『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 ⑫(終)、
2年前は自分で描いたのを載せてましたがヘタクソ過ぎたので、
再録にあたり思い切ってプロの方に頼んで描き直してもらうことにしました。
(この絵に関しては無断転載禁止です。必ず引用元を明かしてください)
「どっちの方が超能力っぽく見えるか聞くためのモノだよ」ということは伏せたままの
(先入観を持っていかにも“それっぽい”のを描いてほしくなかったので)依頼でしたが、
もしかしたら「知ってたら他にやりようがあった」と思われたかもしれません。
我ながらワケわからん依頼内容でしたが、リテイクにも根気よく付き合ってくださいました。
なんというかなんとなく雨が降ったり隕石でも落ちてきそうな感じがします。
というか『十三機兵防衛圏』のアンソロいけんじゃね?って思いました。
アトラスさん割と本気で検討・打診した方がいいですよ。
…こんなとこで言ってもしょーがないんですがね。
依頼を引き受けてくださいました『雑種犬ハナジロウ日記』の
加曽利りあらさんには、改めて謝意を表しますとともに、
深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
↓アンソロいけると思います
では改めて本題です。普通に生きていればこんな質問されることなんかありませんから
いまいちピンとこないかもしれませんが、ここでは事情を理解して各々回答を済ませた
前提で話を進めますと、おそらく『A』の方が超能力っぽく見えるかと思われます。
逆に『B』の方は魔法っぽく見えたのではないでしょうか?
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『魔法』と『超能力』と、どちらも得られる結果は同じものでも、
両者を分ける最大の要因は“結果に対する手段の有無”であり、
超能力とはすなわち“(結果に対し)手段が存在しない”という
“状態”である、と私は考える。
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ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第2章より
『魔法』であれば何かしら呪文や儀式があったり、あるいは特別な力を秘めた
魔法のアイテムが必要であったりするものですが、『超能力』にはそれがありません。
せいぜい上の絵みたいに手をかざすだとか、漫画なら鋭い眼光に集中線でも描き入れて、
次のコマで何かしら派手なコト起こせば超能力の一丁あがり、というわけです。
とかく超能力というものは、結果に対する手段が極めて乏しいのが、
その表現や描写における最大の特徴でして、この“手段の不在”を超能力の定義として
結論付けたわけではないのですが、ただそれでも本質を読み解く上での重要なカギになると
考えてはいたようで、さらにこのように続けています。
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“手段が存在しない”とはいえ、全くのゼロである必要は無く、
“(結果に対する)著しい不等号”が確認出来れば、それも
超能力の範疇に含まれる。
(中略)
また“手段が存在しない”ということは、本来ならば“手段”に
よって解消・克服されるはずの種々の障害や制約からも解放され、
その影響を受けない、ということでもある。
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まず前者については『瞬間移動』と『高速移動』を例にとってみましょう。
また文中で度々目にする“手段”についても、もう少し補足が必要かと思われます。
“手段が存在しない”という理屈に則(のっと)ってみれば、
『瞬間移動』は確実に超能力と言えるでしょう。
足を動かすといった“手段”としての移動の動作はもちろん、
時間をも完全にすっ飛ばしているのに対し、『高速移動』の場合、
足を使うのはもちろんのこと、時間の大幅な短縮は可能であっても
決して0秒には出来ません。
では『高速移動』が超能力ではないのかといえばそんなことはなく、
このテの能力では大抵の場合、急激な加減速や旋回による衝撃など存在しないかのように
平然と振舞うのが基本ですし、事故れば金属部品が紙クズのように吹っ飛ばされるF1の
平均(2~300km/h)をはるかに超える速度を、しかも生身の体で叩き出しておきながら、
何かあってもせいぜい軽い打ち身や擦り傷、どんなに酷くても骨折程度のケガで済んでいます
(能力者本人に限る)。
それにこれは他の能力にも言えることですが、『瞬間移動』と『高速移動』どちらとも
エネルギー保存則による等価交換を、かなりの割合で無視しています。
同じ高速移動ってことで引き合いに出しますと、同名のDCコミック原作の海外ドラマ
『The FLASH(フラッシュ)』では申し訳程度にカロリー消費の話が出てましたが、
服が燃えるくらいかっ飛ばしたら低血糖じゃ収まらんでしょう。
まぁその辺の突っ込んだ話は空想科学ナンタラ系のトンデモ本がヤってりゃいいことなので
置いておくとして、物理(=宇宙)の法則や、人間が作り上げた社会秩序のための
法律・道徳・常識…世界の現実をがんじがらめに縛り付ける制限と制約の中では、
何をやるにしても自分の思い通りに、というわけにはいきません。
逆らうことは出来ても無視することの出来ない制限と制約の中で、それらを克服し、
解消するために必要なすべてが“手段”であり、普段の生活の中では無意識のうちに
こなしていることですが、欲求の増大に伴い、やることが派手になればなるほど、
その実現を阻む壁は分厚く立ちふさがり、達成は困難を極めていきます。
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人間の意思と現実との間には、厳然たる『壁』が存在する。
その壁を都合よく無視したもの、人間の意志、あるいは願望を
現実の結果として現出し、直結させたものが『超能力』である。
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前回でチラッと書きました通りに、この辺りでようやく
「理不尽で不自由な現実に対する人間の願望の発露」としての
超能力の話が出て来れましたところで、次の解説をばサクッと。
『鼻からピーナッツを50cm先に飛ばす』能力を考えてみましょう。
ちょっと頑張れば50cm飛ばすくらいなら誰にでも出来そうですが、
それがソトからの影響を一切受けないとなれば話は別です。
すなわち、飛ばす途中にどんな妨害があろうとも、
いかなる強固な壁に阻まれようともそれをブチ抜きすり抜け、
何があろうと絶対に、50cm先に届くとしたらどうでしょう?
結果はショボいものかもしれませんが、過程を切り取って見れば、
これもまさしく『超能力』と言えるのではないでしょうか。
“結果に対する手段の有無”という観点で捉え直してみれば、
『魔法』と『超能力』の違い、ひいては人がそれを「超能力である」と認識する、
その本質と正体が見え…たところで、それが一体何の役に立つのかといえば、
そこのところは未だによく分かりません。
〈続く〉
追記:
今回リライトの依頼を引き受けてくださいました加曽利りあらさんですが、
ご家族の皆さんと共に田舎への移住を数年前に実現されまして、「興味がある人のために」と、
↓ご自身の経験をコミックエッセイの形で出版(配信)されております。とてもよいモノでした。