新聞小説「また会う日まで」(12)池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」 (12) 8/1(354)~8/31(383) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

 

感想
前章の「緒戦とその後」で早くも敗色が見えて来たこの戦争。

昭和十九年春頃までが描かれる。

軍部は相変わらず戦局の悪化を嘘で固めて国民をミスリード。

しかし開戦の三年前、戦争は「事変」という名で始まっていた、というのは秀逸。弊ブログ「日中米英 知られざる攻防」にもあるように、日中戦争でその萌芽は芽生えていた。


双子片方の息子 宣雄が肺炎で亡くなる。

それが付き添いを女中に任せて花見をした翌日に死なれたんだから、悔いが残るだろう。だが文彦の時に比べて格段に扱いが低いのは、共に生きた期間の差か。
そして持病とも言える肺浸潤で転地療養する利雄。

その時期に、以前まとめた「旧約聖書概論」の読み返しとしてキリスト教談義が挿入される。

戦局を説明する時に決まってMが登場。こういう話を語らせるための架空の人物ではないかと、この小説を語り合うサロンで言われていた。
まあ、確かに「戦争の日常」それ以上でも、以下でもない。
なんか読んでて「つまんない」

ただ最後の「紫電改」には興奮した。子供の頃「少年マガジン」で読んだ「紫電改のタカ」はお気に入りのマンガ。
アメリカの飛行兵ジョージとの交流とか、夜襲のために機体をコールタールで黒く塗って出撃したり。最後は特攻で出撃するんだけど・・・

終戦まであと一年ちょっと。次章で戦争は終わると思いきや・・・

あらすじ
戦争の日常 1 ~ 30

今、私はこの二年半のことを思い出している。次第に濃くなる敗色。
真珠湾では勝った。だが半年後のミッドウェーでは大敗。その後の海戦の多くに敗れた。理由は物量の差と失敗からの学びのなさ。
おおよその内情を知る私は敗北がわかっている。
昨日、サイパン陥落について東條首相の談話が発表された。


帝国は重大局面に立つ。今こそ勝を決する好機。同胞の鮮血によって得たる戦訓を活かし、勝利を獲得するばかりである。
この男は何を言っているのだ。替え歌を思い出す。
見よ東條の、 はげ頭 旭日高く、はげ頭
天地の正気、はげ頭 希望は踊る、はげ頭

やけっぱちである。

平常の暮らしがいつから非常時になったのだろうか。平時ではないと国が宣言したのが1938(昭和十三)年の国家総動員法。
開戦の三年前。戦争は事変という名でずっと前から始まっていた。
1939年秋から始まった興亜奉公日。

一汁一菜、日の丸弁当、勤労奉仕。濁って来る国の空気。
昨年の暮れに発表された標語は--欲しがりません勝つまでは

サイパン島の残留邦人に対する新聞の見出し。
「概ね将兵と運命を共にせる・・」とのそっけなさ。
初期の移民はここを「彩帆」と言った。彩りは失せ、帆は破れた。
昨年(1943(昭和十八)年、軍と政府が策定した絶対防衛権構想。

死守せよと言うはたやすいが、死して守るは不可。
標語の読み替え。ぜいたくは敵だ→ぜいたくは素敵だ
足らぬ足らぬは工夫が足らぬ→足らぬ足らぬは夫(おっと)が足らぬ。
もしくは工夫(こうふ)が足らぬ。
「欲しがりません、勝つまでは」と言うも、その日は来そうにない。

この数年の私の職務は、艦船ならびに航空機の自位置認識法改善。
兼任で二つの部の部長だが元々は水路部第四課長。

主務は天文を基礎とした航海術。

こちらに没頭する事で崩れゆく世情をいっとき忘れる。
北極星は、実は北極にはなく角度で一度ほどずれており、私たちはそれを問題にする。精密観測が安全運航の基本。
十九世紀前半、アメリカのトマス・サムナーが「位置の線」を発見した。緯度を測る簡便法。世界に広まり今は無線による方法が加わった。

