こんにちは
前回の記事では 仏教における ”瞑想(めいそう)” によって・・・
私たちは ”人知” を ”超えられる” という内容を ご紹介しました。
それは この ”宇宙の中” で 私たちが・・・・
”人間” という ある意味 ”低次元の存在” から・・・
”人間以上” の ”高次元の存在” へ ”移行する” ために 必要です。
つまり それによって 私たちは・・・
さまざまな ”人間の苦しみ” から ”完全に脱却する” ことも 意味します。
仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は そのために ”仏教” を 興したのです。
これこそが ”本来の仏教” の 核心的な 教えなのであり・・・
私たちは このことを 最重視する 必要があります。
そして 実際に 私たちが ”瞑想” を 実行すると・・・
そこでは さまざまな 重要なことが わかってきます。
そこで ”根本的” に 私たちが ”悟る” ことになるのが・・・
私たちが ”瞑想” を 行う 状況というのが・・・
自分自身が ”単独” に ならざるを得ない・・・ということです。
そして そのような ”あたりまえ” と 考えられることが・・・
実は 自分自身の ”来世の姿” を ”象徴している” ことに 気づきます。
つまり 私たちが ”人間” から ”脱出する(解脱する)” ということは・・・
この宇宙の中で ”単独の存在” に なることを 意味しているのです。
そして 私たちは そのために この人生で・・・
”単独” に ”慣れる” ことも 必要になると 理解されてきます。
ブッダは ”原始仏典 スッタニパータ” の 中でも・・・
”サイの角(つの) のように ただ ひとり 歩め”・・・ ということを 説いています。
この意味は 私たちが ”誰にも 頼らず” に・・・
”自分自身” で この世界の ”法(真理)” に 従って 生きなさい・・・ということです。
そこでも 必然的に ”単独” という スタイルが 重視されています。
”人間” というものは この世界で 極めて ”弱い存在” です。
皆様も すでに ご承知のように・・・
私たちは いつ ”死ぬか” わかりません。
その ”恐怖” は 実際は ”非常に 大きいもの” です。
しかし 私たちは その ”厳しい現実” を ”見ないふり” をして・・・
この世界の さまざまな ”快楽” によって ”ごまかそう” と するわけです。
さらには そんな ”厳しい現実” の中では・・・
私たちは ”ひとり” で 生きることが ”辛くなる” わけで・・・
”誰かに 頼りたい” と 考えるように なるわけです。
それで 自分の周囲に ”多くの友人” を 作ろうとしたり・・・
さらには ”結婚” を して ”子供” も 残そうとします。
そして 私たちは それこそが 人間としての ”理想の姿” などと 考えます。
また それが 私たちにとっての ”幸福の姿” である などとも。・・・
しかし それは まったくの ”一時的な満足” に 終わることが 多いわけです。
そこでは さまざまな 人間同士の ”裏切り” なども 起こるのであり・・・
結果的に 私たちは さまざまに ”苦しむ” ということにも なっています。
”生物” というのは・・・
”弱い存在” で あるほど ”集団” で 生きようと するようです。
それは ”野生動物” や ”魚類” などでも よく 見られるのであり・・・
”群れ” を 作って ”天敵からの攻撃” から ”集団を防衛” するわけです。
それは ”種の保存” という意味で 重要なものとして 考えられます。
しかし 私たち ”人間” も この世界では・・・
きわめて ”弱い存在” であることは 間違いありません。
そして そのような ”弱さ” を 認めていて いいのでしょうか?
仏教の開祖であった ブッダは 私たち 人類に・・・
そんな ”弱い存在” から ”脱出すべきである” と 説いているのです。
ブッダは 生前 インドでの ”王家の子息” として・・・
あたりまえのように ”結婚” して ”子供” も 残しました。
そんな人が その後 妻子を捨てて ”出家” したのであり・・・
さらには 弟子たちに対して ”ひとりで生きよ” などと 説いたのは・・・
”大きな矛盾” に 満ちていると ”否定的” に 考える人々も 多いようです。
しかし それは ブッダが ”修行生活” によって ”ただの人間” から・・・
この世界の ”真理” を ”悟った人間” に ”移行した” のです。
そして その理由は いわゆる ”瞑想” によって・・・
ブッダは この世界の ”真理” が 見えてきたのであり・・・
そして 自分自身の ”来世の姿” も 見えていたようです。
その ”来世の姿” というのが・・・
自分自身が ”人間” ではない ”別の存在” に なった時に・・・
それは 宇宙の中で ”単独の存在” に なることを 悟ったのです。
”単独” とは ”完全に独立” することを 意味するのであり・・・
そのためには 私たちは ”現時点” から・・・
”単独した存在” に なっておくことが 必要であると 考えられます。
しかし 私たち 日本人は 現代社会 において・・・
日々 何を ”重視” して 生きているのか? といえば・・・
SNS における ”いいねの数” や ”フォロワーの数” といった・・・
”人間集団内” での ”承認数・評価数” の 獲得に 必死になっています。
それは 自分自身を ”集団” という ”弱い存在” に ”しばりつける” のであり・・・
”単独” という ”強い存在” に なることを 完全に ”阻害する” だけのようです。
そして 自分自身が ”承認されない” または ”評価されない” ことになれば・・・
そこから 周囲に対する ”憎悪の感情” が 発生するのであり・・・
それは ”対集団” だけでなく ”対個人” にも 向けられます。
それによって 人間社会での ”殺人事件” も 起こりがちになります。
その当事者は ”死後の来世” では 確実に ”地獄世界” へ 転落するのであり・・・
そこでは ”地獄の苦しみ” が 待っている だけです。
もし 私たちが ”人間集団” の中で・・・
”承認” や ”評価” とは ”無縁(むえん)” としての 生き方を 確立すれば・・・
さまざまな ”憎悪の感情” を 発生させることも 無くなるのであり・・・
さまざまな ”事件” も 発生させることも 無くなるのであり・・・
私たちは ”激しい苦しみ” からも ”解放される” ことが 可能になります。
つまり 私たちが・・・
”集団” という ”弱い存在” から ”脱出” することによって・・・
”単独” という ”強い存在” に ”移行” することによって・・・
この世界で 私たちは ”苦しまない存在” に なれるのです。
これが ”本来の仏教” である ”ブッダの教え” の 核心であると 考えられます。
仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ も・・・
はじめは ただの ”普通の人間” でした。
しかし 修行生活の中で ”瞑想” を してゆくうちに・・・
この世界の ”真理” を 悟ることができ・・・
その結果 ”貴重な教え” を 次々と 確立していったことが 考えられます。
皆様も 今後の人生で ”瞑想” を 実践されて・・・
この世界の ”真理” を 悟ることによって・・・
ご自身と 周囲の人々を ”本当の幸福” に 導かれては いかがでしょうか?
(※) 原始仏典 スッタニパータの 内容である・・・
”ブッダの教え 犀の角(サイのつの)の意味” 記事は こちらから
”私たちに 孤独は ありえない” 記事は こちらから お読みください