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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever






AB&JC版の氏の著作は




『続 法隆寺は移築された』、


『現代を解く・長谷寺考』、


『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』、


『大倭歌聖 柿本人麿の真実』


の4冊ですが、初めの頃、『地震と建築と』をプリンターで若干部手作りしました。




各々について制作秘話みたいなものがありますが、自分の胸の中にしまってあります。




現在、ゲラ刷り中の改定新版『現代を解く・長谷寺考』の特徴について






今までの物は読みやすさを重視してB5版でしたが、運びやすさと本屋の常識に従いA5版にしました。




写真はカラーとし、地図も盛り込み、ガイドブック的利用も意識しています。




ハードカバーにして、次世代にも読み継がれることを期待しています。




ミスプリントの修正を念入りに行い、信頼感も増しています。




レイアウト、文字の配列、段落の設定も読者の視点で臨みました。


 




今まで、1冊でもAB&JC版をお求めいただいた方には御案内のダイレクトメールをお届けしようと思っていますが、まずはこのブログでアナウンスさせていただくことにしました。


 







200110月ですので初期のものです。




様々な愚問にも丁寧に答えていただきました。





評価の定まった大学者にはない真実を追求するオーラに圧倒されました。




本作りを受け持つ話はもう少し後のことです。








1970年代初め、新婚の友人夫妻(S.S.& Y.S.)を訪ねた折、彼らがメンバーである町田グリーンテニスクラブ とやらでプレーしたことがあります。




「モダン・テニス」という品のいい雑誌でそのクラブが紹介されていて、一度は訪れてみたいと思っていました。




その後クラブには色々あったようですが、関係者にはきっと懐かしく見ていただけると思い、一枚だけある写真をアップしますね。





多賀城 は「ほつまつたえ 」にも登場する縄文時代の日本の主要スポットです。




扱う時代はもっと下り、多賀城は考古学では大宰府と一緒に論じられることが多く、ともに都から離れた地域でありながら時を同じくして文明圏として栄えていた、ということになっております。




大宰府に関して倭国時代の驚くべき事実が次々と発見されていますので、多賀城についても同じような新事実が報告されてもいいはずです。





例えば多賀城廃寺の伽藍配置は観世音寺と同じです。




礎石を計測すれば倭国の物差し(ィ尺)が使われていたことが証明されると思います。





表の歴史では、大和朝廷の東北支配は724年に始まったとされ、その頃の東北は野蛮人の集合体であったというようなイメージが植え付けられています。





つまり、本当の歴史が全く教えられていないので、観光地としての魅力がいつまでたっても出てこないのです。





古代史に限らず、5年前の不自然な地震・津波の真相など、すべからく謎 というものは早く解明されるべきと考えます。




良い世の中を望むのなら・・・








かるた競技の冒頭に詠まれる和歌ですが、耳慣らしのウォーミング・アップ用と軽く考えている人も多いかと思いますが、この歌の背景には物凄いものがあります。




これは遥か倭国の昔、王仁という人がおほさゞきの尊に奉った歌で、この歌が契機となり418年から倭国王の呼称は大王から帝へと変更されたのです。




難波津は現在の福岡市であり、おほさゞきの尊は、倭国を乗っ取った大和朝廷が仁徳と呼んだ天皇です。




そんなわけで、百人一首が詠まれている舞台は、北部九州で辻褄が合います。




現在のものは倭国九州から地名も文学作品も移動させた後の、謂わば近畿版とでも言うべきものです。




学校で習う歴史とは全然違いますが、少しづつ理解出来るようになるでしょう。




以前、競技かるたがワールドワイドに発展する予感がする と言いましたが、すでにその動き は大分進んでいる ことを知りました。









主要8都市の魅力ランキングで名古屋は最下位 との事。




主要8都市に入れて貰えただけでも有難く思うべきでしょう。




最初からベスト8なんだから・・・・ 




予選免除と言ったところでしょうか。




今や、あの人はイメージダウンの元凶です。




はじめは標準語で選挙運動をやっていたのです。




きっと“えびふりゃー語”を使った成功体験が忘れられないのでしょう。




市の対策会議では市長の言語について発言はあったのかな? 




