日本では家で朝食を取りますが、中国では通勤や通学途中、外で朝食を済ませる人が多いです。路上には朝から屋台や個人店が多く出ています。朝食の種類は、面条[mian4tiao2](麺)、[zhou1](おかゆ)、馒头[man2tou](蒸しパン)、油条[you2tiao2](揚げパン)、煎饼[jian1bing](クレープ)、豆浆[dou4jiang1](豆乳)などが一般的です。それを通勤途中に買ってビニール袋に入れて会社へ持参し食べます。その中で粥(おかゆ)は中国の朝食の定番になっています。お粥は漬物を付け合わせにして食べます。ホテルではお粥の入った鍋の横に、小さく刻んだ色んな漬物が置かれ、シャモジで掬ってお粥に掛けます。中国語で「漬物」を咸菜[xian2cai4]と言います。今回は中国で一般に食べられている漬物を紹介しましょう。
まず日本でもお馴染みの榨菜[zha4cai4](ザーサイ)です。日本のスーパーでも瓶詰された榨菜が販売されています。中国の飛行機では、この漬物とパンが一緒に出てきます。地方の安い民宿でも朝食に蒸しパンと一緒に出され、塩味が効いた漬物とパンが良くマッチし、シンプルで懐かしい味です。榨菜は「からし菜」のコブ状に膨らんだ茎の部分を用い、四川省や浙江省余姚市が主要な生産地になっています。日本でも福島県や茨木県で栽培されているようですがそれほど量は多くなく、殆ど中国からの輸入のようです。余姚市を訪問したことがありますが、この地は春秋時代(BC770~BC221年)に中国四大美女の西施[xi1shi1]が生まれ育った所で、その美しさに月も雲の影に隠れてしまったとか、川の魚も泳ぐのを忘れて沈んでいったなどの逸話が残っています。榨菜の歴史はまだ100年と浅く、四川省で豊作になり採れ過ぎた榨菜を塩漬けにして、レストランで出したところ、好評で全国に広まったようです。榨菜をかめに入れて塩漬けした後、塩や唐辛子などの香辛料と砂糖、お酒などを加えてさらに1年以上漬けこんで作ります。歯ごたえが良くて美味しい漬物ですが、なぜ日本で普及しないのか不思議です。
中国の一般的な他の漬物を紹介しましょう。
酸菜[suan1cai4]は中国東北地方を代表する酸っぱい白菜の漬物で、薄い塩味と酸味で料理に使い、代表的なものとしてこの漬物と豚肉を一緒に煮込んだ酸菜锅があります。
酱蒜[jiang4suan4]は大蒜[da4suan4](ニンニク)を醤油で漬け込んだものです。食べ過ぎると朝の打合せ時、大蒜の匂いに敬遠されますので注意しましょう。
酱黄瓜[jiang4huang2gua1]はキュウリの漬物です。キュウリと鷹のツメを醤油で漬け込み、キュウリと醤油が良くマッチしてとても美味しいです。中国ではラーメンに薬味としてネギを入れる食べ方を見掛けませんでした。街の食堂ではテーブルに置かれた皿に生ニンニクが積み上げられており、これを薬味としてかじりながらラーメンを食べます。この生大蒜は日本の大蒜と違って辛みがあります。
泡菜[pao4cai4]は四川省から全国に広まった漬物で日本の浅漬けやぬか漬けに似ています。野菜を塩水に10日ほど漬け込んで発酵させた漬物です。漬け込む野菜はキャベツ、大根、インゲン豆、キュウリ、生姜、苦瓜など色んな野菜を用います。日本では漬物は直接食べますが、中国料理の奥の深いところは漬物を炒め物などの料理に使い調味料代わりにして味の引き立て役にも使っています。
漬物でも日中の食文化の違いが出ています。日本の漬物は、どちらかと言うとあっさり仕上げて、素材の形・色や風味を残します。中国はしっかり時間を掛けて漬け込み、濃くておいしい旨味を引き出している漬物が多いです。(写真左:白粥和搾菜、写真右:煎饼摊子)

