努力するためには、まず自らが努力対象に対して忠誠を誓わなければ何事も始まりません。

そこで、まず自分はどうなのか?

そうです。ちょっと嫌なんですが、自分のエゴイズムをリセットしなければ始まりませんね。

最初はありがちな考えから自分に質(ただ)してみましょう。

自分と向き合う事で 純粋に努力を惜しまず、お互いに頑張りましょう!

私は何時もこの下記にあげた考えを まず念頭におき、心をリセットする事で あらゆる事に取り組んでいます。

関係がないように見える質問も、実は元をただせばそれが原因と言う事があります。

人それぞれなので、関係があると思われる事例を見つけたら 都度自分に問いただしてみて下さい。私は何時も誘惑にかられたときは下記を自分に質問しています。

逆に下記に身に覚えがなければ 既に貴方は大丈夫です。努力を惜しんでいません。自分に自信を持って頑張って下さい!

それでは始めます。
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1から自分を見つめ直して、最初から構築する事をためらっていませんか?

1から始めたり、なにか新しい事を始めようとした時、当たり前のように自動的に他人の成功例(うまい話し)をさがして歩いてはいませんか?

努力のまえに他人の評価を気にしていませんか?

1から努力出来ないのは  目標が努力対象そのものでは無く、目標自体が「他人からの評価そのもの」だからではありませんか?

幸福の指標が勝ち負けになってはいないか?

勝ち誇られて喜ぶ人はいません。

控え目に対応しても結局は勝ち誇っていると言うことは?

なぜ他人に勝ちたいのか?(喜ばれもしないのに)

人が困るところを見たいと言うことは?

他人が自分に土下座している状況を想定していませんか?

何でもいいから既成事実が欲しいと言うことは?

努力しないうちから能力をすでに勝ち取っている事にしたいと言うことは?

周囲を利害関係で追い詰めて、もしくは脅して、無理やり出来ている(わかっている・能力がある)事にしてはいませんか?

努力しなくても済む理由を探していませんか?

何を聞かれても 反対を言うために反対を言っていませんか?

自分を肯定するために他人を非難していませんか?

根性(回数を重ねること)が努力と思い込み、「難しい事はわからないから、とにかく根性を出せば何度かやっているうちに経験から知らず知らずのうちに理解している」という理屈で回数を重ねる事で満足して  肝心の基本原理や基本原則など「なぜそうなのか」というところから学習すると言う理解から逃げてはいませんか?

他人の成功したと思われる例をだして人を糾弾することをしていませんか?

その成功した他人は今でもそうなのでしょうか?また、これからもそうあり続けるのでしょうか?

その成功例は、本当に努力によって勝ち取ってきたものなのでしょうか?

その成功例の人物は、もともと財力のある者では?金で成功例を勝ち取ったのではないでしょうか?

もし、その成功例が努力で勝ち取ってきたものなのなら、その努力を裏付ける根拠はあるのでしょうか?

根拠を隠ぺいするための ただのハッタリでは?

成功したと言われる人物の発言の節々に他人の知らないであろうワードで誤魔化すことはしていないか?何も無いところから構築したのなら何も無い他人に分かりやすく説明出来るのではないでしょうか?

他人の成功例を出していた場合、それを言っているアナタはどうなのでしょうか?

他人に口出しする根拠はあるのでしょうか?
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このカテゴリーでは、純粋な努力を妨げる重要な問題について解き明かしていきます。

セリフの覚え方……

台詞の記憶に関して、いままでは個人のモラルに任されて来た。これは裏では根性論とも言える。

果たしてそうだろうか?

