(再録)ブログDE迷著『能力者憲章』・⑫(終)(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 

 

(目的のために)他に方法が無い
・とっさに手段を選んでいる暇が無い
・失敗が許されない


使用に際してはこれらのうちのいずれかに該当し、かつ“公開性”を完全に保証する
…嘘や隠し事をしないことが絶対条件であり、それを満たしてさえいれば、
たとえ違法行為であったとしても適正な使用として、法を超越しての行使をも認めること。

さらに『政治』だけでなくあらゆる権力と敵対し、権力との関わりをすべて排除し、
権力にとって常に不都合な存在であり続けることが、『超能力』と人間社会との平和的共存の
ためのルール作りの骨格であり、超能力者の採るべき姿勢(スタンス)である…というのが、
著者の最終的な主張となります。

このやり方なら『ザ・ボーイズ』に出て来るような腐ったヒーローどもを
根絶することが、もしかしたら可能になるかもしれません。

控えめに言ってもイグノーベル平和賞ぐらい獲れると思ってます。

 

考え方の基礎は“スーパーヒーローの制度化”ということですが、
テレビや漫画のヒーローものを見ただけの漠然としたイメージだけでは、
権力への敵対や反逆のための使用を明確に主張することも、ましてやそれを
制度として認めてしまおうなんて発想自体、おそらく出てこなかったでしょう。

権威や権力、体制への反逆は確かにヒーローの矜持ではありますが、
「そういうルールだからやる」なんて話が…もしかしたらあるのか分かりませんが、
少なくとも自分の知る限りで見たことが無いです。
『超能力』の定義の考察から始まったものが、ちょっとした閃きから『政治権力』との
同質性の指摘
に到り、それがいつの間にやらルール作りの話へと、なんだかトンデモな
超展開ではありましたが、そのプロセスがあったからこそ、超能力の危険の種類と
その本質を見極める行程があればこそ、権力への敵対や反逆を方針として打ち出すことが
出来たのだと思います。

およそあらゆる種類の『権力』というヤツは、同種よりもむしろ別の種類の『権力』と
結び付きやすく、
逆に同種同士は互いにつぶし合う傾向があるようで、
昔からそれを経験則あるいは本能的に理解していたからこそ、『政略結婚』が権力掌握の
手口として一定の効果を上げてきた歴史があり(血縁も権力構造の一種)、
縁故採用だとか親族経営にイラついたり、何かあるとすぐ批判の槍玉に挙げられるのは、
権力の結び付きによって増大する危険性に対する意識的、あるいは無意識的な自覚と恐怖が、
もしかしたらあるのかもしれません…まぁ根拠は無いンですがね。

同種同士だと、企業の合併は多くが実質的な『買収』であったり、国家間では戦争の果ての
『侵略』によって片一方を滅ぼすことで大きくなっていく実例を、挙げるまでもないでしょう。

とにかく、結び付きやすいからこそ意図的に敵対する必要があり、
使用のルールに関しても、特定の国や組織によって決められたものであったり、
その正当性を保証されるような状況があってはならない
わけで、
それを防ぐための“公開性”でもあるわけです。

ですがこの『能力者憲章』では、権力者のやり方が気に入らなきゃ
滅ぼしてしまえなんてことは、ひと言も書かれていません。
せいぜい「金持ちとエラい奴は締め出せ」ってことぐらいです。

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 『権力』との関わりを疑われる者たちには、原則として、
 『超能力』の恩恵に与る資格は無いと、そう考えるべきだ。
 たとえそれが適正な使用条件に合致していようとも、権力との
 関わりがほんのわずかばかりのものであったとしても、権力を
 利する可能性に最大限の注意を払い、排除せねばならない。

(中略)
 国家、宗教、企業…規模の大小に関わらず、その意思決定に
 直接的な影響力を持つ者たちと、その息のかかった者たち、
 および彼(あるいは彼女)らとの姻戚関係を吹聴することで
 自らのstatus(地位)を獲得してきた者たちには『超能力』の
 使用はもちろん、権力との同時保有をも、認めてはならない。

 但し、自らの地位と財産と権力の全てを完全に手放す覚悟が
 あり、それを実行に移せるのであれば、その限りではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第7章より


