人間の絆 Ⅰ(全四巻) 作:サマセット・モーム | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

他の巻       

 

 

この小説は二十代で最初に読み、その後十年ほど前に再読してコチラ

にレビューしているが、今回三回目の読書。
かなり長大なので、一巻毎にレビューを進めて行こうと思う。
例の「今でしょ」の林修が、本書を愛読している様だ。
作品が発表されたのは1915年(105年前)

モーム本人



感想
主人公フィリップ・ケアリが母親に死なれ、葬儀が行われるところから始まる第一巻。
子供のいない伯父夫婦に育てられるが、親の様な潤沢な愛情は受けられず、先天的な内反足のため、厳しい学校生活を送る。
本巻では、キングス・スクールでの勉学意欲減退、その後ドイツ留学に行き、それも挫折してロンドンの会計事務所で修行を始めるまでが描かれる。

実は、この主人公に自分自身を重ねていた。

七歳の時に母親が死に、父親も八歳の時に死んだ。

その後父方の伯父宅で育てられた。伯父は中二で亡くなり、それからは伯父の長男(つまり従兄)が保護者となって高校卒業まで世話になった。親の残したものなどなく、鬱屈した日々。
話を読み進むうちに、親がない事で、自分自身にも精神的な欠損があるのではないかという不安が募った。
結婚の時には、これを乗り越えるのが最大の課題でもあった。

本編に戻る。
少年期にフィリップを襲った試練は「内反足」。

足首が、甲を下にする様にねじれる、先天的な病変。
幼い頃は、保護され慈しみの対象でもあったそれは、寄宿舎生活においてはイジメの対象でしかなかった。
次いでキングス・スクールに上がり、新任の校長に好かれるものの、勉学に対する意欲をなくす引き金になったのは、友人ローズとの確執。
だがその前、予備校の最終学年で、神に足を治して下さいと真剣に祈り、叶わなかったという出来事が陰を落としている。

それが、牧師になるという気持ちが失せた根本的な原因。

それにしても、どうしてフィリップがここまで強気を貫けたのか。

それは親の残した遺産。何も残せなかった、と書いてあったが、3章でそれが二千ポンドを少し出る、との記述。1900年当時の1ポンドを2万円相当と仮定すれば、今なら四千万相当。立派な財産だ。
二十一にさえなれば、とフィリップが言っていたので、法律上そういう決まりになっていたのだろう。

実際成人になって遺産を受け取っている(千六百ポンド?)
これだけの金がバックにあれば、伯父にも逆らえるだろう。

だが本当に、若気の至りにも程がある(まあ、自分も高校時代、警察の世話になったバカヤロウだが・・・・)

前回レビューでは、ドイツ留学で知り合ったヘイウォードに対する心酔が記憶に強かったが、今回ではさほどの印象がない。

確かに優秀で、影響を受けた。だが同じ下宿のウィークスにやり込められてるし、フィリップもそれなりに批判している。

初体験の相手だった、ミス・ウィルキンソンとの顛末が面白い。

初めは二十代にしか見えなかったのが、体験してみたら四十前には見えなかった(笑)

読んでいて驚いたのは、16章で校長がフィリップを慰めるため見せた写真の中の「ディオニソス劇場跡」
ディオニュソス神といえば現在連載中の「カード師」でギリシャ神話の無駄エピソードに出て来る。
前回読んだ時には全く引っかからなかったが、やはり直近の記憶というものは大きい。


あらすじ
 1 ~ 37章

くらい灰色の朝が明けた。
寝ている女のベッドにもぐり込む少年。

少年の左足をさすり、涙を流す女。
子供は取り上げられ、離される。
産まれた子の性別を乳母に聞く女。

男だったが死産。女の脈を取る医師。
別室で医師に聞く乳母。首を振る医師。

一週間後、母親の死を告げる乳母のエマ。

その事か良く理解出来ないフィリップはまだ九歳。
だがこの事を大仰にしたい気持ちで、葬儀に来た母親の友人姉妹に挨拶するフィリップ。

牧師である、フィリップの伯父ミスタ・ケアリとその妻ルイザ。

結婚三十年で子はなく、フィリップを引き取り、ブラックステイブルに連れて行く事になった。

外科医だったフィリップの父親は、半年前に敗血症で亡くなった時には財産もなく、その時妊娠していた母親は、家計のやりくりも知らなかった。
この事態に一切の清算をした結果では、フィリップ養育のための金は、二千ポンドをほんの少し出る程度。