安易に「台詞の覚え方」と あなどってはならない。

「台詞を覚える」という行為は、芝居の根幹に関わる重要な最初の行為なので、長く講義する必要があります。

中でも まず陥りそうなのが暗記だ。

今までの記事でかなり触れて来たが、暗記の蔓延はかなり深刻な問題だ。

とにかく暗記という行為にはかなり問題が多い。
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芝居で暗記と言えば…
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1)「語呂合わせ」
・1.相手や周囲のセリフ・歌の歌詞など何かのワードに引っかけて発動するように語呂合わせを行う。
・2.効果音や音楽、照明などのきっかけを何かの語呂合わせにして暗記。

2)「丸暗記」
・1.相手のセリフを含め全てを覚えてしまう。
・2.自分の担当のセリフに関するシーンのみ丸ごと覚えてしまう。
・3自分のセリフを単純に順番で前後のセリフごと丸暗記。

3)ストーリーを自分なりに解釈し、自分なりの解釈のもと自己演出を考え、言い方・抑揚・高低、さらには相手の出かた言いかたまで決めつけたうえで完成した言い方を何度も繰り返し言う事で暗記する。

4)TVドラマ・アニメなどで似たシチュエーションの場面から気に入った言い方を、自分に割り当てられた対象のセリフに都度言い変え、出来上がったセリフを何度も繰り返し言う事で暗記する。

5)台本を写真のように残像を記憶し、演じる時点で、残像をプロンプターのように読みあげる。

6)その場しのぎで何となく適当に覚え、現場で原本とは やや違った形で自分なりに創作し、その場しのぎで創作セリフを言いやすいように適当に話す。

7)セリフを単純に高低のリズムで鼻歌の歌詞のように覚えてしまう。

などが代表的な覚え方であろうか。
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さて、以上のなにが問題なのか?

次回からこの問題について、具体的に解き明かしていこうと思う。

今回は、すこし演技について深い話に入ってみたい。

 

今ままでこのブログではあまり演技について深く触れてきませんでした。

なぜなら事前知識として、ありきたりの表面的な部分を排除しなければ演技について語ることは出来ないからです。

 

ブログではなくリアルな世界において、

これまでも私は「台本の読み込み」「芝居の計画立て」「演技の逆算」「決まった言い方」「動き等の計画的な段取り」で演技を行うことを否定して来た。また、「予定調和の場当たり的な即興」「情緒的なエチュード」「感傷的な演技」も否定して来た。


これらすべては脳に対して「予期しない入力」ではなく「意識的な入力」からの論理立てに相違ない。

大脳皮質の伝達の早さは、小さな哺乳類と大きな哺乳類は変わりがない。

つまり、「決まりきった行動」に関して言えば、生物として特に「人間的なものではない」のだ。

極論、コンピュータだって同じことを繰り返せるし、広く見れば太陽だって地球や月でも同じサイクルを行っているのだ。(ただし何千万年単位では無く)

だか、「すべては因果関係でおこり、進んでいる」のだ。

例えば「予期しない出来事」が起きる。

すると、因果関係から脳がその場で判断(再構築)し行動を起こす。

 

ところが、あとで脳が論理的錯覚を起こしてしまう。あの時は「とっさの事で偶然に行動を起こした」から「その場しのぎでたまたま行動した」わけで、「因果関係を理解して行動を起こしたわけではない」と理由づけをしてしまうのだ。

 

自発的脳活動の重要性が理解できず、予期しない出来事を恐れ、その場で判断しなければならないような要素を排除しようとする。

その結果

「計画・予定しなければいけない!」

「答えが分かっている事以外は手をつけてはならない!」

という「予定されたものへの安心感」を求めてしまう。

つまり「台本に対して合理的な配慮」が必須になり、その場の判断より「目標」と「計画」が必要になってしまったのだ。

この問題は、「認知・理解・思考・行動」に対しての理解が進んでいない為に起こっている。

「予期しない出来事」が起きる度に即、思考停止状態になってしまう場合、本人の情報不足が決定的に関係していると考えられる。

しかし、いくら情報量が多くても予期しない出来事が起こった場合に思考停止が起こるが、それは「個人の持つ基本情報の質」にも関係していることは明らかで、その良質の情報というのが「何か」にかかっているのだ。

情報と言うと 単なる「暗記」や「雑学」や「Q&Aのパターン」にとどまってしまいがちだが、

安易な「知る」と、それなりに努力が必要な「識る」には 大きな隔たりがあるのだ。

個々の意味と、それら事物すべての本質を理解せずして全体を理解する事は出来ない。

つまり、他人に分かりやすく説明出来る程の情報(知識)が必要なのである。

 

下手をすると解答例まで暗記しかねないので忠告しておくが、暗記したものを吐き出すのは脳が働いている位置が別だ。とっさに解答例から選別しているだけで自分の考えではない。常にあらゆる正解を丸暗記して、日常的に相手を糾弾するネタを作って歩いている事と似た性質をもっているので気をつけていただきたい。

「予期しない出来事」が起きた時に、予備知識から即 抽出し、自由意思により即座に行動(又は言動)に進み、素早く問題を解決に導くのだ。

 

ただの暗記だと「問題と答え」のパターンしかないので「予期しない」事は 始めから想定外なのだ。

では、その良質な情報量の閾値(しきいち)はどのくらい必要か?

