新聞小説「また会う日まで」(8)池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

朝日 新聞小説「また会う日まで」(8) 3/1(206)~4/30(264) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

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感想
連載が始まってから毎月、ハンコで押した様に月替わりのタイミングで章が変わっていたが、この章だけは一ケ月では終わらず丸二ケ月を費やした。
第一章の「終わりの思い」では日食観測隊を率いたことで、天皇陛下からお言葉まで戴いたというから、この小説のハイライトとでも位置付けているのだろう。
ただ作家たるもの、一度方針を決めて半年以上貫いて来たものを、いとも簡単に折ってしまうのはいかがなものか。
過去(2018年)この朝日で連載された「国宝」は各章を25回で貫き、全500回として収めた。その事自体に対する価値判断はともかく、20章に亘るストーリー配分の中には軽重もあっただろうに、これを完全にコントロールした力量に敬服する。

ただ、いろいろあれども終わってみて、本章に二ケ月かける必要はなかったと断言できる(きっぱり!)


さて本章
相変わらずの、この日食観測の発起人は私デス発言。日食が世界中のどこで、いつ起こるかなんて天文学者なら既知の事実。
それの手柄をことさら一人称で強調する「いやらしさ」
前章では妻チヨの死もあり、多少悪感情は薄れていたが、やっぱり

こいつ変わってないなー、と。
今までもただし書きを加えながら、ダラダラと文献引用を行っているが、今回は参加者の日誌丸写しの暴挙。
そのうえ記載されたものを「文字に残さなければ記憶の大半は相続されない」とか言って妙に持ち上げる。
確かに文書のそういう面を否定するものではないが、新聞小説の紙面で実につたない「どうでもいい」駄文を読まされる身にもなってもらいたい。
特に10の服部忠彦君。飯がうまい、運動不足が心配、伝令がピーピーうるさい・・・ 本当に「どうでもいい」

それと気になるのが京都帝大の柴田淑次君のこと。

彼の日記としては本章で紹介されておらず、30で腹を壊したという事などが出て来る程度だが、彼は立派な日食遠征日誌を公表している。

 (1)  (2)  (3)
また窪川一雄氏らが開催した、天文学会の定会での報告に添付された雑録にも、こちらの元ネタと思われる記述がある。
引用が悪いとは言わないが、ここでの記述が秋吉中佐として語られている事にイラつく。
要するに自分の息がかかっている者の手記を洗いざらい並べ、出所の確かな情報はテキトーに拝借したという事。
こういう使い方を一人称でやるのが、辛いというか恥かしいというか・・
まさに「他人のフンドシで相撲を取る」状態。
膨大な資料があり、本人の一人称で書けば、その内容自身が彼の残したものだと思う読者も多いだろう。ミスリードも甚だしい。

36でせっかくこの事業を登山になぞらえたのなら、皆の手記から技術面、島民との関わり等を整理して再構築、まさに登山する様に組み上げたなら、実に素晴らしい章になったろうに。
それから後半の50以降は、紙面を埋めるためだけの内容。

冒険ダン吉、鱶釣り、救助訓練、昼飯、詩集・・・
女尊男卑の話なんて、必要か??

そして終盤近くで

「主の導きを確信した」なーんて言ってしまうのがいかにも「浅い」
このローソップを含む南洋群島は1922(大正11)年から「村吏」として大日本帝国が忠誠を誓わせた植民地的存在。
島民の素直さに感動する前に、自分たちが「支配者側」として君臨していることにどうして気付かないのか?
そんな前提も忘れて「主の導きを確信した」などとよく言ったものだ。 「大日本帝国の力を確信した」だろ。
日本語が話せるルーベル牧師が派遣されたのも、忠誠を誓わせるための仕掛け。キリスト教は、スペイン領からの繋がりで教化推進に都合良かっただけなのだろう。
 

たびたび主の導きといった言葉を連発するが、彼の人生の岐路にそれほど影響を与えたエピソードがこれまであっただろうか?

