【伊達天文記】第54回 稙宗の死 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

永禄年間、奥州もまた戦国時代を迎えている。

 

天分の乱では同じ稙宗派として戦った相馬、田村家が対立した。

その争いを止めるべく、稙宗が相馬家に説得を試みるが、

一時は剣を収めたものの結局、合戦に及んでしまったのである。

 

この両家の和睦をあっせんしたのが岩城家であった。

この交渉時において岩城親隆ちかたか の名が登場する。

親隆は伊達晴宗の長子であるが、岩城明徹(重隆)との

約束で岩城家の養嗣子になった人物である。

 

ところが相馬・田村の和睦が成立すると、

今度は岩城家と田村家との間の雲行きが怪しくなった。

ここで両家の和睦の仲介役となったのが伊達実元であった。

 

奥州の騒乱に、稙宗の血を引く者たちが調停に携わっていくのである。

 

この時期の伊達家は平穏であった。

天分の乱、そして晴宗の後継者である輝宗、

そして政宗の時代に比べてであるが・・・

 

晴宗も心に余裕が生じたのか、

永禄4年、京より飛鳥井あすかい 中納言雅教を米沢へ招いた。

 

この時、飛鳥井家に伝わる蹴鞠の技法が

晴宗に伝えられたことが記録として残っている。


晴宗が京文化にふれた頃、

奥州では珍しい下克上が生じた。

 

舞台は塩松(石橋)家である。

塩松家の当主尚義は、周防すおう (山口県)より流れてきた者を取り立てた。

名を大内義綱といい、周防の多々良たたら 家(大内家の氏族)の出である。

この義綱が、しだいに塩松家で勢力を広げるようになった。

 

これを不安視した塩松尚義は、義綱を除こうと企んだが、

逆に塩松家の家臣たちに頼むに足りぬ主と見放されてしまった。

そこで尚義は晴宗に泣きつき、伊達家の武力をもって討ち取ろうとした。

 

乱を望まぬ晴宗は、尚義と塩松家家臣らとの間を取りもとうとしたが、

肝心の尚義が拒絶したため、うまくいかなかった。

そしてついに尚義は家臣団によって田村家へ追放されたのである。

 

残った塩松領は、有力な塩松家臣らによって治められたが、

次第に力をつけていった大内義綱がすべてを支配したのである。

この義綱の後を継いだのが大内定綱であり、

後に独眼竜こと伊達政宗に大きく関わっていくのである。

 

そういった情勢の永禄8年、

かつての奥州覇者・伊達稙宗が亡くなった。

享年78歳。

 

そして稙宗が埋葬された丸森の松音しょうおん 寺の墓前で

一人の老臣が殉死した。

小梁川こやながわ 宗朝(日雙にっそう )である。

 

天分の乱の折には、幽閉された稙宗を救出すべく、

自ら西山城へ潜入した人物である。

天分の乱の後も稙宗の側近くに仕えていた日雙は、

冥途へも主君に付き従ったのであった。

 

そしてこの年、

晴宗は家督を輝宗に譲り、隠居したのである。

伊達家は新たな時代に突入していくのであった。