新聞小説「また会う日まで」(5)池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」(5) 12/1(119)~12/31(148) 
作:池澤夏樹 画:影山徹


感想
前章は、良くも悪くもトヨの妊娠というセンセーショナルな話題があり、それで毎日の興味が引っ張られたが、本章の流れは若干退屈。
数隻の艦隊勤務の後、佐世保鎮守府附となって戦艦を降り、海軍大学校に入った。
その後水路部への希望を出す。
その理由が「暴力が嫌い」と「チヨと結婚するための地上生活」
自分の興味が「天体」だったという部分がさほど強調されていないのは、何か釈然としない。打算だけでこの道を選んだとなると、この秋吉利雄に対するトーン自体が色褪せる。

あらすじ
海から陸へ、空へ 1 ~ 30

その後私は戦艦「山城」に配属となった。三万トン越えで、それまで私が乗った戦艦の中で最大。全長も二百メートルある。


最初の日、下士官の案内で艦内を丸一日かけて一周。

士官は艦の掌握が任務であり装備、人員の認識のための艦内旅行。

一階ごとに各室の配置を頭に入れる。
一度でも乗った艦は懐かしい。「山城」乗務はわずか五ヶ月だったが、その後天皇陛下の御召艦になり、各式典へ参加した。
最後には昭和十九年十月のレイテ沖海戦で沈められたと、Mが教えてくれた。

戦艦「山城」乗務の日々は充実していた。
いつ起こるか分からない敵との会戦。それに備えてひたすら準備を積む。古来、戦いは男の仕事。次いで海軍の階級社会。

不動の順位がある中で順調に中尉となった私。この先は日々の成績、卒業時のハンモック・ナンバー(席次)が影響するとも。

117名中16位だった私は、進路のわがままが言えるのか。
海上勤務では日曜学校にも行けず、家族生活もない。

チヨは夜ごと家に帰って来る私との結婚を望んでいる。
軟弱のそしりを受けない範囲で、私は自分なりの人生を歩みたいと思った。

五ヶ月の「山城」乗務から、横須賀の海軍水雷学校普通科に移った。
水雷は三種ある。a:魚雷は内燃機関と燃料、酸化剤を備え自走する。小さな船にも装備でき日清、日露戦争で戦果を挙げた。


b:機雷は海底に敷設して接触した艦を沈める。日露戦争では「ペトロパブロフスク」を沈めたが「八島」「初瀬」も失った。
c:爆雷は潜水艦に対して投下されるもので、潜水艦攻撃に対して英国が作ったものが初めてらしい。
実戦となった時、私はこの知識と訓練成果を応用するのだろうか。

チヨから手紙が来た。小学校の先生になったという。

大宰府尋常小学校の訓導。一歩前へは進んだか。

だが彼女の教育歴から見て役不足ではないか。
それとは別の思いが湧く。小学校教師の尊さ。

お前もどれほど多くを小学校から学んだか。
自分自身の慢心を咎める。順調に選良の道を選んではいるが、階梯を上がるごとに普通の人からは遠ざかる。
聖ペテロの前に立つ時、お前は海軍の正装ではないだろう。
私が志願して日曜学校の教師になったのは、この時の主の声があったから。
その後のチヨからの知らせ。末次郎が東大を卒業して三井銀行に入り、横浜支店勤務になった由。武彦も順調。

1919(大正8)年五月、26歳の私は海軍砲術学校普通科学生となった。その前の水雷学校と同じく半年の履修が士官の義務。
銃も砲も理屈は同じ。ただともかく大きい。

乗艦していた「山城」の主砲は口径35センチほどあった。
覚えるべき無数の用語。近代の戦争はすべて用語で出来ている。
それらを覚え、理解し実戦で使えるよう深く認識する。
座学での疑問。揺れる艦の上でどうして遠方の敵艦に狙いを定められるのか?素朴すぎて同輩に聞くことも憚られた。