エマとの別れ。伯父ミスタ・ケアリに連れられて、ブラックステイブルの牧師館に着いたフィリップ。迎えるミセス・ケアリの戸惑い。

次第に判明して来る、フィリップの亡き父母の状況。

父は聖ロカ病院で幹部級だった。家柄だけで金のない妻を娶ったが、衣装などの浪費癖。その結果フィリップに何も残せなかった。
フィリップを引き取って一週間後、転送されて来た小包。フィリップの母親が、死の寸前に写真館で撮った写真が十二枚。呆れる伯父。
一枚だけをフィリップに渡すミスタ・ケアリ。

牧師館を巡る運営のあれこれ。教区委員のジョザイア・グレイヴズとの確執。教区の決め事を独善的に進めるグレイヴズが面白くないミスタ・ケアリ。一度だけ大喧嘩になったが、互いの利害に思い至り和解。
フィリップが加わったことで、何曜日を彼の入浴日にするかで揉めた。これ以上仕事が増えるのを拒む女中のメアリ・アン。だがフィリップが自分ではいれる、と言ったことでメアリ・アンが折れた。

毎週日曜の礼拝日に向けて、聖餐用のパンの準備が行われる。

そして教会での説教。
行事が終わると献金の勘定。誰がいくら出したかの詮索。
寝に行く頃にはすっかり疲れてしまうフィリップ。着替えさせてくれるメアリ・アンが、何だか好きになった。

メアリ・アンとまず親しくなった。三十五で、ひどく小柄。

十八の時からここで働いている。
燭台の事で再びグレイヴズと揉めたミスタ・ケアリ。

不機嫌なところへフィリップが積み木で騒音を立てて怒り倍増。
後にミス・ケアリがとりなすが「大嫌いだッ!ああ、いっそ死んでしまえ」と叫ぶフィリップ。
涙するミス・ケアリにハッと気付き、初めて自分から伯母にキスをした。
ようやくよそよそしさから脱した二人。

万事規則づくめのミスタ・ケアリの生活。

不平を言うフィリップに祈祷の暗誦を命じるミスタ・ケアリ。
覚えられなくてベソをかくフィリップに絵本を見せるミス・ケアリ。
絵本に夢中になるフィリップ。

ほとんど読むことはないが、本集めがミスタ・ケアリの趣味だった。
そのうちに自分で本を選んで読み出したフィリップ。
一番のお気に入りは「千一夜物語」
10
フィリップは、ターカンベリのキングズ・スクールで学ぶ事になった。

