人間の絆 Ⅲ(全四巻) 作:サマセット・モーム | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

他の巻       

 

 

感想
貢ぐだけ貢がされて、ミルドレッドに逃げられたフィリップが知り合ったノラ。このノラの母性的なイメージに、心の平静を取り戻す。
そこへ、妊娠した上捨てられたミルドレッドが戻って来たため、あっさりノラを捨ててしまうフィリップ。

この辺り、ひどい奴だと思うが、フィリップはミルドレッドに絡め取られた、まさにこの小説の原題である「Of Human Bondage」状態。
ミルドレッドが女児を産み、擬似家族を楽しむフィリップだが、今度は親友だと信じ切っていたグリフィスにミルドレッドを寝取られてしまう。

この辺りの伏線が非常にうまい。フィリップがインフルエンザで倒れた時に、親身になって看病してくれた事で、グリフィスに全幅の信頼を寄せていたフィリップ。
だがフィリップの行動も不可解。浮気旅行に出掛けるをのを知りながら、ミルドレッドに金を与える。生まれついてのマゾかァ・・・
それにつけても、ミルドレッドに注ぎ込んだ700ポンドは、今なら千四百万円! 使える金があったのが、彼の不幸。
ようやくノラの素晴らしさに気付くが、彼女には既に愛する人が出来ていた。

最終巻に向け、本巻の後半にいくつかの山場が用意されている。
ロンドンに戻ったクロンショーを引き取り、最期を看取るフィリップ。

彼の生活を見かねて行ったものだが、詩集を出版したレナード・アップジョンからは、詩人が死ぬ場所ではないと皮肉られる。
それから金銭的にも、精神的にもフィリップを救う事になる、アセルニー家との出会い。
アセルニーに教えられたスペインの画家エル・グレコ

この画家の存在がフィリップに影響を与えて行く。

そんなフィリップが、三たびミルドレッドと関わってしまう。これは本当に自分からアリ地獄へ落ちて行く様で、読んでいても気持ちが塞がる。
だがさすがのフィリップも、彼女に対しての愛情は残っていなかった。
今度は、それに気付かないミルドレッドが深みに嵌る。


あらすじ
 64 ~ 92章
64
朝方、目覚めたフィリップ。今までの事を冷静に考える。そもそも傷付けられた虚栄心から始まった恋。しなければならない勉強は、うんとあった。落第した二つの課目の他、科学も取らなければならない。
そんな中でも嬉しい事があった。

ヘイウォードからの手紙が来て、ロンドンに寄るとのこと。
ヘイウォードの到着を、駅で迎えて再会を喜ぶ。
昼食の後、彼をグリニッヂに誘うフィリップ。
絵をやめて、惜しいと思わないか?とヘイウォード。

医者を選んだ理由について簡単に話すフィリップ。
グリニッヂに着き、公園を散策する二人。パリの二年間は無駄だったね、という言葉に反論するフィリップ。木漏れ日の模様、大空、もしパリに行かなかったら、この美しさは判らなかった。
思わず涙ぐむフィリップ。
65
ヘイウォードの来訪は、フィリップのために大変良かった。

ミルドレッドとの過去は憎しみが湧くだけ。
それは、自分がいかにだらしない人間かという事の証明。
フィリップは生まれ変わった様になった。

あの狂気に満ちた、半年の苦役。
ブラックステイブルから転送された絵葉書を受け取るフィリップ。

ある展覧会の案内状。目録にはローソンの名が。
ヘイウォードと一緒に展覧会へ出掛けた。その絵はルース・チャリスの半身像。絵の前にいたローソンは、フィリップらを見ると、例の饒舌でロンドンに移り住んだこと、ルース・チャリスとの別れなどを喋り立てた。
食事をしながらローソンの話は続く。フラナガンはアメリカに帰り、クラトンは行方不明。芸術に対する思い入れが深すぎて身動きが取れない。
ルース・チャリスの恋愛について話し出すローソン。

イギリスからの若い画学生と出来て、彼を捨てた。
途中でモデルに逃られた形だが、ただでモデルを使って、さほど苦しみもせず別れた事に羨望を感じるフィリップ。
クロンショーの消息を聞くと、肺炎で二ケ月近く入院し、酒を厳禁されたとの事。少しは慎んだが、最近では半年楽しく暮らして死んだ方がいいと、また飲み始めた。
そして、彼がフィリップに贈り物をした事を思い出したローソン。