 中国の四大古都と言えば安徽徽州,四川阆中,山西平遥,云南丽江の四つの古都を指します。その一つの山西平遥は山西省中部の平遥県に位置し、2700年の歴史を持つ世界的に有名な古い街です。他の古都に比べ最も保存状態が良いとされ、1997年に世界文化遺産として登録されました。
 西安に住んでいた時、友人の招待を受け一人で平遥へ出掛けたことがありました。外国の知らない土地の一人旅は注意が必要です。経験談をお話ししましょう。当日、西安市の长途巴士中心(長距離バスセンター)から、午後10時頃発の大原行きの深夜バスに乗りました。西安市と平揺市は直線距離にして約350kmあまり、どこのバスセンターでも同じですが、到着が何時になるのか掲示がありません。その日は春節明けの2月、まだ寒い日でした。全く中国語ができないし、長距離バスに乗るなど初めてのことでした。  バスが走り始めから、ある重大なことに気付きました。乗客が降りたいときに運転手に合図してバスを止め、降車しているではありませんか。地方では一般に道路上にバス停留所が整備されていません。小さい会社が自由に運行していますので、決まったバス停が設置できないのです。乗客が降りたいところで運転手に合図して、バスを止めて貰わなければなりません。これには大変慌てました。土地勘がないのでどこを走っているのか、どこで降りれば良いのかさっぱり分かりません。幸い地図を持っていたので、隣のおじさんにジェスチャーで平遥へ行きたいと訴えて、最寄りの地点で運転手に合図してくれるように頼みました。深夜三時ごろ、そのおじさんが運転手に合図し、ここで降りなさいとバスを止めてくれました。本当にここが目指す目的地なのか不安がありましたが降りるしかありません。高速道路の路肩で降ろされ、しかも降りたのはわたし一人です。雪が降っていてとても寒かったです。降りた反対側の土手の上に明かりが見えたので、土手をよじ登ると料金所スタンドがありました。寒くて凍死しそうだったので、スタンドの中へ避難させて欲しいと頼みましたが、当然のことながら断られました。そこで仕方なく遠くにぼんやり見える街の明かりに向かって歩き始めました。街灯も無く真っ暗な道をトボトボと歩いていると後ろから自転車に乗った男が何やら声を掛けてきましたが完全听不懂です。身の危険を感じましたが、幸いにその男は去っていきました。 そうこうする内に目の前に真っ黒にそびえる城壁が突然現れました。暗い中で黒く浮かび上がった城壁のシルエットはなんとも不気味です。入り口を見つけるためにその壁伝いに歩いていると火车站の看板が見え、「そうだ!駅の待合室で夜を明かせばいいんだ!」と駅へ向かいました。待合室は真っ暗、切符売り場もシャッターが下りていました。壁際にスチーム暖房のラジエーターがあるのが見え、その前にしゃがみ込んで暖を取っていたところ、背後から顔の前にフッと手が出てきました。振り返るとボロ布に身にまとった物乞いが立っていました。これには心臓が止まるほど驚きました。そこで小銭を渡して、あっちへ行けとジェスチャーで追い払いましたが、物乞いが何人か居るのが暗がりで見え、駅の待合室は危険と判断し、幸い近くにホテルがあったので避難しました。服務員の親切な配慮により、ロビーで一夜を明かさせて貰い、無事に友人と再開することができました。友人と再会した時、夜中の一人行動は危険であり、なぜ連絡をしなかったと叱られました。さて帰りは友人の車で郊外まで案内してもらって、停留所もない道路脇で待っていると西安行きのバスがやってきて、無事に西安へ戻ることができました。
 このように海外の交通事情は、日本とはかなり異なります。日本の感覚で旅すると思わぬトラブルに巻き込まれます。中国は比較的に治安が良いとは言うものの、置き引きの被害に会ったことがあります。列車の切符は当日購入ができず事前に手配が必要、ホテルは外国人が泊まれるホテルに制限されるなど自由に旅行ができません。旅行会社へ予約しておくか、現地の情況を十分調べるかなどしてからお出掛け下さい。
(写真:平揺古城の街並み)


 