六分儀と精密時計による航海術の確立後、新しい原理が導入された。
電線による通信から無線通信、そしてラジオ放送が日常化。
これを航法に使えないか。陸上の電波を受信し艦船が二局の電波を受信。交点を結べば位置が知れる。実際には補正が必要。


大きなものは地球が真円でないこと。
補正を迅速・正確に行うためのものを私たちは用意した。
無線機器には民生用を越える信頼性が要求される。

1940(昭和十五)年、私は「航海術上より見たる無線及天体方位に関する諸種の問題」を刊行した。関係者向けの専門的な印刷物。
終盤で艦位決定法に触れた。専門分野の記述の中で東京湾口と桑港港外との距離計測誤差を取り上げたのは、あの地への郷愁か。
偵察機のみならず零戦にさえ無線帰投方位測定器が装備されたのを喜ぶ。帰路は電波に導かれ母艦に帰れる。
私を主イエスに導く装置はあるのか? 大事なのは方位だ。

航空母艦という呼称が好きだ。洋上で航空機等を支援する艦。
英語では aircraft carrier。母という意味はない。
1943(昭和十八)年の春、花見に行った。肺炎で入院中の宣雄を女中の糸に任せ洋子、光雄、直子に、宣雄と双子の紀子を連れて。
兄の光雄を追う直子は、時折り母を振り返って安心する。
出撃した艦載機は、ミッドウェー海戦での帰路に母はいなかった。

そして容体が安定したと思っていた翌日、宣雄が亡くなった。

1943(昭和十八)年四月の末、宣雄を送った数日後Mの誘い。
居酒屋で最初から暗い顔のM。
極秘だが山本五十六さんが亡くなったという。四月十八日のブーゲンヴィル島。一式陸攻二機に戦闘機隊が襲って来た。不意打ちだった。
「なぜ待ち伏せができたんだ?」
そこが論議になっている。暗号が解読されていたら深刻な問題。



加来のためにと女将気配りの三合目。その特別の一合を味わう。
一年半も続く戦争。なぜ開戦したのか?
それなりに描いた絵図が甘かった。食料生産、輸送、造船。
多くがなんとかなると言い張った結果。勇ましい方が聞こえがいい。
食料配給が半分になると国民の戦意が喪失するという。そして軍の強制徴収。これも苦い酒、と杯を上げるM。加来、山本さんへの献杯。
10
井上茂美さんが戦前から言ってみえた持論は、海を越えての食料調達の困難さ。島国である日本や英国は海上封鎖されかねないが、アメリカに対してそれはできない。資源も工業力もある。
米西海岸を攻撃した事もあったらしいが、戦果とも言えず。
11
先の話の頃、井上さんは海軍の改革案を出していたらしい。これは航空機の運用。空母と陸上基地、つまり島の組合せ。真珠湾、ミッドウェー他いくつもの事例。島の攻略が主体になり、戦艦の出番はない。
そして海上輸送保持のための潜水艦部隊充実、と井上さんは主張。
体制改変の迅速さ。明治維新で出来た事がここ二十年は鈍重。
12
井上さんは開戦に絶対反対だった。それでも止められなかった。

独裁ではなく、国民は妙だと思いながらも勝ったと言われると喜ぶ。
とりとめもなく話は進む。空母は沈めたら終わりだが、島は奪われたら敵の基地になる。チェスと違って将棋。砲弾は当たらなければ沈むだけだが航空機は搭乗員を失うと補うのが大変。予科練というコース。
今、井上さんは兵学校の校長。左遷人事だが本人は意気軒昂。


13
江田島の海軍兵学校 校長になった井上成美さんのこと。
歴代の海軍大将の肖像写真を撤去させ、東郷平八郎だけを残した。
また英語敵視の風潮を一蹴し、生徒全員に英英辞典を持たせた。
それは深謀遠慮かもしれない、とM。井上さんは戦後まで見ている。
14
井上さんが英英辞典を配った話に感銘を受けた。英語ということばの世界を学ばせる。例えばaircraftを英英辞典で引く。