妻や息子を亡くした場面でさえ、主と向き合ってどう克服したかの記述は一切ない。元々全寮制の学校へ行って息抜き出来た、という程度の「エセ信徒」から抜け切っていない様に見える。

その点から言えば「人間の絆」で、キリスト信仰を捨てたフィリップの方が、まだ真摯に向き合っていた。

信仰あらば山をも動かすと聞いて、自身の蝦足を治して下さいと真冬に全裸で祈った少年。
秋吉利雄には、キリスト教と向き合い心震えたような場面は全くない。
その上で「主の教え」を連発する。
この作家はキリスト教徒を描くと言いながら、彼自身が見えていないのではないか?
膨大な文献を、引用するのではなく、彼の信仰の本質がどこに表出されているかを注意深く探らなくては・・・


それから前章であれほど「チヨよ、チヨよ」と嘆いていたわりに、残した子供たち(文彦、洋子)のことがひと文字も出てこないのはいかがなものか。日誌に出てこないからしゃーない? あ、そう。


作家がダメだと、描かれている本人自身も矮小に見えて来る。
天皇陛下からお声を戴いたというのも、どこまで信じていいのやら・・・
しかしこの人、一応ベテラン作家だよね?
なんでこうなるの?この人の小説は読んだことないけど、身内を扱うあまりに変なバイアスが掛かっている様に思える。

この小説はもはや大正~昭和にかけての「記録」として読むしかない。そう割り切れば読めないことはない・・・

オマケ
①「セキスタント」で昔買ったレコードを思い出した。

ハービー・ハンコックのアルバム「セックスタント(sextant)」

当時はどうせ性的なものだろうと調べることもなかったが「六分儀」だったとは・・・・


あらすじ
ローソップ島 1 ~ 59

天体の動きはニュートン力学により、正確に予測できる。
その読み取りを容易にするための「天測暦」を我が水路部で発行している。人間の生活に不可欠な天象。
天文学として重要な日食と月食。

月が太陽を完全に隠すのが皆既日食。

この観測の意義は、天体同士の位置関係が精密に測定出来ること。
もう一つは、太陽の影響を排除して地球環境本来の数値を得ること。

現代では日食は精密に予測できる。1934年二月十四日の太平洋で、太陽が作る月の影が西から東へ移動する。
この一大天文現象を観測してはどうかと、私は各方面に声をかけた。
それはあっという間に話が大きくなり、計画の概要が決まった。
観測の拠点は、委任統治として我が国が治めている東カロリン群島トラック島南のローソップ島。
この事業は国家的なものであり、国の威信がかかるもの。

科学力誇示と同時に、他国の戦争意欲を損なわせる効果もあると、政治家などは考えただろう。

海軍省はこの計画に「春日」を使うと決めた。数奇な運命の艦。
この航海に出る前、天皇陛下の侍従長、鈴木貫太郎さんに呼ばれた。
日露戦争の開戦直前、欧州からの軍艦二隻の回航任務を果たされた。これがのちの「春日」と「日進」 思い出話を伺った。
他にも縁がある。大正七年の練習艦隊航海の時、司令官が鈴木さんだった。搭乗艦は異なったものの、現地でのスピーチを聞けた。
太平洋とは大きな平和の海の意。戦火を交えてはいけないとの言葉。
その戦争を収めたのは、当時の総理大臣 鈴木さん。

1769年の六月三日に、金星が太陽の前を通過する事に対し、イギリス王立協会が観測船を派遣した。
ポリネシアのタヒチ島に向けて「エンデバー号」が選ばれた。

四百トンの小船を率いたのはジェームズ・クック。偉大な航海者。
私にとって嬉しいのは、彼が抜擢されたのが、海図作成での業績によったから。ただ彼らは、幸い観測は出来たが精度に課題が残った。
そうならないよう、私たちは準備にいそしんだ。

ローソップ島の日食観測の計画は着々と進んだ。

私はそれらを全て統括する立場に忙殺された。
残念だったのはロシアの不参加。日本と「ソ連」の仲は良くない。
アメリカのコーン教授が夫人を同伴したいと言って来た。
帝国海軍の艦は基本的に女は乗せない。
女は乗せない輸送船---という歌もある。
コーンさんには夫人同伴不可と伝えた。

我が水路部始め、大学や天文台も参加して「ローソップ島日食観測計画」は発進した。
「春日」は大艦とはいえ古い。燃費軽減のため島まで八日間かけて行く。また現地で二十二日間の準備期間を設定。
私は皆に順繰りで日誌を書くよう提案。
一回目は東京天文台の技手 窪川一雄君。
昭和九年一月十五日
「春日」は横浜を離れる。

色とりどりのテープがハタリハタリと切れて行く。

軍艦の人々及び観測員の自己紹介を終え、各自の部屋へ。
食堂での最初の食事。サシミに舌つづみ。
懐かしい日本ともしばしのお別れだ。(「ロソップ島日食観測行」より)

この計画は、当初よりも小規模となった。
最終的な人員は六十四名(天文台、各大学、省庁、水路部、派遣下士官・兵、記者)
朝食を終えたところで東京天文台の中野三郎君に会った。
船酔いに苦しんだが、朝食は存外食べられたという。
昨夜は、酒盛りをしている者たちもいて元気だったとの事。 