軍艦からの砲撃の基本は、相手との距離の計測。
人の目が左右にあり、そのズレにより立体視出来る。
軍艦の場合は、左右数メートル間隔の、測距儀の像を合致させる事で相手との距離を得る。


実際の海戦では風向風速、気温、弾種、地球の自転などが修正要素に加わる。
夜の復習の時、素人のチヨに教えるつもりで辿り直すのが習慣だった。
地球の自転がどうして関係あるの?の質問には「弾が空中にある時も地球はまわる」から。
どうしても不確定要素は残り、実戦で当たるのは百発に一発程度。
まさに「下手な鉄砲」。

曳航艦に当ててしまったという笑えない笑い話もある。

1919年の暮れ、私は建設中の駆逐艦「沢風」の艤装員に任命された。
同艦は進水後、各工事のため三菱造船長崎造船所に繋がれている。
竣工までの三ヶ月はこの地に居られるため、赴任までの賜暇を使って十二月二十二日に二日市に戻った。
この日は二十四名社の家長が揃って神事を行うため、私は軍装で八幡社に向かった。
トヨならば赦さないだろうが、私の信仰はそこまで厳しくない。
行事の後の宴会では和服に羽織。軍人としては珍しいが、その分緩むことができた。

「沢風」は駆逐艦であり、戦艦だった「山城」の約半分の百二メートルしかないが、速度は39ノット出せた(山城は23ノット)。
主な任務は大きな艦の直衛。砲の他に魚雷発射管を3基備える。

そもそも駆逐艦の起源は敵の水雷艇を駆逐するの意で、互いを圧倒するため大型化した。
私は市内の宿舎から毎日造船所に出勤し資材搬入、装備取付けの確認などを行った。
艦というものは、泊地を離れれば孤立無援。いかなる事態にも自分で処置するため、旋盤などの工作機械まで備えていた。

休日の日曜、私は平服で聖三一教会の礼拝に赴いた。ここは子供の頃、父母に連れられて通ったところ。牧師は見知らぬ方だったが身内、友人の顔が浮かんだ。27歳までの私の人生を、主がにこやかに見ておられる。幸福を感じた。
午後、大浦天主堂を訪れた。

日本のキリスト教信徒にとって歴史的意味を持つ教会。
幕末の開国圧力もあり1846年、長崎に天主堂が建立された。

翌年、ブティジャン神父を訪れた中年女性が「信徒です」と打ち明け、250年に亘って信仰の火が絶えていなかった事が明らかになった。
だがその二年後、幕府はキリスト教を弾圧。「浦上四番崩れ」で多くの信徒が苦しんだ。
10
戦国時代における宣教師の布教。

西国の大名にも信徒は増え、織田信長が京都に教会を建てた。
だが豊臣秀吉の時代に一転弾圧が始まり、徳川幕府も継承。

 

島原の乱では三万余人が殺されたという。
長崎での「二十六聖人」。

慶長元年(1597年)、信徒二十六名が捕縛され、長崎西坂の丘で処刑された。信徒たちは、丘の言葉に「ゴルゴダの丘」を重ね、ここでの処刑を望んだ。
国と信仰の対立。

ローマ帝国がキリスト教を公認したのはイエスの死から三百年後。
主は「カイザルの物はカイザルに、神のものは神に」と言われ、二つの権威を認めておられる。
海軍軍人の道を選んだ私は常に迷う。

軍人の職務と第六戒「汝殺すなかれ」の違反。
この矛盾を生涯背負わなくてはならない。
11
「沢風」は無事に竣工し、私はそのまま乗務する事になった。
新造艦であり士官も下士官も新任の者ばかり、期待感が高まる。
艤装の作業を見るにつけ、戦艦がつくづく「鉄」だと実感。

その中でも面白いのがペンキの役割り。
鉄と空気・海水との相性の悪さ。それを防ぐペンキ。水兵、水夫が行うペンキ剥がしと塗り重ね。それは当の艦船が水に浮いている限り続く。