聖職者を志望するよう教育される。
校長のミスタ・ウォトソンは快活な大男で、各施設を案内して回った。
生徒のヴェニングを紹介されるフィリップ。

フィリップの蝦足(内反足)を不思議がり、見せろと要求される。

それを拒むと蹴られた。何故蹴られたが判らない。
11
始まった共同生活。朝の祈りの後の朝食。バタ付きパンとお茶。

他の者は卵やベーコンを持ち込んでいる。これがミスタ・ウォトソンの利益になる。事前の確認でそれを断っていたミスタ・ケアリ。

特別食の有無で待遇が変わる。
休み時間に子供たちの行う「豚捕り遊び」。走るのが前提であり、足を引きずりながら歩くフィリップを見て、それを真似する者が続出。

足をすくわれて倒れるフィリップ。
夜の就寝時間。シンガーという少年が、足を見せろと執拗に迫る。

他の者も来て腕をねじる。
屈服して足を見せるフィリップ。見物人が増える。
見回りが来てそれはお開きになったが、枕を噛みしめるフィリップ。
このみじめな二日間は夢なのではないか、と思いつつ眠りについたが、何も変わらない翌朝。
12
時が経つにつれて、フィリップの蝦足は興味の対象から外れた。
校内で流行した「ペン先遊び」。ペン先同士を戦わせて取り合いをする。フィリップはそれが上手だった。
校長が、これを賭博として禁止し、ペン先も没収した。
ペン先を買い込んで、ポケットの中の感触だけ楽しんでいたフィリップだが、シンガーにそれがバレ、無理やり遊びにつき合わされた。

彼が唯一持っていた特別製の「ジャンボー」が獲物。

数回負けた後に勝ったフィリップ。
それが校長に見つかり呼び出された。シンガーは尻打ちの刑。

だがフィリップは、新入生でかつ跛足のため体罰は免れた。
それからシンガーによる残忍な苛めが始まった。

シンガーが十三歳になるまでの二年間はそれが続く。
不幸に満ちたこの生活は「明日の朝には解決している」という感情を蘇えさせた。
13
二年が過ぎフィリップは十二歳近くになった。首席に近い成績。
自らの蝦足により自己意識を成長させた。

既成のルールは役に立たなかった。
ルアードという仲良しの少年が、ふざけてフィリップのペン軸を折ってしまった。それを母の形見だったと言って涙ぐむフィリップ。

実際は自身で買ったもの。だが次第にそれが真実だと思い込んだ。
そんな時ふと思い出す、母が死んだ時の事。自分の悲しみを見せ、憐れんでもらうために小母姉妹にさよならを言った場面。
14
校内に一種の宗教熱が広まり、フィリップはその一環で「聖書連盟」に入会し、毎晩聖書の一節を読んだ。
その中でキリストの「信仰あらば山をも移す」という言葉に感銘を受けた。
クリスマス休暇で帰省した折り、伯父にこの言葉を聞くフィリップ。

信仰の問題だと言い、フィリップが、信仰さえあればそれが出来るのですか、の問いを肯定した。
蝦足を治して下さい、と神に一心に祈るフィリップ。

山を移すことに比べれば、言うほどのことではない筈。心のあらん限りを捧げて祈る。果ては、冬の中寝る前に全裸になって祈った。
だがその祈りは通じなかった。
再び伯父に問うフィリップ。祈っても、その通りにならない事について。信仰が足りない、と片付けるミスタ・ケアリ。
復活祭を待つまでもなく、苦しむことをやめたフィリップ。
山を移すなどという聖句の、字面との違い。
15
十三歳になってキングズ・スクールの本校に進学したフィリップ。
歴史の古さを誇る学校だが、その一年前大変化があった。

四半世紀に亘って校長だったフレミング博士の交代。

耳が遠くなり現職が困難。
後任としては、予備校の主任を二十年勤めるミスタ・ウォトソンが、職員室での一致した候補。
だが牧師団が選んだのは、シャツ商パーキンズの倅、トム・パーキンズ。
優秀な生徒で、基金から最高の奨学金を得ており、 卒業後は有名な学校の助教も勤めていた。実家のパーキンズ・クーパー商会は父親の酒癖のため、破産していた。
教師たちの評価は低く、かつて生徒だった時、彼に体罰を加えた教師は恐怖した。
赴任して来たトム・パーキンズは、身なりに構わない三十二歳の痩せた長身の男。
昼食時の、教師たちとの会話後の総評は「夢想家」。

