~原始仏典スッタニパータ 第2章 第11節 ”ラーフラ” より~
335 ブッダが 言った
”ラーフラ (ブッダの 実の息子)” よ・・・
おまえは しばしば ともに住むのに 慣れて・・・
”賢者” を ”軽蔑” するのではないか?
諸人のために ”たいまつ” を かざす人々を 汝は 尊敬しているか?
336 ラーフラは 答えた
しばしば ともに住むのに 慣れて・・・
賢者を 軽蔑するようなことを 私は 致しません。
諸人のために たいまつを かざす人々を 私は 尊敬しています。
337 (ブッダは ラーフラに説いた)
愛すべく 喜ばしい ”五欲の対象” を 捨てて・・・
信仰心によって 家から出て (出家して)・・・
”苦しみ” を ”終減せしめる” 者であれ。
338 ”善い友達” と 交われ。
人里 離れた 奥まった 騒音の少ないところに ”坐臥(ざが)” せよ。
”飲食(たべるもの)” に ”量を知る” 者であれ。
339 衣服と 施された 食物と・・・
病人のための物品と 坐臥の所・・・
これらのものに対して ”欲” を 起こしてはならない。
再び ”世(人間の世界)” に 戻って来るな。
340 ”戒律の規定” を 奉じて(戒律 に 従って)・・・
”五つの感官” を 制して そなたの 身体を 観ぜよ(観察せよ)。
身体に ついて 心を ”専注(集中)” させよ。
切に ”世(人間の世界)” を 厭い(いとい) 嫌う者となれ。
341 ”愛欲” が あれば・・・
”汚いもの” でも ”清らか” に 見えてしまう。
その ”美麗な外形” を ”避けよ” 。
”身(人間の肉体)” は ”不浄” であると 心に 観じて・・・
心を 静かに 統一せよ。
342 “無相(むそう)の想い” を 修せよ。
心に潜む ”傲慢(ごうまん)” を 捨てよ。
そうすれば 汝は ”傲慢” を 滅ぼして・・・
”心 静まった者” として 日を 送るであろう。
ブッダは このように ラーフラに 繰り返し 教えられた。
~以上が 第2章 第11節 ラーフラ の 内容でした。~
こんにちは
前回までの記事では ブッダの教えによる ”目覚めた者” について 考えました。
ここでも 繰り返しますと その ”目覚めた者” とは・・・
この世界の ”真理” に ”目覚めた者” という 意味です。
私たちが ”真理” に ”目覚める” と どうなるのか?
そこでは 人間としても ”正しい生き方” を ”知る” ことになり・・・
それによって ”苦しみのない人生” が 始まるのです。
そして やがて 人間としての ”死” を 迎えたとしても・・・
この宇宙の中で ”苦しみのない存在” へ ”移行できる” ことに なります。
それが いわゆる ”ニルヴァーナ” の 状態であり・・・
私たちが ”彼岸(ひがん)” へ 到達するという 現象を 意味します。
原始仏典の中でも そのような ”真理を知った人間” の ことを・・・
ブッダは ”賢者(けんじゃ)” と 表現しています。
さらに ブッダは その ”賢者” に 対して・・・
この世界で ”どのように 生きるべきか?” ということも 言及していました。
それは ブッダ自身の ”生きざま” でも あったようです。
そして それが ”賢者としての義務” と 考えられるのです。
今回の記事では 前々回の 続きの内容である・・・
原始仏典スッタニパータ 第2章 第10節の 内容について 考えます。
この内容も 2015年に 先行して 考えておりましたので・・・
今回も その内容を 再編集しながら ご紹介いたします。
~それでは 以下が 2015年の 記事の内容です~
※ ※ ※
さて 今月も 先月に 引き続き・・・
原始仏典 スッタニパータ の 内容について 考えて参ります。
それは 今から 2500年前に 説かれていた その教えが・・・
現代社会においても 十分に 役立つものであるからです。
それは ”ブッダの教え” というものが・・・
この世界での “真理” を 説いていたものであり・・・
それは 私たち 現代人にも “共通する価値” を 示しているからです。
仏教の開祖であった ”ゴータマ・ブッダ” は 生前・・・
”シャカ族の王子” として ”妻子” を 持っていました。
しかし それにも関わらず ブッダは “出家” を 選択して・・・
その身 ひとつで ”厳しい修行生活” に 入ったわけです。
それは なぜか? といえば・・・
ブッダは 人間が なぜ この世界で ”苦しむ” ことに なるのか?・・・
そのことについて ”大きな疑問” を 持ったからです。
そして その “苦しむ原因” を ”究明したい” と 考えたからです。
そして ブッダが “厳しい修行生活” を 経て・・・
