(再録)ブログDE迷著『能力者憲章』・⑧(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

『能力者憲章』 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 ⑫(終)、

 

『超能力』とは“結果に対する手段の不在”であり、
また、手段によって克服されるはずの制約を、都合よく無視したものでもある。

『政治権力』は、“手段”を執行機関として意思決定者から切り離すことによって、
超能力と同じ状態を疑似的に再現している。

さらにどちらとも、それと関わる人間の行動や思考・心理傾向には、
多くの共通点が見られる。

以上の点から『超能力』と『政治権力』は、ともに本質を同じくするものとして
扱うことが出来る
…というのが『能力者憲章』での主張となります。
ようやくここまでたどり着いたって感じです。
なんか途中でエックスメンあたりにしれっとケンカ売ってましたが、
超能力を語るうえで、“表現としての超能力”をどこよりも発展させてきた漫画の世界を、
無視するテは無いということでしょう。実際かなり意識してたと思います。

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 『超能力』と『政治権力』を同質のものとして扱うことは、
 すなわち『政治権力』の抑制のための方法論と叡智の蓄積を
 『超能力』にも当てはめて考えられる、ということだ。
 talent(個性)やgift(天賦の才)などと考えているうちは、
 人間社会での平和的共存など、到底不可能である。

(中略)
 どれほど車の運転が上達しても、道路や標識・信号の意味を
 理解し、走行の判断の指標とすることが出来なければ、
 安全に運転することは出来ない。
 それどころか現状は、標識も信号も、道路の敷設すらも満足に
 されないまま、個々の判断で勝手に走らせているようなものだ。

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ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキー著
『能力者憲章』第4章より

 

↓とりあえずタイトルから全否定、お前らのは単なる“チート”だ

 

今だったら誰かさんのヒーロー学校にも噛み付いてそうですね。
しょーもないことを真剣に考えてきた自分を卑下する気持ちと、
その中で得た、ある種の天啓のような閃きへの自負心が、
批判的な文章のそこかしこから顔を覗かせているのに人間臭さを感じます。

とはいえ『政治権力』であれば、むやみやたらに使っていいものでないことは
誰にでも分かるわけで、本質を同じくするものであるならば、『超能力』もまた同様に、
規制と抑制の対象となるべきものであり、恣意(しい)的な濫用は非難されるべきである、

という理屈です。

ですからたとえば“弱肉強食”や“適者生存”をふりかざすよーな
いかにもヒーローものによくいるヴィラン(悪党)どもの主張に
ひとカケラの正当性もあるわけが無い
のはもちろんのこと、
オンナ釣るのにテレパシー使ってたマカボイに腹が立つのは
決して持たざる者の妬み嫉みからくる差別感情などではなく、
正義感に基づく正しい反応だ、
ということが分かります。

自分の都合だけで好き勝手に権力ふるうことが道義的に許されるでしょうか?
傲慢な選民思想丸出しの権力者はこの世に存在していいまともな人間だと思いますか?
磁界王(自称)のニートは人間を見下してますが、あんなのもはただのカッコつけの
高2病的露悪趣味と、棚ボタで手に入れた便利なチートで俺TUEEEEしたいだけの動機で
なンか言ってるだけ
のことなので、しっかりと全否定してあげた上で、完膚なきまでに、
ついでに皮肉たっぷりにブチのめして差し上げるのが物語的王道であり、
人道的にも正しい行いというものです。
 

歩くわいせつ物陳列罪のアバター顔ミスティークに
↓「服を着ろ」と言ってやったことだけは評価してますがね。

 

 

また、『政治権力』との同質性を改めて認識することによって、
彼(彼女)らへの不当な扱いとの明確な区別が可能となり、
ひいては超能力者の人権保護にもつながります。


裸眼で目を開けると破壊光線がダダモレちゃうからサングラスしてるのに、
それを分かったうえで笑いものにしてるなら、
↓零距離射撃で遠慮無く消し炭に変えてやればいいんです。

 

変身能力を使わない基本形が全身真っ青のアバター顔なら、
それを曲げてまで“普通の顔”とやらに化ける必要はありません。
(ただそれでも服は着ろ)

 

ヤれないからって壁抜け女に乗り換えた冷凍人間は
最低のクソ野郎だと今でも思います。

↓顔が似てるせいで危うくガレッジセールの川田まで嫌いになりそうでした。

 

能力を使ってもいないどころか迷惑をかけないよう心掛けているだけなのに、
それを笑いものにされる筋合いはどこにもありません。
尚、デッドプールに「腐ったアボカド同士がヤってデキたみたいな顔」と言ってやるのは
ルッキズムに基づく差別表現ではなく、単なる正直な感想です。

 

 

 

 

『超能力』も『政治権力』も、どちらも世のため人のために使われてこそのものであり、
そうでなければいけないのは誰もが納得出来ることと思われますが、
「政治権力もなんだから超能力もそうだ」という論調には、やはり異論があるかもしれません。

いわく『政治権力』は、選挙での当選を果たすことが必要であり、
つまり“国民の支持と信任を得た”というタテマエがあるからこそ、
それを裏切ってはいけないということで、当選はおろか立候補もしていない
『超能力』には当てはまらないだろうと。

ですが民主政治以前の、信任を受ける相手が“民”ではなく“神”であった時代から、
権力そのものに潜む危険、あるいは権力者としての振る舞いや行動を戒め、
その在(あ)り方を訴える寓話や言説は、それこそ世界中に存在し、伝えられてきました。

ダモクレスの剣、ノブレスオブリージュ、ジョン・ロックの『統治二論』
あるいは百家争鳴と云(い)われた春秋戦国時代の思想の中にもキリがないくらいでして、
権力の行使そのものが誰にとっても決して無関係ではいられない以上、岩に刺さった聖剣を
引き抜いてみせよーが、八つ首の大蛇をブッ殺してみせよーが、
あるいは選挙に出て当選を
果たしてみせたとしても、
権力者として求められることに何ひとつ変わりは無く、
“わかって”いようがいまいが、それを批判する権利はあまねく保証されていなければ
ならないのが道理なわけで、現代の民主政治は、相手を選ぶ権利と共にその責任の所在を
ハッキリさせた上で、それらを制度化したものに過ぎません。

今も昔も、本質は何も変わっていません。

さらに著者は、“超能力の存在が社会に認知され”“超能力者が社会の中で生活している”
設定の作品
についても、彼(彼女)らを取り締まる法律やら機関の存在が描写されることは
あっても、その具体的な内容…その機関が一体いかなる権限を持ち、どのようなルールに
基づいて取り締まるのか?ということについて、どの作品も相変わらず不明瞭なままで
あることを、車の運転に置き換えて指摘しています。

もしかしたら探せばあるのかもしれませんが、もしあったとしても、
その作品の中でそれらが健全に機能しているとは思えません。
平穏のうちに物事が解決出来たら話にならないからです。

といってもそれは能力バトル・超人バトルを成立させるために
制度不備や社会機能不全をわざと放置している
というより、
単に『次』を考えるだけのオツムが足りないだけ…なのかもしれません。

では具体的に一体どんなルールがあれば良いのか?
それについては、また次回にて。うまく書けるかどうか…。

〈続く〉

 

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