新聞小説「また会う日まで」(2) 池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」 (2) 9/1(31)~9/30(59) 
作:池澤夏樹 画:影山徹 

感想
亡くなる前の、あらすじ的な「終わりの思い」が済んで、これからが小説の本編。
前章でも疑問に思っていた彼の享年についてだが、今回しっかりと生年月日が書かれており、世間の情報として存在しているそれからは丸3年後の生まれ。
膨大な資料を元に書いているとの事だから、こちらが正しいのだろう。秋吉利雄は作者の大伯父になるわけだから、この小説化を機に市井の誤った生年月日を是正する努力をなぜしなかった?
文中で満とかぞえの違いについての記載があるが、丸3年の差はそれでは説明出来ない。
それからこの主人公の、キリスト教に対するスタンスが良く分からない。父や妹ほど強い信仰心はなく、鎮西学院に入った時には一息ついている。
鎮西を出て海軍兵学校に入ってからも、時折りキリスト教に対する記述は散見されるものの、特に記憶に残るようなエピソードもなく、拠り所としてのイエスが見えてこない。

チヨがしてくれたキスは、いかにも「盛った」感じがする(笑)
あの時代に女学生が2、3年も会っていなかった従兄に、いきなりキスなんかするかいな(日記に書いてあった?)

海軍兵学校での生活は、それなりに楽しく読んだ。

特に初めて受けた三角法の授業が、後の彼の業績に深く繋がっていることには、素直に納得出来る。
卒業証書を授与してくれた伏見宮様は「伏見宮博恭王」のこと。

皇族でありながら、軍部にかなり影響を与えた人のようだ。
しかし海軍兵学校時代の話をしている時に、その26年後の話を引っ張り出して「そもそも三国同盟がおかしかった」なんていう言い方には興醒め。結局前章の「目線」そのままなのがちょっとイラ付く。
読んでいて熱を感じないのはそのせいか。

挿絵の話
乗艦実習での表現がバツグンにいい。

写真をレイヤーにしているのだろうが、省略のセンスが素晴らしい。

イラストレーター系のいい部分が出ている。
それでいて演芸大会の、くだけたタッチも「イケる」

<海軍兵学校> 1~29

私は1892年11月18日に生まれた。

普通ならば明治25年と書くところだが、天文学者として世界共通の暦を前提とした。また主イエスに関わる暦法でもある。
数え年の矛盾。私は生まれて44日後には2歳と言われた。

小学生の時に違和感を感じ、以降は満年齢での思考。
11歳の時に日露戦争が始まった。明治大帝の崩御で大正となり、更に昭和へと変わった年に私は東大の理学部を卒業した。
かく社会はそこに生きる者を包み込む。

人は、親を辿ればどこまでも遡ることが出来る。「マタイ伝福音書」は主イエスの系図から始まっている。アブラハムから数えて42代。ヨセフは生みの父ではない(処女懐胎)が、父系として一筋の道で示される。
だが父と母、夫々の祖先が枝分かれすれば、過去ほど人の数が多い事になる。それが疑問だった。
私は長崎で生まれ父は井上岩吉、母はナカ。ナカの父は吉広徳平、母はフサ。数代辿るのがやっと。
父、井上岩吉は自ら洗礼を受けてキリスト教徒となった。教派は聖公会であり、初めて日本に入った当時、切支丹は禁教だった。

親たちの話。最初の宣教師C・Mウィリアムズ主教が長崎に入った安政6(1859)年は禁教であったから、主の教えは密かに広められた。


当時の清貧を語る逸話。

仕える者が薪ストーブを勧めても「イエス様の時代にはなかった」
料理人が粗食に耐えきれず辞職を申し出た時、材料買い直しで余った金を渡され、その者は感激してこの国で最初の信徒になった。
父 井上岩吉の生まれは福岡の水城。

母は吉広ナカ、生まれは二日市。
岩吉は31歳の時にハッチンソン師により洗礼を受け、熱烈な信者になった。
親は反対して、長男にも拘らず家督を継がせず。

岩吉は妻子を連れて北海道の開拓民になった。
苦労を重ねた末に九州へ戻り、私はその後生まれた。
私には姉のヒデ、兄の新(あらた)、そして妹のトヨがいる。
父の生涯はひたすら信仰の普及に費やされた。

父の伝道熱の源は何だったのだろう?
まず自分が受洗し、その後妻にも。反対されて北海道岩見沢に移住。開拓地で苦労した後、再び長崎に戻った。
私が海軍兵学校で学び、その後戦艦「安芸」に乗務した頃、父は佐世保で募金のために奔走し、最終的に福石町の教会設立を実現した。
妹のトヨが父を受け継ぎ聖公会系プール女学校、聖使女学院を経て、伝道師となった。私は父や妹ほどの信仰心はなく、長崎の鎮西学院の寮に入った時は少し息がつけた。
その後海軍兵学校に入ってからは、むしろ信仰を隠し一人前の軍人になる事を目的とした。