東京天文台 藤田良雄君の手記

一月七日(水)曇
昨夜の揺れで少し物憂い。参った者が多くいるらしく、意を強くした。
我々の部屋は揺れも少なく空気の流通もいい。
波風は次第に高くなる。海又海。少々退屈し時計を一時間早める。
 

私(秋山)は無聊を楽しんでいる。

幼時を港町で過ごし、船のある景色に慣れていた。
雲の状態から島の有無が分かる。太平洋は島が多い。
ポリネシアは「たくさんの島々」、メラネシアは「黒い人たちの島々」

そして我々が向かうミクロネシアは「小さな島々」
未知の海に漕ぎ出して島に渡った人たちに敬意を表す。

私にとって久しぶりの艦内生活が楽しい。南方は人を魅了する。
海軍は階級社会であり、今回も適用される。
助教授以上、外人の居室は一人。

そして他の者も階級により居室、食卓が決まる。
これを読みながら、私は歴史を考える。
「器械手は第二次室寝室に泊まり、食事は第一次室で摂った」という記述。それは文字にしておかなければ残らない。

記憶の大半は相続されない。忘却の風に抗して立つ。
この日々の努力を百年先に残さねばならない。
10
東京天文台 服部忠彦君の手記
一月十八日(木)曇時々晴
ぐっすりと眠った朝。眠いが空腹のため起き朝食。

運動せずとも腹が減るのは動揺のせいか。

暑さしのぎに外へ出て塩風を吸い込む。海鳥の挙動。
運動不足の解消に後甲板を歩き回る。

時々伝令が呼子をピーと鳴らして何やらわめく。
11
(承前 服部忠彦君の手記)
甲板上で行われる角力、柔道、剣道、銃剣術。

いつの間にか時の経つのも忘れ、すぐに夕食。
それを終えて煙草を付け乍ら士官の戦話を聞く。次いで風呂の案内。

狭いが気持ちの良い風呂で揺られながら、鼻歌を歌うのも格別。
12
(手記続き)
風呂から上って、夕涼み気分で高く上がったシリウスを眺める。
時に午後十時四十一分。どなたも御機嫌ようお寝みなさい。
 

その翌日、甲板で歓迎のための立食の宴会が開かれた。
東京帝大の小穴純君に声をかけた。海のコバルト色に感嘆している。
いっときコバルト談義。元々金属元素だがアルミ、酸素と化合するとコバルト青という顔料になるという。
話が砂の色になり、この白さは南洋は珊瑚由来だからと私が話す。
更に話は飛び、岩が砂になるのなら、君が代のさざれ石が巌になるのは正しくないと言い出した。それは水成岩の成立過程のこと。
13
航海も既に七日、あと二日でローソップ島に着く。
上陸、設営を前に緊張が高まる。
日が沈む前に、西の空を見る者たちがいた。

グリーンフラッシュを見たいと二日頑張っているが、落胆に終わった。

彼が、これから偉い先生たちの講演だと言ってメモを見た。
日食漫談 観測の方法 地磁気に就いて KIH層に就いて
14
ある日の午後、ふらりと丹下艦長が現れ声をかけられた。
その時「あっ、飛魚だ!」の声。
飛び込んで来ないかな、の声に乾舷七メートルはあり無理だろうと私が言うと、そうやって飛び込んだ例がある、と艦長。
大正十年、今の陛下が皇太子だった時、渡欧の際に乗った御召艦「香取」に飛び込んで来た飛魚。瑞兆だと評判になったという。
当時の時の艦長 漢那さんは今でも陛下の信任が篤い。
15
私はローソップ島に向かう「春日」の中で松岡静雄さんの「太平洋民族誌」と「ミクロネシア民族誌」を読んで過ごした。名著であり労作。

海軍を離れてから松岡さんはひたすら本を書かれた。
柳田国男さんが兄だから、家風なのか。
椰子の実が運ぶ文化のつながりに関する考察。
「ミクロネシア民族誌」がいいのは、島の人々を見下していないところ。
16
一月二十三日 火曜 曇小雨
昼頃、マスト上の当直兵が島を見つけた。
マーシャル群島の中でもトラックは環礁の低い島々のため、船からは見えない。夕方になって見えたナマ島に隊員たちは大騒ぎ。

揺れぬ大地は安心の土台。「春日」はローソップ島を求めて南下する。
17
一月二十三日。「春日」はローソップ島環礁外に定位した。
上陸用の中継ぎとして瑞鳳丸という小船を帯同させていたため、それと短艇の組合せで機材の揚陸を進めるが、進捗しない。