他の荷物と一緒に届くだろうと言った。ペルシャ絨毯らしい。

人生の意味についてフィリップが聞いた事を覚えていた。
もらっておこう、とフィリップ。その答えは自分で見出さなくては駄目・・・
66
フィリップの勉強は順調に進んだ。とは言っても、前に落ちた二つを含め、七月で一度に試験を受けなくてはならない。
そんな時に新しい友達が出来た。ローソンが新しいモデルの少女を見つけた時、付き添いで来たミセス・ネズビット。

その話相手を頼まれ、会食に同席したフィリップ。愉快なおしゃべり。

それから家に招待され、付き合いが始まった。年齢は二十五ぐらい。

小柄で、明るいが不美人。夫とは別居中で、いわゆる二ペンス小説を書いては子供との暮らしを立てていた。
生活は苦しいが、何とかなるものよ、とあくまでも明るい。
毎日訪れる様になったフィリップはお菓子やバター、時には紅茶を持参した。実に楽しい話相手。
ある晩、ミルドレッドとの事をすっかりノラに打ち明けたフィリップ。

深い同情を示してくれたノラ。
その手を取って接吻したフィリップ。

いけないわ、と言いながら交わす言葉の数々。
そしてフィリップが抱きしめて接吻。身を任せるノラ。
二人は、恋人にはなったが、依然として友達でもあった。

彼女の母性本能がフィリップに満足感を与えていた。
恋する気持ち、というより一緒にいるのが嬉しい。
パリを去ったことについても、とても勇気があると言ってくれた。蝦足の事についても平気で触れた。あなたが思うほど人は気にしない。
性欲が満たされたせいもあって落ち着き、すっかり自分を取り戻したフィリップ。
試験が近づき、ノラまでがその事に夢中になった。
今度は失敗もなく、三科目とも及第したのを知って泣き出すノラ。
試験の後の休みは、ずっとロンドンに居るつもりだったが、ノラは少し休んだ方がいいと帰郷を勧めた。 
67
ブラックステイブルで過ごした二ケ月の間に、ノラは長い手紙をたびたび寄こした。様々な出来事が面白おかしく書かれていた。
ロンドンに戻って、勉強に取り掛かるフィリップ。

第二期総合試験に何とか通りたかった。
ノラとは毎日会っていた。
ヘイウォードは、いずれ冬には外国へ行くと言いながら、ロンドンに留まっていた。この二、三年で脂肪が付き、若禿げで、髪を伸ばしてそれを隠していた。将来の計画ばかり並べるが、往年の確信はない。
記事依頼が来た時、そんな仕事がしたいと言っていたのに、結局断ってしまった。
ある日、ヘイウォードが見つけた酒場に行く機会があった。

ヘイウォードがケンブリッジで一緒だったという、株式仲買人マカリスターとの出会い。でっぷりとした顔の小男。
そのマカリスターとの会話で、彼が持ちだした「無上命令(カントの言葉)」 それに反論するフィリップは、ミルドレッドを追い求めていた頃の狂気じみた感情を思い出していた。そこから次々と広がる論戦。

マカリスターにやり込められるフィリップ。
68
ある朝、眩暈を覚え、病気である事に気付いたフィリップ。下宿の小母さんにそれを告げると、数分して上階のグリフィスが見舞いに来た。

彼の勧めで体温を測ると、かなりの高温。

担当のディーコン先生を連れて来てくれたグリフィス。
インフルエンザだった。グリフィスによるかいがいしい看護。遠慮するが、自分でもどうしようもない病状で、その好意に甘んじるフィリップ。
結局フィリップは五日間寝込んだ。その間ノラとグリフィスが交互に看護してくれた。母親や姉妹から受ける愛撫というものの経験がなかった彼は、それが身に沁みた。
回復したフィリップに、グリフィスが面白い話を聞かせる。常に数人の女に関係しており、それにまつわるゴタゴタや、借金で首が回らない話。
69
病院から帰ると、小母さんが、女の方が待っているという。急いで部屋に行くと、そこにミルドレッドが居た。心臓がガクンとなった。
エミールに棄てられたのだと言った。

彼は、相変わらずこの女を愛している事を知って驚いた。
子供が生まれそうだと知って、逃げたミラー。
取るものは取らなきゃ、と知り合いの弁護士に手紙を書いて渡したフィリップ。
八時頃、毎日会っていたノラからの電報 「ナニカアッタカ ノラ」。