私は長崎の尋常小学校を出た後は、思うところがあって自習で中学の教科を学んだ。

そして兄新と共に16歳で信徒安按手式を受け、信徒となった。
自習では限界があり、友人が鎮西学院を紹介してくれた。
二年の二学期の編入試験を受けたが失敗。院長 笹森先生の助言で一学年に入り、二ケ月後飛び級の試験を受けようとしたが制度廃止を告げられる。
院長に抗議した結果、各教科担当教師に飛び級試験の実施を差配してくれた。

その後試験を受け、何とか三学年に入ることが出来た私。
楽しい日々。知育でも体育でも自身の成長を実感した。
ここでは英語教育に多くを割いていた。

スミス先生の教育により普通に会話が出来るようになった私。
学費のいくばくかを負担するため、外国人の家の窓拭きなどをした。

仕事を紹介してくれた牧師の牛島惣太郎先生は、信徒按手式に立ち会ってくれた人であり、生涯に亘って信仰の師となるお方。

今の妻との縁もこの方に由来する。

私は鎮西学院を首席で卒業した。

親は喜んだろうが、帰天に持参出来るものではない。
Always be humble! (常に、控え目にしてください)
総代として答辞を読むという責務を与えられ、下書きの添削を教師に仰いだ。何度も練習。
内容意訳
明治44年3月24日、鎮西学院第19回卒業証書授与式。知事閣下他の臨席に対する謝辞。

不肖利雄・・・我が国は維新以降二つの大役を経て発展。人材を求める声が大きい中、国家の要求する青年として活動し、我が学院の精神を貫徹・・・  この先は水で滲んで読めない。

手元にある答辞の原稿(学校で印刷されたもの)
最初に卒業生の姓名一覧。成績順だから私が筆頭。

以下懐かしい名が続くが、姓の上に私なら「福岡県平民」。中には「佐賀県士族」の表記。一割弱が士族。

「平民」の言葉に不利益を感じたことはない。

立身出世は、全て本人実力の世界になっている。
一方、まだ埋もれて使われない才もある。それは女たち。

前の妻チヨ、今の妻ヨ子とも才女。
更に水路部は女子の計算能力に頼っていた。

だが女の大半には教育機会さえ与えられない。
思い出されるのは、甥武彦の愚痴。

妻澄子の母方が士族であり、父母間の身分差を嘆いたという。

鎮西学院に入り飛び級の猛勉強をしていた頃、私の養子縁組の話が進められていた。
遠縁の秋吉という家。

旅館を営む当主徳三郎は二人の妻と死別し、三人目の妻がロク。

長女ハル、次女クラがいるが相続の関係で男子を望んだ。
井上の家では兄の新がいるから、私はいずれ家を出る身。
それを受けると答えたが、婿養子は断った。もし娘が婿養子を取ったら籍を抜く事も可。私はその頃から海に出たいと考えていた。
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港町の長崎。江戸時代から出島にオランダ船が出入り。

遠足で登った稲佐山からは港が良く見える。


海に出るには船。外国にも行ける。

そこで商船ではなくなぜ軍艦を目指したか?
十二歳で聞いた日露戦争勝利の記憶か。

とにかく海軍兵学校を受験すると決めた。
生みの親は「いいだろう」、養父母は「大いに賛成」だった。
日露戦争から6年を経て世は平安。

それでも海軍には冒険心をそそられた。
だが試験は容易ではない。募集120名に対し応募は三千名。
意気軒昂の若者に対し教会の牛島惣太郎先生だけが、軍人は人を殺す場合もありモーセの第六戒に違反する、と忠告。
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親に頼まれた用事で福岡に行き、夜は叔父の乙吉の家に泊めてもらった。久し振りに会い、大人びて見えた従兄妹のチヨ。
小倉高等女学院に行き寮生活だが、今は夏休み。海軍兵学校への受験を知らせると、すっと寄って来て一瞬だけ唇を合わせた。

 

運を分けてくれたのだという。
生まれて初めてなのよ、と言って部屋から出て行った。
翌日の朝食時は目も合わせず素知らぬ顔。女は何を考えているか分からないが、それでも試験への自信になった。
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熊本の入試会場に行き、受験者の多さに少し怯んだ。
初日は身体検査と運動能力検査。星好きだったため、まず視力には自信があった。他の身体検査や運動能力検査も問題なかった。
二日目からは学術試験。受験のための予備校があったが、学費の余裕もなく自習で済ませていた。
代数と英語はすらすらと機械的に解けた。