本島に寄港した、南洋貿易の「第六平栄丸」の協力を得て荷揚げ。

甲板からの飛び降りで、人員の移動が何とか当日中に終わった。
「春日」は観測支援者を残してトラック島に向かった。

各班の観測拠点はローソップ島で三地点、レオール島で四地点。
18
環礁としてもう一つピース島があり、人口は三百七十四名。

ほとんどがカナカ族に属する。島の人々はキリスト教徒。

最初に訪れたスペイン人が領土化と共に宣教師を派遣した。
今はルーベルさんというプロテスタントの牧師がいる。

日本語が話せ、夫妻で子供たちの教育・生活支援にもあたっている。
隊員たちは教会での宿泊。食事は別棟の食堂。
二十五日晩から豪雨で、翌日も雨となり作業が捗らない。

19
翌朝は、小鳥の声で目覚めて心を動かされた。陸地との実感。
生物に詳しい者の話では、あれはミツスイ。自力ではなく船などで運ばれた。蝶も見かけたが、小さいものは意外に遠くへ渡るらしい。

次は地質学。ウェーゲナーの大陸移動論が語られる。
宿舎とはいえ教会。床に就く前には十字架に祈った。自然は驚異。

全てを主が造られたとは思わないが、世界の原理は主の意思による。
20
一月二十七日 土曜日 曇後晴
水路部 東中秀雄君からの報告を聞く。
地磁気の観測を日食の前に済まそうと、大型カヌーと漕ぎ手を頼みピース島に出掛けたが、途中猛烈なスコールに遭った。
それはほどなく収まり、出発から一時間ほどでピース島に着いた。
21
東中君の報告続き--
島に着いてから砂地に測点を定めた。それが終わるとただ物見遊山。
こちらは食べるものが良く実り、ローソップ島の者は嘆くという。
島の南岸は、岸に寄せる波の飛沫が吹きあがる。
帰路は平穏無事。時々見える小舟は蛸漁だとか。
かくして小冒険の一日が終わりました。
22
一月二十八日 日曜日 晴
日曜日で島民は動かないが、我々はそうも言っておれない。
一番の懸念は日食当日の天候だが、こればかりは待つしかない。
観測隊と島民の挨拶会があり、ルーベル牧師の通訳で進めた。
自分が信徒であると告げると、島民のどよめき。
午後、海岸で隊員たちが水浴びをしている。電波班の調整した受信機から「大阪は五度」などと言っているのが面白い。
23
東京天文台 窪川一雄君の手記 
一月二十九日(月)曇后雨
島に着いてからはや六日目。機械の工事に着手。
土台の基礎工事を始めるが午後から雨。
島民と共に天幕内で話をする。讃美歌なども出て愉快。
 

私(秋吉)の付記。一月三十日(火)
アンテナ線を引き込んで無線機を繋ぎ「春日」経由の、南洋群島中部標準時十時の信号を受けられた。
これで鬼に金棒。恐れるものはない。
だが夜半に天候悪化で撤収。恐れるべきは天候。
24
東京天文台 藤田良雄君の手記
一月三十一日 一日中快晴
器械の大体のセッティングは終わり、外側に雨よけのテントを作った。
窪川くん担当の、コロナグラフ用の雨よけは悲壮なものがある。
一方服部氏の小屋には重い時計装置。

島民たちも日本語で「オモイナア」
昼食に出されたアイスムリームのうまいこと。二回請求に行った者も。
夕方仕事を終えて海に入る。

水温が体に程よくコレスポンドして心地よい。冬の海水浴もまた格別。
25
藤田良雄君の手記続き
夕食後の風呂の後は、疲れも癒えて明日への希望が湧く。
田中先生のテントにお邪魔して緑茶を御馳走になる。

この一週間の事が思い出される。一月よ!さようなら!
 

東京天文台 服部忠彦君の手記
二月一日 雨
今日は洋食の日。コーヒーとオートミルとハムエッグス。

味噌汁よりはこちらの方が食欲が湧く。
閑話休題。食事も終わった。

残すところあと二週間。気があせるが雨では仕方なし。
コンクリート工事に備えて島民に砂運びをさせる。
26
服部忠彦君の手記続き
雨の合い間を縫いながら、少しづつ作業は進む。
待っていた瑞鳳丸がやっと来た。御馳走も来るので皆も喜ぶ。
仕事が終わってからひと泳ぎ。

遠浅で、膝とある部分の間の水深で水浴びをする程度。
二月の海水浴も小生一代史に特筆されるべきもの。
 

私(秋吉)の付記
若い連中が黒いナマコでキャッチボール。あるいは青いヒトデも。
この人でなし、とヒトデを代弁したのは誰だったか。
27
服部忠彦君の手記続き
伊藤少佐と我らが中野氏。固い握手のヒゲ同盟。 
軍艦では怒られた蓄音機も、ここでは全能力を発揮する。