その後 “悟り” を 得ることが できると・・・
”妻子” に 対しても その 貴重な教えを 説くことになりました。
今回の記事で 取り上げます 原始仏典 スッタニパータ における・・・
第二章 第十一節での ”ラーフラ” というのは・・・
ブッダの ”実の息子” の 名前です。
ここでは その ”実の息子” に 対して・・・
ブッダが さまざまな教えを 説いているという 場面なのです。
ブッダは まず 息子である ラーフラに対して・・・
”暗闇の世界” に ”たいまつ(明かり)” を 灯すような・・・
”賢者” たちを 尊敬しているか? と 尋ねます。
ここでの “賢者” というのは・・・
ブッダの 一番弟子とされていた ”サーリプッタ(舎利子)” を 指しています。
ラーフラは ”ブッダの実子” で あるがゆえに・・・
ブッダの弟子たちを ”見下していた” 傾向があったとも 伝えられていたのです。
ブッダは 出家者たちの 集団において・・・
”階級” や ”権勢” が 発生することを 恐れていました。
それは 当時の “バラモン(ヒンズー)教” における・・・
”カースト制” による ”身分差別” が ”無意味” であると 考えており・・・
自分の教えによって 集まってきた 僧侶集団の中にも それが 発生しないように・・・
”自分の息子” に 対して まず 厳しく 問いただした・・・という 場面なのです。
また ここで ブッダは “親” として・・・
”自分の子供” に 対しても・・・
この世は ”暗闇である” ということを 教えなさい・・・とも 説いているわけです。
そして 337からは・・・
人間として 愛すべき 喜ばしい “五官(感覚器官)” の 対象・・・
つまり “目・耳・鼻・舌・身” の 対象である・・・
“色・声・香・味・触” という ”感覚” を・・・
すべて ”捨て去りなさい” と 説いているわけです。
それは ”苦しみの原因” を ”取り除く” ために 必要だからです。
さらには 息子に対して “出家しなさい” と 説いているのです。
338では ”善い友だち” と 関わりなさい というのは・・・
これは ”出家” を 共にしている 友人のことであり・・・(※)
飲食に ”量を知れ” というのは・・・
”足るを知る” という 意味のようです。(※)
これらの内容も 以前のスッタニパータに 登場していました。
さらに 339では・・・
衣服や 食物や 薬などの 日常生活での さまざまなものや・・・
坐臥する場所 つまり 住居においても・・・
決して ”欲望” を 増長させてはならない と 説いています。
そして ブッダは 自分の息子にも・・・
この ”人間世界” に 再び 戻ってきてはならない・・・と 説いていたのです。
また 340では・・・
ブッダの教えでの ”戒律” を 重視して・・・
”五つの感官” つまり ”人間の欲望の原因” を 自分自身で 制することに・・・
細心の注意を 払い続けなさい・・・と 説いています。
そして この ”人間世界” に 対して・・・
心の底から ”嫌いになりなさい”・・・と 説いていたのです。
341では さらに 人間としての “愛欲” つまり ”愛情” に よって・・・
”美しい” と 思われることが・・・
それは 実際には ”汚いもの” であると 説いています。
つまり ”人間の肉体” そのものが “不浄” なのであり・・・
その ”厳しい現実” を 冷静になって 考えてみなさい・・・と 説いているのです。
そして 最後の 342では・・・
”無相の想い” という言葉が 登場します。
これは 仏教用語での ”すべての執着” から ”離れた境地” を 意味します。
つまり 人間は 自分自身の ”肉体への執着” からも 離れることが・・・
極めて 重要であると 説かれています。
また 翻訳者の 中村氏の註釈によれば “無相” とは・・・
万物には ”定まった姿がない”・・・ことを 意味しています。
つまり ”自分の肉体” も やがて ”死” を 迎えれば・・・
すべてが “崩壊する” ことに なるのであり・・・
そんな ”不安定な存在” としての ”人間” とは・・・
“謙虚” で あるべきである・・・ということを 知るべきのようです。
さらに そのように 考えることで・・・
”人間” としての ”傲慢” を ”捨て去る” ことが できると・・・
自分自身が “心静まった者” に なれると 説いています。
それこそが ブッダが 目指していた ”平穏の境地” である・・・
”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)” である ”ニルヴァーナ” なのです。