戦争も終わった今になって振り返れば「沢風」は幸福な駆逐艦。
空母「赤城」の直衛で「トンボ釣り」に従事し、戦中は近海での哨戒。

沈没することなく終戦を迎えた。
12
「沢風」のあとすぐ戦艦「霧島」に配属された。「山城」とほぼ同格であり、乗務員も千人を超える。この艦で思い出したくないのが「暴力」
上級者の殴打を受けた者たちをしばしば見かけた。
「精神注入棒」による体罰。棒一本で海軍精神が注入される筈がない。上官に足りないものがあるからこその暴力。
だが悪しき慣習として根付いている。

艦という小社会の規律を保つため。
私は暴力が好きでない。振るわれるのも、振るうのも。

そしてその場に居合わせるのも、結果を見るのも。
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「霧島」での勤務は四ヶ月ほどで終わり、その後はなんと佐世保鎮守府附。佐世保はここ十年ほど父母が住んでいる町。
兵学校卒業以来水雷・砲術学校を除けば六年ぶりの地上生活。
「阿蘇」「敷島」「安芸」「浅間」「山城」「沢風」「霧島」

よく乗ったものだ。
休日を待って両親に会いに行く。父は六十五、母は還暦。

話題は横浜に住むトヨと末次郎の子、武彦の洗礼。
親たちは、あの受胎の秘密を知っているのだろうか?
あとで聞いたのは、トヨに憧れていた末次郎が牛島先生に相談したという作り話。
婚姻の式も牛島先生の手配で結ばれた二人。翌年3月に武彦が生まれ、末次郎は三井銀行に入り横浜支店勤務。
両親があの事を知っていても、知らなくても、この子に神の祝福はたっぷりとある。
14
佐世保鎮守府で進路について上官の面談があった。
身上書を前に、大尉に昇進を告げる上官。

このまま行けば五、六年後には少佐。駆逐艦の艦長もあり得る。
だがこの履歴と成績を見て、学究肌ではないか?と聞かれる。
海軍大学校へ進み、航海術を学びたいとの希望を告げる。

ハンモック・ナンバー117名中16位の確認。

かくして私は海軍大学校に受験して合格した。自分にふさわしい位置に身を置くことが出来る喜び。校舎は東京の築地。東京は初めて。
横浜に住むトヨと末次郎、甥の武彦にも容易に会える。
15
海軍大学校に入って何週間か経って、兵学校で同期だったMが築地の料亭でお祝いをしてくれた。
Mは海軍省の大臣官房海軍文庫で戦史を担当。

海戦記録の生き字引(地引網とも)。
これを機に陸に上がろうと思う、と言うと

「お互いそこそこでいい」との返事。
殴られた兵を見過ぎた、との呟きに、自身の怪我のいきさつを話し始めたM。彼は艦上勤務で負傷して、海軍省詰めとなった。
駆逐艦勤務の時、資材積み込み監督の際に艦が揺れて、魚雷四本を木枠で束ねた荷が落ち、その一本に脚を砕かれた。
玉掛けの手抜きが原因だが、その担当兵が前日に精神棒で痛めつけられて身体の自由が利かなかったという。
16
Mが語る暴力の背景。大日本帝国海軍が範とした英海軍自体が、鞭による制裁を行っていた。
あの国の厳しい階級制度。

士官となる貴族・地主と、兵である平民・農夫。
士官の方が死亡率は高い。

ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責務)。
「それが部下への暴力になる」「海軍は違う事情がある」
海軍の場合は、叛乱に対する不安が恐怖による支配に走らせた。
コロンブス、マゼランが経験した船員たちとの軋轢。
遠い海、単艦で部下に反抗されたらどうなる?
士官たちは孤立無援の立場に置かれる。
17
単艦の航海から「バウンティ号」の叛乱について話し出すM。
コロンブスが見つけた東インド諸島で、アフリカ人奴隷が多数運ばれた時、彼らへの食糧として芋に似た植物「パンノキ」を供給するため、その苗をこの地に運ぶ計画が出来た。
そのパンノキの苗を運ぶため、民間の船が海軍に買い上げられて「バウンティ号」とされた。乗員は軍人44名、植物学者2名。

