昭和34年、大阪の造幣局で完成した金のしゃちほこが名古屋に運ばれ、天守閣に据え付けられる前に熱田神宮でお払いを受けているところです。
今回の天守閣木造化のドタバタも、大急ぎでは造らないという結論に落ち着き、まずはひと安心です。
6月24日の桂離宮の件ですが、情報は米田良三氏が作成した資料を基にしております。
氏は太宰府の住宅地図に「桂別業図」のコピーを貼り付けているのですが、それがぴったり地形にマッチしています。
「桂別業図」では建物群の配列は現在の桂離宮とほとんど同じなのですが、池のサイズ・形状が全く異なり、倭国時代の桂殿を表していると考えて間違いないと思われます。
京都桂離宮の建物の計測値を豪華写真集の中にある図面で見ると、1間は曲尺で6.5尺ということになりますが、ィ尺(倭国時代の物差し)では7尺に相当します。
畳のサイズという点で見ると6.5×3.25(曲尺)より7.0×3.5(倭尺)の方が素直な寸法です。
若干説得力に欠けるかもしれませんが、これら二つの点で移築説に軍配が上がると思います。
材木のC14を調べると確実でしょう。
校医をしている中学校で垣間見たことを書きます。
新1年生のアルファベットの練習帳を覗いたのですが、ブロックレター オンリー で筆記体は出てきません。
先生方に聞いてみると「今はそう」なんだそうです。
昭和30年代「ペンマンシップ」という練習帳で4月いっぱい時間をかけてマスターしたものです。
その後のことを考えると、この1ヶ月間は全然無駄ではありませんでした。
鳥飼玖美子ちゃんが新著 で、語彙を増やすには聞き流すだけではダメで、書いて覚えるといいと言っています。
書いて覚えるには筆記体が必須です。
今でも、いいところの子供たちはちゃんと筆記体を学んでいるはずです。
意図的に学ばせないとしたら、これは格差維持装置です。
基本5文型も公教育では止められているそうです。
教育理論抜きで小学校から英語を学ばせても、日本語の学習時間が減るだけで、奴らの思う壺です。
治りそうで治らない慢性疾患の治療体系と同様、身に付かない英語教育はよく似た利権構造なのでしょう。
アメリカがフィリピン人に行った英語教育はわざと上達させない方式であったのは有名で、日本が台湾で行った日本語教育とは対照的です。
美しい筆記体 は教養です。
因みに、母の時代も「ペンマンシップ」はありました。
今や有名全国紙よりも人気のある「中日新聞」・「東京新聞」ですが、夕刊の扱いについては悩みが多いようです。
見ての通り二つの紙面のトップ記事は同じです。
この様な状況が続くと、朝刊・夕刊の両方を購読している読者は損をしたような気分になり、まずは夕刊の購読を止めてしまいます。
社もその点は気にしているようで、最近では夕刊がスポーツ紙と間違えるほど大胆な紙面作りをしています。
しかし、そんなことよりも大切なことは、真実を根気よく報道し続けることでしょう。
例えば何故、最近の地震ではP波がないのか地震学者にインタビューして記事にするとか、
何故、投票箱が開票所に運ばれる途中なのに当確のニュースが出てしまうのか、
期日前投票の管理面での不正はないのか、不正に加担した場合、どのような処遇が待っているのか、
そして大事件の続報を紙面は小さくても定期的に末永くコンスタントにネチネチ報道し続けると購読者はどんどん増え続けると思います。
『源氏物語』が完全なフィクションとすれば、物語の中の桂殿の所在地が不明であっても納得ですし、
1615年、その桂殿に憧れた八条宮智仁親王が自分なりに所在地を定めて桂離宮を造ったと言う説もひとまず受け入れましょう。
『源氏物語』のメインの舞台が現在の京都であると万人が認めていますので、
もし桂殿のモデルが実在したとすれば年代的に見てその所在地が蒸発してしまうことはあり得ず、何らかの言い伝えが残っているはずです。
現実は、正確な嘗ての所在地は不明であるけれども、現在の桂離宮が物語の中の桂殿であると見做す人が大多数と思われます。