付帯的な説明が出て次々に引く。

航空機の意味に辿り着くまでの労力が英語文化修得になる。
私は英語の教科書で三角法を自学した。数学はユニヴァーサル。
英語ならどの国にでも通じる。普遍ということ。
信仰もまた同じ。自分自身の解放。それが語学、科学、信仰である。
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軍人でありながら頑健とは言えない私。肺が弱いのだ。二十代、三十代での短期療養。その後ずっと元気だったが四十六歳の時、不調で診察を受けると右側肺上葉浸潤。

上州榛名荘での療養。妹トヨの子文彦もこの病気。
その後五十歳の昭和十八(1943)年の夏に再発。戦時下だが仕方なし。以前の榛名荘での療養にヨ子が同行。留守は糸に任せた。
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榛名荘結核療養所の門をくぐる。主が休め、との思し召しですとヨ子。
差配する原正男さんの出迎え。開設から四年、運営は大変だろうが、妻のツヤ子さんと共に信仰が支え。
十九歳で賀川豊彦先生の講演を聞き、感銘を受けたという正男さん。
牧者とはならなかった代わりに闘病経験を踏まえ、ツヤ子さんと共にこの施設をつくった。
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三日目を迎えた頃、ツヤ子さんと仲良くなったと話すヨ子。彼女が言う主の言葉「狭き門より入れ」は私たちも拳拳服膺(けんけんふくよう)
ご自身の苦難からここを作った。社会改革運動で二人は出会った。
最初の試練は正男さんの発病。何度も生死をさまようのを支え、家族の反対を押し切って結婚したという。
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正男さんは二十二歳で発病したという。実家での治療の柱は三つ、安静と栄養と外気。六年がかりで治した上で結婚し、療養所を作られた。
自分たちとの相似に縁を感じるというヨ子。結婚時期が二ケ月の差で、どちらも聖公会の教会。主の差配か偶然か。
可能性の面から考えつつも、神意を思えば勇気付けられる。
夫はここに預けておけば大丈夫という確信。
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ヨ子に暮らし向きを聞くと、まずまずだという。病欠でも特配はある。
それでいいのかとも考える。誰かの食べる分が減る・・・
自分の空腹は耐えるが子の飢えには逆らえず。主に詫びるしかない。
パーマネントの代わりに炭で鏝を温めて髪型を工夫するという。
女たちの化粧や身繕いは本能。雌は雄から選ばれなくてはいけない。
だから雄も胸に勲章を飾る。
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野球用語が日本語になったというヨ子。ストライクは「よし一本」ボールは「だめ一つ」セーフは「よし」・・・ まあ笑うしかない。
西洋に学んで来た者が言葉だけ替えてどうなる。
ラッシュさんを思う。気骨ある宣教師で、聖路可病院建設にも尽力。
戦争が迫っても日本に留まり、抑留後アメリカに帰された。

戻って来られるよ、の慰めに「それは日本が負けた時ですね」

 

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三日ほどでヨ子は家に帰った。安静の日常。ぼんやり過ごせの指示。
それでも様々な思いが浮かぶ。持参した「旧約聖書概論」の手稿を、この機会に読み返そうと思う。チヨが妊娠していた頃にまとめたもの。
「天地創造」に始まり「ユダ準国時代と福音の準備」までの十八篇。
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手稿の目次の裏に「新約ハ旧約トイフ土台ノ上ニ立ツ、新約ノミニテハ完璧ト言フベカラズ、其ノ価値ハ時を超越シテ永遠ナリ」と記した。
どこまでわかっていたのだろう。
神の世界創造。アダムとイブ、ノアの洪水・・・モーセによる十戒。


やがてイスラエルの民はバビロンに移住。数十年の俘囚の時代。
「旧約聖書」は歴史、逸話、律法だけではない。

神の言葉を預かって伝えた者の言葉たちの集まり。
二十世紀はイエスの誕生を起点にしているが、ヘブライ=イスラエルの民はそのはるか前からいた。
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戦闘的だったイスラエルの民。それは信仰と民族の纏りを保つため。
バビロンで俘囚になったシオンの民の歌。促されて歌った歌が

