【伊達天文記】第50回 追い詰められた懸田俊宗 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

天分の乱のさなかには、晴宗・稙宗両陣営から

諸将を味方に引き込むために領地宛がい状が乱発された。

そのため晴宗政権がまず取り組んだのは、

領土を保証する安堵状の整理・発行であった。

 

関ヶ原の戦いのように敗者の土地を没収し、

それを勝者に再配分できればよかったのだが、

天分の乱では和睦(引分け)であったため、それができなかった。

 

諸将を納得させるための策に悩む晴宗はしだいに、

この乱を起こした(と晴宗が思い込んでいる)懸田俊宗に対して

憎しみがつのっていくのであった。

 

そのことが懸田家に対する指図を厳しいものにした。

米沢がある置賜おきたま郡は、晴宗政権の中枢であるため、

その地の国人衆を手なずける必要があった。

その一つである北条荘は懸田家の飛び領地である。

 

晴宗はこの北条荘の国人衆に対し安堵状を発行した。

これは、懸田家臣から伊達家直臣にしたことと同じである。

本来そのような引き抜きは、懸田家のような

半独立的な国人衆に対してはしなかった。

 

だが晴宗は強行した。

懸田家の家臣に懸田領を保証しているだけで、

和睦条件にも違反しないという晴宗のこじつけであった。

 

北条荘の国人衆を伊達家に懐柔させると、

晴宗は次の狙いを懸田家の有力な家臣に定めた。

 

懸田家には中島伊勢義康という豪勇の士がいた。

この者に破却された懸田城址近辺を与え伊達家直臣としたのである。

さらに鹿股かのまた助三郎ら他の懸田家の家臣にも働きかけたのである。

 

家格を下げられ、家臣(人材)を引き抜かれ、土地も奪われていく。

こうなると懸田俊宗も動かざるを得ない。

息子である義宗・晴親はるちか兄弟を前にして俊宗は

「どうやら晴宗殿には我らを許す気などなかったようだな。」

と寂しく笑った。

 

義宗は伊達晴宗、そして稙宗の理不尽さに腹が立った。

懸田家は乱に巻き込まれたのである。

 

伊達家と数代にわたって支えてきた懸田家なればこそ

稙宗・晴宗父子の対立を回避するために動いた。

乱が始まれば、懸田城が晴宗方の居城・西山城に近いため主戦場となった。

乱の終盤、晴宗よりの和解に応じて稙宗との

仲立ちをしたのも懸田家の役目なればこそだ。

なのになぜ、稙宗から裏切者、晴宗から反逆者として

伊達父子からここまで憎まれなければならない。

 

「父上、懸田家の戦いをするまでです。」

義宗はいきなり結論から言った。

 

天文の乱において、懸田家中に敵へ内通する不心得者がいた時、

それを察した義宗は、速やかに兵を率いて晴宗方を撃退した。

義宗は即断即決の武将である。

 

その義宗は考えた。

晴宗は懸田家を滅ぼす、もしくは取り潰すつもりである。

すでに懸田家の戦力は大きく削がれてしまっている。

既に手遅れかもしれぬが、

領内にはまだ懸田家に心寄せる領民が残っており、

今なら挽回することも可能である、と。

 

ただ義宗は、そのような理由をいっさい述べなかった。

父はそのことをよくわかっている。

弟・晴親と自分を呼んだのは、

伊達家と戦う、その決意を伝えるためなのだと察した。

だからこそ、「戦う」と義宗は応えたのである。

 

俊宗は、息子・義宗の目を見た。

義宗もそらさず父・俊宗の目を見た。

2人の視線は自然、晴親の顔へと移った。

 

紅潮した晴親の顔が縦に振れた。

 

天分の乱が終息して4年たった天文21年9月、

懸田俊宗は伊達家に対し兵をあげた。