行く事は出来たが電報にした 「スマヌデラレナカッタ フィリップ」
翌日ミルドレッドが訪れる。弁護士の話では 「駄目だろう」

フィリップの手紙は渡していなかった。
実はエミールとは結婚していなかった。彼には妻と三人の子供がいた。初めは妻子持ちだと知らなかったが、その後打ち明けられても、何故か付いて行ってしまった。
ソーホーの、例のレストランで食事をして、次第にミルドレッドは元気を取り戻した。
相手から何とか百ポンドでも取れるようにしよう、と言うフィリップに、あの男からはビタ一文も貰いたくない、と言うミルドレッド。
話を聞くうちに背景が判って来た。ミラーがロンドンに来ては、やっていた浮気。それを知った細君が会社に訴え、彼は結局家族を取った。
お産の予定は三月だという。あと三ヶ月。
今後のために住まいを探そうとするフィリップ。
70
ノラからの連絡が来ないのを不安に思うフィリップ。

二日間も訪ねないなどという事がなかった。
ミルドレッドのための住まいを見つけたフィリップ。
その足でノラの家に向かう。ノラに変わりはなかった。キスを求め、楽しそうにお茶の支度をした。中編ものの注文があり、臨時収入がある事を喜ぶノラ。それで旅行に行かないかと言った。
気持ちが沈むフィリップ。この女の方がミルドレッドより十倍もいい女の筈。当然ノラにつくべきだが、結局愛されるよりは、愛するということ。

そして今はミルドレッドを愛し求めている。
帰りかけるフィリップに 「明日来て下さるわね?」
うんとは言ったが、明日はミルドレッドの引っ越しで来られない。
翌日、ミルドレッドの引っ越しに精を出すフィリップ。

部屋代を払ってやる事にも喜びを感じる。
一段落して、急ぎノラの家に顔を出したフィリップ。 
忙しいと見え透いた嘘。明日は一日居てくださるわね?の言葉にあ然とする。ミルドレッドと一日過ごすつもりだった。
だが日曜に、俳優のゴードン夫妻との会食があると約束されていた。
まずい言い訳を言ったが、それだけの事で?と訝るノラ。

次第に言い合いとなり、もう二度と来なくていい、とのノラの言葉に同調して外に出たフィリップ。
だが、ミルドレッドのところに戻って明日の計画を聞くと、結婚した友達のところへ遊びに行くのだと言う。
苦い気持ちが心臓を通り抜けた。だがそれを抑え、微笑むフィリップ。
彼女が読んでいた本をふと見る。例の二ペンス小説。

作者のカートニィ・ペイジェットは、ノラのペンネーム。
71
フィリップは、いつかの告白のお礼に、自分の恋愛話は全てグリフィスに話していた。ノラと縁を切った話には、良かったねと言われた。
彼としては大助かり。だが日曜の朝、ノラからの手紙が来た。
謝罪の言葉と、今日の午後のお茶への案内。
グリフィスの助言に従い、絶縁のための手紙を書いたフィリップ。
だがその夕刻、下宿に帰ったフィリップの背後から人声。

ノラだった。追い詰められるフィリップ。
仲直りを促すノラに、手遅れだと返すフィリップ。

堂々巡りの末に、ミルドレッドが戻って来たと、ようやく話すフィリップ。
全てを察したノラ。だが歩く気力がない。

馬車を呼んだフィリップは、車に乗り込んで家まで送った。
その後ミルドレッドの宿に向かったフィリップ。

果物屋の前に来て、彼女が葡萄好きだった事を思い出した。
72
それから三ヶ月あまり、フィリップは毎日ミルドレッドに会いに行った。
天気のいい日には散歩に出掛けた。
出産が近づき、諸費用の話も話題になる。

金などはちっとも構わない、とフィリップ。
それを当然のように受けるミルドレッド。
お産の後、体が癒えたらパリに行こうと計画するフィリップ。

その前に試験があるが。
やがて、分娩のため入院したミルドレッド。

フィリップは、そこで義弟という位置付けだった。
ミルドレッドは無事女の子を産んだ。
73
三週間後、ブライトンへ旅立つミルドレッドと子供を見送ったフィリップ。向こうで子供を預ってくれる人を見つけるつもりだと言う。

心が冷淡な女。
汽車での別れを惜しむフィリップに、試験に落っこちない様に、とミルドレッド。試験まであと十日。糞勉強をしていた。

今後の費用節約のためにも、何とか通りたかった。
だがミルドレッドが気になり、毎日半時間を彼女への手紙に充てた。
試験は大いに自信を持って臨んだ。

結果が発表になると、彼女へ合格の電報を打った。
ミルドレッドからの手紙。

もう一週間滞在を伸ばしたいから、と金の無心。
そして次の日曜。

ブライトン駅に到着したフィリップを迎えてくれたミルドレッド。
浮き立つ気持ちで並んで歩く。グリフィスからの伝言も伝えた。

彼の事は、盛んな発展ぶりを彼女にも話していた。

グリフィスの事を、看護してくれた話も含め詳細に話す。
また、ミルドレッドとの恋愛も、グリフィス以外には話す相手がいなかった。
ミルドレッドが見つけた、子供を預かってくれるという女性に会いに行く二人。ミセス・ハーディングと言い、夫は牧師補。