 2016年のレポートで哲学者孔子の偉業を取り上げました。今から2500年前の時代末期、中央政府の弱まりとともに地方の諸侯の覇権戦争が絶えなくなりました。の統一(BC221年)まで550年間も混乱が続き、この戦国時代には道徳・倫理観が衰退しました。この荒廃の時代に社会の秩序、処世術を説くべく思想家たちが現れ、儒教の祖である孔子もその一人でした。春秋時代、孔子(BC551~BC479年)は混乱する世の中をどうすれば平和にすることが出来るか思慮深く考えました。道徳観がすっかり衰退してしまっていることを嘆き、世の中を人間の内側から改革しようと、孔子は人間とはどうあるべきか解き明かし、それを纏めたものが孔子の人間観を示す论语(論語)です。孔子の教えは日本人には馴染み深く「四十にして惑わず五十にして天命を知る六十にして耳順」の他、「義を見てせざるは勇なきなり」、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」などはよく知られた格言です。孔子は人間を観察し鋭い名言も残しています。「巧言令色少なし仁」は「巧みな弁舌や取り繕った表情の人には、思いやりの心は殆どない」の意味で成程と思わせます。徳川家康の「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し急ぐべからず」という言葉も論語の「任重くして道遠し」を踏まえたものと言われています。
 近代において道徳・倫理が衰退した出来事としては、1966~1976年の10年間に亘る文化大革命が挙げられます。毛泽东[mao2ze2dong1]と4人組が率いた悪しき大衆運動は過去を否定し、この時期に伝統文化や文化財が破壊され、更には社会規範と行動様式、人々の道徳・倫理観も変わってしまいました。政府はこの運動の行き過ぎを鎮静化するため、活動の中心となっている学生を農村に送りこみ農作業に従事させました。この結果、今の70歳代後半の人は、まともに教育を受けさせて貰えなかった人が大勢います。社会的不公平と貧富の差が拡大し、中国人の価値観をも変えてしまうような甚大な被害をもたらしました。この結果、中国人の古き良き美徳も失われ、要領よく儲ける拝金主義や派閥意識、個人主義の出現で譲り合い精神が乏しくなり、モラルが低下したと今の中国人の嘆きを当地でよく耳にしました。衣食足りて礼節を知ると言うことでしょう。この文化大革命の後に登場したのが邓小平[deng4xiao3ping2]です。同氏は改革開放路線へ軌道修正し、中国を目ざましい発展へと導きました。
 さて孔子の頃の日本は弥生時代、中国の古文書「魏志倭人伝」で当時の日本を知ることができます。稲作が普及するに伴い、稲作に必要な土地や水を巡る争いや、米と言う財産を略奪から守るためにムラとムラで戦争が起こるようになりました。当時100余りの小国が戦いに明け暮れていたと記載されています。戦争とは「富を独占する集団心理」であり、人類の歴史は戦争の歴史であると言えます。戦争は人間の道徳観を破壊し、ウクライナ戦争で報道される酷い行為はその最たる例です。戦争を考えることは人間の本質とは何かを考えることになります。孔子は戦争とは最も愚かな行動として人間の本質を表していると述べました。孔子の教えでは己所不欲、勿施於人(己の欲せざるところは人に施すなかれ)と述べています。「自分にされて嫌なことは他人にもしない」まして侵略戦争などは孔子が拒絶するところです。孔子は武力でなく人間愛(仁)と社会規範(礼)に基づく理想社会を実現しようと考え、論語では戦争を否定しています。
 現在でも通用する孔子の名言を紹介しましょう。「過ちを改めざるをこれ過ちと言う」、「その人を知らざればその友を見よ」、「知らざるを知らずとなすこれ知るなり」、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」などです。今から何と2500年前に論語が産み出され、今でも通用することに驚きを禁じ得ません。古代人も現代人も人間としての大元は同じ、現代は文明が進んではいますが、人間の本質と言うのは成長していないものだと言えます。孔子の教えで温故而知新,可以为师矣(温故知新;故きを訪ねて新しきを知る)があります。人間の本質が変わらないからこそ、過去を学び、そこから新しい知識や道理を得て、同じ過ちをしないことが大切であると説きました。

(写真:中国小学五年生向け道徳教科書〈首都師範大学出版〉)

 

 