長さ28メートル、230トン。「俺たちが乗った二河川丸の半分だ」


18
狷介だったという「バウンティ」号艦長のブライ。
世界一周航海をした「ビーグル号」に同乗したダーウィン。

その艦長は軍人でない話し相手が欲しくて彼を選んだという。

進化論はあの航海から生まれた。
話を戻して「バウンティ」号。食糧に対する乗員の不満。

カビの生えたパンに蛆の湧いたチーズ。横流しの元凶だった者を鞭打ちにした艦長。若い士官候補生も体罰された。
だから自分も怪我のせいとはいえ、艦を降りられて良かったとM。

「おまえもな」
19
バウンティ号は大西洋を南下して喜望峰から太平洋に入り、一年かけてポリネシアのタヒチに着いた。
そこでパンノキの苗作りに半年かかった。その間、士官も兵も島で暮らすようになり、艦長のブライ以外は皆恋人を得た。
ブライは綱紀粛正の名目でしばしば兵を鞭打ったため、兵たちは逃亡と捕縛を繰り返した。
「ブライさんも女を見つければ良かったのに」の言葉に驚いて笑うM。
20
バウンティ号がタヒチから出港して三週間後に、クリスチャンという航海長格が部下11名をまとめて船の支配権を奪い、ブライ艦長以下19名をボートに乗せて放った。

中立を申し立てた者も含め、船はタヒチに戻った。
だが船が目的地に着かない以上、叛乱罪で死刑になる。
クリスチャンは、8人の仲間とタヒチ人18人を連れてピトケアンという島に流れ着いて暮らした。
ブライたちは41日かけてチモール島に着き、帰国して報告。

船が派遣されて叛徒の残り3名がタヒチで見つかり、裁判の末に絞首刑となった。
21
クリスチャンがピトケアン島に流れ着いて二十年以上経った。

ここを訪れた船が見つけたのは女が十人、子供が二十三人。

男は一人だけだった。
水兵とタヒチの男は女を巡り殺し合った。偶然生き残ったジョン・アダムズは、聖書を頼りに女たちを統率して平和に暮らした。
私はカインとアベルを思った。「創世記」にある、初めての殺人。

それも兄弟殺し。
動機はカインの嫉妬。力関係が生じれば争奪が起こる。
22
Mに、大学校試験の口頭試問で希望を聞かれ、ふっと水路部という言葉が出たと話した。それも海図ではなく天文。
耶蘇で軍人が務まるかと聞かれた時には瓜生外吉さんの名を出した。海軍大将でキリスト教徒。
入学した俺はともかく、お前はどうなんだと聞く。
公務負傷だったから上層部も同情的で、今は戦史研究の職務をもらったと言ったM。

全てが終わった今になって思い出すと、あの頃は緩やかだった。

信徒であっても海軍大学校に入れたし、Mは戦史研究に進めた。
戦局が悪化した時Mは、歴史に基づく意見具申を求められた。

要は上手な敗戦事例の抽出。
いずれにせよ日本は最悪の負け方をした。Mは無念だったろう。
23
海軍大学校からいずれ水路部との考えは、チヨの言葉も理由にあった。親たちが望んでいる、私との結婚にためらうのが「艦上勤務」
チヨを嫁にしたいという思いに、それがついて回った。
海軍軍人であれば、まず艦上勤務。

訓練を積み、万象を考慮し敵に勝つことこそが本懐。
そういう思いに、腰弁さんの道を選んで欲しいとほのめかすチヨ。
戦艦「山城」の艦長より、チヨの待つ家に毎夕帰る夢が勝った。

