こんにちは
それでは 今回の記事からは 般若心経の 詳細な内容について 考えて参ります。
今回は まず 最初の 三つの段落の 内容を考えます。
1・観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
2.舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
3.舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
これを 各文節で わかりやすく 日本語に 訳してみます。
その上には 読み方を 示します。
かんじざいぼさつ
1・観自在菩薩
菩薩(真理を求める者)である ブッダが・・・
ぎょうじん はんにゃはらみったじ
行深 般若波羅蜜多時
智慧・知恵を完成する・彼岸に達するための 深い 実践をされている時
しょうけんごうんかいくう
照見 五蘊 皆空
人間の 心身を構成している ”五つの要素” が・・・
いずれも 本質的なものではないと 見極めて
どいっさいくやく
度一切苦厄
すべての苦しみを 取り除かれたのである。
しゃりし
2・舎利子
そして 舎利子に向かい 次のように述べた。 舎利子よ・・・
しきふいくう
色不異空
”色” である 形あるものは・・・
”空” としての 実体がないものと 同じであり
くうふいしき
空不異色
実体がなくても 一時的な 形あるものとして存在する。
しきそくぜくう
色即是空
したがって 形あるものは そのまま 実体なきものであり
くうそくぜしき
空即是色
実体がないことが そのまま 形あるものである。
じゅそうぎょうしき
受想行識
残りの 人間の心の ”四つの働き” の場合も・・・
やくぶにょぜ
亦復如是
まったく 同じことなのである。
しゃりし
3・舎利子
舎利子よ・・・
ぜしょほうくうそう
是諸法空想
この世の中の あらゆる存在や 現象には・・・
”空” という 実体がない 性質があるから・・・
ふしょうふめつ
不生不滅
もともと 生じるということも 滅するということもなく
ふくふじょう
不垢不浄
よごれたものでもなく 浄らかなものでもなく
ふぞうふげん
不増不減
増えることもなく 減ることもないのである。
以上が 1~3までの 各段落における その解釈を 示しました。
それでは その中にある 重要な語句の 意味について 考えてゆきます。
まず 1での ”観自在” とは・・・
”智慧(知恵)” をもって ”観照(かんしょう)” することにより・・・
”自在” の 妙果を 得られていることを 意味しています。
そして ここでの ”自在” とは・・・
人間のこころ が ”煩悩の束縛” から ”解放” されて 自由となり・・・
何事でも ”思うがまま” に ”観ることができる” 能力なのです。
つまり 仏や 菩薩にとっては 過去のことも 未来のことも・・・
この世界の すべては ”お見通しである”・・・ということですね。
また 大乗経典での ”菩薩(ぼさつ)” とは・・・
仏教の開祖としての ゴータマ・ブッダ だけでなく・・・
その後の 弟子たちも ”菩薩” と されています。
しかし この経典の内容というのは
”原始仏典の内容” に 極めて 即しておりますので・・・
ブッダによる その弟子の 舎利子に対する 説法であるとも 解釈できます。
これまでの 大乗経典の解釈は 複雑多岐に わたっておりますが・・・
当ブログでは 限りなく ”わかりやすい解釈” によって・・・
記事を作成することを 心がけておりますので ご了承ください。
そして ”五蘊(ごうん)” というのは・・・
人間を構成する ”五つの要素” のことを 意味しています。
それが ブッダの教えにも 登場した ”色・受・想・行・識” の ことでした。
色とは・・・”人間の肉体” のことであり ”目に見えるもの” を 示しています。
受とは・・・外部からの 刺激を受けて ”感覚する” 心の働きのことです。
想とは・・・感覚に基づいて ”考える” という 心の働きのことです。
行とは・・・人間の ”行為” を 生み出すような 心の働きのことです。
識とは・・・以上のことを統一して ”識別をする” 心の働きのことです。
そして これらすべてが ”空(くう)” であり・・・
つまり 本質的でなく 実体がないものである と 見きわめた時に・・・
すべての苦しみが 取り除かれたのである・・・という内容でした。
その意味は 私たちが 人間として ”あたりまえ” とされる・・・
自分自身の肉体や 心の働きから ”離れる” ことができると・・・
そこで 人間から ”解放” されて・・・
”苦しみ” が ”すべて消滅する” ことを 意味しているのです。
そして その後の 舎利子に対する 説法というのは・・・
この世界は ”空(くう)” であることを 説いています。
そして このブログでは その意味を・・・
“原子・素粒子のモデル” によって 解釈しました。(※)
つまり この世界の ”万物” は “原子・素粒子” という・・・
”目に見えないもの” で 構成されている ということです。
それゆえに すべての ”色 (目に見えるもの・形あるもの)” は・・・
”空 (目に見えないもの・実体のないもの)” の ”集合体” なのであり・・・
さらには 人間の “こころの働き” というものも・・・
