新聞小説「また会う日まで」(15) 池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」(15)11/1(443)~11/30(471) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

感想
前章の終わりで書かれた広島への原爆投下。

そのわずか三日後長崎へも。
そして八月十五日の玉音放送。開戦時もだが今回も原文丸コピペ。
更に前段階としてひらがな表記で前半の記述。全く脳のない作家。
水路部笠岡分室の面々を集めての利雄自身の宣言。
文書焼却の命に反して焼かないと決めた。その説明をするのに天皇行幸時に言われた「平時のために必須」のお言葉引用。

この辺り、天皇をダシにして自分の正当化だな。
文書はGHQの士官として日本に戻ったポール・ラッシュ経由でアメリカ水路局に引き渡されたが、その事で咎めを受けた様な記述はない。
本来なら重大な背任行為だが、敗戦でそれどころではないか。

予備役編入の辞令を受けた利雄が今までの軍歴を振り返るところで、自身の業績を羅列しながら「自慢と聞こえないようにするのが難しい」とのたまっているが、それを承知で一人称にしてるのに「愚痴るな」

ポール・ラッシュ経由でヨ子に仕事のオファー。手紙検閲の訳文。
自分にではない事の落胆が目に見えるようで、少しニヤリとする。
現地の様子見のため、先遣隊として洋子と武彦が東京に向かう。

次章は「希望と落胆」
軍歴が災いして職に就けないことへの落胆か。

年内には終わらんな・・・

 

あらすじ
終戦/敗戦(1~29 )

八月八日の夜、この町から十キロほどの町が空襲に遭った。

そこには軍需産業があるから。ここにはその種のものはなく、多分来ることはないだろう。狙いは正確。
予兆はあった。数日前敵機が撒いたという伝単(ビラ)に爆撃する都市名の予告があった。

長野、高岡、久留米、福山、富山・・・戦々恐々の民。

今夜は福山の番だった。

八月九日夕刻。本省からの電信。
ナガサキニシンガタバクダン」シナイハゼンメツノモヤウ」

息ができなくなった。広島からわずか三日後。

それも長崎!私の、そしてヨ子の町。悲惨な光景を勝手に想像。

我が身の事となり、この事態を真に厭わしいと思う。
家に帰り、ヨ子に長崎への新型爆弾投下の話をする。へたり込むヨ子。
鎮西学院も聖公会の教会も、造船所だってない。

この喪失を何とか心に伝える。

私は夕食の席で子供たちに静かに話した。
父と母にとって大事な町が新型爆弾で消滅した。
今は辛いがともかく祈りを唱えよう。

これ以上人が死なないよう・・アーメン。
その夜中、一人で祈った。この大きな厄災停止のためにお力が発揮されることを。主の御名によりて アーメン。

それからの日々を私達は息をひそめて暮らし昼夜空襲警報に怯えた。
爆弾が落ちるのも恐怖だが、人々の脳裏にあったのは大日本帝国そのものの運命。
行政を束ねる内閣、それを律する帝国議会の上に陛下が。

君臨せども統治せず。
だが二・二六事件の時には蜂起した者らを叛乱とみなした陛下。
今この国の苦境はその比ではない。国家の存亡。

国民に本土決戦の覚悟はない。

短い布告を書いた号外が配られた。けふ正午に重大放送 国民必ず厳粛に聴取せよ

家族に言い置き出勤。職場にも指示。

そして正午。君が代の奏楽後玉音放送
ちんふかくせかいのたいせいとていこくのげんじょうとにかんがみ・・・せんきょくかならすしもこうてんせず。

 


やがて新聞に正文が載った。
朕深く世界ノ大勢ト帝国ノ・・戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス・・・・
「世界ノ大勢亦我ニ利アラス」、ここなのだと私は思った。
言い訳、文飾はあるが戦争は終った。我々は負けた。

戦争は終わった。空襲はなくなり、防空壕に入ることもない。
主は「明日のことを思ひ煩うな」と言われたが、思い煩う事は多くある。
まずアメリカ政府の占領方針の内容。無条件降伏による強権提示。
笠岡分室の扱いはどうなる?。保身と責任回避に走るであろう官僚。