私(秋吉)の付記
この地に持ち込んだ観測機器。必要とする電気含め湿気に弱い。

東京帝大 小穴君のボヤき。基礎や設置などの事前作業でヘトヘト。

それでも日曜などは機器分解整備に余念がない。
雨や湿気への気配りを伝えた私。「まあ祈りましょう」と彼は言った。
28
若い屈強な島の男が、ロープ一本を回して椰子の木を登って行く。
実を落とし、葉は切り分けて編むとたちまちその運搬籠が出来る。
椰子の実の内核は飲用になり、実の胚乳からは油分が取れる。
この実は長い航海にも耐え、だから柳田国男さんの目にとまり、島崎藤村さんの詩にもなった。
我々は恩恵を残して攪乱を起こさないために、自制が必要。
主よ、その知恵をお授けください。
29
窪川一雄君の手記 二月五日 晴時々曇
今日は暗室の設備を整える。墨を塗るのに難儀した。
海で汗を流したが返ってネバつき、貴重な水を貰って身を拭く。

私(秋吉)の付記
個々の課題はあれども、着々と準備は進む。
森川君によるレオール島の報告。

十六センチ望遠鏡が設置された。日食観測の中心。
30
京都帝大の柴田淑次君と話す。数日前に腹をこわしたとのこと。
眼視分光器の担当。分光写真器現像の際に冷水が必要だという。

氷は十分にある、と私。
島民たちの踊りの練習について話した。

その日本語の歌詞がおかしい。 ・・・・ほんとに忘れない胃の薬
トラック島まで来た薬売りに、この島の者が行って覚えたか。
31
二月七日 水曜日 晴後曇
柴田君がレオール島に行くと言うので同行した。
自分の担当である地磁気方面の確認。途中でスコールに遭った。
夕食後、柴田君に声をかけた。あの後貴重な一枚を現像したが、現像液温度を下げたのにカブリが出たという。

乾板の運搬に工夫が要る、と柴田君。
32
二月二十日 土曜日 終日雨
雨にも関わらず、紀元節を祝うカヌー競漕は行われるというので、見物に行った。ローソップとピースの、島対抗。
兵学校のカッターを思い出したが、長崎で見たペーロンにより近い。

あの時は両手にトヨとチヨの手を握っていた。今は二人ともいない。
見物しながら京都帝大の千田勘太郎君と話した。
競争意識の話からオリンピックの話題になる。再来年はベルリン。
33
競漕で楽しんだ日の夕食時、京都帝大の平井君により、参加した舟の名の由来が披露された。セニベンガウ、アツタベニボン等全部で八艘。
 

私(秋吉)の付記
報告を聞いた京都帝大の上谷君が「イリアッド」みたいだと言った。
古代ギリシャの叙事詩に、軍船のカタログが出て来るという。
物知りの多い連中だ。
34
二月十一日 日曜日 雨
今日は紀元節であり、島民らも集めて式典が行われた。

白の礼服を着て私が開会宣言。
「雲にそびゆる高千穂の」を島民たちも歌うが、途中から土砂降り。
迫る日食を思うと不安になるが「人事を尽くして天命を待つ」の諦観。
雨も止んで、皆で慎ましい祝宴を開く。夜には提灯行列も。
即席の市が立ち、島民が鼈甲の腕輪を売るが、マッチの火で燃えてしまいセルロイド製と発覚。島民を騙した内地の商人が悪い。
35
藤田良雄君の手記 二月十二日(月)
どうやら天気回復に向かい、早速テストに取りかかった。
乾板を入れる枠が反ってカメラに入らず、木部を削り何とか対応。
午後四時には記者諸君が取材に来て、写真を撮って行った。
宿舎に帰ると南洋支庁の好意による天気図が貼られていた。

 

私(秋吉)の付記
同行している七名の新聞記者は行儀が悪い。

無線利用に、打電の順を巡っての喧嘩。ただ、彼らの送った記事が日本中で騒ぎになっていたとは知らなかった。
36
東京天文台 服部忠彦君の手記
二月十三日(火)晴時々曇
日食も明日に迫り、各自予行演習に余念なし。望遠鏡の調整。
午後にスコールあれど夜は非常な好天気。
隊長の希望により夜通しの点灯。暗室で乾板の用意。
時間はもう二時過ぎ。六時々々と念じつつ寝に入る。
 