 “新年新春兔來報,金兔銀兔福兔到,兔年發財樂逍遙!“
 今年の春節は1月22日(日)です。中国には日本と同じような「おせち料理」があります。それは“八大碗”と言う伝統的なお祝い料理です。“清朝”時代に経済が栄え飲食市場も空前の発展を遂げ、春節や婚礼など慶事に食する伝統的な民間料理として“八大碗”が広く普及し、今日も継承されています。“河北省石家庄正定县”“八大碗”が特に有名で千年以上の歴史を持ち、河北省の無形文化財に指定されています。“八大碗”専門のレストランも数店営業しています。
 “八大碗”は4種の野菜料理(四菜)と4種の肉料理(四肉)を基本とします。四菜は大根・昆布・春雨・豆腐を主に他30種の材料を用います。四肉は”扣肘"(豚の肘の煮込み)、“酥肉"(豚肉のから揚げ)、“肉丸子"(肉団子)、“方肉"(豚の角煮)など豚肉を主とした肉料理です。地域によって使う材料も異なり、他に海老・魚・ジャガ芋・白菜を使う所もあります。天津市の“八大碗”は、豚肉・団子・鶏肉・魚・麺・塩海老・豆腐・豆腐卵・野菜などの材料を用いて作ります。肉は真っすぐに切る、野菜も厚さを均等に切るといった細かな決まりがあります。野菜の4皿は碗に入れて蒸すだけで良いですが、肉の4皿は、油に通したり、蒸したり、煮込んだりして作ります。その調理法には“扒"(ba1)・"焖"(men4)・"酱"(jiang4)・"烧"(kao3)・"炖"(dun4)・"炒"(chao3)・"蒸"(zheng1)・"熘"(liu1)など8種類です。日本料理は、生・煮る・とろ火・焼く・揚げる及び蒸すなど食材の風味を残して、どちらかと言うとあっさり仕上げて、食材の形と色の盛り付けに気を使います。中国料理は煮る・炒める・揚げる・蒸すなどして時間を掛けて作り、濃くておいしい旨味を出します。
 中国語で“八珍”と言う食用語があります。八種類の珍味を指し豪華な料理の意味です。日本でも琵琶湖の珍しい8つの魚介類を「琵琶湖八珍」呼んでいます。中国の“八珍”“上八珍・中八珍・下八珍”の3ランクに分かれて“八大碗”は“下八珍”に該当します。1920年代の北京市“上八珍”の食材を挙げると「ヘラ鹿の頭・燕の巣・ラクダのコブ・熊の掌・ヤマブシ茸・豹の子・鹿の筋・雪カエル」などですが、今では野生動物保護の観点から入手できない物があります。東北地方で歓迎の宴席に招かれた時に、黒いカエルの料理を出されて目が点になったことがあります。このカエルは冬の厳寒の頃、山間の谷の氷を割ってその下に隠れている“雪蛤”(雪カエル)を網で掬って捕まえたものです。このカエルの油は高級化粧品の原料ともなり、また貴重な食材として高価格で取引されています。因みに一般的な「フカヒレ、アワビ」は“中八珍”、「ナマコ、川筍」は“下八珍”に属します。
 近年、ナマコの密漁が頻繁に報道されています。日本ではナマコは酢の物にする程度でそれほど消費量が多くないですが、中国では高級食材として非常に高値で販売されています。北海道産の乾燥ナマコで高いものなら、何と100gが2,600元(49,400円;@19円/元)で売られており、和牛より遥かに高いです。ナマコの乾燥品を水で戻して煮込み、柔らかくモチモチした歯ごたえにします。ナマコの歴史は古くAC200年代には食されていたようです。今でも“海珍(干しなまこ)”、“鱼翅(フカヒレ)”、“燕窝(ツバメの巣)”、“干鲍(干しアワビ)”は高級食材として認知され、もし宴席に招待されてどれか一品でも出されたら、最高のおもてなしと考えて良いでしょう。ナマコの中国語は“海参”(hai3shen1)の効能が「朝鮮人参」に匹敵するとされ「海の朝鮮人参」“海参”と名付けられました。
 一説によると「ガン」に効果があると言われています。筆者も食したことがありますが、ナマコ自体に味はないのですが、色んな味を凝縮しトロミを付け旨味豊かなスープで煮込み、日本料理にはない深い味わいを出しています。 縁起の良い八を重ねるため、八角のテーブル毎に8人が座り、八つの丼に盛られた八種の料理、八種の食材と八種の調理法など八を重ねてお目出たさを強調します。
     (写真左:八大碗2023年テークアウト品〈保定電谷酒店販売〉、写真右:ナマコの料理)


 