それにしても 以上のような内容を “親” として・・・
”自分の子供” に 対して ”明言できる” 人は 少ないでしょう。
それは まず 自分自身を・・・
”不浄な人間” として 定義することが まず できないからです。
さらには ”自分の子供” を・・・
”不浄な人間” として この世界に ”産み出させた” のは・・・
“親” としての自分の “重大な責任” ということを・・・
事実上 ”認めてしまう” ことにも なるからです。
それでは “親としてのメンツ” は ”丸つぶれ” に なってしまうからです。
しかし ブッダは そのような ”自分のメンツ” を 守ることよりも・・・
自分自身が その 厳しい修行生活の中で 知ることができた・・・
この世界での “真理” によって・・・
実の息子を “本当の幸福” へ 導こうと していたのです。
それは 自分自身の ”過去の誤り” を ”正面から認める” ことにより・・・
それ以上の ”問題の発生” を ”阻止” しようとする 意図があったと 考えられます。
それで ブッダは 自分の息子に 対しても・・・
”人間としての欲望” を 限りなく ”抑制させる” ことで・・・
この世界での ”苦しみ” を 限りなく ”抑制させる” ことを 説いたのです。
さらには 自分の息子に “出家” も すすめることで・・・
”人間世界” からの “完全な脱出” を 図らせました。
その理由は 自分の息子にも ”苦しみのない人生” を 実現させることで・・・
”死後の来世” も ”苦しみがない” というような・・・
“永遠の幸福” に 導きたい・・・と 願っていたからのようです。
読者の皆様の中には すでに ご結婚されて・・・
”お子さん” を 持たれている方々も いらっしゃるでしょう。
しかし その方々も ”ブッダの教え” を 理解されて・・・
この ”人間世界” での ”苦しみの原因” を 理解されたのであれば・・・
その内容を 迷わずに ”子供たちに教える” 必要があると 思われます。
それが この世界での “真理” を 知ることができた者 としての・・・
“親としての義務” であるとも 考えられます。
仏教の開祖であった ”ゴータマ・ブッダ” であっても・・・
その生涯で ”悟り” を 得る 前までは・・・
他の人間たちと 同様に ”無知の状態” でした。
それゆえに ブッダも ”自分自身” に 対して・・・
”不浄な人間” であるとも まったく 思わず・・・
女性に対しても ”美しい” と 感じることになり・・・
その結果 ”結婚” して ”子供” も 残すことに なったわけです。
しかし ブッダが この世の ”真理” を 知ったことによって・・・
自分自身の ”過去の行動” に・・・
”重大な誤り” が あったことに 気づいたのであり・・・
ブッダは その ”重大な責任” も 果たすことを 決意していたようです。
それが ここの ”ラーフラ” に 記されていると 考えられます。
私たちは この人生において・・・
さまざまな ”誤り” を 犯すことがあります。
しかし 私たちは そこから 決して 逃げずに・・・
その ”誤り” に 対する “責任” を・・・
この人生で ”誠意をもって果たす” ことが 重要であると 考えられます。
その理由は この先 将来・・・
さらには ”死後の来世” においても・・・
その “責任” は ずっと ”消えることがない”・・・と 考えられるからです。
それゆえに 私たちに まず できることは・・・
”誤りのない行動” を することが 第一であり・・・
そのためにも 今後の人生において ”努力し続ける” ことが 重要です。
そして そのための ”重要な指針” になるものが・・・
ブッダの教えが 集約された ”原始仏典 スッタニパータ” にも 記されている・・・
さまざまな ”戒律(かいりつ)” であったと 考えられるのです。
私たちは 今後の人生において・・・
”無知” であることから ”脱出” するために・・・
さらには これ以上 “重大な誤り” を “拡大させない” ためにも・・・
毎日の生活の中で “ブッダの教え” を 参考にしながら・・・
限りなく ”最善の努力” をして 参りたいですね。
~以上が 2015年の 記事の内容でした。~
※ ※ ※
ブッダは 生前 ”実の息子” に 対しても・・・
この世界の ”真理” を 伝えました。
それは 自分自身の ”メンツ” や ”プライド” を 守ることよりも・・・
それが 事実上 自分自身を ”おとしめる” ことに なろうとも・・・
この世界の ”真理” を ”最優先” したのです。
私たちにとって この人生で 何を ”最優先” するべきなのか?
