【伊達天文記】あとがき② | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

「伊達天文記」を書いている中で、

気になった人物2人について書きます。

1人は相馬顕胤あきたね、もう1人は懸田かけた俊宗です。

 

相馬顕胤という人物は”明快”という言葉がよく似合う人です。

 

彼は25歳の時に岩城家へ攻め込みます。

理由は、岩城家が伊達家の婚約を破棄したためです。

この婚約を仲立ちした顕胤は面子がつぶれたと感じ、

国力が拮抗する岩城家へ攻め入り快進撃します。

そしてついには岩城家が講和を求めますが、

この時、顕胤が出した条件は伊達家と婚約でした。

(もちろん領土関係もありましたが・・・)

 

見事な“筋を通し方”だと思います。

 

この戦いにおいて顕胤の武勇を伝える話があります。

 

「急に、顕胤の馬の左脇より紺糸縅の武者一騎が返して来て

おそいかかるや、八人力の顕胤は、すぐさま敵の妻手めて(右手)を通るあたり

錬鉄の軍配団扇で、右の力革ちからがわを切るほどに鐙を踏張って、

立ち上がりざまに、敵のかぶと天辺てんぺんを打ち砕いた・・・」

 

私ははじめ、彼が使ったという“鉄団扇”がイメージできませんでした。

 

八人力とあったことから連想したのは、

ゲーム「戦国無双」のあるキャラクターが使う「鉄扇」でした。

お笑いの「ハリセン」を思わせる大きさだから非常に

重く力が必要だろうと真面目に考えました。

 

ですが、そのような鉄扇をネット検索してもひっかかりません。

しばらく悩んで、”軍配”として使われた団扇なのだから、

通常の大きさだろうと考えなおすと、

そんな小さな鉄扇に敵を、それも兜ごとへこませる程の

打撃力があるものだろうかと疑問に思って”はっ”としました。

だから“八人力”という人間離れした力をもっていたと

表現したのかと合点がいきました。

 

そこでようやく私は相馬顕胤の人物像が持てました。

怪力無双で、”明快”な武将。

伊達稙宗が自慢の娘婿と愛するのもわかります。

 

そしてもう1人、私の気になる人物・懸田俊宗ですが、

彼もまた稙宗の娘婿です。

 

この俊宗に当てはまる言葉は“不遇”です。

敵方である晴宗から嫌われるのはわかりますが、

岳父である稙宗からも信頼されているように感じません。

 

天分の乱勃発時には、西山城より救出された稙宗を

迎え入れたのは懸田俊宗の拠る懸田城でした。

しかし稙宗は、乱中に拠点を懸田城から八丁目城、

そして相馬の小高城へと移しています。

 

稙宗は移った先の城主を厚遇しています。

 

八丁目城主・堀越能登には、

討ち取った敵方の牧野宗興の名跡を与えています。

小高城城主・相馬顕胤は稙宗自慢の娘婿です。

 

ところが、乱の初めから稙宗派として戦っている俊宗には

恩賞を与えるとといった厚遇はしていません。

なぜでしょうか?

 

「伊達正統世継考」には、懸田俊宗は乱の初めは稙宗公を奉じていたが、

のちに反覆をしてどちら側についたかはっきりしないと書かれています。

ここから推測ですが、稙宗は俊宗が裏で晴宗と通じているのではないかと

疑っていたのではないかと思うのです。

 

天文の乱の後、俊宗は晴宗の元に復帰していますが

居心地は悪かったようです。

 

晴宗は、懸田家の元家臣らに

懸田家所領を恩賞として分配しています。

また俊宗が稙宗派の諸将へのとりなしをお願いするも

晴宗は取り上げようともしませんでした。

 

明かに嫌がらせです。

そのうえ、居城・懸田城の破棄を命じられているのですから、

懸田俊宗も進退窮まったと感じたのでしょう。

ついに反旗を翻すに至ります。

 

懸田家は、伊達家の長い歴史を寄り添うように

共に生きてきた家であり、

伊達家の危機を救ったこともあります。

 

そのこともあって懸田家は、

伊達家内における家格は最高位でしたが、

俊宗の代に、伊達家のお家騒動(天分の乱)に巻き込まれ、

その結果、討伐されてしまうのです。哀れなことです。

 

その懸田家の後日談です。

懸田俊宗が敗死して20年余り後、

伊達家は晴宗の子・輝宗が当主となっていました。

 

すでに輝宗は、中野宗時・牧野久仲父子を謀反の廉で討伐し、

新たな家臣団を形成していました。

 

懸田俊宗が討伐された時、

俊宗の次男・晴親は相馬に出奔しました。

そこで、輝宗は晴親の息子である黒木中務宗元と

藤田四郎宗和の伊達家への帰参を赦しました。

両名は伊達家に家格最高位の“一家”として迎え入れられました。

 

輝宗の代になると、中野宗時の横暴が目立つようになった反動で、

かつての宗時の政敵だった懸田俊宗への同情がつのり、

このような結果になったものと思われます。

 

逆に中野宗時は、伊達家への帰参を願うが赦されず、

相馬・会津をさまよった挙句、ついには野垂れ死にしました。

少しは懸田俊宗の無念が晴れればと思います。

 

それでは、「伊達天文記」のあとがきもこのへんで。

 

次回、目次と参考文献を記載して「伊達天文記」は終わります。