【伊達天文記】あとがき① | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

2か月前に書き上げた

「伊達天文記」のあとがきです。

 

伊達稙宗を調べるとまず驚くのが、

残された史料の少なさです。

これは稙宗の事績を記した「伊達家正統世継考」が、

稙宗没後100年が経った後に編纂されたためです。

 

そのため稙宗の人生を大まかに知ることはできても

詳細なことまではわからないことが多く、

どのように整合性をとっていくか考えさせられました。

 

例えば稙宗は40歳になる頃に葛西家を攻めますが、

この時の史料は会津の記録「塔寺八幡宮長帳とうでらはちまんぐうながちょう」に

葛西氏の居城“りんこう館”を陥落させるとあるだけで、

どのような経緯で起きたのかがさっぱりわかりません。

 

さらに困ったことに葛西家は後に

豊臣秀吉による奥州仕置によって改易されたため、

勝者(?)側の伊達家の記録しかなく、これが混乱に拍車をかけます。

 

稙宗による葛西家討伐の狙いを知るには、

葛西家に養子入りした稙宗の子・牛猿丸の存在が

重要と考えたのですが、この牛猿丸が存在が謎なのです。

 

伊達家の記録だと、牛猿丸は葛西家14代目当主晴胤はるたねとしてます。

ですが晴胤が牛猿丸だとすると、天分の乱の序盤で

稙宗方から晴宗方に鞍替えするのが不自然なのです。

(晴宗以外の稙宗の子は皆、最後まで稙宗派です。)

 

そこで葛西家の歴史を調べてみると、

牛猿丸は晴胤ではなく晴清はるきよであるとの説がありました。

この晴清は晴胤の姪を娶っていました。

 

葛西家の討伐を行ったと考えられる年は、

晴清の岳父にあたる葛西稙清たねきよが亡くなったあたりであることが

わかったことから、「伊達天文記」では葛西家次期当主をめぐって

稙宗が軍事介入したとして書きました。

 

「伊達天文記」はこのような推測の連続で成り立っています。

それはこの物語の主題でもあった「天分の乱」でも変わりません。

乱の最中に書かれたとされる稙宗・晴宗の文書を

頼りに父子の心理を推測しながら無理のないように

話を進めてまいりました。

 

投稿する前にチェックはしていますが、

それでも話に疑問がありましても、

そこは目をつぶっていただけるとありがたいです。

 

次回の投稿にはあとがき②として、「伊達天文記」を書く上で

気になった人物について説明したいと思います。

さらに、参考にした文献一覧も記載する予定です。