「滅ぼさるべきはバビロンの女。嬰児を取り上げて岩に投げうつ者は福あるべし」
例え敵でも私にそこまではできない。私がキリスト教徒だからだろう。
主イエスに妬みと憎しみはない。ユダヤ教という親の子として、愛という概念を提唱し、世界に広まったキリスト教。
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信仰と科学の共存で悩んだことはない。宇宙を統べる法則も含めて神は創造された。ただ創造時のままではなく進化すると私は考えている。
「概論」で聖書と科学の軋轢について触れている。

稚拙なれども要点は掴んでいた。

科学が信仰を駆逐したのではなく、信仰が科学を包みこんだ。
ガリレオの正しさを認めつつも、信仰は満天の星となって頭上にある。
25
私は恢復し九月の末、東京に戻った。Mの誘いでいつもの居酒屋。
ソロモン諸島で珍しく勝ったという。島の日本兵六百名以上を救出。
参加した艦名を、お前の趣味だと言って教える。秋雲、風雲、夕雲・・
同期はいなかったか、の問いに「今頃駆逐艦の艦長などいない」
艦名談義の後、学生を戦場へ送る話。とうとうそこまで来た。
26
十月のある日、洋子が熱を出し寝込んだ。ヨ子の話では明治神宮での出陣学徒壮行会に出て雨に降られた。東條さんのご立派な演説をラジオが中継していたという。幸い洋子は翌日恢復。十四歳は頑健。


翌日、改めて壮行会の記事を読む。関東全域の学徒数万の壮行に学生・生徒が五万人動員された。東條首相が壮語する--
・・必ずや彼らを圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。
27
その夜、家族と夕食を食べた時に洋子が昨日の話をして笑う。
あの歌にカバが四匹も出て来るという。
海行カバ 水漬くカバね 山行カバ 草生すカバね・・・・
箸が転んでも可笑しい年頃に苦笑。だがこの歌は生きて帰らぬの意。
徴兵延期の措置を撤廃して文系の学生を戦場に送り出す。

この国の先行きの暗さを科学者として思う。いわば預金の取り崩し。
28
洋子が「海行かば」のカバを強調した歌を弟妹に聞かせると、ヨ子まで他の歌の話を始める。それを聞きつつ一年前に亡くなった文彦を思う。
文彦はその気になれば軍務に就くことが出来た。江田島の兵学校。最近の入学生は千人を越える。更に海軍特別年少兵なら十四歳から。
アメリカの側にも若い兵が皆の平穏な帰国をイエスに希う。
自分が分裂していると感じる。五人の子の父であり、信徒であり軍人。
私は苦しい。なぜ牧者、聖書の研究者になる道を選ばなかったのか。
29
暮れ近く、武彦が訪ねて来た。文彦の葬儀以来一年振り。

ヨ子の食事を当てにして来たという。

二年ほど前、徴兵検査対策で食事を減らして四貫目(十五キロ)落したが、結局第一補充兵第二乙種合格となってしまった。
暗号解読に従事させたが結局招集。甥を戦場には送りたくない。
末次郎に再婚相手が見つかったとの事。神戸のスエノさん。相手にも娘の連れ子がいる様だ。その矢先に銀行を辞め年金が減ったという。
30
明けた年(昭和十九年)の四月、兄の新が息子二人を連れて訪れた。
川西航空機の工場長だという。今最新戦闘機の主翼桁を作っている。
水上戦闘機「強風」を陸上機にした「紫電」の改良版「紫電改」
海軍内で噂は聞いていた。模擬戦で零戦二機と互角に戦った。


兄は息子二人を連れて来た理由を話した。博十六歳、義祐十二歳。
出来れば二人を科学の方面に進ませたい。既に戦後を考えている。
言う事などないが、科学が普遍である事などを話した。
この子らにはまだ長い人生がある。