生活は楽ではないので、養育費は生計の足しになるだろう。

子供への栄養は欠かさない、と言った。
フランス旅行の計画を話すフィリップ。

この週末にミルドレッドはロンドンに戻る。
駅で彼女と子供に別れを告げて、改札口に走るフィリップ。

その姿が恐ろしくおかしかった。
74
次の土曜に帰って来たミルドレッド。その晩は、彼女にとっても何カ月ぶりの遊山だったので機嫌が良かった。
明日の晩はグリフィスを誘ったと伝えるフィリップ。

互いを彼が紹介しているので、仲良くなって欲しかった。
夕食会場に少し遅刻してグリフィスが現れた。

互いに、あなたの事は良く聞いてます、と言うグリフィスとミルドレッド。
上機嫌のグリフィス。

何とか最後の試験に受かって、住み込み外科医の口も決まった。  
グリフィスは大いにはしゃぎ、ミルドレッドはそんな彼の話を聞きたがった。
お開きとなり、別れ際ミルドレッドがグリフィスに、翌日フィリップ宅へのお茶を誘った。
下宿まで彼女を送った時、思いがけずお礼を言われて喜ぶフィリップ。
翌日、二人のお茶の場にグリフィスが訪ねて来た。

話が盛り上がる二人。余裕を持ってそれを眺めていたフィリップだが、さすがに夕食の時間だと告げた。

ミルドレッドが彼も、と夕食に誘った。断るわけにも行かないフィリップ。
グリフィスが支度に戻った時、なぜ誘ったと怒るフィリップに逆ギレするミルドレッド。
夕食は近くのイタリア料理店。

怒りは自分を不利にすると考え、平常心に戻ろうと努めるフィリップ。
次いで劇場まで行く辻馬車の中、ミルドレッドの手を取るフィリップだが、もう一方の手はグリフィスに握られている事に気付く。
芝居を観ていても、その事が気になって仕方がない。

自虐的衝動に駆られて、自分だけ何か飲んで来ると言って中座。
二階の桟敷から二人を観察するフィリップ。楽しそうに語り合う二人。
戻って行った時、一瞬不快そうな彼女の目を感じる。
帰りは馬車でミルドレッドを送り、帰路はグリフィスと一緒。
ミルドレッドに恋しているのか、と問い質すフィリップ。否定するグリフィスに、あの女を奪う事だけは勘弁してくれと懇願した。
あんな女、何とも思っていない、と安心させるグリフィス。
75
翌日、上機嫌のフィリップはミルドレッドと軽い冗談を交わしていた。

昨夜ハリーと仲良かった事をからかうと、あの人に恋している、と笑うミルドレッド。
グリフィスにはそんな気がない、と昨夜の話をするが、彼女はあの人からもらったという手紙を見せた。
それは八枚にも亘るグリフィスからのラブレター。熱烈な内容。
昨夜フィリップと別れてから書いて、その晩投函したに違いない。

そこに昼食を一緒に、と書いてあった。
昼食は良かった?の問いに「もちろんよ」
こうなるのは判っていた、僕がバカだった、とフィリップ。グリフィスが唆したという説明をするが、却って腹を立てるミルドレッド。
彼女は、パリ旅行には行けないと言い出した。

フィリップの事は、友達以上には考えられない、との宣告。
一緒にパリへ来ればよし、でなけりゃ、あとは知らんぞ、とフィリップも通告。

完全に決裂した二人。だがミルドレッドが思い出して、ためらいながら今着ている服の請求書を出した。
沈黙のフィリップ。ハリーに払ってもらうと言うが、彼の台所事情を暴露する。フィリップからの借金が七ポンド。顕微鏡も質入れしている。
文無しのミルドレッドに、馬車代の二シリングだけ渡して去るフィリップ。
76
翌日フィリップを訪れたミルドレッド。

土曜からのパリ旅行に行ってもいいと言う。
ハリーには何も出来ない。

部屋代五週間分、フィリップからの借金、洋服屋からの取り立て・・・
泣き出すミルドレッド。
自分でも思いがけず、金をやるからグリフィスと出掛けたらいい、と言い出したフィリップ。気が済めば戻って来る、との思い。