その意味は「育ちが悪い」
今度の終業式が最後だ、と覚悟する教師もいた。
16
新校長が次第に改革を進める。教師との間に生まれる軋轢。

特に、生徒への授業を、思いつきで取り換えて自分が行おうとした。

知識狂の校長は、学科の試験など無視して常識、知識を求めた。
フィリップが入った組は「水鉄砲」と呼ばれるゴードン師の受け持ち。

過去に生徒への暴力で解雇寸前まで行き、暴力行為はなくなったが、威圧を常とした。
目を付けられてひどい扱いを受けるフィリップ。だが校長が代わって教える時は、本好きだったフィリップが、彼の好奇心を十分満足させ、高評価を与えた。それが面白くないゴードン。
ある日、さんざんフィリップに圧力をかけた末に「蝦足の頓馬野郎!」と叫ぶゴードンは、懲罰簿を校長のところへ取りに行かせた。
事の次第を聞いた校長は、アテネの写真(中にはディオニソスの劇場跡も)をフィリップに見せて慰めた。
17
その後二年間は、単調ながらも楽しかった。優しくて、親切で、馬鹿な「しょぼしょぼ」の下での二学期。

その後は「コールタール」語源はコールタール樽。
学業の合い間に接する写真、絵画、風景などから得る審美的感情。 
その頃から、校長の書斎で行われる堅信礼のための級に出た。

聖書を読む習慣はとっくになくなっており、それが不安だったが、例の屈辱を受けた際のミスタ・パーキンズの厚情から、彼に尊敬を捧げていた。
奨学金を得るために十分な成績であるが、自分の不幸に対して過敏過ぎる事への心配を伝える校長。
校長の言葉を反芻するフィリップは、神秘的な法悦に満たされる。
堅信礼の儀式で、出席の親たちが並ぶ中、自身の不具を神に捧げた。
18
友達はほとんどおらず、読書だけが友達。

相手の急所を突く性癖も、嫌われる要因。
堅信礼が終わり、クラス替えとなった時にローズと知り合った。

皆に好かれる性格。そんな彼がフィリップに声を掛ける様になった。

急速に友情を深める二人。
最初は控え目だったが、幸福感に満たされ、ローズを最も素晴らしい人間だと思った。
学期末で帰郷した後の再登校。待ち合わせをしていたが、それを忘れて他の友人と談笑していたローズ。多少のすれ違いにもローズがフォローして、フィリップの憤懣は消えた。
19
最初はローズの友情に、感謝しかなかったフィリップだが、その八方美人的ぶりが嫌だった。
ローズを巡って繰り返される、喜びと怒り。
学期末に猩紅熱が流行し、罹患したフィリップが家に帰された。
学期半ばに学校に戻った時、クラス替えでローズは居なかった。
会いたくて彼の部屋に行くと、思いがけず冷たい応対。

この三ヶ月でフィリップの空席はハンターに埋められていた。
ローズに嫌味を言うが、却って嫌われるばかり。
腹いせに、クラスでも蔑んでいるシャープと無理に友人となるフィリップ。
一度だけローズが和解を求めに来た事があった。

それを拒絶するフィリップ。
その後の後悔。だがシャープに止めを刺された。

ローズが陰でフィリップの事を「あんな跛足」と言っていたという。
言葉をなくすフィリップ。塊のようなものが胸に閊える。
20
フィリップは六年に進級したが、学校そのものを憎んでいた。

学業生活が苦役。
授業中は、教室のゴチック窓などを写生して過ごした。
校長に呼び出されるフィリップ。急速に勉学への興味をなくした事を心配していた。この学期は落第だとの宣告。
オックスフォードには行かないと言うフィリップは、気が変わったと重ねた。
諄々にフィリップを諭す校長。その言葉にグッと来る気持ちもあった。
だが心の中の何かがしがみ付く。

「いやだ、いやだ、断じていやだ」を言い続ける。
神に仕える生涯を讃える校長に対し、故郷での牧師がどんなものかを知っているフィリップ。ホワイトストン教区の牧師、ファーンの牧師・・・
単調の上に貧。そんな生活はゾッとした。広い世間に出たかった。
21
忠告が無駄だった事を校長は悟る。そして前期が終わるまでフィリップは完全に無視され、成績表は猛烈なものになった。
伯父に、ターカンベリに居る必要はなく、ドイツに行きたいと言い出すフィリップ。オックスフォードにも行きたくないと言う。
一度決めた取り決めを変える訳に行かないミスタ・ケアリ。
口論の末、もう一学期は通い、クリスマスで辞めるという事にして学校に戻ると、校長からの言葉。
伯父さんから手紙をもらったという。意見を聞くというスタンス。