 みなさん明けましておめでとうございます。

 初詣に参り今年も良い年でありますようにと祈り、今年の運勢をおみくじで占った方も多いと思います。ではクイズ! なぜ、神社におみくじがあるのでしょうか?
 皆さん四柱推命とか風水の占いを知っていますか。中国古代の3000年以上前の陰陽文化から生まれた占いです。陰陽文化とは世の中をの構成に置き換える思想です。これが現在の中国の人々の根底の考えを為す一つの哲学となっており、考え方・習慣・思想・医学・文化・占いなどあらゆる分野に影響を及ぼしている原理です。中国の人と話しをしていると殆どの人が、この“陰陽文化”に裏付けられた格言を持っていることに気が付きます。それは凄いです。
 中国の知人が言っていた一例を紹介しましょう。中医では頭脳は陽、足は陰、それに対して熱は陽、寒は陰、陰は陽を求めることから「頭寒足熱」、冬は靴下を履かずに足を冷やすことは健康に良くありませんと忠告されました。最近流行の足湯は腎に良いと言うことです。冷たい飲み物は陰、一般的に飲みません。暫く室内に置いて常温にすることにより、陽に近付く中庸(真ん中)となります。また財が大きければ息も熱くなる、服従させるには力でなく徳で接すれば尊敬する気持ちが生まれるとか教科書で習っていない色んな格言を口にします。こう言う事実を知らなければ中国の人の思考様式は理解ができません。
 2016年の当コラムで紹介した老子の学説で、老子は「祸兮福之所倚、福兮祸之所)」「禍の中には福が宿っており、福には禍が隠れている」と言いました。言い換えれば「禍(わざわい)と福は、表裏一体である」「対立したものは互いに入れ替わる」などバランスを取り合っていると言う陰陽思想です。例えば特急電車が悪天候のため、途中で立ち往生したとしましょう。その電車に乗る予定の人が運悪く渋滞に巻き込まれて、その電車に乗れませんでした。乗れなかったことは「禍」ですが、電車に閉じ込められなかったことは「福」です。このように「禍」「福」は、糾(あざな)える縄のように表裏一体、禍転じて福となったり、その逆もあります。禍と福はどちらか一方が続くのではなく交互にやって来ます。そして引いた時点の吉凶を知るのがおみくじです。凶だからと言って、落ち込む必要はありません。吉凶も糾(あざな)える縄の如し、凶は必ず吉に転じる幸先の良いスタートだからです。
  初詣に出雲大社へ出掛ける方もいらっしゃるかも分かりません。社殿に掛けられた大きなネジネジのしめ縄は誰でも知っていると思います。二本の大きな縄が螺旋(らせん)に巻かれた形は、陰と陽が離れることなく相互依存の陰陽思想を表し、陰陽のバランスを取って中庸(中正)を表現、つまりゼロサム状態(正と負が合わさってゼロ状態)、無病息災・家内安全の安らかな状態を表わしています。日本の身近な例で「厄」、「厄年」とか言うのが残っています。厄年とは、災いの起き易い年、人生で数回巡ってきます。節句行事のどんと焼き、七草がゆ、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、七五三…は、陰陽道で言う厄祓い(気の流れを変える)です。でも中国では殆ど無くなりました。
 ここまで話せば、もうお分かりですね。日本は言葉でも、神道、仏教、食べ物、果ては人生訓、神話でもルーツを辿るとやはり中国の陰陽文化を1300年前からずっと継承、好む好まざるに関わらず、年賀状で使用する十二支も含めて、今の私たちの生活に根付いています。日本でこの事実を把握している人はどれ位いるでしょうか。

 1300年前に築造された高松塚古墳やキトラ古墳の壁画も陰陽五行思想に基づいて描かれ、日本神話となる古事記も陰陽の影響を受け、遣唐使の派遣開始もこの時期、漢字も伝わり、飛鳥・奈良時代に様々な中国文化が伝来し日本に大きな改革をもたらしました。さて悠久の歴史を持つ中国、それを継承している日本、これから中国史を通して祖国日本の成り立ちを見ていきましょう。
 本年も宜しくお願いします。2024年 元旦。
         (写真:“福”は中国のお正月に使われる一般的な文字[歴代皇帝御筆の福])

 シベリアからクリスマス寒波が襲来、日本各地で最低気温を更新しています。日本が寒ければ、中国東北部の寒さはもっと厳しいです。12月22日の冬至以降、気温がぐんぐんと下がっています。最も寒い中国最北端の状況を、中国の報道からお届けしましょう。

 今冬は黒竜江省の殆どの地域で最低気温が-30℃まで下がりました。最北の漠河市阿木尔镇”では、最低気温が-48度まで下がり、去年の40年ぶりの最低気温である-48.4℃という記録に近付いています。市場の魚は、並べて置くだけで急速冷凍です。漠河市は、ロシアと国境を接する中国最北の町、最も気温が低い町の一つであり、一年の半分は冬です。厳しい寒さは、住民の生活に色々な問題を引き起こしています。-40℃以上では自分の息で眉毛が凍り付きます。ドアノブに素手で触れると凍り付いて離れなくなり、メガネの弦も肌に引っ付くので注意が必要です。屋外は非常に寒くて数十分も居れず、移動の時は車での移動が必須です。

