新聞小説「また会う日まで」(13)池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」(13)9/1(384)~9/30(412) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

感想
時期としては昭和十九年春から秋にかけての半年程度が描かれる。
水路部の疎開先を立教高等女学校にしたはいいが、ミッション系の学校で空襲は避けられるだろうという打算。

校長との話が「水戸黄門」での悪だくみ相談みたい(笑)
手回し計算機は、入社当時「遺物」として見た事がある(仕事には使えず)高校の時にはまだ計算尺の授業があった(一方でFORTRANの授業も)ひたすら計算してマス目を埋める作業を女学生がやっていたとは知らなかった。
その合い間に神風号の東京-ロンドン飛行、「航研機」「スピリット・オブ・セントルイス」などなど、飛行機の話が多く出て来て、個人的には楽しかった。

そして女学生たちの日常風景を演出するため、疎開して行く少女への寄せ書きを集めたサインブックの内容がくどくど説明される。
ところが世間は狭いもので、この寄せ書きをもらった酒見綾子さんが後年書いたコラムが、この小説を語るサロンで見つかった→コチラ
秋吉利雄が重ねて「陸軍水路部ではなくただの水路部」と言っていたのに、この元少女は「陸軍水路部」と断言。

このコラムの他の文を読むことで65年振りの同窓会にこの人が出席し、その寄せ書きのコピーが関係者の手に渡ったことが分かった。

そして後半は利雄の甥武彦が、伴侶となる山下澄を紹介し(つまり二人は作者の両親)、のちに結婚するまでが語られる。
この二人をどういう意図をもって登場させたのか?次章を待つか。


あらすじ
立教高等女学校 1 ~ 29

水路部の責務は全ての航海・航空のための情報の提供。
開戦により戦域は広がる。測量班も戦況の悪化に伴い戻らぬ者が増えた。トラック島に向かう「平洋丸」「鎌倉丸」とも海没した。
今では水路部陣容は三千名を越えており、私は第一部と第二部の部長を兼務。亡くなった者には知った顔も少なくない。

水路部全体を覆う恐怖感。海域全体で劣勢に立たされても人員を出さざるを得ない。それが戦争。

各部局で疎開の言葉が出るようになる。疎らに開く。空襲への対策。
敵の最新の爆撃機は四発で大型。少々の銃撃にも平気。


開戦間もない頃一度だけ空爆を受けたが、今はずっと深刻。
水路部でこの方針が決まったのは今年の二月二十九日。
交渉すれば理解は得られる。さしあたって私の部署をどこに移すか。

疎開の計画。縁が深い第四課をどこに移すか。

課長の塚本裕四郎に相談。御縁のあるところで、と立教高等女学校を勧められた。井の頭線の三鷹台。
聖公会が設立し、知人も多いが、ここの生徒を巻き込むことになる。
だが他機関に手を出されるよりは自分の管理下に置きたい。
塚本が言う補強。近隣に軍需工場がないこと。誤爆の心配が少ない。

まずは書面で話をしようと話すと、数年前あそこを卒業した浅岡済子を使者に立てましょうと言う塚本。権柄ずくの接収ではない。
ただし戦況は切迫。そろそろ「玉砕」の言葉が聞かれる。

全滅とは言わず「撤退」を「転進」と言うが如く。理学者でもある塚本だからこそ話せる。
食料不足も話題に。だが肩身が狭いと言いながら特配は受ける。

ラバウルに居る友人から葉書が来たという塚本。よくも届いたものだ。
食料自給に励んでいるとのこと。陸軍などはそれが前提。

だがアメリカは違うらしいとMから聞いた話をした。またその友人が生還出来る可能性を言った。敵は脅威となるところ以外は放置の作戦らしい。多分ラバウルは取り残される。将棋盤の隅のように。

翌日、私は職員の浅丘済子を呼び出した。聡明そうな顔。
母校を水路部の疎開先にしたいとの申し入れの使者を頼みたい。まずは建物を借り、出来れば生徒たちに水路部の仕事を手伝ってほしい。
多分できると思います、との返答。彼女も信仰を持っているとの事。
戦争になってからは礼拝が禁じられ、素早く祈る程度だという。

使者を依頼した浅岡済子が立教高等女学校から帰ってきた。門馬校長に話したところ、お受けする前提で話を伺いたいとのこと。

「わかった。わたしが行こう」
門馬常次さんは私より二十歳ほど年長。校長になって二年あまり。
まこと温厚な紳士。挨拶での力のこもった握手。
お願いの第一は建物を借りたい。第二に生徒たちの労力も借りたい。
計算主体の机上の仕事。集中力が必要だが、彼女らの得意分野か。
沈黙の門馬校長。迷う様子はなく「お受けします」と言われ安堵。

こちらとしても有り難い、と言う校長。他施設も軍需工場化し始めている。また、生徒を工場に出すよりはいい。更に校長は続ける。
この学校を三十年に亘って運営し、のちに帰国されたキャロライン・ヘイウッド先生が、ここが聖公会のものだと軍に伝えているでしょう。
「ここに爆弾が降る可能性は低いと・・・深謀遠慮ですね」
生存が第一。生徒たちには戦争後の人生もあるのですよ、と校長。
「同じ思いだから憲兵隊に通報はしません」と私。