どんだけ権力嫌いなんだよと思うかもしれませんが、前回も書いたように
権力に翻弄された人生送れば性悪説ベースの思考になるのは当然ですし、
何より自分のモノにならない権力への心象なんて誰でも大体こんなモンでしょう。
だからこそ『権力』を惜しみなく手放せるのが、人間の最大の美徳ってわけです。
ヒーローだって、使命を終えた後は何の見返りも求めず、スーパーパワーを捨て去り、
平凡な市井の生活へと戻っていくのがカッコいいわけです。
個人的な意見ですが、アメコミヒーローみたいな警察に任せておけばいいことにまで
首突っ込んだり、アイドルみたいにちやほやされてるのはあまり好きじゃありません。

 

↓「功成り名遂げて身退くは天の道なり」ということで

 

『権力』に性善説は通用しない、基本的にそう考えるべきです。

ですが親子のような『血縁』関係も権力の一種とはいえ、ただそれだけで爪弾きにするのは、
“変更不可能な属性”に対する忌むべき人種差別以外の何物でもありません。

なので著書では「権力(者)との姻戚関係を吹聴する者」という限定した書き方に留め置いて
いるわけで、メンタリストじゃない方のDAIGO(竹下の孫)とか竹田恒泰(自称旧皇族)
なんかはそうだけど、お姉さんの漫画家は違うぞと。
そこはキチンと区別しなければいけません。

結局ルール作りの話が一番長くなってしまいましたが、実際の著書の中身の配分も
似たようなものでした。以降は強制力を持たない超能力使用の“心得”についての話が
箇条書きで続きますので、少し抜粋します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・『超能力』は常に『原因』に対処しなければならない。

 手段を超越した力を使いながら表面的な手段にこだわるなど、
 思慮浅薄の極みであり、まさに愚の骨頂である。
 「ヒトラーを赤子のうちに殺すか」と問われたなら、
 私は迷うことなく「絵描きにでもすればいい」と答えるだろう。

・『超能力』は『神』を語ってはならない。

 『神』を語る、すなわち“すべて”は『神』の導きであり、
 自らの判断による所業の結果をも『神』の名の下に正当化し、
 得体の知れない『神』に“すべて”の責を負わせる…およそ
 人間の考え得る中で、最も卑劣な行為である。

 『神』を語る、すなわち『超能力』へのgift(天賦の才)、
 という観念的思考は、fact(事実)としての認識の妨げとなる
 だけでなく、curse(呪い)という対極の容認と同義でもある。
 祝福への歓喜も、理不尽な呪いに対する憎悪も、どちらとも、
 いずれは最悪の結論に達することは容易に想像がつく。

 "I'm GOD(我こそが神である)."と。

 互いの姿が見えないほど正反対の方角からであったとしても、
 同じ山を登る限り、行き着く頂点は一か所しかないのだ。

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いい加減めんどくさくなってきた解説にかこつけた自分語りが過ぎるような
気がしてきたので、ここではあえて多くは語りません。

毎回毎回ダラダラX2と、分量“だけ”ならちょっとした論文レベルでしたが、
我ながらよくここまで書き続けてこられたもんだと、
改めて呆れ返ると同時に感心しておる次第です。
正直まだまだ書き足りない部分はありますが、めったやたらに書きまくれば
伝わるモンでもないと思うので、この辺にしておきます。

とりあえず『超能力』と『(政治)権力』は本質的に同じである、
ということだけでも理解していただければ幸いです。
あとは芋づる式に思考がポンポンつながっていきますので、さほど難しい話でもなければ
前代未聞の思考の大発明…ってわけでもないということが、見えてこようかと思われます。

論理の組み立てに使ったものは、パーツ単位でバラしてみればどれもこれも既存のもの
ばかりでして、いわば『能力者憲章』は、適切な例えではないのかもしれませんが、
レゴブロックを別の形に組み立て直したようなものです。

新しいものを生み出し、新しい考えを導き出すのに、既存のモノや過去の存在が必ずしも
足かせになるわけではなく、過去と向き合い、違う視点からも見つめ直すことで、
新たな創造と想像につながる足がかりとして、それを足元から支える強力な味方に
なってくれる、そんな可能性だってあるわけです。

こんな話だったかな?と疑問符が付いたところで、この辺にて迷著『能力者憲章』、
とりあえずの幕引きにしたいと思います。

〈終わり〉

 

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「天賦の才です 難儀なね」→"It's a gift… and a curse."