私たちは ここで 改めて 深く考える 必要が あるようです。
それは この世界の ”真理” を ”知った者” としての・・・
つまり ”賢者” として ”正しい生き方” を ”知った者” で あるならば・・・
そのことは 自然に理解できる 内容であると 思われます。
そして それによって この人生で ”苦しまない” だけでなく・・・
”死後の来世” においても ”苦しみのない存在” に なれるのであり・・・
それが この宇宙の中での ”本当の幸福” であると 考えられるのです。
また そのことを 他の人々に ”伝える” ことは・・・
仏教における ”功徳(くどく)” を 積むことにも なり得ます。
そして その意味は 個人としての ”賢者” として 終わることがなく・・・
さらには ”多くの人々” も ”救う” ことになり・・・
それが ”賢者としての義務” を 果たすことになると 考えられるのです。
それによって その人は ”普通” の 修行者よりも・・・
人間からの ”解脱(げだつ)のスピード” が ”加速する” ことになり・・・
より 早く ”苦しみのない存在” へ 移行できることが 考えられるのです。
皆様も ”ブッダの教え” を 深く 理解することで・・・
この人生で ”本当の意味” での ”賢者” に なることによって・・・
この宇宙の中での ”本当の幸福” を 獲得されてみては いかがでしょうか?
(※) スッタニパータでの ”友人” についての 意味について 書かれていた・・・
”ブッダの教え 世俗の考え方を 捨てよ” の 記事は こちらです
また “量を知る” についての 内容である・・・
”足るを知る の 意味” の 記事は こちらです
そして 2015年の 記事である・・・
”ブッダの教え 親の義務 とは?” の 記事は こちらです
335 ブッダが 言った
”ラーフラ (ブッダの 実の息子)” よ・・・
おまえは しばしば ともに住むのに 慣れて・・・
”賢者” を ”軽蔑” するのではないか?
諸人のために ”たいまつ” を かざす人々を 汝は 尊敬しているか?
336 ラーフラは 答えた
しばしば ともに住むのに 慣れて・・・
賢者を 軽蔑するようなことを 私は 致しません。
諸人のために たいまつを かざす人々を 私は 尊敬しています。
337 (ブッダは ラーフラに説いた)
愛すべく 喜ばしい ”五欲の対象” を 捨てて・・・
信仰心によって 家から出て (出家して)・・・
”苦しみ” を ”終減せしめる” 者であれ。
338 ”善い友達” と 交われ。
人里 離れた 奥まった 騒音の少ないところに ”坐臥(ざが)” せよ。
”飲食(たべるもの)” に ”量を知る” 者であれ。
339 衣服と 施された 食物と・・・
病人のための物品と 坐臥の所・・・
これらのものに対して ”欲” を 起こしてはならない。
再び ”世(人間の世界)” に 戻って来るな。
340 ”戒律の規定” を 奉じて(戒律 に 従って)・・・
”五つの感官” を 制して そなたの 身体を 観ぜよ(観察せよ)。
身体に ついて 心を ”専注(集中)” させよ。
切に ”世(人間の世界)” を 厭い(いとい) 嫌う者となれ。
341 ”愛欲” が あれば・・・
”汚いもの” でも ”清らか” に 見えてしまう。
その ”美麗な外形” を ”避けよ” 。
”身(人間の肉体)” は ”不浄” であると 心に 観じて・・・
心を 静かに 統一せよ。
342 “無相(むそう)の想い” を 修せよ。
心に潜む ”傲慢(ごうまん)” を 捨てよ。
そうすれば 汝は ”傲慢” を 滅ぼして・・・
”心 静まった者” として 日を 送るであろう。
ブッダは このように ラーフラに 繰り返し 教えられた。
~以上が 第2章 第11節 ラーフラ の 内容でした。~
こんにちは
前回までの記事では ブッダの教えによる ”目覚めた者” について 考えました。
ここでも 繰り返しますと その ”目覚めた者” とは・・・
この世界の ”真理” に ”目覚めた者” という 意味です。
私たちが ”真理” に ”目覚める” と どうなるのか?