約束を反古にされて怒るフィリップ。
その晩、規則を破って帰省したフィリップは伯父と対決。
二十一になりたい、こんな風に縛られるのはたまらない、とわめくフィリップを見て、絶え入る様な声で嘆く伯母。
ほんとの子供と同じ様に育てて来たつもりだったけど、思うことはして上げられなかった。それはどうしていいか判らなかったから。

子供がなかったというのは恐ろしいことだった・・・・
フィリップは、自分の怒りを全て忘れて彼女を慰めた。
点呼までに帰らなくてはならず、急いで汽車に乗るフィリップ。
校長のところへ伯父からの手紙が届いた。本人希望により退学を申し出る内容。それを見せられ、勝利を感じて満足のフィリップ。
退学は了承したが、どうせ辞めるんだから、クリスマス直後より復活祭の後がいいだろうとの提案。
懸案が解消されて、勉強もすらすら出来る様になった。

奨学金の候補に再び浮上したと思って、焦るクラスメイト。
成績の急上昇を見て、校長が声をかける。

その優しさにホロリとしかけるが、再びやめると答えるフィリップ。
全てを諦めて、握手した校長。

校長の家を辞して、自由を実感したが、有頂天の歓喜はなかった。
深い憂鬱が心を捉えた。
22
ミセス・ケアリの友人、ミス・ウィルキンソンのつてで、ドイツ ハイデルベルヒの家に下宿する事になったフィリップは、単身そこに向かった。
そこはエルリン先生夫妻の家であり、女主人の歓待を受けた。

姉妹がおり、姉はテクラ、妹はアンナといった。妹に好感を持つ。
昼食時に紹介されるフィリップ。下宿人は十六名。

様々な国籍、性別。「ああ、幸福だ、僕は」と呟くフィリップ。
23
ハイデルベルヒでの生活が始まり、自由に酔い痴れるフィリップ。
日課はエルリン先生がラテン語とドイツ語、フランス語は外部からのレッスン。数学は近くに住むイギリス人学生がいいと教えられた。

それがウォートンというイギリス人。ケンブリッジ大を出たが、博士号を取るためハイデルベルヒ大に通っている。だがドイツに来て既に5年。
不潔でビール漬けのデブ男だが、彼からは数学よりも、人生に対する事を学んだ。
一年ぐらいここに居て、オックスフォードに行けと言われているフィリップに、5年は居ろと言うウォートン。
夏を迎え、この家庭の事情や、下宿人たちの状況について、次第に把握を深めるフィリップ。
下宿人の女性、フロイライン・ヘドヴィヒに惹かれるフィリップ。

彼女は家柄の高い男性と恋愛していたが、それを反対され、冷却期間を取るためここに来ていた。
つたないドイツ語で愛の言葉を口ずさんだりしたフィリップだが、うまくは行かなかった。
24
エルリン先生は毎日レッスンをしてくれた。

「シェイクスピア」の独訳。ゲーテの名声の絶頂期。
だがその頃上演されていた、ある作品を酷評するエルリン先生。

それはイプセンの「人形の家」
またワグナーについても、十九世紀が終わるまでに忘れられると言った。
25
フランス語の先生ムシゥ・デュクロ。みすぼらしい服装で、教え方は良心的だが、熱がない。お礼はひどく安かった。
ある日、非常に苦しそうなムシゥ・デュクロを見て、お礼は来週分まで払うから、と十マルク金貨を出した。
彼はあっさりと受け取り、帰って行った。