英語の問題とそれに対する自分の解答。
試験結果はその日のうちに掲示される。落ち着かなかった。
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翌日は幾何、物理、化学だった。

受験生は減り、試験場が広々として来た。
ひねった問題にてこずる。夕方、門前に結果が発表される。

落ちた者の名札掲示。私の名札はなかった。
学術試験三日目は国語、歴史、漢文。

さほど苦手ではなくこの日も残ることが出来た。
最終日は口頭試問。三名の試験官の前での対応。

鎮西学院での答辞を思い出しながら慎重に答える。
最終結果は家で待つ事になる。
当てにせず待つしかない。落ちたらどこへ行こうか。
電報で通知が来た。採用予定との結果。決まりに従い返信。

「エタジマヘサンジヨウイタシマス」
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送られた手引きに沿って江田島に渡った。桟橋で出迎える一号生徒(最上級生)。彼らが寮生活を指導する。

 

生徒館の前で全員による記念撮影の後、衣服一式の支給。着て来た衣類は送り返す。
その後講堂で山下源太郎閣下の訓示。
剛健な体躯を持つこと。高潔な徳望を備えること。

明敏な叡智を具備すること。 
その上で言われたのはクラスの団結。それは卒業しても一生続く。
敗戦を迎えた今になっても、確かに結束は固い。この仲間意識が、結果的に国よりも海軍を大事にしたのではなかったか。
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兵学校では、我々新入生は三号生徒と呼ばれた。

規則を体で覚えるまでは、良く一号生徒に殴られる。
五時半の起床から、分単位での行動が課される。

洗顔、体操、朝食を経て生徒による一個分隊の行動開始。
軍艦旗掲揚の儀式は、全員を感動に誘う。

私は確かにこの仲間と一心同体と思った。
本来は神の国に属していた私の心は、その瞬間はそれを忘れていた。
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正服と略服、夏服の他、帽子、靴など見た事もないものばかり。
何とか身繕いが済み、分隊伍長に一号生徒が訓戒を垂れる。
貴様らはいやしくも大日本帝国の海軍兵学校生徒。

同じ歳の連中に比べてお前らは破格の対応。それはお国が貴様らの将来を期待している証し。選良として勉学と訓練に励め。
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日々が新しかった。知らぬ知育・体育の襲来を必死で吸収する。
午前中は普通学。国語、漢文、英語、代数、幾何、三角法、物理、化学、地理、歴史、倫理。
授業は早く、中学で一年かけて学ぶものを半年で済ませる。
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午後は訓練だった。水泳に始まり、体操、陸戦基礎の不動による早足、駆け足、射撃。その他柔道、剣道などなど。
概ね大過なくこなしたが、相撲は苦手だった。意外に弓術が良かった。
三高の寮歌にある「~高嶺の此方ゴビの原~」の歌詞で思い出す、大谷探検隊の成果。こういう話が出来る仲間がいた。この話題を新聞で読んだという私に、Mがゴビ砂漠に行きたいと言った。海軍に来たのは七つの大洋で我慢するため。そんな話からMは終生の友となった。
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三角法の最初の授業で、教官が「ある男が南へ三里、東へ三里、更に北へ三里歩いたら元の場所に来た。そこはどこか?」と質問。

考えが閃き、挙手して答えた「北極点です」


「航海術で必要になるのは球面三角法。

三角形の内角の和は平面だと二直角だが、球面では先の様に三直角にもなる」私はこれを美しいと思った。
マイルの定義も教えられた。海里は緯度にしてちょうど一分。

そしてメートル単位の定義。知識は甘露だと思った。
船がある緯度、経度から異なる方角、距離を進んだ時の緯度、経度を知る。こういう事を諸君らは学ぶ。
20
あの三角法の授業が私に何かの種を撒いたのか。

元々星が好きで、目も良かった。
海軍で星を扱うとなると水路部だという事はある段階で知ったが、そちらに行こうとすぐ思ったわけではない。
ただ、何か新しい星が頭上で輝き出した様に思えた。
五十歳を前にして私が得た博士論文は「航海天文學ニ関スル研究」だった。その始点はあの三角法の授業に置きたい。
21
兵学校には課業、訓練以外の行事もあった。

古鷹山登山もその一つ。海抜376メートルの小山。
頂上からは呉軍港が見える。

教官が軍艦を示して、動いているかを問うた。煙突からの黒煙を見て「動いている」と答えた者がいたが正解ではない。
艦尾に航跡が見えるかどうかで判断する。

その軍艦を敵と見立てての戦法。まず敢えて手前に照準して撃つ(アンダーシュート)。次に砲の仰角を上げて艦の向こうを狙う(オーバーシュート)。それを繰り返して最適の仰角を得る。