そこでは 人間としても ”正しい生き方” を ”知る” ことになり・・・
それによって ”苦しみのない人生” が 始まるのです。
そして やがて 人間としての ”死” を 迎えたとしても・・・
この宇宙の中で ”苦しみのない存在” へ ”移行できる” ことに なります。
それが いわゆる ”ニルヴァーナ” の 状態であり・・・
私たちが ”彼岸(ひがん)” へ 到達するという 現象を 意味します。
原始仏典の中でも そのような ”真理を知った人間” の ことを・・・
ブッダは ”賢者(けんじゃ)” と 表現しています。
さらに ブッダは その ”賢者” に 対して・・・
この世界で ”どのように 生きるべきか?” ということも 言及していました。
それは ブッダ自身の ”生きざま” でも あったようです。
そして それが ”賢者としての義務” と 考えられるのです。
今回の記事では 前々回の 続きの内容である・・・
原始仏典スッタニパータ 第2章 第10節の 内容について 考えます。
この内容も 2015年に 先行して 考えておりましたので・・・
今回も その内容を 再編集しながら ご紹介いたします。
~それでは 以下が 2015年の 記事の内容です~
※ ※ ※
さて 今月も 先月に 引き続き・・・
原始仏典 スッタニパータ の 内容について 考えて参ります。
それは 今から 2500年前に 説かれていた その教えが・・・
現代社会においても 十分に 役立つものであるからです。
それは ”ブッダの教え” というものが・・・
この世界での “真理” を 説いていたものであり・・・
それは 私たち 現代人にも “共通する価値” を 示しているからです。
仏教の開祖であった ”ゴータマ・ブッダ” は 生前・・・
”シャカ族の王子” として ”妻子” を 持っていました。
しかし それにも関わらず ブッダは “出家” を 選択して・・・
その身 ひとつで ”厳しい修行生活” に 入ったわけです。
それは なぜか? といえば・・・
ブッダは 人間が なぜ この世界で ”苦しむ” ことに なるのか?・・・
そのことについて ”大きな疑問” を 持ったからです。
そして その “苦しむ原因” を ”究明したい” と 考えたからです。
そして ブッダが “厳しい修行生活” を 経て・・・
その後 “悟り” を 得ることが できると・・・
”妻子” に 対しても その 貴重な教えを 説くことになりました。
今回の記事で 取り上げます 原始仏典 スッタニパータ における・・・
第二章 第十一節での ”ラーフラ” というのは・・・
ブッダの ”実の息子” の 名前です。
ここでは その ”実の息子” に 対して・・・
ブッダが さまざまな教えを 説いているという 場面なのです。
ブッダは まず 息子である ラーフラに対して・・・
”暗闇の世界” に ”たいまつ(明かり)” を 灯すような・・・
”賢者” たちを 尊敬しているか? と 尋ねます。
ここでの “賢者” というのは・・・
ブッダの 一番弟子とされていた ”サーリプッタ(舎利子)” を 指しています。
ラーフラは ”ブッダの実子” で あるがゆえに・・・
ブッダの弟子たちを ”見下していた” 傾向があったとも 伝えられていたのです。
ブッダは 出家者たちの 集団において・・・
”階級” や ”権勢” が 発生することを 恐れていました。
それは 当時の “バラモン(ヒンズー)教” における・・・
”カースト制” による ”身分差別” が ”無意味” であると 考えており・・・
自分の教えによって 集まってきた 僧侶集団の中にも それが 発生しないように・・・
”自分の息子” に 対して まず 厳しく 問いただした・・・という 場面なのです。
また ここで ブッダは “親” として・・・
”自分の子供” に 対しても・・・
この世は ”暗闇である” ということを 教えなさい・・・とも 説いているわけです。
そして 337からは・・・
人間として 愛すべき 喜ばしい “五官(感覚器官)” の 対象・・・
つまり “目・耳・鼻・舌・身” の 対象である・・・
“色・声・香・味・触” という ”感覚” を・・・
すべて ”捨て去りなさい” と 説いているわけです。
それは ”苦しみの原因” を ”取り除く” ために 必要だからです。
さらには 息子に対して “出家しなさい” と 説いているのです。
338では ”善い友だち” と 関わりなさい というのは・・・
