「何が嫌いか」でも自分を語ろう | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

 

 

ハリーポッターの何が面白いのかはいまだによく分かりません。

映画の映像表現が素晴らしいのは認めますが、原作の手柄ではないでしょう?

ついでに言えば進撃の巨人を面白いと思ってるヤツはネット工作の

捏造でなければ、腐った脳ミソに蟲が湧いた信者ビジネスに

カモられる類のアホ野郎であることに、疑いの余地はありません。

何が面白いと思ってるのかまったくもって理解に苦しむ状況は今も続いています。

 

こういうことはファンにとって決して愉快な話ではありませんし、

批判されたくない異常犯罪者予備軍で“自称”オタクのハンパ野郎とネット工作員どもは、

批判的な意見を見つける度に相変わらずバカの一つ覚えで

どこぞの打ち切り漫画のセリフとコマを大写しのコピペで念仏みたいに繰り返してるようですが、

「嫌いなものは嫌いだ」と、その根拠と共にハッキリ主張することは、

何が好きかを語る以上に重要だと思っているのは、今も変わりません。


どんなものでも“嫌悪”の感情は、その対象への“排除”の動機につながり、

やがてそれは必ず“暴力”を伴う“破壊”や“殺戮”という、

好ましからざる手段へと結び付きます。その流れを完全に止めることは出来ません。

全てを奪われて最後に残る手段が“暴力”だからです。

 

それでもどこかで歯止めをかける必要があるわけですが、

何が嫌いかハッキリしていなければそれも叶いません。

それに、仮に嫌われてる側に改善の意思があったとしても、

何が嫌われてるのか分からなければ改善のしようがありません。

 

何が嫌いなのか、その根拠と共に自分を語る意思表示は決して敵対行動ではなく、

互いの領分を侵さないための平和的な手続きの1つだと、そう考えています。

人の好きなものをバカにするつもりは毛頭ありませんが、

だからといって調子コイて見たくもないのに

ゴリ押しされるのはたまったもんじゃありません。

 

 

 

 大して面白くもない原作を素晴らしい映像表現で見事に誤魔化した優秀なスタッフに、

↓面白い原作がついてつまらないわけがありません。ファミリー映画の良作でした。