 気温が-30℃以下になると空気中の水分が氷結して霧となる冰霧”(氷霧)が発生し、見通しが極端に悪くなります。「氷霧」は極寒の地域に見られる自然現象で、北海道で見られる「ダイヤモンドダスト」とは異なります。「ダイヤモンドダスト」は-10℃以下で発生し空気中の水分が昇華して氷の結晶が降下する現象ですが、「氷霧」は降下せずに空中に漂っています。「氷霧」は気温が-30℃以下で発生、太陽光を散乱させ輝いて見えます。氷霧は風がなく雲もない午前6〜7時に発生、氷霧が発生した日は視界が非常に悪くなり、10mも離れれば人影は見えません。車が氷霧の中ヘッドライトを点けてゆっくりと走行しています。視界はわずか10m、道路も凍り付いているのでゆっくりと走行しなければなりません。

 非常に空気が乾燥し湿度は20%です。 肌にひび割れが発生しますので、油性を持つ保湿効果の高いスキンケア製品が必須です。温暖な南部地域から来た中国人は良く鼻血を出します。夜寝る前に枕元に水を入れたコップを置くなどして乾燥を防ぎましょう。毛皮の帽子やマフラーはもちろんのこと雪による日光の反射が強いので、目の保護にサングラスを着用するようにと旅行会社から注意されます。 まだ漠河市より更に寒い村があります。北緯53°29、シベリアに近くその名も“北極村”と言い、2009年12月31日には最低気温-52.3℃を記録しました。気温が-40℃以下は日常茶飯事、0℃以下の日は一年の8カ月にも及び、7月の真夏でさえ18~20℃です。冬季は 屋外に10分も居れば、まつ毛は霜で真っ白になります。北極村も「氷霧」が発生することで有名です。早朝、屋根や軒下の雪が朝日に輝いて神秘的なピンク色を放ち本当に綺麗です。

 この寒い時期に北極村を訪ねる4日間の厳寒体験ツアーを紹介しましょう。

   ◇1日:ハルビン駅を漠河市に向け出発。夜行列車K7039(17:33発⇒翌07:25着)。

 ◇2日:漠河市から車で87km離れた北極村へ移動。途中の有名な景勝地“金之冠”“圣老 

     人之家”(サンタクロースの家)へ宿泊。

 ◇3日:朝食後、中国とロシアの国境を見学。対岸のロシア極東のイグナスイルオ村を訪問。

     国境警備隊第一哨戒所を見学。「北極沙州」を2.5km程度散歩。中国最北の郵便局で

     記念撮影。北極村で夕食後同村に宿泊。

 ◇4日:車で漠河市に戻る途中「北極星広場」や 国内唯一無二の原生林、大火災記念館を見

     学。列車でハルビン駅へ戻る。

  (写真左:砂漠河市の位置、写真右:今週 河北省保定市から届いた写真「雪が降ったよ!」)

 師走に入りお酒を飲む機会が増えて来ました。

中国ではお酒を飲む時、特に注意が必要なことがあります。宴会では自分が酒を飲むか飲まないかを、態度をはっきりしておかなければなりません。中日におけるお酒の乾杯の考え方においては、文化面で大きな違いがあります。今日は体調が良くないから、ビール1、2杯程度で済ませようと考えるのは失礼です。飲まないなら最初から一口も口にしないと、はっきりさせておくことがマナー上の基本です。中国の乾杯は人間関係上の重要な礼儀ですので、途中で飲めないと辞退するのは大変失礼に当たります。

 中国の酒はアルコール度数が52度の高い酒もあります。中国人はそれを何度も乾杯を重ねて飲み干し、それを見て酒が強いのだと感心します。しかし中国人も日本人も、遺伝子学的には欧米人に比べて酒に弱いとされています。実のところ中国人は日本人よりもっと酒に弱いのです。中国人は酔っ払った姿を見せるとだらしないと見做されるので、特に自己管理しています。飲み過ぎて気分が悪くなり、トイレで吐いてまた何事も無かったかのよう席に戻り、飲み続ける人さえいます。米国と中国の人達と何度か宴会しました。概して米国人は酒に相当強く度数の高い酒を飲んでも平気で想像を上回ります。米国の西部劇の場面で、ウイスキーをラッパ飲みするシーンを見たことがありますが、このように大変強いのです。