これは ”出家” を 共にしている 友人のことであり・・・(※)
飲食に ”量を知れ” というのは・・・
”足るを知る” という 意味のようです。(※)
これらの内容も 以前のスッタニパータに 登場していました。
さらに 339では・・・
衣服や 食物や 薬などの 日常生活での さまざまなものや・・・
坐臥する場所 つまり 住居においても・・・
決して ”欲望” を 増長させてはならない と 説いています。
そして ブッダは 自分の息子にも・・・
この ”人間世界” に 再び 戻ってきてはならない・・・と 説いていたのです。
また 340では・・・
ブッダの教えでの ”戒律” を 重視して・・・
”五つの感官” つまり ”人間の欲望の原因” を 自分自身で 制することに・・・
細心の注意を 払い続けなさい・・・と 説いています。
そして この ”人間世界” に 対して・・・
心の底から ”嫌いになりなさい”・・・と 説いていたのです。
341では さらに 人間としての “愛欲” つまり ”愛情” に よって・・・
”美しい” と 思われることが・・・
それは 実際には ”汚いもの” であると 説いています。
つまり ”人間の肉体” そのものが “不浄” なのであり・・・
その ”厳しい現実” を 冷静になって 考えてみなさい・・・と 説いているのです。
そして 最後の 342では・・・
”無相の想い” という言葉が 登場します。
これは 仏教用語での ”すべての執着” から ”離れた境地” を 意味します。
つまり 人間は 自分自身の ”肉体への執着” からも 離れることが・・・
極めて 重要であると 説かれています。
また 翻訳者の 中村氏の註釈によれば “無相” とは・・・
万物には ”定まった姿がない”・・・ことを 意味しています。
つまり ”自分の肉体” も やがて ”死” を 迎えれば・・・
すべてが “崩壊する” ことに なるのであり・・・
そんな ”不安定な存在” としての ”人間” とは・・・
“謙虚” で あるべきである・・・ということを 知るべきのようです。
さらに そのように 考えることで・・・
”人間” としての ”傲慢” を ”捨て去る” ことが できると・・・
自分自身が “心静まった者” に なれると 説いています。
それこそが ブッダが 目指していた ”平穏の境地” である・・・
”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)” である ”ニルヴァーナ” なのです。
それにしても 以上のような内容を “親” として・・・
”自分の子供” に 対して ”明言できる” 人は 少ないでしょう。
それは まず 自分自身を・・・
”不浄な人間” として 定義することが まず できないからです。
さらには ”自分の子供” を・・・
”不浄な人間” として この世界に ”産み出させた” のは・・・
“親” としての自分の “重大な責任” ということを・・・
事実上 ”認めてしまう” ことにも なるからです。
それでは “親としてのメンツ” は ”丸つぶれ” に なってしまうからです。
しかし ブッダは そのような ”自分のメンツ” を 守ることよりも・・・
自分自身が その 厳しい修行生活の中で 知ることができた・・・
この世界での “真理” によって・・・
実の息子を “本当の幸福” へ 導こうと していたのです。
それは 自分自身の ”過去の誤り” を ”正面から認める” ことにより・・・
それ以上の ”問題の発生” を ”阻止” しようとする 意図があったと 考えられます。
それで ブッダは 自分の息子に 対しても・・・
”人間としての欲望” を 限りなく ”抑制させる” ことで・・・
この世界での ”苦しみ” を 限りなく ”抑制させる” ことを 説いたのです。
さらには 自分の息子に “出家” も すすめることで・・・
”人間世界” からの “完全な脱出” を 図らせました。
その理由は 自分の息子にも ”苦しみのない人生” を 実現させることで・・・
”死後の来世” も ”苦しみがない” というような・・・
“永遠の幸福” に 導きたい・・・と 願っていたからのようです。
読者の皆様の中には すでに ご結婚されて・・・
”お子さん” を 持たれている方々も いらっしゃるでしょう。
しかし その方々も ”ブッダの教え” を 理解されて・・・
この ”人間世界” での ”苦しみの原因” を 理解されたのであれば・・・
その内容を 迷わずに ”子供たちに教える” 必要があると 思われます。