我々は、つい他人の知らなそうな情報を知ると直ぐに自慢げに、又は間接的に匂わせて話してしまいがちだ。

だが、さらに興味を持ち、その先の深い知識まで得ようと努力し、その情報を知らない人物に対しても 自慢どころか共有し 分かち合おうとさえする境地まで達する必要がある。もうそこまで来れば、自慢や勝ち負けをするような気持ちは 初めから無かったかのようだ。

あとは「予期しない出来事」が起こった直後に、その時の状況に合わせて「前もって学習した情報」から脳が抽出し配線をつないで実行にうつせるわけだ。

 

予備知識が多ければ多いほど、台本に対して多角的な角度から見ることが出来る。

予備知識が少なければ少ないほど台本の解釈を決めつけやすい。

したがって予備知識の多い者にとっては、かえって読み込みが少ないほうが、その場での自由な判断がつきやすいのだ。

さらにそのような予備知識の多い者が複数人でセリフでの会話を行った場合、多角的な視野から自由に会話を行うことが可能なのだ。

簡単に言えば、いちいち台本を読み込まなくても その場で理解し 実行にうつせるし、また、段取りを組まなくても その場の状況に合わせて共演者同士でコンセンサスもとれ、不足の事態でも対処出来るわけである。

情報(パターンではなく)が多ければ多いほど、決断に迫られた時に より素早く、冷静な判断を下せる。逆に考えれば、情報が少なければ少ないほど、決断に迫られた時に より安易に その場しのぎになりやすい。

とにかく問題は、脳が安易に「セリフの言い方」「芝居の段取り」にアクセスしてしまうと、相手のセリフやその場の挙動、場の状況にアクセス出来ず、ましてや周囲とのコンセンサスなどもってのほかで、結局出演者も観客にとっても 非常に息苦しく堅苦しい芝居になってしまうと言うことです。

その場での判断が重要である事がお分かりいただけただろうか?

・脳は、自由意思による行為の際に時間密度の高い計算が行われている。

・決めたことを右から左に作業しているようでは自由意思には程遠い。

・それなりの知識が無いと自由な意思は難しい。

 

・知識によって脳がその場しのぎを抑制する。

 

・経験を理解するだけの知識も必要だ。

 

・経験は絶対数から言っても限界があるために知識で補う必要がある。

 

・海馬は効率的に記憶し断片から復元する。

・したがって識らないことを識ることは出来ない

・コンテキストを理解出来るだけの予備知識が必要だ。

・予備知識には常に根拠をもつこと。

・そして予備知識が閾値(しきいち)を越えた時、もはやコンテキストを必要としなくなる。


・浅い知識ばかりで深い知識が少なければ少ないほど 他人の考えが怖くなり、病気でも無いのに擬似的パラノイアに陥りやすく、他人との意志疎通や人間関係のバランスがとりにくい。

・この試みは「全てを識ることは出来ない」という後ろ向きなロジックに嵌りやすい。

 

・脳はかなりの程度まで、自分自身を体と環境から切り離すことが出来る。現実を拒否してしまえば いつまでも御都合主義の夢の中だ。

俳優達の、事前にあらかじめ決めて来た 思い思いのバラバラな計画的演技より、その場を楽しみ、互いの意思コンセンサスをとることの出来る調和のとれた芝居は、エネルギー効率もよく、出演者も観客も有意義な時間を得ることが出来るでしょう。