気前のいいところを見せたつもりが、さほどでもなかった事に失望。だが数日後ヨタヨタとして現れたムシゥ・デュクロは、何とか授業を終えた時、あの金がなかったら餓死していた、と神妙な礼を言った。
フィリップにとってこんなに楽しい人生が、彼にはこんなにも苦しい、としみじみ思った。
26
当地に来て三ヶ月ほどして、女主人からヘイウォードというイギリス人が来る事を告げられたフィリップ。
フロイライン・ヘドヴィヒの交際相手の家族が来たりして、数日取り込みだったため、その新人とは翌日まで話す機会がなく、アメリカ神学生のウィークスが彼に話しかけたりしていた。
翌日、ヘイウォードの方から声をかけて来た。初対面の相手が苦手なフィリップに対し、社交的なヘイウォード。
しばらくするうちにヘイウォードの経歴が判って来た。田舎判事の息子で、父の死により年300ポンドの遺産を受ける生活。
ケンブリッジで学んだ後、弁護士の勉強のため、ロンドンに出た。

その後ゲーテが原語で読めるようにと、ドイツに来た。
ヘイウォードの天分は、本当に文学が判ること。

しかもそれを的確に表現出来る。
自己向上のため、多くの本を借り出すフィリップ。
ウィークスが西ドイツ旅行から帰った頃には、完全にヘイウォードの影響下にあったフィリップ。
ヘイウォードに対して、シニカルな見方をするウィークスに反発するフィリップ。二十六歳のヘイウォード、三十歳のウィークス。
27
ウィークスの下宿は裏手にあり、よく皆を呼んでいた。

ハーヴァード出のウィークスに対し優位に立っていたヘイウォードだが、話の細部で終始訂正され、やり込められた。
「あのヤンキーめ!」と言うヘイウォードだったが、この三人での会話はそれなりに楽しいものだった。
28
三人での会話の中で、宗教についてフィリップの頭の中で反芻されていた。神を信じない事について。
ウィークスの行動は、立派にキリスト教的。強い親切心。
ウィークスとの会話の中で、なぜ人は神を信じなければならないか、判らない、と言ってしまったフィリップ。
その事で、とっくに神を信じなくなっている事に気付く。
それから一、二週間、懐疑論に関する書物を読み漁った。

結論は、信仰を失ったのではなく、宗教心が欠けているに過ぎない。
ただ一つ悲しくなるのは、母に二度と会えなくなるという事。
それにしても僕の罪じゃない。

信じられないからと言って罰するのなら、これはもう仕方がない。
29
冬になり、ドイツ語上達を口実にフィリップは、ヘイウォードと地方劇場に通った。
劇は彼にとって実人生そのものだった。不潔な強烈さに我を忘れた。
この感動を分かち合うため、ヘイウォードに話しかけるが、まともには答えてくれない。彼との交友は、恐らくフィリップにとって最悪。
ヘイウォードは決して自分の目でものを見ない男。

輪郭をぼかして見ている。彼は夢想家。
30
ヘイウォードの誌的暗示のため、落ち着かないフィリップの心は、ロマンスを恋い求めた。
その頃、下宿で噂が立ち始める。下宿者であるフロイライン・ツェツィーリエと中国人の孫。それが女主人である「奥様」の耳に入り、揉め始める。二人とも上得意ではあるが、規律を保つことも重要。
それぞれに話したところでは、フロイライン・ツェツィーリエは認めたが、孫はにこにこ笑うだけで認めない。
周りの者が皆知るところとなり、「奥様」が給仕のエミールを使って、孫の部屋にフロイライン・ツェツィーリエが居る現場を押さえた。
実家の伯父に手紙を書いたと宣言する「奥様」。

夕食では、にこやかに夕餉の葡萄酒を飲む孫。
だがその晩、孫とフロイライン・ツェツィーリエは、荷物を全て引き上げ、居なくなっていた。
31
ヘイウォードは、日延べを重ねたあげく、クリスマス直前になってようやく南欧旅行に出掛けて行った。