 ある報道機関の調査によるとお酒に弱い人の割合は、欧米人0%・韓国人30%・日本人44%・中国人52%だという数値が出ています。元々アジア人も欧米人のようにお酒が強かったのですが、7000年前に稲作が広まった時点で、アセトアルデヒドを分解する遺伝子が突然変異し、酒が弱くなるように進化したのだと言われています。古代に中国から多くの渡来人が日本へ移住し、日本人もお酒が弱い人が多くなりました。最近の報道では、若い人たちは酒を飲まなくなったと言われています。科学的にはアルコールを分解しない遺伝子が出現し、飲みたくても飲めない人が増えています。人間の体内の遺伝子は、対比する遺伝子の一つを優性として選択します。飲める遺伝子と飲めない遺伝子があれば、人類は飲めない遺伝子を選択しました。どうやら人は酒が飲めない方向へ進化しているようです。お酒飲みは変わった人種になりつつあります(泣)。

 その遺伝子が弱い地域と稲作の広まった地域が一致していることも判明しています。中国南部(上海以南)の人は稲作が盛んで、アセトアルデヒドを分解する酵素を持たず、お酒に弱い人が多いです。度数の高い“白酒”を好まず、“紹興酒“を好みます。このため渡来人が多い西日本の人はお酒に弱いです。また稲作が広まっていなかった中国の瀋陽市、長春市やハルピン市など東北地方の人は、度数の高い”白酒“を好み大変酒に強いです。遺伝子が突然変異した時期は、7000年前の稲作の普及した頃のようですが、なぜ変異したのか理由は分かっていません。筆者の勝手な想像ですが、米の収穫が増えるに伴い、「飲んべいをこれ以上増やすのは危険ダー!」と判定されたと想像します(泣)。

       (写真左:保定秀蘭飯店宴会場、写真右:宴会の海鮮料理)

 

 中国では大きく北京料理、四川料理、上海料理、広東料理の四大料理があります。

その中の四川料理は、唐辛子、山椒などの香辛料を多く用いて辛いです。中国で人気のある火鍋(huo3guo1)は四川省から生まれ、全国に広まりました。中国っ子は本当に火鍋が好きで一年中食べていますが、やはりこの冬の時期が美味しいです。下の写真は私が通っていた中国の全国チェーン店呷哺呷哺(xiabuxiabu)”の火鍋の写真です。この店の名前を「シャブシャブ」と発音しますが、どうやら日本から逆輸入された単語のようです。日本から逆輸入された単語には、 经济新闻 银行人气料理など他にも沢山あります。

 “呷哺呷哺の火鍋は、とても美味しく誰もが病み付きになります。鍋のスープを、鍋底(guo1di3)と言い、種類として”泰麻辣麻辣蘑菇(キノコ味)、西(トマト味)、(カレー味)など有り、中国っ子には”麻辣“と”蘑菇“が一般的に好まれます。日本人にとって”泰麻辣“はとても辛く食べたお腹をこわし、翌朝 トイレから出られなくなります。”鍋底”自体にも味が付いているのですが、色んな調味料や薬味の「付けダレ」に漬けて食べます。特製味噌、特製醤やネギ、パクチー、ニンニク、唐辛子などの薬味を適量取り、ピーナッツペーストと混ぜ合わせます。煮立ったスープに牛、羊肉、野菜などを入れ、ゆで上がったらこの特製タレに漬けて食べます。思わず真好吃!。肉の甘さとタレの深いコクが見事に調和してとても美味しいです。

 感心することは、使用される調味料が実に沢山あることです。調味料として酱油”、””,“缅酱豆豉桂花豆瓣芝麻牡蛎油鲜酱”,“XO辣油があります。薬味としては、“大蒜(ニンニク),“(ねぎ),“香菜(パクチー),“辣椒(とうがらし)があります。これらを火鍋の付けダレとしてブレンドして食べます。

 香辛料の一部も火鍋のスープの味付けに使用されています。代表的な香辛料には“花椒(さんしょう),“辣椒(タカの爪),“桂皮(シナモン),“八角(はっかく),“(みかんの皮),“甘草(カンゾウ)などがあります。その他として“(なつめ)、“党参(トウジン)、“枸杞(クコノミ)、“生姜(ショウガ)、“(長ねぎ)などの薬膳(漢方)を入れます。火鍋を言葉で敢えて表現するなら、全ての調味料、香辛料、薬味を組み合わせてハーモニーを醸し出し、コクのある奥深いうま味を出しています。火鍋が中国っ子を惹きつけて止まない所以です。(写真は呷哺呷哺で撮影の火鍋 左:色んな調味料、右:一人鍋<78元>)