ガイドブックを開けば、法隆寺を始めとして長谷寺も謎の多い寺として紹介されていますが、桂離宮もそれらに劣らず謎だらけです。
『源氏物語』が執筆されたのは定説より350年古いというのが米田説であり、物語が現実とフィクションのミックスであることから桂殿のモデルは実在していました。
当時の京は大宰府のことであり、桂殿は逢坂の関に隣接していました。
現在の地図で示しますと南福岡自動車学校の南に水城跡があり、
その南のJR線と御笠川に挟まれたエリア(地図上に赤くスプレーした部分)が江戸時代の初めに移築されて現在京都に在る桂離宮の在った所なのです。
九州の地でボロボロになりながらも踏ん張っていた600年代の純日本建築が約1000年後に京都で再生されたのです。
わが国の古代史で“謎”といわれる部分は、ほとんどが九州王朝倭国の存在を隠しているために生じた事象と言えるでしょう。
つまり一般国民は舐められているのです。
今回の記事が全くチンプンカンプンだった方は少し間を空けて読み直して
みて下さい。
米田良三著『現代を解く・長谷寺考』の改定作業も大詰めです。
編集は趣味の延長ですので“マニアック版”的な出来上がりになりそうです。
今まで著者の原稿を崩さない原則でやってきましたが、読者目線に立つと改行のポイントが著者のそれとは微妙にズレていると気付きます。
そのあたりを少し考慮しました。
渡された文章そのものは変えることは出来ませんので尊重し、図表のサイズ調整、レイアウトが腕の見せ所となります。
校正は複数人でやるのが常識ですが、一人でやっているので見落としがあります。
もう5年近くこの原稿に関わっていますので、かなり精度は上がっていますが、稀とはいえ“文字化け”にはお手上げです。
校正のついでに勉強になると期待していたのですが、間違い探しに気をとられて内容を味わうには至りませんでした。
しかし、今回は著者の凄さに圧倒されております。
本書では『枕草子』の“初瀬VS清水”論争とか『大和物語』の“奈良の帝は誰”論争の答えがバッチリ分かります。
本書を読めば国文、国史、古建築の分野の研究者は胸のつかえが降りることでしょう。
ただし、定説を守る立場の人々はムカつくことでしょう。
米田氏の文章は酒に例えるなら辛口で、とっつきにくいのですが、3回以上読めば理解できるようになります。
噛めば噛むほど味の出るスルメのような感じです。
佐賀県三瀬村に嘗てあった倭国長谷寺の敷地内を初瀬川が蛇行して流れています(移築後の大和長谷寺では初瀬川と見立てられた小川が寺の敷地外を流れています)。
杉神社から三門に向かう時に渡る上久保橋という名のコンクリート製の橋ですが、当時の橋もこの位置だったのでしょう。
『枕草子』に「橋は」という章があるのですが「上久保橋」は出てきません。
ネットで検索したのですが、同名の橋は全国に複数あることから由緒ある名称なのでしょうが、三瀬村の上久保橋については作り変え案が出ているという記事だけです。
その場合、古式にのっとったデザインになれば夢のある話だと思うのですが、倭国長谷寺の存在がまだ認知されていない現状では田んぼの中の欄干付きの赤い橋では意味不明となり理解が得られないでしょう。
1951年発行・学研の「学習百科大事典」という全集のうち「日本のあゆみ」の一冊のみを小学3年生の時、父が買ってくれました。
この歴史本は分かりやすく書かれており、大学入試の際にも目を通すことがたびたびありました。
幕末維新のところで、征伐を受けた長州が、その後天下をとってしまうといういきさつがどうしても理解できなかったからです。
寅さんが「それを言っちゃおしまいよ」と言ったので、50を過ぎた頃、本当のことがやっと理解できたのでした。
さて、平等院の写真はこの本に唯一フルページで載っていたものですが、子供心に感動を覚えたものです。
米田氏によれば、この建物が福岡県の俗名院というところから移築されたというのです。
現在、そこにはマンションが建っております。
昔、阿弥陀如来が鎮座ましましたところに住んでおられる貴方、住み心地はいかがでしょうか?