私(秋吉)の付記
明日の日食という山頂に向かって延々と登って来た。
さて、山頂は晴れるか。
37
二月十四日 水曜日 晴
私自身の観測より先に、京都帝大の柴田淑次君の報告を。
五時起床。一点の雲もない星空!
午前九時。太陽と月の第一接触開始。
午前十時少し過ぎに第二接触、皆既となる。
分光器内スペクトラムを頼りにシャッターを切る。
皆既が終わった第三接触も見られた。皆で万歳三唱。
月が太陽から離れる第四接触も無事観測。
午後になると曇り始め、やがて雨。午前中の快晴はまさに天祐。

 

38
日食当日の晴れに天文班は欣喜雀躍。

私の担当は地磁気だが、統括の立場として嬉しい。
担当にはなったが地磁気の専門ではない。
測定にはマグネトグラフを使う。細長い暗箱に棒磁石を吊るしてセットし、そのねじれを光で検出し、記録装置へ送る。
観測は、他分野観測との抵触を避けてレオール島で行った。
私は天文学者として先端的ではなく、軍事と市民生活への応用を探り、結果天測暦作成が主なものになった。
この汎用性故に日観測隊幹事に選任された。この役割を誇りに思う。
39
二月十五日 雨後晴
私はこの日食観測計画の調整役であり、各人の様子を聞くことにしている。今日は通信省の前田憲一君の番--
電波班の仕事は日食を挟んだ二十四時間。

受信機、ブラウン管等の機器が故障なく作動したのは有り難い限り。

観測の成果は数値とグラフが紙六枚分。
観測後は倒れるように寝て、その後仲間とカヌーで海に出た。
イワン君が取った魚やシャコ貝を船上で食す。
水中眼鏡で覗く驚異の世界。専攻を海洋学に替えようかとの声も。
40
二月十七日 曇時々晴
観測機材が次々に解体・梱包される。

数日後にはここを去ることに、皆感傷的になる。日食という天体現象のためこの島に来たが、再び来ることはないだろう。
 

東京天文台 藤田良雄君の手記
二月十八日 快晴
夜になって島民たちがみやげ物を持って参上。
長さ二間ほどの槍には驚いたが、窪川氏が思案の末に購入。
その他カヌーの櫂、椰子の煙草盆や民芸品。
色染めされた腰蓑は四個売れ、僕も一つ買った。
41
藤田良雄君の手記続き
この貿易中に蓄音機が常に流され、島民は喜んでそれをせがんだ。
一方集会所ではルーベルさんが、若い島民を集めて讃美歌の練習。黒板には譜と日本語の歌詞。島民たちの平和な生活が続く事を祈る。
 

私(秋吉)の付記
この島にルーベルさんがいてくれた事の幸運。
宣教師であるうえに、島民と観測隊員の通訳が出来る。
ルーベルさんが讃美歌を島民に教える姿を見て、伝道師として山陰を回った妹トヨを思い出した。何がこの熱情、忍耐、刻苦を生み出すか?
私は、水路部という場所で責務を果たし「お前は何者か?」という主の問いに応えたい。
42
東京天文台 服部忠彦君の手記
二月十九日 晴時々スコール
明日はこの島を去らなければならない。

中野氏が島民に頼んで緑の蜥蜴を捕まえ、アルコール入りの瓶に入れた。蜥蜴は数回もがいた後昇天。島民たちがそれを見て「アーメン」
この蜥蜴の名を島民に聞くと「クエン」だと言う。
駄洒落の好きな者が、島民だって蜥蜴は食えんだろうと言う。

だがその発音を良く聴き直すと「クエル」だという。一同大笑。
43
服部忠彦君手記の続き
天幕もすっかり畳まれ、そこは元のローソップ海岸に戻った。
夕食は若椰子の入った握り飯とサイダー。
記者連中の奉仕で日食観測記念碑も完成した。
その後島民たちが集まって来て、ローソップ村長の送辞のあと、子供たちが別れの歌を歌う。
神共にいまして 行く途を守り あめのみ糧もて 力を与へませ
又逢ふ日まで  又逢ふ日まで 神の守り  汝が身を離れざれ

夕闇が迫る中、喜びの感情は押しのけられ、目頭が熱くなる。
44
私は島を去る前に、島民に集まってもらって挨拶をした。

それは三光教会の日曜学校でやって来たこと。
まずはこの島のみなさんへのお礼。

みなさんの日々を乱した一方で、我々が働く姿も見てもらった。
だがどちらが文明的かを考えさせられた。
毎日の確かな営み、日曜学校での礼拝。この島に来るまでにあった「教化」への思いは逆。私こそが迷える子羊。
この言葉の後、村長らの挨拶があり、島民皆による「また会う日まで」の四部合唱。これは宣教師のルーベル君の賜物。
彼は父と共にトラック島に来て、島の学校を卒業後東京の教会で三年間学んだという。妻と満ち足りた日々を過ごし、幸福だと言った。
45
東京天文台 窪川一雄君の手記
二月二十日
全員四時起床して手荷物を片付ける。
午前七持。平栄丸、瑞鳳丸に分乗して観測隊一行はこのローソップ島を離れる。甲板には土産品や椰子の実が並ぶ。