それが密かに私を水路部へ押し出した。
24
海軍大学校に入れたといっても、すぐ水路部の方面には進めない。
「航海学生」という身分となり、一年は各種科目の履修が必要。

その後は「部外学校委託教育制度」により他の大学に行き、専門分野を学ぶことが出来る。専科学生として天文学に進みたいとの願望。
航海学生は入学者十名という小世帯であり、甲種学生と共通の課目もあった。
ある日「戦史」の時間にMが教壇に立った。古代史「サラミスの海戦」
ペルシャ対ギリシャの戦い。

多勢のペルシャに対し、自海域という利点を活かし勝利したギリシャ。三段櫂船同士の戦いは、衝角による突撃。


沈没数は二百対四十。Mの名講義。
25
ある晩、私は隅田川沿いに立って空を見た。
星の観測を始められるのが天文薄明。いつも星天に圧倒される。
西の空に輝く金星。この星は太陽から47度の角度でしか離れられないから「宵の明星」であり「明けの明星」
惑星は夜ごとに位置を変えるが、他の星は恒(つね)に動かないから恒星。
不動である星を基準に自分(艦)の位置を知る。
私は点になった自分が好きだった。
26
ある日、教官に水路部から呼び出しを受けていると伝えられた。
出向いてその相手の四課、中野徳郎技師に会った。

女子職員が居るのが珍しい。
大学校受験の時、水路部への希望を出していたので会いたかったという。入学前にそんな希望を出す者は珍しい。

たいていは艦長・軍令部を希望。
大砲より星が好きと答えた。
ここは四百人足らずの所帯で、多くは民間人。

軍籍は三十名もいないとの事。
四課で一番匂いが強いのが数字。天象と数理。無数の数字が迫る。
6と8を間違えれば、艦が沈む。
27
中野さんに語学を聞かれ、英語と答えた。

国際関係は大切だとの示唆。
この六月にモナコで国際水路局が発足し、日本も参加したという。

そこで度量衡が統一され、水深がメートル法になった。
そして、水路部ではキリスト信徒で肩身の狭い思いはしないとも言われた。
帰りがけに出されたパズル。1、3、5と奇数を書いた札を5枚取り、4回の足し算をして14を作るというもの。同じ札を使ってもいい。
28
水路部から帰る途中、英国の度量衡について思い出した。
海洋国家として君臨しているのに、不合理を残している。

1ポンドは16オンス。
貨幣も1ポンドは20シリングで、1シリングは12ペンス。

家賃などはギニー(これは21シリングに相当)
その晩、出されたパズルの答えを中野さんに送った。

奇数を5回足しても、14という偶数にはならず、9の札を6と読んで6+5+1+1+1=14とした。
後日の返信では、解答は1と1をあわせて11と読み11+1+1+1=14。だが君の解の方が美しいと思われる。
29
数日後の昼休み、自分は六分儀、手伝いの友人に精密時計を持ってもらい、太陽の南中観測を行った。


太陽観測のため六分儀に減光板を入れる。

示標幹を動かし、太陽の下端が水平線に接するまで送る。
「正午!」という友人の声で固定し、目盛を正確に読む。

自室でそれを計算した。
北緯三十五度三十九分三十四秒 東経百三十九度四十六分九秒。
これが私が立っていた位置。誤差は数秒、二百メートルほどか。
金星は厚い雲に覆われているとのこと。

金星に人間がいたとしても、天文学が成立しない。
30

チヨへの手紙。
筑紫郡大宰府尋常高等小学校訓導の職を立派だと褒める。

俺などは優等生でしかもやんちゃだった。
天測のことについての解説。

六分儀を使って自位置の緯度、経度を知る。
六分儀を使うには水平線が必要。砂漠なら地平線。
自分がどんな事をしているかを知ってもらいたい。
天体の動きに人為は混ざらない。そこに神の御心を感じる。

信仰と自然科学は矛盾しない。
顔を合わせてチヨと話したい。それまでの半年が待ち遠しい。