帰った私を迎えるヨ子。

次は勝てばいい、平和と繁栄で敵を見返すのです。
失職の事。軍人はあなたのアトリビュートの一つでしかないと言うヨ子。

天文学者で聖公会の信徒。天文学はともかく牧師は想像できない。
今日の放送に話題を変える。あれは御聖断。

容易なことではなかった。臣民の死の一方でご先祖への責任。

百二十四代目にして初めて他国による占領を見る天皇。

水路部笠岡分室を率いる私は八月十七日、主な部下を集めた。

無条件降伏の意味。これまで他国に侵略された事がなかった。

この世の終わりと思う者もいるだろう。
我々の身分がどうなるか、今は何も言えない。軍の運用は禁止されるだろうが、水路部は特殊な部門。海軍の名を冠しない「水路部」を名乗る。他と異なる戦後があるのではないか。
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私の言った「戦後」の言葉に皆が応答。戦争は終わった。
そして本省からの文書焼却の訓令を伝える。だがそれに逆らうつもりだと続けた。
1937(昭和十二)年三月二十六日、水路部への陛下行幸の話をした。

その時のご説明で望みを聞かれ、一度は艦を預かりたいと言ってしまった私に「海図を。6363、相模湾」と言われた陛下。

数字が頭に入っておられる。その海図が広げられる。

熟知しているが船を出すたび航路を書き込むと言われた。
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陛下は、秋吉はじめ水路部は平時のために必須だと言われた。
我々はこれからこそ役立つ部材。

海図を焼き捨てるなど到底出来ることではない。
戦時では抗命罪にあたるだろうが、それはないと考える。
責任は私が負うから、と関連文書を収め、封印をするよう指示した。
ほうっというため息が聞こえた。
正確な爆撃は、広く市販されていた地図によるもの。
だが地図・海図がなければ近代国家は運営出来ない。
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戦争が終わっても人々はしばらくは放心。

実感するには少し時間がかかった。
ソ連が兵を引き、北海道侵攻が回避された事に安堵。

甥の武彦夫妻と夏樹がいる。


戦時、敵戦車の前に手榴弾で飛び込むなどという戦法を策定した軍幹部を憎んだ。それらを散布した新聞・放送も同罪。
九月になり秋の気配が立つ。昔、鎮西学院にいた愉快な漢文教師。
「論語」を読み、「唐詩選」から李白や杜甫を読んだ。

その中の詩の紹介。
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時は静かに推移。食料も少しづつ市場に出る。

新聞が用いる「進駐軍」の言葉。
私はヨ子に海図・文書類を訓令に反し焼かない事を話すと

「それはよいご判断」
死蔵するのではなくそっくりアメリカに渡したいとの考えを言う。
その流れでヨ子が、あのポール・ラッシュ氏が帰ったとの話をした。

震災のあとYMCA再建のため日本で活動した人。
姉妹組織のYWCAでヨ子も知己があり、私も一度会った事がある。
開戦直後、留まりたい思い叶わず日本を離れたラッシュ氏。
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ラッシュ氏帰国時の肩書はGHQ高官。

