【伊達天文記】第53回 伊達晴宗、奥州探題職を任じられる。 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天文の乱の後に生じた所領問題を解決した晴宗は、

歴代伊達家当主が行っていた官位取得に動き出した。

 

その中心となったのが中野宗時と牧野宗仲(久仲から改名)である。

代々、伊達家と幕府の仲介役となっている商人の坂東屋富松を通じて

幕府上層部へ根回しを行ったのである。

 

そのかいあって天文24年3月、

伊達晴宗は将軍・足利義輝より左京大夫に任じられた。

加えて、晴宗の嫡子にも義輝公より”輝”の一字がいみな として与えられた。

これにより次代の当主・伊達輝宗が誕生した。

 

官位と諱の授与の献礼として、晴宗より黄金30両、

輝宗より20両、合計50両を将軍・義輝に進上した。

また尽力してくれた坂東屋富松にも礼金が贈られた。

 

左京大夫の官位を得たことによって伊達晴宗は、

奥州探題職を得る条件がそろったことになる。

 

そして永禄元年、

ついに伊達晴宗は将軍義輝より奥州探題職に任じられた。

稙宗が奥州”探題”職ならぬ奥州”守護”職に任じられてより

30年もの月日が流れていた。

 

晴宗としては父・稙宗が得られなかった探題職に就任したことで、

ようやく天分の乱にけりがついたように感じられた。

 

稙宗は”守護”職を任じられた際、それを不満として幕府には

全く返礼をしなかったが、晴宗は喜びが大きかったのか、

献礼として義輝公に大鷹・馬・黄金を進上したのであった。

 

だが源氏でない家に探題職を任じたことは先例がなかったため、

幕府は伊達家へ任命することに強い違和感を覚えた。

そのことが伊達家に対し、献礼とは別の形での返礼要求へとつながった。

 

幕府は晴宗に対し

「足下の弟である実元殿が所有している馬が駿馬であるとの風聞は

 都まで伝わっている。義輝公がその馬を所望しているゆえ、

 すぐに進上するように。」

と実元の所有する名馬を要求したのである。

 

この後の記録は残っていないものの、実元が兄・晴宗を困らせたとは

考えにくいので進んで献上したものと思われる。

 

念願の探題職を得た伊達家であったが、その権限を行使する力はなかった。

そして伊達家に代わって南奥州の覇権を握ろうとする者が現れた。

 

伊達家が探題職に任じられた翌年の永禄2年、

会津の蘆名あしな 盛氏が1万もの兵を率いて安積あさか 郡へ進軍した。

 

安積郡は蘆名家にとって仙道(福島県中通り地方)への玄関口である。

その支配をめぐって田村家とは対立し、それが理由で天分の乱では、

当初稙宗派だった盛氏が晴宗派に鞍替えした経緯がある。

 

天分の乱が勃発する前年に盛氏は蘆名家当主となったが、

国外では安積郡の領有をめぐって田村家と対立し、

国内では国人領主の叛乱と内憂外患の状態であった。

 

しかし盛氏は国内問題を優先とし、叛乱騒動を鎮圧し、

会津を蘆名家を当主とする支配体制へと変えていったのである。

その結果、動員力が1万となって現れたのであった。

 

この大兵力による安積郡進軍によって、

仙道の国人衆は戦わずして蘆名家の傘下に入ったのである。

 

さらに翌年の天文3年、自家だけでは対抗できないと考えた田村隆顕は、

常陸の佐竹義昭を誘い連合して蘆名家と石川郡松山で戦った。

この戦は勝敗が決することなく和睦したが、南奥州の覇権を握らんとする蘆名家と

奥州へ食指が動いた佐竹家の対立が生じた出来事でもあった。

 

奥州もまた戦国の風が吹き始めたのである。