(再録)ブログDE迷著『能力者憲章』・⑪(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑫(終)、

 

前回前々回では、“スーパーヒーローの制度化”という考え方を基本に、
超能力の適正な使用のためのルール作りについてを長々と書いてきましたが要約すると、
(目的のために)他に方法が無い
・とっさに手段を選んでいる暇が無い
・失敗が許されない

このいずれかに該当し、それに対する“公開性”を完全に保証することを条件に、
法を超越しての行使をも認めること。

さらに“公開性”のためには専門の機関が必要であること。
不正使用を告発する者は、上記の条件に該当しないことを、当事者に成り代わり、
自らの身を以てそれを証明すること。

不正使用者への処罰のための能力の行使、ならびに超能力者自身に対しては“極刑”として、
彼らの能力を剥奪するための“何か”が必要である、ということでした。

↑能力を奪うための“何か”の例『ジョジョの奇妙な冒険』第6部より

ところで不正使用者への能力による処罰ですが、あくまで個人的な意見としては、
たとえば警察官や刑務官のような職種を設定してその従事者にやらせるよりも、
他に方法があって手段を選んでいる余裕が十分にあり、失敗からのリカバリーが可能で、
公開性が果たされていないこと
を、自らの身を以て証明してみせたその人に審判を委ねるのが、
一番相応しかろうと思います。

さて『超能力』の人間社会での平和的共存の実現を考えるうえで、やはりどうしても
『政治権力』との関係というか距離感というか、そうした部分をおざなりには出来ません。
というかそもそも、超能力の適正な使用のためなら法律を破ってもいいなんて決めた以上、
向こうがほっといてはくれんでしょう。

『超能力』と『政治権力』は本質を同じくするものである、という能力者憲章の主張に、
ここでもう一度立ち返ることになります。

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 『超能力』と『政治権力』は、本質を同じくするものであり、
 内包する危険性においても、また同質である。
 もし万が一にでも、両者が手を取り結ぶようなことになれば、
 その危険性が乗算的に増大することは、想像に難くない。
 『超能力』と『政治権力』は、原則として“敵対関係”に
 あるべきだと、私はそう考える。

(中略)
 『政治』だけではない。超能力の使用に際しては、あらゆる
 『権力』の介在と干渉を疑い、『権力』に関わるすべてを、
 そこから排除しなければならない。
 あらゆるすべての『権力』に敵対し、超能力の使用がそれらに
 とっての致命の一撃となるよう、万が一にでもそれが『権力』を
 利する結果につながるようなことがあってはならない。
 『権力』に許される唯一の抵抗は、超能力使用の大義名分と
 存在意義を奪い取るべく、自浄能力を発揮し、自らの健全化に
 努めることだけだ。

(中略)
 病に苦しむ我が子を救いたいと願う親に一切の私心は無い…
 そのような“幻想”と“思い込み”は、捨て去らねばならない。
 親と子の利害が、常に一致するとは限らないのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第6章より


“敵対”しろなんてかなり過激でブッ飛んだこと言ってるようにも見えますが、
権力にシッポ振ってるヒーローとかどーよ?
と言われれば、少しは納得出来るのではないでしょうか。
ここではさらに『政治権力』との同質性を持ち出すことで、漠然としたイメージを
明確な主張として再確認し、補強した感じです。

何かの機関や組織に属し、権力構造に取り込まれていたとしても、納得のいかないことには
決して従わず、反旗を翻すことも厭わないのがヒーローの矜持(きょうじ)ってモンです。
少なくとも今まで見てきたヒーローたちは必ずそうしていたし、それならそれで、
最初から反逆行為を制度の中に組み込んでしまえばいいわけです。

ここでは“敵対”という言葉を使っていますが、その他のヒーロー作品と同様、
権力を直接の標的として攻撃しろって意味だけではなく、
「権力のために仕事すンな」ってことでもあるので、
正確を期すのであれば、“牽制”“棲み分け”の方が近いのかもしれません。
両者のあるべき関係を示唆する、こんな一文があります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 『政治権力』が、公益の名の下に、最大公約数以外の者たちを
 切り捨てるのであれば、『超能力』は、あえてそれに手を貸す
 ようなことはせず、あくまで目の前にいる1人の人間のために、
 切り捨てられる者たちのためにこそ、使われるべきであろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

超党派で手を組んでいいのはせいぜい外宇宙や異次元の侵略者と戦うときだけで、

それ以外は実効力を持つ最大の批判者として、
権力にとって最も都合の悪い存在であるべきだ、ということなんでしょう。

さて『超能力』と『政治権力』との同質性の指摘から始まり、
『政治』だけではなくあらゆる種類の『権力』とのあるべき関係についての主張の中で、
なぜ“親子”の話が出てくるのかといえば、権力構造の最小単位が“親子”だからです。

「知ってますか? 日本で起こる殺人事件の半分は、
 家族間で起きているんですよ
(阿部寛)

ちゃんと見てないので断言はしませんが、いくら結婚できなくても
さすがにこんなことは言わんでしょう。でもこれは本当のことです。

 

↓確かめてみよう

 

↓ノンフィクション

 

著者自身『政治権力』に翻弄されてきた過去がありますから、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで
『権力』という構造に対し不信感を抱くのは、無理からぬ話でしょう。
それに元は病院勤務の精神科医でしたから、家庭環境の問題で重症化した精神病患者を
イヤってほど見てきたでしょう。病気の悪化は間違いなく“環境”の問題によるものであり、
それは心も体も同じことです。

 

『権力』とは必ず腐敗するものであり、
たとえそれが血のつながった“親子”で
あったとしても、例外ではありません。


次でようやく終わります。

〈続く〉
 

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↓引用元