ヘイウッド先生がここを去る時、線路わきにまで見送りが並び、電車が出発時速度を落としたという。聖マーガレットの体現だという校長だが、その人の事を知らない。
聖マーガレット礼拝堂に案内される道すがら、その話を聞いた。
十一世紀のスコットランド王妃。聖地巡礼用の渡し船を設置された。
文彦が劇にした「きりしとほろ上人伝」では男が肩車で渡した。
建物の正面に立つ。これは美しい。中で行われる全てを包容する。
10
数日後、私は女学校の講堂で生徒たちを前に話した。
手伝ってもらうことになる水路部の業務は、海の地図を作ること。
自分の位置を知るのに天測を行うが、緯度と経度を知るには多くの計算を要する。そこで観測結果のみから位置が分かる「天測暦」が重要。
だが数字が一つ違うと飛行機が落ちる。一字の間違いも許されない。
君たちが担うのはそういう仕事です。
11
話は続く。
仕事には計算尺と手回し計算器を使う。着実に手を動かして欲しい。
そして水路部の浅丘さんが、準備した刷り物を皆に配った。
航海・航空年表の資料となるこの暦は、誤算の許されない難渋な作業。それらの作業を改良し、十年に亘る努力の結果、誤算は大幅に減り、労力は半減した。
この文書を読んでも、皆は理解できたか不明。
それでいいのだ。今は誤算が許されない事を理解すれば充分。
12
立教高等女学校に水路部の井の頭分室が開設された。
機材が搬入される。最も大事なのは計算器。社名は「タイガー」舶来と思わせる意図だが、その必要もなく優秀。


十人単位で班を作って使い方を教えた。その後生徒たちに勝手にいじらせたが、互いに上手に教え合う。この年頃は覚えが早い。
13
私は生徒たちの仕事ぶりを見に行った。二つの推算手法を用いる、塚本裕四郎考案によるもの。縦横の列に生徒たちが座り計算器を扱う。
用意された書式の、記載された数字の間を計算により埋めて行く。
そして手順に基づき検算。天体は太陽と月、それに主要な恒星。
地名は日本の代表都市、トラック島、マリアナ諸島の島々。位置計測とこの表の組合せで、飛行機は何千キロ先でも帰投できる「はず」だ。
14
お姉さん的存在の浅岡済子に生徒たちの事を聞くと「元気溌剌」 

本を読む暇などあるかとの問いには「風と共に去りぬ」と「紫苑の園」を回し読みしているという。
家に帰ってその本のことを洋子に聞くと、毎晩直子に読んで聞かせているとの事。少女の群像ドラマの様だ。この戦争とは別世界。
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私は洋子に「紫苑の園」を借りて読んでみた。

寮に暮らす少女たちの日常が描かれる。朝日新聞社の神風号の事が出てくるので、時代は七年ほど前の昭和十二年頃。
あれは壮挙だった。陸軍の九七式司偵で東京からロンドンまで飛行。


特に関心があったのは、彼らが我が水路部の航空暦を使ったから。思えば当時は平和な空だった。「紫苑の園」の中で語られる信仰の話。
信仰を持つと世界が狭くならない?との問いに、広い自由な世界が開けると言う。
そうだ、信仰は人のふるまいを制限するのではなく解放するのだ。
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十二月、中島飛行機の武蔵野製作所が空襲を受けた。立教高等女学校からは数キロ。学校に被害はなかったが、今後頻繁に起こるだろう。
電車も停まり、遠方の子らを徒歩通学の子の家に泊まらせた。
そんな事も女学生にとっては楽しみにしてしまう、と浅丘済子は言う。
即興の芝居を作って遊ぶとの話。芝居好きの文彦がもしいたらと思う。
今は芝居どころではないが、この子たちには戦争後の時代がある。
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三光教会へ通うのも難しくなった。まず交通機関。空襲警報となれば電車は停まり防空壕に駆け込む。教会の前には特高らしき者。

困難の転嫁先は、例えばキリスト教徒。
ある日の礼拝後に老婦人が声をかけて来た。航研機パイロットで有名な藤田雄蔵の縁者。既に戦死しているが、その伝記を羽仁説子という人が書き出版されようとした時、出版不承認になったという。

理由は彼がクリスチャンだったから。
出版が叶わなかった一冊を手渡された。人が集うとのギリシャ語「エクレシア」を伝える私。信徒が二人いればそこは教会。
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藤田雄蔵という名は知っていた。水路部の蔵書にもあった彼の「航空の技術と精神-藤田雄蔵中佐遺稿」を読み返す。

彼の父親は郵船勤務の関係でロンドン在住の経験もあり、信仰も持ち帰ったのかも知れない。
羽仁説子さんはその事をどうやって知ったのか。教会の誰かから?
今、私たちはひっそりと手を繋ぐ。迫害は強まり、光明は遠い。
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藤田雄蔵は陸軍パイロットで、無着陸周回飛行の世界記録を樹立。
使ったのは「航研機」 無給油で遠くまで飛ぶという一点のために一機だけ作られた。


