【伊達天文記】第52回 ”天文の乱”の後始末 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱において稙宗、晴宗両陣営より乱発された

知行宛行あてがい状が乱後の晴宗政権を苦しめた。

 

晴宗政権は宛行状を根拠に所領を求める諸将を

納得させなけらばならないのである。

 

その一方で、多くが稙宗派だった置賜郡の

国人衆への配慮もしなければならなかった。

新たな伊達家拠点となる米沢は置賜郡にあるからである。

 

このような状況の中、天文22年、

晴宗は思い切った荒療治を行った。

これまで発行した知行宛行状をすべて無効としたのだ。

 

そのうえで改めて新たな知行宛行状を発行した。

これは後に「晴宗公采地下賜録かしろく」と呼ばれる。

以後、領地をめぐる争いはこの下賜録をもとに

伊達家が裁断するとしたのである。

 

この下賜録から晴宗政権の苦慮がわかる。

 

まず稙宗派が多くいた置賜郡の国人衆に対しては、

彼らの心をつかむために領土を削減することなく安堵した。

特筆すべきは、最後まで抵抗した鮎貝あゆかい盛宗への処遇である。

領土が安堵されたばかりか、晴宗派の功労者である中野盛宗の

所領が割譲され、鮎貝盛宗に与えられたのである。

 

これは中野と鮎貝の密約によるものだが、それを知る者は少なかったため、

「納得いかないことであるが、晴宗公のため忠節をつくしたとの意見があったため」と

下賜録の中にただし書きされるほどであった。

 

晴宗派だった諸将へは、当然所領を加増している。

天分の乱は和睦であるため、敗者はいない。

つまり没収した領土が少ないのである。

そこで晴宗は伊達家の公領(直轄領)より与えねばならなかった。

 

だが、それでも晴宗派の諸将に与える所領には足りなかった。

そこで晴宗は足りなかった分を家屋に課された棟役むねやく

田に課された段銭たんせんといった租税を免除することで対処した。

 

さすがにこれでは伊達家の財政が窮乏する。

そこでこの租税の免除に関しては、

「向後諸役免許の判相破り候う云々

 (この租税免除は永久的なものではなく、今後、

伊達家の判断により破棄されることがある・・・)

とただし書きしたのである。

 

ただし、例外となる家臣もいた。

それが桑折こおり景長、牧野久仲、そして中野宗時(他一名)である。

晴宗を支えたこの者たちにも限定付きの租税免除を与えられたが、

その免除が破棄された折には、直納を許されたのである。

 

本来、租税は惣成敗そうせいばいという伊達家より派遣された役人により徴収されるが、

直納は、それを介さずに直接伊達家に収めてもよいというもので、

いわば半独立権が与えられたのである。

 

中でも中野宗時に対する晴宗の信頼は厚い。

「(天分らの乱において)米沢へ拠点を移した際、そのほうの働きによって

 戦を終息させることができたばかりか、公領では全くもめ事が生じなかった。

 その忠義を報いて褒美を取らす。」

として伊達家の公領に匹敵する領土を与えられた。

 

それだけではない。

中野宗時の所領で商売をする商人に対しては、

伊達領内の関所で銭を払わなくてもよいという特権も与えられた。

 

さらに晴宗は、米沢の租税徴収権をも中野宗時に与えたのである。

これは米沢の城下町の運営を彼に任せたためであった。

 

そのうえで晴宗は、伊達領より北へ行く商人たちを

法でもって強制的に米沢へ数日間滞留させた。

それによって米沢への人・物の流れを増加させ、

もって町の発展を促したのである。

 

ここに”天分の乱”の後始末は終わった。

だが伊達家の公領は大きく削減され、租税徴収権も一部失ったことで、

稙宗が進めていた伊達家への権力集中は、大きく後退してしまった。

 

思わぬ収穫もあった。

それは「晴宗公采地下賜録」は発行することで、

国人衆は晴宗より所領が安堵・加増されたという新たな主従関係が結ばれ、

伊達家の戦国大名化が一歩進んだのである。