(再録)ブログDE迷著『能力者憲章』・⑨(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑩、 ⑪、 ⑫(終)、

 

『超能力』は『政治権力』と、本質を同じくするものである。

そう考えれば『超能力』をむやみに使ってはいけないことの説明にもつながりますし、
『政治権力』と同様、使ってもないことで外野からどうこう言われる筋合いもありません。
透視能力が排除されなければならないのはあくまでカードゲームの話であって、
無関係のことで爪弾きにされるのは人権侵害です。

一応『政治権力』の場合、影響を及ぼす範囲が多岐に渡りますので、
それに比例する形で一挙手一投足に対するチェックが厳しくなり、
その結果としてプライベートまでがんじがらめになるわけでして、
「不倫はあくまで個人的な問題である」という意見がある一方で、
「自分の身近な相手を裏切る奴が国民との約束を守れるか」という

考えにも一理あるので、愛人囲いが政治屋の就業規則としてどこかに書いてあるか知りませんが、
いいかげん権力を誇示するような時代でもないので、私生活は控え目がよろしいでしょう。

濫用の抑止と同時に彼らへの不当な扱いとの明確な区別を可能とし、ひいては彼らの
人権保護にもつながる…1つのことで複数の問題を一挙に解決出来るのだから、某任天堂の
宮本氏が定義するところの、これもひとつの“アイデア”とみて良いのではないかと思います。

さてXメンだけでなく、超能力の存在が社会に認知され、超能力者が社会の中で生活する
設定の作品は色々ありますが、(主に主人公が)“平和的共存”を掲げる割にルール作りが
おざなりになってるのは前回の引用にもあります通りで、本気で共存を実現するのであれば、
やはりルール作りが欠かせないのは、車の運転と同じです。

社会の中で車を安全に運転するためには、ただ車を動かせるようになるだけでは不十分で、
そのためのルールをキチンと定めたうえで周知徹底を行い、運転する者もしない者も、
互いにそれを判断の指標として行動し合うことによって、初めて可能となります。

必要なのは“赤信号で”ブレーキを踏めるようになることです。

車も歩行者も、赤信号で止まらなければ大変なことになりますし、
速度制限を1km/hでも超えちゃいけない、なんてことはありません。
“ルール”は、“不自由”と“束縛”のためのものではないからです。

では一体どんなルールがあれば良いのか?
そのことについて著者は、このように書いています。

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 平和的共存のために、『超能力』に必要なルールは何か?
 それは、スーパーヒーローの行動を参考にすることが出来る。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第4章より


Xメンに対する婉曲的、かつ辛辣で批判的な内容を見た後では意外に思うかもしれませんが、
この人が批判しているのは、あくまで社会的マイノリティへの迫害と『超能力』を同列に扱う
被害者ヅラの勘違いであって、べつにヒーローアンチってわけじゃありません。
それどころかヒーローものが人気を集めている、つまり超能力の行使が支持されている
という部分に関しては、かなり注目していたと思います。

さて実際問題、スーパーヒーローとしてスーパーパワー(=超能力)をホイホイ使うのを見て
イラつくようなことは、そうそう無いと思います。それは一体何故でしょうか?
さらに続けて見ていきましょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 時に法を犯すことも厭(いと)わない、スーパーヒーローたちの
 それが、能力の使用如何に関わらず、まさに英雄的行為として
 人々に認められるのには“条件”があるように思われる。

(中略)

一、 (目的のために)他に方法が無い

一、 咄嗟の対応で手段を選んでいる暇が無い
 
一、 失敗が許されない

 このいずれかに該当し、さらに絶対条件としてこれらに対する
 徹底した“公開性”を有している場合がほとんどである。
 これを改めて、適正な使用として制度化するのである。
 これが正義だなどと断ずるものでは決してないが、
 少なくとも、 彼らの“公開性”を疑う余地は無いだろう。
 テレビ、映画、コミック…ありとあらゆるmedia(媒体)を
 通じ、ヒーローとしての自らの活動を、これほどまでに
 詳(つまび)らかにしてしまえる存在を、私は知らない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで語られる“公開性”というヤツは、もちろんメタ的な意味での話だけではなく、
物語の中においても、自分の正体を隠すヒーローはいても、ヒーローの活動やその存在
そのものが誰にも知られていない、なんてことは滅多にありません。

 

↓あってもせいぜいこのぐらい

 

昨今は仮面ライダーでさえ人前で堂々と変身するご時世ですし、
MIBだって、宇宙人の存在を知ってもパニックを起こさないぐらい
人類が進歩してくれれば、
秘密にすることもなくなるでしょう。

カントの『永遠平和のために』の中でも、“公開”が“公表”と、
多少のニュアンスの違いはあるものの、とにかく公に知られるものとしての
資格のないものはすべて不正である
と断じており、個人的にも10年以上ひと昔前に読んだ
『うそつき病がはびこるアメリカ』という本で取り上げられていた、
ホワイトカラー犯罪者へのインタビューで「どの辺からヤバいと思った?(要約文)」
という問いに対し「自分のしていることを家族に話せなくなった」ときから、
自分がヤバい不正に手を染めているのに気が付いた、と答えています。

この世のあらゆる不正は“密室”の中で行われるものです。

 

↓ブッシュ(息子の方)政権時代の本でした

 

とにかく、
・他に方法が無い
・とっさに手段を選んでいる暇が無い
・失敗が許されない

このどれかを満たし、なおかつこれらに対する徹底した公開性を有してさえいれば
法律を無視しても構わないということを、超能力使用のルールとして設定すること。
そして超能力使用の“公開性”に関しては、個々人ではどうしても限界があるし、
内容の真偽に対する信頼性の観点から言っても、やはり専門機関の設立が必要だと思います。

全面禁止にしてしまうのは簡単ですが、それこそ「人をハネることがあるから
車の運転を禁止する」
なんて言ってるのと同じで、銃器のような人殺しにしか使えない
ものであるならともかく、良いも悪いも結局は“使い方次第”なのだから、
アングラの世界に潜られるよりは、表の世界で堂々と使えるようにキチンと制度化して
いった方が、より健全な方向での発展が望めるのではないでしょうか。

さらに次回に続きます。

〈続く〉

 

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