占領軍総司令部 マッカーサー元帥の直下。

彼に手紙を届けたいが、多分嘆願書の山に埋もれるだろう。
YWCA経由、ヨ子の名で書いて欲しいと頼んだ。ヨ子がメモする。
1.自分の姓名ミセス・ヨネ・アキヨシ 2.夫はドクター・トシオ・アキヨシ 3.夫は聖公会信徒で天文学者、そして海軍少尉 4.所属は水路部の第二部長 5.夫に代わってこの手紙を書いています
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更にラッシュさんへの内容をヨ子に伝えた。
5.自分たちの仕事は軍艦以上に民間船の安全航行のためとの自負あり 6.帝国海軍が消滅しても水路部の仕事は続く 7.この笠岡分室に海図並びに文書を保管している 8.この町で家族と共に暮らしている 9.本省からこの文書焼却の訓令が届いたが、夫はこれに従わず 10.保管されている海図、文書類をアメリカの水路局に渡したい。平和の海で役立つ筈 11.これら文書を引きとり、水路局に届けて欲しい  そして項目の追加。
12.夫は海軍少尉だが、この文書引き渡しは戦争犯罪回避の意図ではない。それは主イエスがすっかりご存知のこと。
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1945年九月二十日、私は予備役編入の辞令を受け取った。三十一年の現役生活。短い戦艦勤務の後は勉学に励み、その後水路部での天文学。一定の業績は上げた。
「新天文航海表」は秋吉表と呼ばれ、それ以降「簡易天測表」まで改良された。一人ではできなかった。優秀な同僚との共同成果。

またローソップ島と北海道での皆既日食観測も成功。

運にも恵まれたが、それを支える技術の用意はあった。
予備役編入と同時に従四位を授かり、三ヶ月前には勲二等瑞鳳章を頂いた。同時に海軍中将への打診を受けたが辞退。

それには値せずと言った。
海軍の昇級は大過がなければ半ば自動的に進む。

もしも死んでいなければ。
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なぜ中将への昇進を断ったか。業績には自信があり大過もなかった。だが私よりハンモックナンバーが上の十五名のうち事故、戦死が六名。生死不明もいるだろう。
脳裏に住みついているのは親友だった加来止男。

卒業時のハンモック・ナンバーは四十三番だったが、私に歩調を合わせて昇進し「飛龍」の艦長になった。
そして「飛龍」と運命を共にした戦功により、特進で少将となった。

そんな加来が得た少将という地位に、私は陸上勤務で到達した。

階位など問題にしないが、加来を出し抜くわけにはいかない。
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十月になると笠岡にもアメリカ兵がやって来た。人々も次第に慣れた。
アメリカ兵の役目は武装解除の確認程度か。野戦用の車に軽装備。
私が応対して当地の状況を説明。

その後の巡回の通訳を頼まれたのでヨ子を紹介。
道の途中、この若い下士官が死ななくて良かったと思った。

この子は生きのびた。
息子を見るような思いでその背中を見た。
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その夜、アメリカ兵を案内した報告をヨ子から聞く。面白かったという。
アリゾナ出身のアンドリューは軍に入るまで魚を食べた事がなかった。
子供に会いたいと言うので中学校に行くと、その授業の教材が「ロビンソン・クルーソー」

乞われてアンドリュー・オブライエン軍曹が朗読。素晴らしい授業。
私は彼の「教える・学ぶ」行為への飢餓を感じた。

戦争は本当に終わったのだ。
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数日後アンドリュー・オブライエン軍曹がトラックと兵を連れて来た。

それは私が要請した海図の引取り。
それらを運び出した後、アンドリュー軍曹は受領証を出した。

略奪でない証明。
翌日、私は海軍省に報告の手紙を書いた。
全ての書類を焼却せよとの命令を実行しなかった。

海図、航空関係の文書は平時に役立つものであり、天皇陛下のお言葉でそれを再確認した。
よってこれらを私の独断で進駐軍-アメリカ水路局に引き渡した。
この行動の責任はすべて私にある  海軍少将秋吉利雄
敗戦という結果を招いた者たちへの怒りで米軍の威を借りたのかも知れない。
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義弟の福永末次郎が武彦を連れてやって来た。久しぶりで嬉しい。

末次郎は後妻のチヱノと神戸で暮らしていたが岡山に疎開。更に備前矢田へ。この笠岡からは七十キロ程度だが、満員の貨物車でようやく着いたという。
武彦を迎えて喜ぶ子供たち。洋子にとって従兄の武彦は十一歳上。

その下は順に光雄九歳、直子八歳、輝雄六歳、紀子はもうすぐ四歳。
我が家は両親が風邪気味、洋子はカリエス初期だが遠来の客に皆元気をもらう。
二人はこの町の旅館角屋に泊まった。
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末次郎と武彦は二日ほど町を散策し、その後末次郎は矢田に帰り武彦は残った。
この地で親しくなった黒田氏が、友人の農家の柿狩りに誘ってくれた。
トラックに乗って行く。