それに付随して 同じように ”空である”・・・ということなのです。
そして この世界は すべて ”空” で あるのならば・・・
その正体は “原子・素粒子” であるがゆえに・・・
それは この宇宙に ”元々あったもの” なので・・・
原子や素粒子が 新たに ”発生” することも ”消滅” することもなく・・・
原子や素粒子が ”汚れている” とか ”清潔である” ということもなく・・・
さらには 原子や素粒子の この宇宙での ”絶対数” が・・・
”増えたり” とか ”減ったり” することもない・・・ということなのです。
つまり ここでの 意味というのは・・・
私たちが これまで ”人間としての感覚” で とらえていたことは・・・
”宇宙全体” から 考えれば・・・
ほとんど ”無意味である” ということが 示されているのです。
これが 仏教の開祖であった ”ブッダの教え” の・・・
”宇宙レベル” の ”スケールの大きさ” であると 考えられます。
このように 私たちが この世界で あれこれ ”苦しむ” のは・・・
人間としての ”思考” や ”感覚” に よるものだ と 考えられます。
私たちは 毎日の生活の中で 自分の ”所有物” や ”お金” などが・・・
”増えた” とか ”減った” とか・・・
さらには あれが ”きれい” で あれが ”汚い” だとか・・・
自分自身の ”考え方” や ”感覚” によって・・・
そのような ”評価” を いつも 行っているようです。
そして それによって 私たちは・・・
“一喜一憂” する 日々を 送っており・・・
それによって ”苦しんでいる” ことが 多いようです。
しかし 私たちが この世界の “真理” を 知ることになると・・・
そのような 人間として あたりまえの ”評価” を することが・・・
完全に なくなり・・・
それによって ”苦しまなくなる” ことが 実現されるのです。
つまり 仏教の開祖としての ”ブッダの教え” というものは・・・
私たちが ”人間の視点” に とどまるのではなく・・・
”宇宙的な視点” に 移ることで・・・
この世界の ”本当の姿” を 見きわめることが 重要であると 説いたのです。
それによって 私たちは・・・
“知恵の完成” が 実現されることを 意味しており・・・
それで 私たちは “彼岸” に 到達できると 考えられるのです。
次回も 般若心経での この続きの内容を 考えて参ります。
(※) ブッダの教えでの ”五蘊(ごうん)” についての内容を 書きました・・・
“四法印(しほういん)” の 記事は こちらです
仏教における ”空の概念” について 考えました・・・
”空(くう)・・・という意味” の 記事は こちらです
それでは 今回の記事からは 般若心経の 詳細な内容について 考えて参ります。
今回は まず 最初の 三つの段落の 内容を考えます。
1・観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
2.舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
3.舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
これを 各文節で わかりやすく 日本語に 訳してみます。
その上には 読み方を 示します。
かんじざいぼさつ
1・観自在菩薩
菩薩(真理を求める者)である ブッダが・・・
ぎょうじん はんにゃはらみったじ
行深 般若波羅蜜多時
智慧・知恵を完成する・彼岸に達するための 深い 実践をされている時
しょうけんごうんかいくう
照見 五蘊 皆空
人間の 心身を構成している ”五つの要素” が・・・
いずれも 本質的なものではないと 見極めて
どいっさいくやく
度一切苦厄
すべての苦しみを 取り除かれたのである。
しゃりし
2・舎利子
そして 舎利子に向かい 次のように述べた。 舎利子よ・・・
しきふいくう
色不異空
”色” である 形あるものは・・・
”空” としての 実体がないものと 同じであり
くうふいしき
空不異色
実体がなくても 一時的な 形あるものとして存在する。
しきそくぜくう
色即是空
したがって 形あるものは そのまま 実体なきものであり
くうそくぜしき
空即是色
実体がないことが そのまま 形あるものである。
じゅそうぎょうしき
受想行識
残りの 人間の心の ”四つの働き” の場合も・・・
やくぶにょぜ
亦復如是
まったく 同じことなのである。
しゃりし
3・舎利子
舎利子よ・・・
ぜしょほうくうそう
是諸法空想
この世の中の あらゆる存在や 現象には・・・
”空” という 実体がない 性質があるから・・・
ふしょうふめつ
不生不滅
もともと 生じるということも 滅するということもなく
ふくふじょう
不垢不浄
よごれたものでもなく 浄らかなものでもなく
ふぞうふげん
不増不減
増えることもなく 減ることもないのである。
以上が 1~3までの 各段落における その解釈を 示しました。
それでは その中にある 重要な語句の 意味について 考えてゆきます。
まず 1での ”観自在” とは・・・
”智慧(知恵)” をもって ”観照(かんしょう)” することにより・・・
”自在” の 妙果を 得られていることを 意味しています。
そして ここでの ”自在” とは・・・
人間のこころ が ”煩悩の束縛” から ”解放” されて 自由となり・・・