不完全さから来る多様性を、お互いに「これは必要だ」と求め合い

これによって起こるあらゆる出来事を補完し合う必要があるのです。

・脳は自発的意思の後(のち)に環境要因(または外的要因)によって修正される。


・脳は、理解(または注目)の対象を制御出来る。(たとえば人間は「カクテル・パーティー効果」の能力がある為、自発的理解や自発的学習時には自動選択出来るはずなのだ)

 

つまり、演じる俳優の「現時点でのポテンシャル」が関係しており、

どんなに誤魔化し、他人に良い評価を言わせ、大きく見せようとも、

結局やれることは一目瞭然。

既に決まっている(完成されている)わけである。

 

長々と話したが、「見せかけの実力者」においては、自分ではうまく誤魔化せたつもりでも対象の相手は、利害関係から「知らぬフリ」をしているだけなのだ。

 

したがって安易な解決方法は取らず、日々の努力は必ず必要です。

 

これを読んで「頭を常に動かし続ける(考え続ける)のは無理なのではないか?」と思われるかもしれない。

では、例えば「ネッカーの立方体」「シュレーダーの階段」「ペンローズの階段」などを見ていただきたい。

おそらく見始めた瞬間に頭が勝手に動いてしまうだろう。

脳というものは、意図的に考えることをやめない限り解釈せずにはいられない。

動かし続ける必要はなく、脳にさからわずに素直に従えば良いのだ!

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いやぁ難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

`…前回の続き。(文字数制限にひっかかってしまったので分けました)

 

前回「演技と思考①なぜ私は自分を必要としないのか(1)

 

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ここで問題になるA国の法律はどうなっているのだろうか?

 

まず、国民の生活に一番関係のある民法から分かりやすく説明しよう。民法は何か行動をおこす時に常につきまとう法律 言わば「人生ゲームのルール」的な法律なので、当然国民は絶対に義務教育中に基本程度はマスターしておかなければならないルールだ。

つまり、憲法は「国家権力から国民を守る」ルールで、民法は「国家権力が国民を縛(しば)る」ルールだからだ。国民は常に、国家権力が振る舞う民法の変更・改編(かいへん)・新規作成に監視の目を向けなければならない。さらに「国家権力や行政が 強制力を持って縛る民法の振る舞い」自体を縛る憲法は、国民の過半数の意見なく「国家権力が 自ら(みずから)改正する」事は当然あってはならない。

 

A国の民法は起源から胡散臭(うさんくさ)く興味深い

A国は100年以上も前に他国の法律を国名のみ変更して直訳。(その時の支配階級の都合の良い創作法律も当然差し込む)かなり古い言葉使いで おまけに旧文字で分かりにくく、一般人には解読出来ないからバレないので都合が良い。(これは宗教革命前のヨーロッパ社会に似ている)おまけに継ぎはぎ民法の為、法的に辻褄が合わなければ拡大解釈のオンパレード。あまりにもやり過ぎて麻痺したため、ひとつの法律に大量の枝番をつけ放題、今ではなんでもあり状態になってしまった!その為、こっちの民法にはあっちの民法で潰(つぶ)せる法律を作ってしまったので、結果的に数々の「対抗の法律」が存在する事に。こうなると どうにでも調整出来てしまう。裁判所の裁判にかかわる者はすべてA国の慣習上、周囲の空気感にたてつくと、いつの間にか村八分にされて最悪は退職。権力者は根回しで常に勝利の判定。

こうなると外交関係まで発展してしまう。

なぜなら貿易は国内法である その国の民法に外国は従わざるを得ないからだ。

A国はついに自国の御都合法を盾に他国から自国への商業進出をブロックし、さすがに国際問題になりそうになってA国民にバレそうになったら最終手段!民法ではなく憲法問題を大騒ぎにしてしまう。

そもそもA国憲法は、A国がはじめた70年程前の戦争で、結局A国が負けた時に戦勝国が作ったのだが、なぜか戦勝国にその時の戦勝国の戦いの手段が国際的に悪かったと言う「戦後の世界の空気感」を盾に(A国のお家芸です)過去を盾にして言わせないようにし、危なくなったらマスコミを利用し問題を騒ぎに出す事で撹乱。

実際、何故かその渦中のA国憲法も、相手国ではなくA国が自前で作った事になっている)

 