秋吉家で乗ったのは私、ヨ子、光雄、直子、輝雄に武彦。
丘の斜面に林立する富有柿。山ほどの柿を出されてひたすら食べる。
そして豪華な昼食。

赤飯、松茸のおすまし、胡瓜と蟹の酢の物、松茸焼き・・・
篤農家でもあろうが、徴兵で働き手を失い大変だっただろう。
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柿を食べに行った翌日は海遊び。これも黒田さんの紹介。

蛸壺漁をしている所。港まで一里ほど歩いて船を訪ねる。

若い船長が和船で瀬戸内海に乗り出した。
目印のブイまで来て綱を手繰り、素焼きの壺を上げて確認し戻す。
二十に一つぐらい蛸が入っていると引き出して、船長が蛸の目と目の間を噛むと動かなくなった。

彼が説明する蛸が壺に入る理由。海はつくづく面白い。
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ある日、武彦を誘って古城山に登る。

村上水軍にも城があった事に驚く武彦。
平和下では城も軍人も不要。お前はこれからどうするのだ?と問うた。
東京で職を得て澄と夏樹を呼び寄せるという。

専攻がフランス系で仕事があるか?
伯父さんはどうされるのですかと聞かれ、しばらくは遊ぶと答える。
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数日後、私は港へ釣りに入った。

動かない浮きを見たままぼんやり考える。

しばらく遊ぶと武彦に言ったものの、家族の衣食住や養父の借金もまだ残る。予備役の海軍少尉として恩給はつくだろうが、それだけには頼れない。天文学者の職が最も望ましいが、現実にそもそも進駐軍が支配する日本でその職があるか?
牧師としての勉強もしていない。私はもうすぐ五十三歳。
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東京の三光教会の日曜学校で十年。

水路部の井の頭分室では女学生と接した。
そんな中で思いついた女学校の教師。

帝大卒業の時に得た教員の資格はある。
福岡か佐世保、いっそ長崎か。原爆で焼失した女学校の再建。

アメリカの支援も得られよう。そこは駆け引き。

ヨ子、YMCA、ポール・ラッシュさん、聖公会の縁。
実現出来るかも知れない。だが釣りは狙った鯔はかからず。

凶兆だろうか。
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釣果は坊主。ヨ子は今後のことについて聞かれ、九州に帰ろうかと話すと気乗りしない様子。十八で進学のため上京してからほとんど帰郷せず。半分ほどはアメリカ人か。


長崎での女学校再建案を話すが、聖公会を頼るならまずは東京だと言うヨ子。だが帝都では、軍人の衣がまとわりつくのが鬱陶しい。
28
十一月の初め、ヨ子がGHQからという仕事の話を持って来た。

彼女自身の。
CCD(Civil Censorship Detachment:民間検閲支隊)国内郵便の内容検閲のための英訳だという。多分ポール・ラッシュさんの紹介。

本来やりたかった仕事だろう。「ずっと東京か」 「はい」
女が外で働く事に少し意見すると女子英学塾創設の津田梅子さん、西洋式音楽教育を広めた瓜生繁子さんの名を出した。
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更に事例は続く。ヨ子が出た東京女子大学を経営した安井てつさん。
長崎の大浦慶さんの事を聞かれる。知らない。
日本茶を輸出する事業を興したという。オランダ人にお茶に見本を託したのが功を奏してイギリスとの交易を開始した。生涯独身。

迎えた婿を追い出したという。
今は浪人の私。ヨ子の勢いを止める力はない。

一家をあげて東京に帰るか。
先遣隊として洋子と武彦を送り出し、その間にこちらも撤収の準備。
東京に戻ったら私も天文台や大学へ猟官してみようか。
 

 

 

今日の一曲
「The 'In' Crowd」 Ramsey Lewis Trio