さすがに驚くミルドレッドだが、途中からその気になって、グリフィスの所へ相談に行った。
だがそれから二日間、彼女とは連絡を取らなかった。

多分グリフィスと一緒に居るのだろう。
その後ミルドレッドが訪ねて来るが、フィリップの事など念頭になく、グリフィスの事ばかり考えている。
殊更にグリフィスに関する会話を避けるフィリップ。
とうとう金の話を始めるミルドレッドだが、冷たいフィリップ。

金の無心は服代と部屋代だと言い張るミルドレッドに、なぜ行かないの?と追い打ち。
やはりフィリップの金では行けないと言われたらしい。

そしてグリフィスが帰省しなくてはならないとも言った。
彼らに破廉恥行為を犯させたいとの思いで、今やるか、でなければ永久にだめだ、とけしかける。
77
グリフィスは、宿を引き払っていた。

このまま郷里のカンバランドへ行ったとは考えられない。
彼らがどこまで恥知らずになれるか、見てやろうという思い。
ミルドレッドが訪れ、金を受け取りに来た。五ポンドを受け取り、別れるミルドレッド。二人を乗せた馬車は走り去った。
パリ行きの切符を火の中に投じたフィリップ。二人はオックスフォードへの旅を楽しんでいる。

狂い出しそうだった。芝居を観に行き、幕間毎に酒を呷った。
通りすがりの娼婦に声をかけるフィリップ。
78
月曜になった。グリフィスが故郷に帰ったとすれば、明日にはミルドレッドが戻る筈。だが下宿には帰った様子がない。
すっかり取り乱すフィリップ。それから泥酔の毎日。
木曜の朝、グリフィスからの手紙が届いた。

全く、どうしようもなかったという詫び。それから彼自身は月曜郷里に戻ったと言い、ミルドレッドは水曜には戻るだろうと書いてあった。
憤然としてその手紙を破いたフィリップ。だがとにかくミルドレッドはロンドンに居る。彼女の下宿に向かったが、女中の話では一時間ほど前、荷物を持って出て行ったという。
またしても騙された。もう自分のところへは帰って来ない。
こんな事になるとは、初めから判っていた。

大体、愛の心を持っていない。
ロンドンには居たくない、との思いで、伯父に帰郷の電報を打ち、荷造りをして汽車に乗った。
大人になって以来、フィリップは牧師館で一番いい部屋を与えられていた。室内の調度は、今となってはその価値が判る。
伯父は、毎日同じ日課を繰り返した。
郵便配達が来るたび、ミルドレッドからではないかと期待したが、所詮来ないのは判っていた。
どだいミルドレッドの愛を求めるのが無理だった。

だが何故あんなに激しい恋着を起こさせるのか。
ミルドレッドにしても、恋の奴隷になったあげく全てを犠牲にした。
もう二度とあの下宿には戻らないと決め、宿の小母さんに出ることを通告。ここ一年半ほどの間に七百ポンド近くを費やしてしまった。

今後はよほどの倹約が必要。
人からは理性的と見られるが、実際意思の弱さに自分でも呆れる。
79
新学期が始まる二日前、フィリップはケニントンに次の下宿を見つけた。週九シリング。一度絵をやっていたという証しに、あのミグエルを描いた木炭デッサンを架けた。
ヘイウォードとローソンに新しい住所を教えると、二人が酒とつまみを持って訪れてくれた。
ローソンが、フィリップとノラとの関係を知っていたので、彼女に最近会った話をした。なかなか美人に見えたという。
当時の楽しい日々を思い出すフィリップ。

彼女の母性愛は、何と尊かったか。
翌日、彼女の家を訪れると、まるで昨日別れたかの様なノラの握手。
先客がいた。ミスタ・キングスフォード。四十絡みの男。ジャーナリストらしく、雄弁に良く喋った。ノラと二人だけの話題にしようとするが、いつの間にか疎外されている。

六時になり、先客は帰って行った。
ノラに謝罪するフィリップは、ミルドレッドとの事を洗いざらい話した。

自己卑下の演出。
だが、ほんとにお気の毒、と言った後、先のミスタ・キングスフォードと婚約したと話すノラ。
フィリップに捨てられてすぐ出会ったという。

あの人がいなければ、どうなっていたか。
主人の話をしたら、離婚費用を出してくれると言う

。条件付き判決が出たらすぐ結婚する。
こんなバカな事をするんじゃなかった、と言うフィリップに「でもあなたは、一度だって私を本当に愛していた訳じゃないでしょう。」と言った。
女の家を出たフィリップ。