そしてその どさくさ紛れに民法変更を試みる。

その混乱の間に国民のコンセンサスも無しにコソコソ大事な民法(結局コピー民法だが民衆には憲法より重要なものです)を自前(じまえ)であるかのようにゴッソリ大量に、まるで始めから合法だったように変更。

その後、様子をうかがってバレないと確認し次第「大改革」とうたい、当たり前のように変更したと振る舞うのだ(中身は結局の所…)。

 

※A国憲法は本来、70年程前の戦争後に、戦勝国が それまでのファシズム政権であったA国政府と国会の行う行政・立法等(民法も含む)の国家権力から守る為に作られているのだが、その重要な説明(ファクター)を うまいこと義務教育から外しているために、憲法どころか民法すら説明をまともに受けていない為、民法が好き勝手にされているのだ。

その為「生きるためのマニュアルを知らないA国民」は問題視すら出来ないのだ。

「生きるためのマニュアル」さえ人生の始めに説明を受けていないで生活している国民の頭の中はどうなっているのか?(補足たが、A国の義務教育で 司法・立法関係は、相関図程度の説明をしているので説明責任は果たしたと政府から逃げられそうだが…)

 

ここまで来たらもう止まらない。A国の歴史にしても、学生には都合の良い歴史的な文献だけをチョイス!ファンタジーと思われる文献はタイトルのみ引用。中身は都合の良い部分を拡大解釈、教科書にも挿入。特に当たり前に絶対知っておかなければならない近代史に関しては都合の悪い事だらけなので最終学期に時間が無いと誤魔化して詳しく教えない。

世界の歴史に到っては、ダイジェストでつまんで教える。そして範囲が広すぎるように見せかけ大量に暗記させる事で考えを持たせないようにしてきた。

なぜなら世界的に資本主義かつ民主主義が主流で、実際はA国が全体主義で社会主義であることを、逆にして国民に学校教育から教えてしまっていた。どうやら勉強不足の国民性が、自分たちの都合の良い解釈をしているうちにそうなってしまったので計画的に行われているわけでは無さそうだ。結局この事が、A国政府に都合良く働き、外国人とA国民との接触の際にうまいこと撹乱させている。最近なんとなく気づき始めた政府は、この事実が国民にバレたら国民を自由に制御できなくなる事がわかって来た。そこでA国政府、資本主義や民主主義の理屈を曖昧にしてしまう必要が出てきたのだ。

とにかく今となっては「資本主義的民主主義」の存在がバレてはまずいというA国の事情があります。

 

実際にはいろいろとありますが、

民主主義には大きく

「資本主義的民主主義」と「社会主義的民主主義」と「共産主義的民主主義」が存在し、資本主義的民主主義は、リバティ(フリーダムではなく)とコンセンサスが基本であり、これは国民の意思が重視されてしまう為A国には都合が悪い。A国政府は、自分たち政府側が一方的にルールを作り、まるで同意が取れているような既成事実をでっち上げ、仕上げに同調圧力をかける事で、国民を制御しながらの運営を基本にしている為に社会主義・共産主義の基本である「決められた範囲の中での自由」が素晴らしいと言わざるを得ない。

まずリバティをフリーダムと混同させ、その上に「自由は勝手気まま」で悪い事とし、自由=恐怖と認識させ、自己責任を強調し、宗教(特に宗教的道徳)を厄介物扱いして切り離し、道徳をルール化する。

仕上げは民主主義を曖昧にして、実際は多様性のある民主主義が、まるで一つであるかのように見せかけておき、民主主義そのものが「国民とのコンセンサス」より「多数決が基本である」かのように見せかけてしまえと。

そうなればこっちのもので、国会のパワーゲームで決めてしまえばかなりの確率で通ってしまう。という事は、国会議員さえ身内有力者で固めて、社会的弱者が立候補出来ない程の参加費を科せば、簡単に弱者を議員にならせないことも出来る。街頭演説もデモも全て許可制にして警察や役人の監視のもとでやらせればやる気をなくす。別にいちいち国民に了解なんかとらなくても国会議員の多数決が通ればいいわけで、国会中継で大きなルールやスキャンダルだけ問題視したと見せかけて、細かいルールをいくら中継されていようとも、さらっとどんどんさりげなく通してしまえば、気づいた時はもう後の祭り。見えない鎖で社会的弱者は身動きが取れなくされ事実上は奴隷化してしまっているというわけだ。