それが この世界での “真理” を 知ることができた者 としての・・・
“親としての義務” であるとも 考えられます。
仏教の開祖であった ”ゴータマ・ブッダ” であっても・・・
その生涯で ”悟り” を 得る 前までは・・・
他の人間たちと 同様に ”無知の状態” でした。
それゆえに ブッダも ”自分自身” に 対して・・・
”不浄な人間” であるとも まったく 思わず・・・
女性に対しても ”美しい” と 感じることになり・・・
その結果 ”結婚” して ”子供” も 残すことに なったわけです。
しかし ブッダが この世の ”真理” を 知ったことによって・・・
自分自身の ”過去の行動” に・・・
”重大な誤り” が あったことに 気づいたのであり・・・
ブッダは その ”重大な責任” も 果たすことを 決意していたようです。
それが ここの ”ラーフラ” に 記されていると 考えられます。
私たちは この人生において・・・
さまざまな ”誤り” を 犯すことがあります。
しかし 私たちは そこから 決して 逃げずに・・・
その ”誤り” に 対する “責任” を・・・
この人生で ”誠意をもって果たす” ことが 重要であると 考えられます。
その理由は この先 将来・・・
さらには ”死後の来世” においても・・・
その “責任” は ずっと ”消えることがない”・・・と 考えられるからです。
それゆえに 私たちに まず できることは・・・
”誤りのない行動” を することが 第一であり・・・
そのためにも 今後の人生において ”努力し続ける” ことが 重要です。
そして そのための ”重要な指針” になるものが・・・
ブッダの教えが 集約された ”原始仏典 スッタニパータ” にも 記されている・・・
さまざまな ”戒律(かいりつ)” であったと 考えられるのです。
私たちは 今後の人生において・・・
”無知” であることから ”脱出” するために・・・
さらには これ以上 “重大な誤り” を “拡大させない” ためにも・・・
毎日の生活の中で “ブッダの教え” を 参考にしながら・・・
限りなく ”最善の努力” をして 参りたいですね。
~以上が 2015年の 記事の内容でした。~
※ ※ ※
ブッダは 生前 ”実の息子” に 対しても・・・
この世界の ”真理” を 伝えました。
それは 自分自身の ”メンツ” や ”プライド” を 守ることよりも・・・
それが 事実上 自分自身を ”おとしめる” ことに なろうとも・・・
この世界の ”真理” を ”最優先” したのです。
私たちにとって この人生で 何を ”最優先” するべきなのか?
私たちは ここで 改めて 深く考える 必要が あるようです。
それは この世界の ”真理” を ”知った者” としての・・・
つまり ”賢者” として ”正しい生き方” を ”知った者” で あるならば・・・
そのことは 自然に理解できる 内容であると 思われます。
そして それによって この人生で ”苦しまない” だけでなく・・・
”死後の来世” においても ”苦しみのない存在” に なれるのであり・・・
それが この宇宙の中での ”本当の幸福” であると 考えられるのです。
また そのことを 他の人々に ”伝える” ことは・・・
仏教における ”功徳(くどく)” を 積むことにも なり得ます。
そして その意味は 個人としての ”賢者” として 終わることがなく・・・
さらには ”多くの人々” も ”救う” ことになり・・・
それが ”賢者としての義務” を 果たすことになると 考えられるのです。
それによって その人は ”普通” の 修行者よりも・・・
人間からの ”解脱(げだつ)のスピード” が ”加速する” ことになり・・・
より 早く ”苦しみのない存在” へ 移行できることが 考えられるのです。
皆様も ”ブッダの教え” を 深く 理解することで・・・
この人生で ”本当の意味” での ”賢者” に なることによって・・・
この宇宙の中での ”本当の幸福” を 獲得されてみては いかがでしょうか?
(※) スッタニパータでの ”友人” についての 意味について 書かれていた・・・
”ブッダの教え 世俗の考え方を 捨てよ” の 記事は こちらです
また “量を知る” についての 内容である・・・
”足るを知る の 意味” の 記事は こちらです
そして 2015年の 記事である・・・
”ブッダの教え 親の義務 とは?” の 記事は こちらです