およそ6年にも及ぶ伊達家の内乱“天分の乱”は、
稙宗と晴宗の和解という形で終息した。
だが、伊達領より北に位置する大崎家の内紛は
まだ収まっていなかった。
大崎家の現当主・
元服前に小僧丸と呼ばれていた彼は、
稙宗の政略によって大崎家へ養子入りした。
時の大崎家当主・義直は家臣の叛乱に手を焼いていたが、
伊達家の援軍を得て、ようやく鎮圧することができた。
そのため大崎家は、「大崎家の家督を小僧丸に譲るように」との
稙宗の要望を断ることができなかったのである。
だからこそ当主の座に未練のある大崎義直は、
稙宗方の大崎義宣に対抗し、晴宗方として兵をあげたのである。
天文の乱は、稙宗方の事実上の敗北に終わった。
稙宗方の大崎義宣は追い詰められ、
ところが戦を有利に進めているはずの大崎義直は焦っていた。
それは、義宣が晴宗にとって同腹の弟でもあるため、
いつ伊達家が介入してくるのかわからなかったからである。
もし義宣を生かしておくと、後日、彼の存在をもって
伊達家が大崎家の家督に横やりを入れる恐れがあった。
少なくとも義直はそうなると考え、
なんとしても義宣の息の根を止めたいのである。
義直は、義宣が立てこもる要害への攻勢を強めた。
天分の乱が和睦して2年がたった天文19年5月、
要害を支えきれなくなった義宣はすぐ東の葛西領へと脱出した。
葛西家には義宣の兄にあたる
この頃にはすでに亡くなっていた。
だが晴清を支持していた親伊達派の葛西家臣がいたので、これを頼ったのである。
脱出に気づいた義直方はすぐに追跡したが、
葛西領へとまんまと逃げられてしまったのである。
義宣の生存が自分の地位を脅かすと思い込んでいる義直は、
狂気にも似た目で家臣へ義宣の殺害を命じるのであった。
やむなく大崎家臣達は暗殺団を組織し、
国境を越え葛西領内で潜伏している義宣を追った。
もちろん葛西家との戦争勃発の危険を覚悟してである。
ところが、葛西家としても義宣の存在は危険であった。
葛西家当主・
勢力が弱まった親伊達派家臣を一掃しつつあった。
ここで義宣を担ぐようなことでもあれば、
また親伊達派が息を吹き替えす恐れがあった。
そこで葛西家は、領内での大崎家臣団の行動を黙認したのである。
ついに葛西領・
大崎義宣は大崎家臣団にみつかり、討ち取られたのであった。
稙宗が築き上げた伊達家の南奥州支配は、
息子である大崎義宣の死をもって完全に潰えたのである。