正午頃トラック島が見え始め、停泊した場で出迎えを受け、軍艦春日へと移る。
 

私(秋吉)の付記
かくしてローソップ島に別れを告げた。
天文台、研究室にこもる面々には貴重な体験だっただろう。
46
二月二十一日 晴
トラック岩礁 夏島沖で観測機材を軍艦「春日」に積み直す作業を七時から行った。
荷積みを終え初めて夏島に上陸。

現地の者たちによるささやかな歓迎の宴が有り難い。
だが芸者の手踊りは、堅物の私には不快だった。
更に民の位置付けが日本人一等、次が島民、沖縄人がその下である事に立腹。
私が以前見た首里城は、まさに文明の頂点を示す建物。
47
東京天文台 藤田良雄君の手記
二月二十二日
トラック島郵便局で電報を打った後、島の旅館でうどんを食べるも不味さと高額に驚く。宣教師の川島さんに、島民の生活状態を拝聴。
 

私(秋吉)の付記
藤田君に会う。

観測の成功を祝うと共に、自身のキリスト信仰について語った。
信者としての自信をなくしていたが、島民たちを見て心の支えが必要だと思ったと言う。特に中佐(私)の話に感銘を受けたとも。
後に藤田君は信仰に返り 、日曜学校教師を長く務めた。
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東京天文台 服部忠彦君の手記
二月二十三日(金)晴
軍艦春日に乗り、今日からまた八日間の海上生活。
見送りの小学生らを乗せた瑞鳳丸。出発となり合唱、万歳の声。
午後、運用長から軍艦生活に関する講話。往路での無秩序を反省。
これから八丈島までは島も見ることはない。
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二月二十五日
平穏な帰国の航路。昨夜は後甲板で活動写真の催しを見た。

上映は「朗かに歩め」監督は小津安二郎という若手。

妖艶美人の伊達里子にどよめきが湧く。
翌朝から艦内見物。機関室を見る。
一通り装置は知っており、半ば引率の立場。
石炭を焚き、ボイラーで作った高温蒸気でピストンを動かす外燃機関。蒸気機関車とほぼ同じだと言ったら、学者たちはすぐ理解した。
ともかく騒々しいが、クランクシャフトの上下運動がいかにも力強い。
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帰路で隊員たちが回し読みされている雑誌が「少年倶楽部」
話題になっているのはその中の「冒険ダン吉」という漫画。
少年ダン吉が、相棒のネズミと共に南の島で島民や猛獣を教化する。
我々は未開の地に文明を播種している、というのが隊員たちの感覚。
福沢諭吉が、桃太郎は鬼の宝を強奪した悪者だと言った話を披露する者がいた。

信徒として私は、桃太郎の応援はしたくないと思った。
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軍艦「春日」の中で、お世話になった海軍へのお返しに講演会が行われた。講師は電波班、海軍技術研究所の伊藤庸君。
内容は電離層の話。電波は光と同じ秒速三十万キロで進むが、地球の丸みに沿って地球の裏側まで届く。

それは電離層という一種の鏡があるため。

大気がイオン化する事で生成される。
化粧する女が、手鏡で後ろ髪を確かめる例えに笑いが漏れる。
何層もあり不安定な電離層が、日食時にどう変化するかを観測した。
結果は、四千キロサイクルの電波に対しE層は日食と共に消滅、F層も大きく反射能を減じた。
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艦内で再び行われた講演会は観測隊員が対象。

話すのは文部省から来た大野勝治君。
島で民俗・風習の聞き取りを行っていた。柳田国男に連なる人。
島の女尊男卑についての話。
一家の父親が亡くなった時、財産は母親(連れ合い)の弟に行く。

弟がおらず姉妹であれば彼女らが財産を持って嫁ぐ。
嫁ぎ先で夫が亡くなれば財産を持って実家に帰る。
男子に譲られるのは椰子の木程度。

要は母から娘への系譜という母系制。
父親は分からないという蔑視に、日本でも通い婚があったという反論。
そこから女性の能力論に飛ぶ。キュリー夫人しかり。女の頭脳は埋蔵資産。トヨやチヨの事を考えた。
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東京天文台 藤田良雄君の手記
二月二十六日
快晴、平穏な航路。借りた書物が引っ張りだこで、ベッドからベッドへと目まぐるしい動きをしている。
午後鱶釣りがあったが、三十分しても反響なく中止。
各種教練が甲板で行われた。

