『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 ⑫(終)、
人間にとって『超能力』とは何か。
それは“理不尽で不自由な現実に対する人間の願望の発露”であり、
それはすなわち“結果に対する手段の不在”であり、
現実においても『壁』のように厳然と立ちふさがり、本来“手段”を以て克服されるはずの
種々の制限や制約を都合よく無視したものであり、人間の意思や願望を結果と直結し、
現出させたものこそがすなわち『超能力』である…と、色々と回りくどい上に
今さら分かり切ったようなことではありますが、定義付けとまではいかないまでも、
とりあえずひとつの結論にはたどり着いたようです。
“結果に対する手段の不在”ひいては“不都合な制約・制限の無視”という観点で捉え直して
みれば、『超能力』と『魔法』との区別はもちろん、何を以て超能力とするのかということ。
さらに派手なコトやらかすだけが超能力ではないということが、
なんとなぁ~く見えてこようかと思われます。
要するにナニかやるのに必要な都合の悪い手段を
都合よくスッ飛ばしてるのが超能力ですよと、そういうことです。
まずはそこだけ覚えておいてください。で、ここから話は妙な方向に進んでいきます。
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願望や動機、内容の正悪に拘わらず、“手段”の存在しない
超能力にとり、何かを為さんとする“意思決定”こそが重要で
あり、それ自体が重大な結果をもたらす。
現実において、これに近似する事象が、1つだけ存在する。
『政治権力』だ。
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ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第3章より
さてこの『能力者憲章』執筆のそもそもの動機はといえば、著者自身の人生への復讐であり、
自らを含む多くの人間が翻弄され、振り回され続けてきた『超能力』の正体を、
原理の解明とまではいかずとも、せめてそれと向き合う人間の頭の中を暴いてやるべく
始めたことですので、こんなこといいよねできたらいいよねがその発想の源泉であると、
改めて確認出来た時点で、目的の大部分は達成したことになるわけですが、
病膏肓(やまいこうこう)に入る、とでも言いましょうか。
あるいは単純に考え過ぎてドツボにはまり、妙な閃きに取り憑かれただけって気もしますが、
とにかく以降は、『超能力』と『政治権力』の類似性の論理的説明…もとい、突拍子も無い
思いつきへのこじつけを中心に話が進んでいきます。むしろ本番はここからです。
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たとえば中世時代における絶対王政の君主のように、
あるいは近代であれば独裁政権の元首のように、
意思決定者たちを規制する制度や機関、道徳規範等による
拘束力が弱く、 彼(あるいは彼女)らの意思決定が
極めて高い純度にて反映される政治体制は、
超能力によりもたらされる結果と非常に酷似している。
(中略)
『政治権力』は、“手段”を意思決定者から分離し、両者を
上意下達(じょういかたつ)の関係で接続することによって、
『超能力』と同じ状態を、疑似的に再現しているといえよう。
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この著者が生きていた時代はもちろんのこと、21世紀に入ってもなお原理の解明はおろか
実現の目途は一行に立たず、いまだ想像の産物としての域を出ない『超能力』という概念を、
現実の存在と地続きであるかのように扱い、ましてやそれを『政治権力』と同質のものとして
結び付けて考えるような人は、まずいないでしょう。
ですから、絶対王政や独裁政権のようなワンマン体制に置き換えてみたところで、
それが超能力と似てるなんて話がスッと入ってこないのも無理はありません。
それは著者自身も重々承知していたようで、仕組みについても多少突っ込んで書いていますが、
それでもまだまだ理解には程遠い状況です。
とりあえず『政治権力』による超能力の疑似的な再現については、
著書の中で度々書かれているところの“結果に対する手段の不在”という、
『超能力』の最大の特徴を思い出してみてください。
政治は、トップの意思決定“だけ”で動くわけではありません。
アメリカの大統領が武力行使を決定しても実際に動くのは大統領自身ではなく
アメリカの軍隊とそこに所属する兵士であるように、たとえば国家であれば、
それに従わない者や違反した者を取り締まる警察や軍隊といった組織があり、
違反者への量刑を判断し、それに基づいて実際に罰を与えるための機関や施設があったり、
あるいはあくまで平和的に、それを浸透させるための草の根レベルでの教育や報道のための
機関があり、いわゆる“官僚”や“公務員”と呼ばれる人たちによって動かされている
それらの執行機関は本来的に、政治のトップにいる人間の意思決定に基づき、
それを実現させるために存在しています。
↓例外:自ら前線に立って戦う大統領の雄姿(と大爆笑のメリケン)
それを“手段”として見立ててみたらどうでしょう?
ですからたとえば絶対王政や独裁政権のように、権力自体への制限を
可能な限りで取り除き、執行機関との間のロスを減らしていけば、
意思決定者のソレは『超能力』と変わらないのではないかと、そう考えたわけです。
ですからこの章の中では超能力者と超能力について、
「1人の人間の中に“意思決定”と“執行機関”が内包されているようなもの」と評しています。
さらに『超能力』と『政治権力』と、どちらも多くの共通点があり、
両者を同質のものとみなすには十分であると訴えているのですが、それはまさに、
「超能力と向き合う人間の頭の中身を暴く」ことを起点として考え始めたからこそ、
得られた着想なのかもしれません。
〈続く〉
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