「俺はバイリンガルだ!」などと言わんでちょーでゃーよ。


 




長谷観音と如意輪観音





観光案内では、長谷寺の現在の観音様が作られたのは室町時代とありますが、これは全くの大嘘で、517年に作られたオリジナルです。




白村江の戦いの後、倭国九州王朝は唐に占領されるのですが、引き続き(唐の)ジャパンハンドラーズの指導のもと、大和朝廷は東北も含めて日本全体を乗っ取ります。




この一連の流れとして三瀬村に在った長谷寺は観音様とともに大和に移築されます。




ちなみに大宰府の観世音寺は移築されて法隆寺に化けています。




この様な後ろめたい秘密を抱えているため、本来なら世界に大いに誇って自慢すべき仏像の起源が今になっても公開出来ないのです。




近鉄長谷寺駅に特急が停車しないのも同根です(くどいようですが何度でも言います)。




長谷観音(517)と如意輪観音(539)は年代も近く、顔の作りもほとんど同じなのは、同じ工房で作られている証しです。




倭国石山寺には石仏もありましたが、それらは唐軍が持ち去り、残り物の中にあったのが、この如意輪観音というわけです。




大宰府が首都である普遍国家が丸ごと消滅したこの事実を米田氏は“東アジアの悲劇”と呼んだのです。




国家は消滅したのですが、阿弥陀如来とも称せられた倭国王イワイらの影響力は今も我々に及んでおり、世界から賞賛される行いの中に散見されます。




歴史は繰り返されると言いますが、再びこの国を消滅させたいと考えている輩の企みは今回の選挙 でさらに明らかとなりました。




今後、企みは失敗に終わり、純粋でない日本人がどんどん炙り出されることでしょう。



元祖石山寺はこんなに素晴らしい。現在は福岡市内の住宅地となっています。






33年に一度のご開扉 だそうです。




浄瑠璃寺の吉祥天女もそうなんですが、もったいぶって公開される秘仏は倭国時代の物が多いとの印象を持っています。




如意輪観音の顔は長谷観音とそっくりです。




長谷観音は517年に、如意輪観音は539年に作られています。




倭国の同じ工房で造られているとすれば、顔が似るのも当然でしょう。




その約100年後三十三間堂の大日如来が作られていますが、伝統は引き継がれたのでしょう、顔立ちは似ています。




倭国石山寺は福岡市内、西鉄大橋駅にほど近い三宅廃寺跡 にありました。




白村江の戦後、唐進駐軍は石山寺にある豪華仏像を持ち去り、残りが近畿石山寺に移されたのです。




その中の一つが如意輪観音なのでしょう。












地域によって左右の差はありますが、急ぐ人の為に片側を空けるやり方が定着した感があります。




「歩かないで下さい」 と張り紙があるものの全く効果はありません。




張り紙に従っていると、後ろから怒突かれることがあります。




この悪習を正すには3ヶ月間位、駅の職員が立ってアピールして乗客を躾けるしか方法はないのですが、人件費が足りないのでしょうか?




何でこうなったのか?」ですが、昔、新聞記事上、特派員報告(ヨーロッパ?)で、この「片側空け」が合理的で優れた方法であるというレポートを見たことを覚えています。




あの乱暴な作法は狩猟民族のものであって、日本的ではありません。





ネット時代だったらすぐディスカッションになり、あんな醜いマナーは広まらなかったと思います。




本当に新聞のミスリードは恐いですね。





7月3日、テレビ番組「がっちりマンデー」 で大卒の大工が沢山所属する建築会社が話題になっていました。




これは日本建築の伝統からすると当たり前のことで、パソコンのない時代に、地形の評価、設計、各業種の職人のまとめ役等、棟梁のやる仕事はスーパーエリートのものでした。




ハウスメーカーの進出で、基本原理が忘れられていたに過ぎません。




謎の歌人といわれる柿本人麿は倭国の人で、後に国民から阿弥陀如来とみなされる倭薈と共に三瀬村に長谷寺を創建した人です。




人麿は倭国の建築部門のトップであり、和歌の聖でもありました。




理系、文系両刀使いです。




大和長谷寺へ行ったら柿本人麿を思い浮かべてください。




「そんなバカな!」と反発する貴方、パンフレットにある御伽噺のような説明に満足できますか。




真のロマンはありますか。




米田説を元に書きました。






『現代を解く・長谷寺考』大幅改定・カラー版 A5版



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