傷付いたのは、心より虚栄心。苦々しい思いで自分を笑った。
80
その後三ヶ月ほどは勉学に専念したフィリップ。
グリフィスとは、一度遠くから姿を見た事があったが、殊更避けた。
ある日、ラムズデンというグリフィスの心酔者が来て、彼が和解を求めていると言った。一切興味がないと言うと、ミルドレッドとグリフィスとの事を話し始めるラムズデン。
あのオックスフォードでの週末は、彼女の心に火を点けた。二日間で彼女に飽きたグリフィスだが、手紙が欲しいという彼女に、律儀に甘い長文の手紙を書いてしまった。

それからは毎日届く手紙。返事がないと電報に変わった。
あげくに、彼が働き始める病院へも訪れていた。その後も延々とトラブルが続き、しまいには警察を呼ぶ話にまでなった。
今の消息を聞くと、どこかに仕事でも出来たのだろう、との事。
以来二度と彼女の噂を聞かない。
81
冬学期の初めに、フィリップは外来付き助手になった。

外来担当医師ティレル博士の下に付いた。歳は三十五で、痩せた長身。医者としては成功者。
ここは施療病院であり、底辺とも言える階級の患者が多く来た。
仕事はたまらなく面白かった。素材そのままの人間。多くの場合、一目見ただけで職業を当てる事が出来た。
また患者と打ち解け、信頼を得る事にも長けていた。
ここには善も、悪もなかった。ただ事実そのものがあっただけ。

それが人生。
82
その年の終り、外来助手の期限が終わる頃、パリに居るローソンから手紙が来た。
クロンショーがロンドンに来ているという。

場所はソーホー・ハイド街四三。尾羽打ち枯らしの状況だとの事。
早速クロンショーに手紙を書いたフィリップ。返信にはディーン街オ・ボン・プレジールという店に毎晩居る、とあった。
早速出掛けたフィリップ。一部屋だけの最下等の店の隅で、外套に身を包んだクロンショーは、アブサンのコップを前に置いていた。

干乾びた黄色い顔。診立ては肝臓硬変症。

パリへは帰らないという。死を予感している。
死への不安を聞くと、何一つ後悔はないと言った。
送ってくれたペルシャ絨毯の事を聞くフィリップ。

人生の意味について訊ねた事を覚えていた。
言ってくれません?の問いには

「君自身で発見するんでなきゃ、意味はない。」 
83
クロンショーの詩集が出版されるという話が進んでいた。何年も前から友人が勧めていたが、イギリスでの評価には期待していないクロンショー。
だがとうとうレナード・アップジョンという批評家が名乗り出た。

その彼から出版の引き受け手が見つかった事を聞き、前金十ポンドの魅力もあって帰英を決心したクロンショー。
ある日、いつもの店に行ってもクロンショーがいない。もう三日来ていないという。手紙の住所に行ってみると、真っ暗な部屋で寝ていた。

この三日間で牛乳一本しか飲んでないという。
なぜ手紙をくれなかったのかと言うフィリップに、困ったなァと顔に書いてあると言った。内心図星で驚く。
だが、けっこうこれで幸福だという。

手許には詩集の校正刷りがあった。
フィリップは、金の余裕のない中、クロンショーを自分の下宿に引き取ろうとしていた。満更でもない様子でそれを受けるクロンショー。
翌日、荷物を整理して引っ越したクロンショー。

窓という窓は閉め切った。病気ゆえの怒りっぽさを除いては、クロンショーは気のおけぬ客だった。
校正は終わり、本は新春に出版の運びとなった。
84
年が明けるとフィリップは外科外来の繃帯助手というものになった。

医局員のジェイコブズの下についた。禿頭の太った小男。

腕は確かだがガラッパチ。
そんなある日、蝦足をした子供が父親に連れられて来た。これは君の受持ちだ、とジェイコブス。真っ赤になるフィリップ。

病院に来て以来、この病変を特に念入りに研究していた。
子供を診察するフィリップ。

だがこの子供は全く自分の不具に対する自己卑下がない。
ジェイコブズがやって来て、フィリップ自身の症名を言い、靴下を脱いでみてくれと言った。学生たちの注目。

居直って尻をまくるだけの勇気はなく、その足を見せる。
その子供まで、好奇の目でフィリップの足を見た。
もう一度手術を受けた方がいい、と言うジェイコブズ。
夢中で、奇跡を祈り求めた時の事を思い出すフィリップ。

