。
*皇室に関わる事

ー (・・? ー?→

天皇家の摂関家は、
葛城族 → 大伴氏 → 物部氏 → 蘇我氏 → 藤原氏 → 半年 (6ヶ月) ほど平家の時代 → また藤原氏 → 今でも藤原摂関家 → 続いています →

聖徳太子の時代 (飛鳥時代) は蘇我氏が摂関家の時代で、平家の時代 (五歳の安徳帝の時代) に半年 (6ヶ月) ほど藤原摂関家の座を動かしました。*その事は、あまり大きな声で言えない事。 → 今でも続いています ので

ー・ー

日宋貿易をしていた平家の時代 (五歳の安徳帝の時代) に 朱熹 (しゅき) による「朱子学」が生まれ、朱熹 (しゅき) は東方ミトラス教 (明教 / マニ教) を学び「朱子学」を興したという。

ー↓転載記事↓ー


12世紀以降の中央アジアと中国では、東方ミトラ教ミーフリーヤ派(弥勒派)が活発な活動をし、彼らから朱熹 (しゅき) は東方ミトラ教を学び「朱子学」を興した( 12 世紀) 。更に王陽明が「陽明学」を築いた(15世紀)。東方ミトラ教は別名を「明教」というが、中国では明(1368~1644)という王朝名の由来となった。

朱子学と陽明学は東洋版神智学の双璧である。日本では江戸時代に林羅山、三浦梅園らが「日本朱子学」を興隆させ、中江藤樹らが陽明学を興隆させ、伊藤仁斎らが「古学」を起こし、荻生徂徠が「徂徠学」を起こし、本居宣長らが「国学」を起こした。

「神智学」はマダム・ブラバッキーやルドルフ・シュタイナーの十八番と思われがちだが、そうではない。東方神智学的な認識は、日本の朱子学や陽明学、徂徠学、国学などのいわば日本版神智学と極めて類似した思考パターンを示している。国学=日本版神智学と考えたほうが正解である。

ミトラ信仰は、中央アジアから中国・古代朝鮮を経由して日本にも伝えられ、弥勒信仰の中に生きている。日本において弥勒信仰は、そのまま仏教だった。当時、いち早く仏教を取り入れようとしたのは、蘇我氏 であった。彼らは仏教を政治的に利用して、古代日本の支配権を手に入れた。
*飛鳥時代 聖徳太子 (蘇我氏) の時代

その際、蘇我氏がバックにつけたのが仏教を持ってきた渡来人たちであった。なかでも、最大の力を誇っていたのが「漢氏(あやし)」なる一族だった。漢氏は、ペルシア系渡来人で、仏教のほかに奇妙な信仰を持っていた。それは、漢氏にちなんで「漢神信仰」と呼ばれたが、その中心は雄牛を殺す儀式にあった。この儀式はミトラ教の密儀に通じている。

ー↑転載した↑ー

ー(・・? ー・ー

キリスト以前を「紀元前 / BC 」⇔ キリスト以後は『紀元後 / AD 』という時代表記をし、AD の時代に「キリスト教 = 新興宗教」が普及しています。

紀元前 (キリスト以前) の古代ローマ帝国では「ミトラス教 / 牡牛信仰」が流行していました。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミトラ教

ミトラ教 / ミトラス教」は、ゾロアスター教から派生した牡牛信仰で、ペルシア系アーリア人が古代ローマに「ミトラ教 / ミトラス教」を流行させていました。

ー・→

『紀元後 / AD 』の392年、
古代ローマ帝国のテオドシウス帝はキリスト教以外のすべての宗教の信仰を禁止し、キリスト教をローマ帝国の唯一の宗教 = 国教としました。

そのとき、キリスト教徒はミトラス教徒を弾圧したので、ミトラス教徒は 西洋 ~ 東洋 へと → 引越した‥ という。


そして、しだいに東方ミトラス教 (明教 / マニ教) は、仏教の中の弥勒信仰や阿弥陀信仰へ混合して行きます。
*弥勒信仰 (下生信仰) も 阿弥陀信仰 (上生信仰) も浄土思想


395年にテオドシウス帝が亡くなると、ローマ帝国は二人の息子に分割相続され、ローマ帝国は東西に分別します。

その時、 西ローマではカトリック (西方教会) ⇔ 東ローマでは正教会 (東方教会)が保護されます。

そのため、西欧のポルトガルやスペイン、イタリアやフランス方面ではカトリック (西方教会) ⇔ 東欧やロシア方面とギリシャは正教会 (東方教会)が比較的多いと云われ、さらに後ほどプロテスタントが中欧や北欧、英国や米国方面に多いと云われています。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12232256438.html

スペイン (カトリック教国) の「牛追い祭り」もミトラス教 / 牡牛信仰 の名残り、といいます。 http://1000ya.isis.ne.jp/0445.html

ー・→

後ほど、スペイン人のザビエルはイエズス会を結成し、日本にもやって来ました。その時代は戦国時代 (不安定な時代) で、イエズス会のザビエルは、日本初の教会を京都に建てようとしましたが、京都の町は「応仁の乱」の影響で荒廃していたので、京都をあきらめ、

戦国時代に外交貿易を担当していた大内氏の拠点であった周防 (すおう) 国に日本初の教会を建てました。大道寺 (現ザビエル公園) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大道寺

ー(・・? ー・ー

戦国時代 (不安定な時代) に明 (みん) との貿易 / 外交を担当していたのは、大内氏率いる博多商人と細川氏率いる堺商人でした。*遣明船 (勘合貿易)

浙江省の寧波 (にんぽう) 市で大内氏率いる博多商人と細川氏率いる堺商人が衝突していました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/寧波の乱

(・・;)  その時も ;

大内氏率いる博多商人グループが関門海峡 (瀬戸内海) を封鎖しました。

1467年の応仁の乱以降~

博多商人に対抗して ⇔ 堺商人はこれまでの瀬戸内海 ~ 「坊の津」 航路ではなく 「土佐沖」 航路を開拓しました。

その事と軌を一にしてか?‥

浮島 (那覇の港) にあった若狭 (わかさ) 町村には堺から来た人、「越の国」 から来た人が多く住む日本人街 (若狭町村) がありました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12141030537.html 日本人街 (若狭町村) には日本海 (若狭湾) から来た人と堺 (片方の瀬戸内海) から来た人が多くいました。

(・・? ー?→ その事を考えると?