この季節のドイツを嫌っていた。
ヘイウォードは驚くべき手紙書きで、イタリアから次々に送って来た。イタリアの素晴らしさが良く判るものだった。
そのうちに、フィリップにもイタリアへ来るように、と言って来た。
伯父からの仕送りも乏しく、そんな余裕のないフィリップは今、十九歳。
大学にも入学を許され、落ち着いて勉強が出来る環境だった。
しばらくして、ミセス・ケアリから伯父の代弁で、そろそろ帰郷の頃だろうと書いて来た。将来の事も決めなくてはならない。
出発を前にミス・ケアリからの手紙で、こちらの下宿を世話してくれたミス・ウィルキンソンもブラックステイブルに来るとの事。

シャイなフィリップにとっては負担。
32
帰郷し、伯父夫婦の衰えに驚くフィリップ。
やがて、ミス・ウィルキンソンが入って来て挨拶した。

かつて伯父が最後に仕えた牧師の娘。
花模様を散らした素晴らしい服装で、髪の結い方も洗練されていた。
だが、フランス訛りの上、恐ろしく厚化粧なのが気に入らず、最初はほとんど口をきかなかったフィリップ。
彼ばかりに話しかけるミス・ウィルキンソンに慣れるうち、次第に好意を持ち始めた。
彼女の年齢について聞いてみたフィリップ。

伯父の話との組み合わせでは三十をだいぶ越している。
彼女はベルリンの肖像画家の家に、住み込みで家庭教師をしているらしい。今は休暇でこちらに来ている。
彼女が話す、様々な思わせぶりは、フィリップに浪漫的な空想をかき立てた。二人きりでの会話。
画学生から、ラブレターをもらった話に夢中になるフィリップ。
33
ミス・ウィルキンソンが話すような体験が、自分にない事を腹立たしく思うフィリップ。
彼女はピアノを弾き、歌も歌った。フィリップの声を美しいバリトンだと言って褒め、とうとう毎朝一時間のレッスンを受ける事になった。

家庭教師としての厳格さが現れる。
そんな彼女が魅力的に映り、フィリップの目には二十六歳以上には見えなかった。
帰郷して二週間ほどの間に、伯父と将来についての議論が行われた。オックスフォード行きは既に断っていたため、就くべき職業についての議論に入る。
軍人、法律、聖職、医者。絞り込みの流れで弁護士の家に見習いに行っては、という案が出る。
ミスタ・ケアリが友人のアルバート・ニクソンに相談すると「特許会計士」という職を紹介された。商業の発展に従い、この関係の組合も出来、国家免許制になってからは地位が高くなっている。
ハーバード・カータァ(会計士)のところへ見習徒弟として入る事に決まった。費用は300ポンド。
ミス・ウィルキンソンとの別れまで、あと一ケ月ちょっと。

名残り惜しそうにするミス・ウィルキンソン。
フィリップも、もうすぐ二十歳。

恋の一つも仕掛けてみなければ、と思った。
ちょっとしたきっかけで手を握った。数回の機会で手応えを感じる。
テニスをする場面があり、サーブが得意だったフィリップは、足が悪いなりにネットプレイで勝ち抜いた。それを褒めるミス・ウィルキンソン。
軽いジョークの中で、ごく自然に彼女に接吻したフィリップ。
34
翌日会った時、初めは接吻を許さなかったミス・ウィルキンソン。

伯父の事を心配する彼女。そして聞いた。
「で、いったいあなた、私が好きなの?」 「そうですとも、とても」
今度は接吻を拒まなかった。
それから何度となく繰り返される行為。

情熱に燃えて愛の言葉を呟くフィリップ。
今まで彼が経験した、どんなものよりもすばらしい遊び。

毎日熱烈な恋人として振舞った。
二人きりになるために、次の日曜は頭痛を理由に家に残るよう頼むフィリップ。その場では断った彼女。
日曜のお茶の時、ミス・ウィルキンソンが頭痛を訴えた。それに合わせて自分も残る、とフィリップ。伯父夫婦は教会に出掛けた。
不安で一杯のフィリップ。だがこうなった以上行くしかない。

