【伊達天文記】第49回 晴宗、懸田俊宗への報復を始める | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱は、和睦という形で終息した。

そのため、稙宗派の主力であった懸田かけた俊宗も

居城の懸田城の破却以外はおとがめがなかった。

 

だが誰の目から見ても、晴宗派の勝利であることは明らかであった。

そのため稙宗派への処遇の甘さに、晴宗派の諸将は

納得がいかなかったが、それは晴宗自身も同じであった。

 

稙宗派に与した伊達家重臣の一人に冨塚とみつか仲綱がいた。

稙宗が定めた「塵芥集じんかいしゅう」の連署奉行人にも名を連ねていたが、

天分の乱において戦死した。

 

仲綱の嫡男・亀松はまだ幼かったため、乱のさなか、

家人に守られながら田村家へと逃れ、身を隠していた。

天分の乱が終息すると亀松は冨塚家を再興するため、

同じ稙宗派であった懸田俊宗を頼った。

 

懸田家の伊達家における家格は、亘理わたり家と並んで最高位である。

ところが、乱以前なら重視された懸田家当主の申し出は、

晴宗に無視されたのである。

 

驚いた懸田俊宗は、晴宗に取り次いでくれるよう何度も嘆願した。

伊達家としても最高位の家格をないがしろにするわけにもいかず、

ついに折れる形で晴宗は俊宗の嘆願書を取り上げたのである。

 

こうして俊宗の願い通り、冨塚家の再興は許された。

だが冨塚家の旧領は、晴宗派の諸将に分け与えられていたため、

冨塚亀松に返却されたのは、その一部のみであった。

 

さらにこの懸田俊宗の行動は、晴宗派の諸将を不快にさせた。

事実上の敗者である懸田家が、身分(家格)ではなお

自分らの上にいることに納得がいかなかったのである。

 

そこで晴宗派の諸将を中心とした宿老会議の場で、

「家格」の見直しが議題としてあがった。

 

「現在の“一族”という家格は、伊達家から分岐した家に与えられます。

 それは伊達家との血のつながりの濃さに関係なく

 分家の者は皆”一族”であり、それは変わることがありません。

 

 ですがこれでは、身分の上下に差をつけることができません。

 そこで血筋だけでなく、伊達家への忠節を考慮された新たな“家格”を

 設けてはいかがでしょうか。」

 

つまり、懸田俊宗が首座にある今の家格制度を見直したいと

暗に言っているのであった。それはこの会議に参加した諸将皆が

思っていたことだったので、新しい家格創設はすぐに可決された。

 

ここに新しい家格として『一家』が創設された。

この“一族”の上に位置づけられた『一家』には、

晴宗派として活躍した桑折こおり家、小梁川こやながわ家が列せられた。

そして当然のように、懸田家は一族の家格のままであった。

 

その決定事項を聞かされた懸田俊宗であったが、

どうすることもできず、今は忍従の時と自分に言い聞かせるのであった。

だが晴宗の懸田家への憎悪はさらに強まっていくのである。