これまで何度か「住吉信仰 (和魂) 」と「住吉信仰 (荒魂) 」の衝突があったようにも見えてきます。

瀬戸内海航路 (ヤマト朝廷の表玄関) には2つ 大きな住吉社 があり、摂津国の住吉社 (和魂) と長門国の住吉社 (荒魂) が中でも大きいと云われています。

住吉社は「浦島たろう」→ そのモデルとなる『海幸彦 山幸彦』など、海に関する『お社』で、日本全国の住吉社の近くには、豊や長 (ヘビ / 蛇) に関する地名が多く見られました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12136825099.html

ー?→

端的にいうと、
住吉信仰の源 (みなもと) ような 「浦島たろう」 と似た説話に 『海幸・山幸』 神話があり、その説話には、海幸彦の釣針をなくして困っていた山幸彦が、海神宮 (わたつみのみや) に住む豊玉彦のもとを訪れ、豊玉彦の娘・豊玉姫と結婚し、姫と3年間暮らし生まれ故郷に戻り玉手箱を‥・‥ → とある。

詳しくはわかりませんが、
その説話を紐解くと、海神宮 (わたつみのみや) に住む豊玉彦 → 竜宮城 →「豊浦宮」=『常世 (とこよ) の国』になる。という人もいます。

(・・? さまざまな神話 / 説話を紐解くと?


ペルシアに たどり着く? 云われています。


(・・? 日本史、東アジア史はペルシア史?

 ⇔ 一方、

 雷 雷 雷 

爆弾 んな訳ない 雷むかっ ‥ と、おもう人もいるかもしれませんが、あの事 を思い出して見ました。



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もともと、
日本に猫 (ねこ) はいなかった。

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12181318081.html ところが、ある事をキッカケに猫 (ねこ) が日本にやって来ました。


6世紀ころ、印度 → 中国 → 朝鮮半島の百済を経て 正式に 仏教が日本にやって来たと云われています。

 ⇔ ところが、
彼らは、仏教徒を装おう 隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) でした。

‥>
「猫 (ねこ) と 祆教」 その2
http://ameblo.jp/yuukata/entry-12186405756.html

「猫 (ねこ) と 祆教」 その1
http://ameblo.jp/yuukata/entry-12185758461.html
‥>

秘密裏に祆教 (ゾロアスター教) を日本 (明日香 / 飛鳥) に持ち込んだのは、古代豪族・蘇我氏でした。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12010501047.html

古代豪族・蘇我氏とは、藤原氏 (日本の権力者) の前の天皇家の摂関家。

蘇我氏は、日本の教科書では「大悪人」と載っている。

ー 聖徳太子は架空の人物 ー
聖徳太子 (完璧な人) は、時の権力者 (藤原氏) の政権交代の正当化とその後の権力維持をするために作られた架空の人物で、聖徳太子のモデルとなる人物は聖徳太子 (架空の人物) を亡ぼした『蘇我入鹿』だと云われています。


ー・ー

日本の権力者は、今でも藤原摂関家です。

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11848239454.html *ここでいう 藤原氏」 と『藤原さん』はまったく関係ありません。

「藤原氏」 の前の天皇家の摂関家は『蘇我氏』で、平安時代の末期に『平家一門』が半年 (6ヶ月) ほど天皇家の摂関家を行っていました。


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隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) ?
蘇我氏の拠点は「明日香 (あすか / 飛鳥)」で、そこにはペルシア人の痕跡が多く見られました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12010501047.html

ー・→

実は、今の奈良県高市郡明日香村豊浦、辺りに蘇我氏の住まいがあり、蘇我蝦夷の役職名は豊浦大臣 (とゆらのおおおみ) といいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蘇我蝦夷

仏教を推奨した日本初の女帝・推古 (すいこ) 天皇豊浦宮 (とゆらのみや) で即位し、聖徳太子が摂政を行っていました。
*推古天皇と聖徳太子は、伯母 (おば) と甥 (おい) の関係。

豊浦宮 (とゆらのみや) は、
日本初の女帝・推古 (すいこ) 天皇の宮室 / 皇居。奈良県明日香村豊浦にあったと云われています。https://kotobank.jp/word/豊浦宮-585139

『日本書紀』には、
592 (崇峻天皇5) 年12月、推古 (すいこ) 天皇豊浦宮 (とゆらのみや) で即位し、603 (推古天皇11) 年に豊浦宮 (とゆらのみや) から小墾田宮(おはりだのみや) に遷都した。とある。


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まだまだ不思議な謎 (なぞ) はたくさんありますが、祆教 (ゾロアスター教) 、明 (マニ / 摩尼) 教、「ミトラ教 / ミトラス教」、あまり見聞きしない古代ペルシア由来の3つ宗教は、日本において重要な鍵 (カギ) が隠れています。*鳥、牛、太陽、火、石など、

(・・;) 新年そうそう、大変長い古代 (こだい / 誇大) もうそう をしてしまいましたが、この謎 (なぞ) は紀元前までさかのぼります。



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