二月も末になって、クロンショーの容体は明らかに悪くなった。

だが酒と煙草を要求。
たまに来るレナード・アップジョンは、看護もなしにこの詩人を放置する事を責めるが、自分は手を出さない。彼はあのままソーホーに置いておくくべきだったとも言った。ここは詩人の死に場所じゃない。
クロンショーにフィリップの悪口を吹き込むレナードに、とうとう怒り心頭のフィリップ。医者にもかからずに死なれたら死亡診断書も書いてもらえない、と訴えた。医師の診断を承諾するクロンショー。
翌日ドクター・ティレルに診断をお願いしたフィリップ。診立てはフィリップと同じ。入院を勧められたが、聞くような相手ではない。
85
それから二週間ほど経った夕刻、家に戻ったフィリップは、クロンショーの異変に気付いた。急いでドクター・ティレルの往診を依頼。
死後数時間経っているという。
レナード・アップジョンに電報を打ち、その後病院への往復で通る葬儀屋に出向いた。法外な費用を吹っかけられ、それに反対した事で、いつもの虚栄心に付け込まれた結果、高価なものになった。
用事があるとかで、レナードは翌日来た。金も出さないくせに、月並みな葬儀を軽侮した。
葬儀も終わり、月刊誌を注意して見ていると、レナードが寄稿したクロンショーへの追悼文が出た。それが評判になり、新聞にも転載された。
ソーホーからこの地に転じたいきさつを無策と言い、看護の不手際等々、素晴らしい皮肉。
結局レナードの名声を高めるだけの役割りを果たした、クロンショーの死。
86
春になると、フィリップは繃帯助手の期間を終え、入院患者当番の医局員になり、これが半年続いた。
多くの知識を得ると共に、フィリップは偉ぶらないため、患者の評判は良かった。
ある日、フィリップは新患を割り当てられた。名はソープ・アセルニー。珍しい名。年齢四十八歳。職業はジャーナリスト。病気は急性黄疸。

職務上、様々な質問を重ねるフィリップ。
職業のジャーナリストについて、もう少し聞くと新聞広告欄を見せた。

リン・アンド・セドレー商会。この会社の広告書きが仕事だった。
また、スペイン語の詩の翻訳もやっており、その一文を読んだのに惹かれるフィリップ。
雄弁な彼の話は面白く、それから数日間、暇を見つけてはアセルニーのところへ行き、話し合ったフィリップ。
彼は礼儀正しい人間でもあり、施療患者としての厳しい規則に服していた。
一度、なぜこんな病院に来たのかを聞くと、社会が与える利益は全て利用しようという方針を語った。

子供も公立学校を受けさせると言うアセルニー。
九人の子供がおり、退院したら、是非見てやってくれと言った。
87
十日後には、ソープ・アセルニーは退院出来るまでになり、住所を渡してフィリップに、日曜午後に来て欲しいと言った。
そして訪れたフィリップ。

旧い借家で、取り壊しの噂があるだけに家賃は非常に安い。
近隣にも気兼ねなく、明るく話すアセルニー。
入り口に現れたのが三女のジェイン。

歴史のある家らしく、調度品は立派だった。
食事の用意を伝えに少女が入って来た。

長女のサリーだという。今度十五歳になるとのこと。
母親が来れないというので、アセルニーがフィリップを連れて台所に行った。驚きながら、治療への礼を言う妻のベティ。
次いで子供たちが紹介される。長男のソープ。次いでアセルスタン、ハロルド、エドワードと男三人。女の子の名を言おうとするが正式な名が言えない。

妻が愛称でサリー、モリー、コニー、ロジー、ジェインと紹介した。
食事が始まる。二人きりの食事に恐縮するフィリップだが、いつも一人で食べるのだ、とアセルニー。
おいしく料理を食べるフィリップに、味を自慢するアセルニー。

ビールを買って来たサリーを引き寄せて、可愛いと自讃した。

この様な父に慣れっこになっており、微笑が可愛かった。
食事の合い間に彼が話す家族のこと。ケンジントンで前の女房とは三年間暮らした。妻は年収千五百ポンド。

確かにいい女だったが、晩餐会を好み外ヅラばかり。だが離婚はしてくれない。ベティは女中の一人。だから子供はみな私生児。
ひどく食い詰めた事もあったが、今の仕事を見つけて週三ポンドの収入。だが毎日神様にお礼を言っているという。
アセルニーは、驚くべき人物。