ミス・ウィルキンソンの部屋の前で暫く佇み、そっとドアを開けた。
振り返った彼女は、スカートとブラウスを取ってしまって、ペティコート一枚だけ。上は黒のキャミソール。
むしろグロテスクでさえあり、こんなにも興ざめな姿に失望した。
だが、もう遅い。後ろ手に扉を閉めると掛金をおろした。
35
翌朝目覚めたフィリップ。昨夜を思い出し、眉をひそめた。
勝利感は短かった。なるほど、四十以下とは考えられない。

彼女に接吻する事を考えるとゾッとした。
止む無く出向いた食堂で「朝寝坊ねぇ」と声をかけるミス・ウィルキンソン。とても美しく見えてホッとした。
歌のレッスンで二人きりになると「抱いてちょうだい」と迫られた。

それから逃げるように水浴びに出掛けるフィリップ。

だが街を歩くうちに、恋愛フロセスを振り返って、愛される幸福をヘイウォードに手紙で伝えようと思い立った。
イメージしたのは十八の「ミュゼット」
二週間はみるまに経った。毎晩別れを悲しむミス・ウィルキンソンに対し、ロンドンでの新生活が楽しみなフィリップ。
その頃起きた一騒動。テニスの会で知り合った姉妹に、口を滑らせて彼女の悪口を言い、それが巡って彼女の聞に入った。
嘆くミス・ウィルキンソン。私の一番大切なものまで上げたのに。
いよいよ彼女の出発の日となり、伯父と共に駅まで見送った。

修羅場とならず、胸を撫で下ろすフィリップ。
帰るとヘイウォードからの返信。言葉を極め、ロメオとジュリエットを引き合いに出して、この恋愛を褒め称えていた。

それとはあまりにも違う現実に、苦痛を覚えた。
36
数日後、ロンドンへ発ったフィリップ。

紹介された貸し間に着き、荷をほどいた。
翌日ハーバード・カータァ商会に出向くフィリップ。
支配人のグッドワージー氏に紹介された。痩せた小男。
ミスタ・カータァがまだ出勤していないため、手始めの仕事を教えがてら、見習社員のウォトソンを紹介された。

醸造商「ウォトソン」の倅だという。大柄で頑丈そう。
洋服も帽子も一流で、引け目を感じるフィリップ。

グータラ事務所での時間の空費が忌々しいとうそぶくウォトソン。
出勤して来たミスタ・カータァに引き会わされる。

大変な紳士振りに圧倒されるフィリップ。
37
フィリップの仕事はミスタ・カータァの手紙の口述筆記や、経理報告の清書。次第に要領を覚えて行った。
夜はもっぱら読書で過ごした。土曜の午後は国立美術館。

ヘイウォード推奨の案内書に沿って批評を咀嚼した。
日曜日は一日暮すのに困った。一度は弁護士のミスタ・ニクソンに招待されたが、次の招待はなかった。
良く行ったのは散歩。そのうちに長い、淋しい毎晩が嫌になり出した。
ロンドンに出て三ヶ月。ニクソンに招待された日を除いては、同僚以外誰とも口をきかない生活。
ある日ウォトソンとミュージック・ホールへ行った。

俗物でしかないウォトソン。
舞踏会に誘われた事もあったが、足のために断った。
この足を見て不快を催さない女はいない・・・
それで思い出すのはミス・ウィルキンソン。住所を教えていないので、彼女からの手紙が郵便局気付で三通届いていた。
情熱的なその内容。

事務的な返事には、恨み言が連なる手紙がすぐ届いた。
こうした問題を、実に苦もなく始末するウォトソン。

彼がする話に、ほとんど羨望するフィリップ。
くよくよしてたって、仕様がない、と彼は言う。
そのうちにクリスマスが近づいた。ミセス・ケアリの療養のため、彼らは避寒地に行くとの手紙。行くところがないフィリップ。
クリスマス当日になっても予定はなく、自分の部屋で食事をして本を読んだ。
事務所ではウォトソンから女友達との交遊を聞かされる。
ウォトソンのことが大嫌いだったが、彼との位置を入れ替えられるなら、どんな犠牲も引き受けたかも知れない。