 久々に歴史編に戻り中国古代のお話しをしましょう。まだ漢の時代(2千年前)を旅しており、日本から「遣唐使」の友人が来るまであと700年あります。この頃の日本は弥生時代、中国とは属国関係にあり、中国史書には日本の色んな国名・地名・人物名が出て来ます。代表的な名前に「倭奴国(わのなこく)」、「邪馬台国(やまたいこく)」、「卑弥呼(ひみこ)」などがあり、学校の歴史でも学んだと思います。でも実に変な漢字を使用しています。「」は背が低い部族、「邪馬台国」のは“よこしま”で不道徳の意味、「卑弥呼」のは“いやしい”身分で良くない意味を持っています。以前「匈奴(きょうど)」の意味は“死者を抱える奴ら”の意味であることを紹介しました。当時、日本は文字を持たなかったので、中国が付けた名前をストレートに受け入れましたが、なぜこんな変な名前を付けたのでしょう。

 この時代の中国は世界の中心と言う中華思想の考え方があり、古代中国の文明度は他国を圧倒していました。文明圏以外の国は後進国の匈奴と同じように、野蛮を示す漢字を当てられ下劣な存在と位置付けられ、他の漢字でも南蛮人とは南の野蛮な人たち、他に“東夷北狄など他民族を卑しめる語が使用されました。中世の京都の人でも、東国の武士を東夷(あずまえびす)と呼び野蛮人と見做しました。

 ところで日本では外来語をカタカナで表記しますが、中国では同音異義語を当て字に用います。例えば「ケンタッキー」は“肯德基(ken3deji1)、”ゴルフ“は(gao1er3fu1)などです。現代はピンイン読みを採用していますが、古代の中国は中古音と呼ばれる読み方でした。漢和大辞典(学研)には古代の中古音読みが併記されており、例えば卑弥呼を中古音読みするとpie3mie3ho、カタカナで読むとピーミーコー、即ちヒミコです。弥生時代の日本はまだ文字を持たず、中国で名付けた漢字「卑弥呼」をそのまま素直に受け入れました。なお史書によれば卑弥呼は呪い師と記されており、一般に古代の指導者は呪いで人々を導いたようです。この事からヒミコのミコは、巫女(みこ)の語源に繋がったと言う説もあります。ではヒはどんな意味が有ったのでしょうか。一説によると卑弥呼は古事記に出て来る天照大御神ではないかと考える学者がいます。年代的にも一致するらしく、ヒミコのヒは日となり太陽を表し、日巫女(ひみこ)つまり太陽に仕える巫女という説が有力です。

 一方を中古音読みすれば、ur3、カタカナ読みすると「ワ」、同じように奴は「ナ」です。倭奴国王は即ち「ワのナの国王」です。一方、初期の邪馬台の漢字は邪馬臺”となり、古代ではヤマトと読んでいました。このように古代日本で漢字を導入する以前、「やまと言葉」としてヒミコ、ヤマト、ワナ国と呼ばれていた発音を、倭・邪・卑などの変な漢字を当て字として用いました。

ワナ国は福岡地方にあった佐賀県吉野ケ里地域を指すようです。時を経て日本人が倭は良くない意味を持っていることを知り、当て字を漢字の「和」へ変更し、さらに「大」を加えました。この「大」は立派の意味を持つ修飾語です。例えば中国では“大保定市”(河北省保定市)とか小さな都市の名前に大を付けて権威付けする呼び方があります。このようにして「ヤマト」の漢字を「大きな和」と書く大和へ変更し、既に用いていた倭も同じく「ヤマト」と呼ぶようにしました。なぜ卑弥呼の文字も修正しなかったのでしょう。

 他国を低劣な存在として位置付けるため、このように品の悪い字を当て字として用いました。その他にも日本神話が誕生した背景など、弥生時代には良く分かっていないことがまだ沢山あります。文字を持たず記録が残っておらず、解明が進んでいません。卑弥呼に興味がある方は、『日本史最初の女王「卑弥呼」とは何者なのか?』のURLを訪問下さい。詳しく記載されています。

写真は筆者が3年間過ごした西安市、漢の長安城壁を復元した一部です。周りには漢時代の古墳も点在しますが、当時の建物は残っておらず今では麦畑となり、漢は遠い過去の出来事となりました。

(写真左:長安の都の変遷、写真右:地図中の黄矢印から西北地方を眺める)