クロンショーに似たところがある。放浪性、無頓着。
88
子供たちを連れて日曜学校に行く母親のベティは、お茶の時間まで帰らないで下さいねと言って出掛けた。
自分は信じないが、女子供には信心が必要だと言うアセルニー。
多少反論したが、彼の中では矛盾していない。
エル・グレコをご存知かね?と聞いて、そのいくつかの作品の写真を見せるアセルニー。
謎めいた画匠の作品を初めて観たフィリップは、気儘な画風に面食らった。小さい頭部、姿態も変わっているが、奇妙な感動を受けた。
ここに描かれる荒涼たる雲を、トレドーで何回も見たというアセルニー。
そういえばクラトンが、この画家に対して異常な感動を語っていた事を思い出した。
改めてトレドーの絵を見るフィリップ。不思議な感動。一種の冒険感。
スペインに対するアセルニーの思い入れ。
フィリップは、絶えず人生の意味を探し求めて来た。それが意味を与えられたような気がする。真理のようなものが、チラリと見えた気がした。
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フィリップとアセルニーが話しているうちに、子供たちが帰って来た。

 

皆人見知りせず、ジェインなどは彼の膝に乗ってしまった。

家族団欒の経験は、フィリップにとって生まれて初めて。
楽しいお茶の時間が始まる。ベティの言葉に郷里を思い出し、伯父がブラックステイブルで神父をしていたと話すと、さっき教会で、あのケアリさんと縁続きの方じゃないかと噂をしていたという。

そこから始まる郷里の話。
それらを思い出す事に感動するフィリップ。
既に十時になってしまい、暇を告げるフィリップ。
次の土曜、アセルニーからの招待ハガキが届き、気を遣ってケーキを持参すると、それが完全に子供たちの心を征服した。
それからは、日曜ごとにアセルニー家を訪れるのが習慣になってしまった。子供たちの人気者になるフィリップ。
何でも話してしまうアセルニー。実に多くの仕事を経験していたが、やることなすこと、ヘマが多かった。
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アセルニー家を訪問する様になって六週間ほど経った。

帰りはバスを捕まえる事にしていたが、そのバス待ちをしている時、ハッとなって心臓が止まった。
ミルドレッドだ。通りに立って人を探しているようにも見える。だが、男に笑いかける姿を見て、気も転倒しそうだった。
ミルドレッド!と声をかける。

しばらくの無言の後「あんたに逢うなんて!」
とりあえず貸部屋に落ち着いて、話を聞くフィリップ。

今はロンドンに居て、子供も一緒に連れているという。金が続かなかった。どこに行っても仕事はなく、こんな事でしか金が得られない。
僕のところへ言ってくればいいのに、の言葉には、困っている事さえ知られたくなかったと言った。
彼女の今の境遇を思うと、心が動かされた。
今、週三シリング半で家事を頼んでいるから、空いている部屋に来てその仕事をしてくれたらいい、と提案。
信じられないミルドレッドだったが、それが本気だと知って泣き出した。
満足感で、宙を踏んでいる様な思いのフィリップ。
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空いている部屋とはクロンショーが死んだ場所。

元々入る気にならなかった。
子供を抱いて、少ない荷物と共に来たミルドレッド。
女中としての立場をわきまえて、慎ましいミルドレッドに、単なるビジネスだと言って、卑下しないよう伝える。
そうやって、共同の生活が始まった。

隣りの部屋に誰かがいるというのを楽しむフィリップ。
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火曜の晩。毎週この時は酒場に行く事に決めていた。株屋のマカリスターや、もしロンドンに居ればヘイウォードも来る。

今日はそれにローソンまで加わった。マカリスターの助言で買った株が上って儲けたという。今となっては六百ポンドしか残っていないフィリップは、次には教えてくれと念押しした。
夜遅く帰ると、まだミルドレッドが起きていた。女中の立場として待っていた様だ。そんな必要はない、と寝室に行かせるフィリップ。
数日間は何事もなく過ぎた。

新しい生活にミルドレッドも馴染んだが、宿の女主人とも仲良くなり、フィリップと夫婦だとの作り話を構築していた。
今夜も勉強?と聞いて来たミルドレッドは、ちょっと出てみたいと言った。連れ立って出掛ける二人。
芝居を観たいというので安い席を取った。すっかり上機嫌のミルドレッド。子供の様な単純さを好ましく思った。
家に戻って、お寝みを言うと、もうお寝みになりたいの?と返すミルドレッド。料理、家事以外は何も要求しないというフィリップに対し、そんな事やめにしない?と笑った。
そんな事になれば、メチャメチャになる、と拒絶するフィリップに腹を立てるミルドレッド。