木更津、群馬県の太田、平塚の航空灯台を結ぶ一周400キロを二十九周した。11,651キロを六十二時間あまりで飛行。
この壮挙に国民は熱狂。その前年に立川-ロンドンを飛んだ「神風号」の記憶もあっただろう。その後1939年に毎日新聞社が「ニッポン号」で北米から南米、アフリカ、ヨーロッパを回った。飛行距離五万キロ超。
きっかけは、ローソップ島の日食観測ではなかったかと密かに思う。
航空機の威力はあの時期充分に知っていたが大艦巨砲に固執した。
20
私の業務はもっぱら航路にあるが最近では飛行機相手が多くなった。
藤田雄蔵少佐が中支で戦死したのは、悪天候で着陸地を飛び越し敵陣からの銃撃を受けたため。飛行機が自位置を知ることの重要さ。
リンドバーグの大西洋横断記録を、興味を持って調べた。

ニューヨークからパリまでの無着陸飛行が行われたのは1927年。資金を募って飛行機を調達した二十五歳の青年。
「セントルイス魂号」という機体は操縦席の前まで燃料タンクで占められていた。六分儀もなく、地図を多用して地形を見ながら飛んだ。
三十三時間半、5,800キロを飛び、熱狂的な歓迎を受けた。


21
1944(昭和十九)年初冬、井の頭分室は戦況悪化の中でも業務遂行。
私たちが様々な障害の中で作っているのは「暦」
数年先を見越して書かれ、その日が終われば価値をなくす。だが海、空を行く者に必要な準備。故に「海軍水路部」でなく「水路部」
夕方、帰宅前の私のもとに来た浅岡済子が小さな冊子を見せた。
生徒たちの一人が疎開で離れる時に作った寄せ書きだという。
22
奈良に疎開する酒見綾子へのサインブックを手に取った。
<原田慶子> <上原シゲ子> <山本敦子> <佐藤道子> <鵜養愛子> <石川栄子> 

それぞれに自らの愛称を併記し、茶化しながらも友の無事を祈る。
石川栄子などは奈良にかけて、阿倍仲麻呂の歌をもじって歌った。
23
1944年の晩夏に武彦が許嫁を連れて挨拶に来た。

 

山下澄というしっかりした感じの子。
手紙では伝えられていたが、会うのは初めて。
なれそめは武彦がフランス語を教えていた時の生徒だったという。
武彦は話すうち彼女の詩作の才能に気付き、仲間に入れた。
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結婚式への出席を乞う武彦に「もちろん」と答える私とヨ子。
彼女は日本女子大の英文に籍があり、今は勤労動員で日本赤十字社にいる。生まれは神戸だが、父母は出身の北海道で苦労したとの事。
神戸で生まれたのは父の仕事の関係であり、姉と妹がいる。
妹は、疎開を兼ねて帯広へ行った父母について行き、姉は理科で数学を修め九州の延岡で女学校の先生をしている。

この家系も理科と文科だと知り、嬉しく思う私。
25
英文学部の勉強内容は、シェークスピアの購読が面白かったという。
英語劇の上演も行ったとの事。文彦がいれば話が弾んだだろう。
英語に対し世間が冷たいのを、ヨ子が私を引き合いにして弁護した。
英文が良妻賢母育成から一番外れ、学者にもなれないと言う彼女。
26
式は九月二十八日、飯田橋の大神宮で行うと言い帰って行った二人。
ヨ子が教会の式でない事を咎めたが、トヨの死後父の末次郎が主から離れ、武彦も自らの判断に従った。人は時に信仰を離れると諭す私。
航海に例えて話す私に、牧師さまのお説教みたいな、と言うヨ子。
27
武彦と山下澄との婚儀が行われた。私とヨ子は、洋子も連れて列席した。亡き文彦の代わりとの思い。母は違うが私の家で育った兄妹。
末次郎との久しぶりの再会。花嫁の家族三人も北海道から上京。

父の山下庄之助が挨拶に来る。帯広でマッチ工場を経営。

信仰はないがキリスト教は身近にあったという。
北海道にもいたという父の岩吉を思う私。
28
年末、例の店でMに会った。合成酒に澱粉用の芋。話は暗い。
フィリピン沖で「武蔵」が航空機に沈められ、空母に改造された「信濃」は回航中に魚雷で沈められた。ミッドウェーで加来が「飛龍」で死んだ1942年から二年半。
負け戦ばかりで、この窮鼠に猫を噛む力はない。
29
もっと嫌な話がある、とM。特別攻撃の制度化と拡大。
戦闘機などに爆弾を搭載して敵に体当たりする。戦果にはつながる。
名目は志願だが、熱狂の空気に乗せられる若者を見越した。


旧約聖書にある「マサダの戦い

その名の砦に二年耐えた者たちが陥落した時、抵抗はなく皆死んでいたという。奴隷になる道を自ら閉ざした。
「それは狂気だ」とMが言う。旧約の神エホバだから許されたが、新約のイエスは認めなかった。だから世界に広まった。原理は「愛」