大砲教練の凄さ。号令も行動も勇ましい。
椰子の実に皆でサインを行う事が次々に広まる。
そして救助教練。救助すべきは樽。
夜はロケットの教練。花火の様に火が飛び散る様は美しい。
今夜から水兵さんは冬服。段々故国に近づく。
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東京天文台 服部忠彦君の手記
二月二十七日(火)曇時々晴
船での生活は実によく眠りよく食う。
午前中にセキスタント(六分儀)の練習をする。殆ど忘れているうえに動揺する船の上で難航。秋吉中佐指導のもと、昼までかかる。
昼は兵食。麦飯にカレーがついて中々うまい。

本日正午の経緯度ではもう半分は過ぎている。

温度は25.5度でまだ暑い。
常に仕事のある兵員に対して手持ち無沙汰の我々。

行きと違って仕事の心配もなく、あとは天運に任せるのみ。
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その日の午後、京都帝大の上谷君がやって来て、漫画より高級なものとして「上田敏詩集」を持って来た。椰子についての散文詩。

作者は駐日フランス大使だったポール・クローデル。
「椰子の木」(意訳)
この樹には枝がなく、頂上に葉の房が集中してゐる。
下葉は精一杯に開いてうな垂れがちである。幹は環紋の材である。
嫋やかな、丈長草のやうにいつも地の夢のままになつて・・・
夜、浜伝いを歩けば一もとの樹が恋慕に悩む者の如くなだれかかつて、おのが心を空の火に近づけようとしてゐる。
われここを去つて帰り来る時、この夜を思ひ出すであらう。
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三月一日 木曜日
太平洋を順調に北上し、日本が近づく。
老朽艦とはいえ、三十年間良く働いた「春日」

計器類はイタリア語のままなのに驚く。ジェノアの造船所で生まれた。
艦長に招かれての昼食会。観測隊日誌を書き継いでくれた窪川、中野、藤田、柴田、森川の面々。
要人たちの前でも臆さず話が弾んだのは、あの日に晴れたという僥倖のおかげ。
島で買って来た椰子の実の飲み頃と聞き、割って飲んでみた。
艦内では冷やしたものが飲める。「これはうまい!」
各自いくつも買ったので、割って内核を取り出し、氷の入った器に入れる過程を家族に自慢出来る。
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東京天文台 藤田良雄君の手記
三月二日
午前十時頃、はるか彼方に八丈島が見えた。昼は救助訓練を実施。
同室諸氏は荷物の整理に余念がない。

帰着を明日に控えて喜びに満ちている。
 

私(秋吉)の付記
今回世話になった艦と船のこと。
船の素人である学者たちを乗せるためもあって「春日」採用となったが、大きすぎて島には近づけず、その任を担ったのが「瑞鳳丸」

運搬業務に活躍した。また民間から借用した「第六平栄丸」も活躍。
そして島民たち。文化の度が低いと思っていた観測員たちは、速やかに考えを変えた。
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帰国の前の晩、私は隊員たちに観測以外で何が一番心に残ったかを聞いた。それに服部忠彦君が挙手。
女々しいことを思い切って吐露します。
心に残ったのはお別れの会。

村長の言葉の後、子供たちが歌った讃美歌。
神ともにいまして ゆく道をまもり 神の御糧もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ

夕闇が迫る中、「また会う日まで」のリフレイン。

親しくなった人々との別れを思うと目頭が熱くなり、懸命に上を向いた。
「さよーなら!」と叫ぶべきところも声にならない。
私はこれを聞いて、彼らが観測の成果とは別のものを得たと思った。
南と北、肌の色、未開と文明、それらを越えて人を繋ぐものがある。
皆の前では言わなかったが、主の導きを確信した。
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東京天文台 服部忠彦君の手記
三月三日 雪後曇
暑かったローソップ遠征の最後を飾る日記に雪の字が見えるのも面白い。
艦での最後の朝食をしたゝめていても、出迎えを思うと思いは巡る。
後甲板に出るとランチが横づけになり、天文台総出と言える出迎え。
植物検査が始まる。

椰子などは簡単だが甘蔗 (カンシャ)は許可されず。
観測隊員も上陸を始め、家族らと喜び合う。

皆手荷物を抱へ、ランチに乗移る。

軍艦を離れると、士官らが並んで敬礼。
さよなら春日よ。そして南国の思ひ出よ。

さらば。