税金もパワーゲームのぶん取り合戦。

金が足りなきゃ消費税でみんなから一律とれば公平でしょ(社会主義と言われそうになったから少し目的税っぽく見せかける)

更に足りなきゃ赤字国債出させた後、ほどぼりが冷めたら発行元に買い取らせる。

金を国民に給付したと見せかけてその金を銀行経由で借金させて市場に出させない。その給付も実際は口利きピンはね中抜きのオンパレードで、結局末端にはスズメの涙ていど。現金の量は増やさないので、国内的にはインフレになっていない気にさせる。

しかもA国は独自の通貨を持っていてA国通貨に変換しなければA国債を他国は買えないのだ。そのため、他国がレートをにらんでいる間にA国債を国内銀行に対してマイナス金利や公定歩合のたぐいで脅して買わせ、A国中央銀行が最終的に買い取る仕組みだ。その為他国の干渉を受けずに無尽蔵に借金が出来る仕組みだ(え?だめでしょ!反則です)。

A国政府は、マスメディアを制御する目的で都合の悪い記事を書く新聞社や記者を排除。そのためテレビ番組や新聞各社、代理店まで巻き込み忖度を強要する。表向きには全く反対に見えるが各社ほとんど同じ情報。事件事象が起きても見ている国民は何か目新しい情報がないかと番組・各紙をサーフィンしているが、その先なにも得られない。

 

もうなんでもやりたい放題だ。

 

こんなこともあるさ。まず史上希に見る大きな人災(一部にの地域の天災ではなく政治や経済の失策等何も物理的な被害が無かった場合)が起きたと想定しよう。

まず、通常の民間の損害保険や火災保険では、よほど何かの特約がない限り 補償の範囲ではない。そこでA国政府は、税金を全ての人々に均等に大量現金給付として分配するがのごとく社会主義をチラつかせるプロパガンダをして油断させ、本音はA国内でしか流通しないお金の為、大量現金給付(同時期に)は危険極まりない。現実的に同時期に全員にそんなことをしたら、少額なら市場に吸収されてあまり変わらないが、国民全員に平均給料並みに渡してしまったら、当然A国民全員が同時期に同じ金額を持つことになる。したがって渡した分が大きければ大きいほど通貨の価値が下がりはじめ、そのぶん物価が上がり、国民は苦しいのでもっと出せ!と市場圧力がかかり、無尽蔵に発行し始める。そうなれば最悪ジンバブエの悲劇が待ち構えている。したがってそんな危険はおかせない。紙幣を大量に発行するなどとA国政府の上層部は考えているはずはないのだ。もしそうなら、とっくに自分達の財産を別の国の通貨、もしくは金(きん)にかえてタックスヘイブンなどにプールしているハズなのだ。つまり紙幣の大量発行は、それだけ危険なのだ。もともと現金の量は決まっているしそう簡単には変えられない。どこの国のリーダーに、自分の財産を紙切れにしたがっている奴がいるだろうか?今までは一部の人間に区画整理や優遇やピンはね中抜きなどで大金を渡しても経済には大して影響はなかった。だか今回は違う。したがってA国政府は、現実的には現金を市場に回さず、国民にとってはタダで沢山もらったように見せかける作戦。つまり、出した分を借金と貯蓄を促すことによって相殺する方法をとった。実はA国は、長年様々な手を尽くして期間や種類の国債を発行しすぎてもうパンク寸前、なんとか持ちこたえてきたが、最近は他国を見習って国民総キャッシュレス化を宣伝して金の流れを制御しようとするなど、長年のらりくらりと借金のやりくりはお手の物だった。データ上は金を渡しても、現金を引き締め、「実際には現金を引き出させない」作戦だ。まず「国には借金が多く、支払う資金が無さそうだ」と噂を流して、結局一部の国民で、中央銀行が国債を買わせている銀行に対して借金を持っていそうな人間に渡るように調整して発表。そして家賃程度の金額を、現金ではなく「振り込み」をする形で家賃公共料金等はデータ上の移動に留めさせた。これは他人を信用しないA国民性の賜物で、貯金ばかりしている為に この「振り込み作戦」はうまくいった。そしてインフレになりそうになったら「老後に資金が必要」といった噂を流せば銀行に貯金をプールさせ使わせない事も出来るし、ついでに国債も稼げる。直接「個人向け国債」ってのもありかな。その後、当初の理屈とは全く反対の「多く税金を払った者が恩恵を受ける」ような同調圧力の噂を国民に流し、大幅に減税をする。そして住宅や高級マンション等の購入の際に大量の減税を促し、銀行の査定を緩くさせ、安定収入のありそうな国民に資産を買わせて銀行へ借金をさせる。その借金を銀行は債権化して商品化。それを資産家に売りさばき、これで銀行は、巷(ちまた)のハイエナ不動産関係に労力を使わせて、ファンドにちょちょっと見繕って資産家にチラツかせて買わせれば、自らは足を運ばずとも国債買い取り資金の出来上がりだ。まあ当然 政府さんには 資産家先生の税の優遇は忘れずにってね。一方A国政府は、国債資金を公共事業関係、政府系金融機関、その他政府に関係のある企業・団体に資金の大半がインフレ抑制が前提の使用法で消化される。