それが夾叉砲撃。生徒一同、海戦というものを実感した。
22
射撃訓練が始まった。標的は谷を挟んで三百メートル先。

五発づつ実弾が配られる。
引き金を引く際にぶれて、なかなか当たらない。コツを教えられる。

引き金は引くのではなく、そっと落とす。

どこで撃発するか、銃によって癖がある。
私はそう下手な方ではなかったが、訓練を重ねるごとに憂鬱になった。実戦の相手は標的ではなく人間。
ここは軍隊。モーセの第六戒に反している。

このことをどう考えればいいのだろう?
23
海軍兵学校に進学するにあたって、自分のキリスト教の扱いに悩んだ私。牛島神父は、この職業がモーセの第六戒に触れると言った。
兵学校へは聖書などは持ち込んでおらず、夜寝床に入ってから「主の祈り」を唱えた。
二号生徒になる前の夏休み、家から聖書と祈禱書を持ち帰った。

信仰の事は今まで話さなかったが、校風の自由さは分かって来た。
開くまではしなくても、聖書を持つぐらいのことは出来る。
24
夏と冬の休暇以外は教会に行く機会がないまま、兵学校の生徒として過ごす私。教会とは何か?
信仰は主イエスと自分の二者だけで成っている。だが主は遠く、人は迷う。だから信徒は集まって力を得、天国を目指す。
江田島にいる私にとって教会は遠かった。自分の信仰心はさほど強くない。軍人になる道を選んだのがその証左。
教会の平穏な時間に浸る自分を想像した。

ある日曜日、見えない人間になって船や汽車を乗り継ぎ、教会に着く。
祈りの場で、現実の者に仕えることと、主に仕えることの撞着の間で生きることを思う
「さらばカイザルの物はカイザルに、神のものは神に納めよ」

それは税金だけに限らない。
25
乗艦実習が近づき、ハンモックの扱いを学ぶ。そしてそのハンモック、衣類他を持って練習艦「二河川丸」に乗り込んだ。


艦内見学を終えると、当直兵が航海灯の確認をする。

船のすれ違い時の約束ごと。
翌日、先任伍長がカラの醤油樽を持って来た。

金比羅さんへの賽銭だという。海に投げ入れると、行きがかりの漁船が拾ってお宮さんに届けてくれる。海に出る不安からの縁起かつぎ。

それに比べて私の信仰はどこまで深いだろう。
26
帰路では敢えて狭い水道を通過すると言われた。手順に従い、浸水対策。生徒は全員甲板に出て集合。三原の市街がくっきり見える。

 

艦は安芸灘に出た。
入港用意が始まる。距離確認と共に減速。前甲板で測鉛手が鉛の重りが付いた索を投げ入れて海底の様子を報告する。

錨が入れられ、艦は停止した。
27
乗艦実習の数日後、三号生徒の演芸大会が開かれた。

数名の一号生徒を除いてみな同期。
それぞれに歌え、と言われて一人が「こんぴらふねふね」を歌い出す。賽銭の記憶が新しい。


次いで「大漁唄い込み」。

長身の者を寝かせ、足を櫓に見立てて漕ぎ出した。
次は北海道出身の者が「ソーラン節」。

みんな海に縁がある歌なのが面白い。
皆、日本中から集まって来たのだとの思いに感動する。
28
冬期の短艇橈漕(とうそう)訓練は特に厳しかった。

 
漕手は片舷6名の計12人。それに艇長兼舵手一名。私には何が何でも勝つという思いが薄く、こうしたひたすら漕ぐだけの作業が心地いい。
訓練最後の日の競漕が愉快だった。分隊対抗で宮島までの十海里。櫂一本に二名付けての24名に数名加わる。
意外に波は荒く、水を掴み損なうと空振りでひっくり返る。
我々は3位に終わったが、満足だった。
29
大正三年12月19日、私は海軍兵学校を卒業した。
式典では伏見宮様による証書の授与があった。

答辞、送辞、祝辞を経て「君が代」演奏。
ここで何を学んだかについて考えた。117名の中の席次16番。
今後帝国海軍は寝食を供してくれるだろう。身につけたのは技術。

艦船に制動装置はなく、後退をかける。海軍は万事技術と修練という合理の世界。真珠湾開戦もそうやって止められればよかった。

後に、卒業証書を授与してくれた伏見宮様が、いわゆる艦隊派の後ろ盾だったとMから聞いた。三国同盟に反対する声を押し伏せ、増艦推進の上開戦へのレールを敷いた。
忖度した者も居る。それが国を誤ることになった。
そもそも三国同盟がおかしかった。

独伊は近いが、日本は遠い。援軍送受の期待もない。
他人の褌で相撲を取る様な話。

私たちは生徒から少尉候補生となり、制服を替えて江田島を離れた。