何事でも ”思うがまま” に ”観ることができる” 能力なのです。
つまり 仏や 菩薩にとっては 過去のことも 未来のことも・・・
この世界の すべては ”お見通しである”・・・ということですね。
また 大乗経典での ”菩薩(ぼさつ)” とは・・・
仏教の開祖としての ゴータマ・ブッダ だけでなく・・・
その後の 弟子たちも ”菩薩” と されています。
しかし この経典の内容というのは
”原始仏典の内容” に 極めて 即しておりますので・・・
ブッダによる その弟子の 舎利子に対する 説法であるとも 解釈できます。
これまでの 大乗経典の解釈は 複雑多岐に わたっておりますが・・・
当ブログでは 限りなく ”わかりやすい解釈” によって・・・
記事を作成することを 心がけておりますので ご了承ください。
そして ”五蘊(ごうん)” というのは・・・
人間を構成する ”五つの要素” のことを 意味しています。
それが ブッダの教えにも 登場した ”色・受・想・行・識” の ことでした。
色とは・・・”人間の肉体” のことであり ”目に見えるもの” を 示しています。
受とは・・・外部からの 刺激を受けて ”感覚する” 心の働きのことです。
想とは・・・感覚に基づいて ”考える” という 心の働きのことです。
行とは・・・人間の ”行為” を 生み出すような 心の働きのことです。
識とは・・・以上のことを統一して ”識別をする” 心の働きのことです。
そして これらすべてが ”空(くう)” であり・・・
つまり 本質的でなく 実体がないものである と 見きわめた時に・・・
すべての苦しみが 取り除かれたのである・・・という内容でした。
その意味は 私たちが 人間として ”あたりまえ” とされる・・・
自分自身の肉体や 心の働きから ”離れる” ことができると・・・
そこで 人間から ”解放” されて・・・
”苦しみ” が ”すべて消滅する” ことを 意味しているのです。
そして その後の 舎利子に対する 説法というのは・・・
この世界は ”空(くう)” であることを 説いています。
そして このブログでは その意味を・・・
“原子・素粒子のモデル” によって 解釈しました。(※)
つまり この世界の ”万物” は “原子・素粒子” という・・・
”目に見えないもの” で 構成されている ということです。
それゆえに すべての ”色 (目に見えるもの・形あるもの)” は・・・
”空 (目に見えないもの・実体のないもの)” の ”集合体” なのであり・・・
さらには 人間の “こころの働き” というものも・・・
それに付随して 同じように ”空である”・・・ということなのです。
そして この世界は すべて ”空” で あるのならば・・・
その正体は “原子・素粒子” であるがゆえに・・・
それは この宇宙に ”元々あったもの” なので・・・
原子や素粒子が 新たに ”発生” することも ”消滅” することもなく・・・
原子や素粒子が ”汚れている” とか ”清潔である” ということもなく・・・
さらには 原子や素粒子の この宇宙での ”絶対数” が・・・
”増えたり” とか ”減ったり” することもない・・・ということなのです。
つまり ここでの 意味というのは・・・
私たちが これまで ”人間としての感覚” で とらえていたことは・・・
”宇宙全体” から 考えれば・・・
ほとんど ”無意味である” ということが 示されているのです。
これが 仏教の開祖であった ”ブッダの教え” の・・・
”宇宙レベル” の ”スケールの大きさ” であると 考えられます。
このように 私たちが この世界で あれこれ ”苦しむ” のは・・・
人間としての ”思考” や ”感覚” に よるものだ と 考えられます。
私たちは 毎日の生活の中で 自分の ”所有物” や ”お金” などが・・・
”増えた” とか ”減った” とか・・・
さらには あれが ”きれい” で あれが ”汚い” だとか・・・
自分自身の ”考え方” や ”感覚” によって・・・
そのような ”評価” を いつも 行っているようです。
そして それによって 私たちは・・・
“一喜一憂” する 日々を 送っており・・・
それによって ”苦しんでいる” ことが 多いようです。
しかし 私たちが この世界の “真理” を 知ることになると・・・
そのような 人間として あたりまえの ”評価” を することが・・・
完全に なくなり・・・
それによって ”苦しまなくなる” ことが 実現されるのです。
つまり 仏教の開祖としての ”ブッダの教え” というものは・・・
私たちが ”人間の視点” に とどまるのではなく・・・
”宇宙的な視点” に 移ることで・・・
この世界の ”本当の姿” を 見きわめることが 重要であると 説いたのです。
それによって 私たちは・・・
“知恵の完成” が 実現されることを 意味しており・・・
それで 私たちは “彼岸” に 到達できると 考えられるのです。
次回も 般若心経での この続きの内容を 考えて参ります。
(※) ブッダの教えでの ”五蘊(ごうん)” についての内容を 書きました・・・
“四法印(しほういん)” の 記事は こちらです
仏教における ”空の概念” について 考えました・・・
”空(くう)・・・という意味” の 記事は こちらです