 

一見だれも得していないように見えるが、実際はこの問題、他人の財布をあてにした「お年玉の論理」「仕送りの論理」なのだ。

 

これには歴史的に慣習的な経緯がある。

 

A国政府は、政府が150年近く前に成立。ちょうどマルクス主義がまだ世界に知られ始めたころで、プロイセンもビスマルク体制。A国政府は、国民の意思も関係なしに旧政府から政権を奪取し、A国を民意であるかのように建国。

聞きかじりか又聞きか?エセ資本主義を国民の意思とは関係なしに強制的に仕掛けた為に、一応歴史上は帝国主義と言う事になっていますが、そこまで諸外国ほどの帝国主義政策は行っておらず、ほぼ社会主義、ファシズム的な国家となりました。(A国は、民衆が革命を起こした訳でもないので あとは「独裁政治」以外に選択肢がありませんでしたが独裁政治の選択はとりませんでした。なぜなら、前政権では末端だけでなく上層部まで お互いを監視しあう社会性になってしまったので、一人が何かを独断で決める事が難しくなっており、根回しと空気感と権力者同士の都合で なし崩しに決定する為にこうなりました)

当初おこなったビックリ政策は、なんの国民のコンセンサスもなしに、まるで近代国家が成立しているかのような見せかけのハリボテ国家を作り上げた。その目玉政策がこれだ。

旧政府は「囚人のジレンマ」的国家と言おうか、いま前政権を「封建制度」と言い張るのは国際的に厳しいが、国内的には 今でもそういう事になっており、お家芸と言おうか、当時も今と同じく国民をお互いに見張らせていた。通貨においては、紙幣は無く通貨のみ、レートなど存在していなかった為、諸外国とは国内で流通する金銀を使った硬貨や奴隷などの人身売買等で小さく貿易をしていた。海封策をしていると謳っているが怪しい。ついにその政府は自爆的につぶれたが、新政府はこれまで従って来た中で別の勢力が現れ、そちらの士族が結局権力をとる。

その昔から、都合が悪くなると突然権力があるかのように名ばかり利用して適当に祭り上げた王がいるのだが、その王族やその親族や一部の旧政府時代の有力者が、まだ大して反乱も小さいうちに これ以上前勢力や新興勢力に反乱をさせないように彼等をうまいこと取り込み、反乱分子を撹乱する必要があった。

そこで、誰が入れ知恵をしたのか、何か目的があって誰がA国に近づいたのか?普通の世界史ではこのまま転覆したはずのA国家が、この怪しげな政策で息を吹き返した。

 

これが現在の金銭的悪習の始まりである!

 

それは、前政権(今から約400年前に成立)下では、国内通貨というよりは特定の穀物を徴収し、それを「受け取る権利のある者」に身分に応じて差別的に分配していた。

生活の手段は、まず食事に関しては、新政権に代わるまでの1000年前後の間、肉食を禁じられていた為、特定の穀物のみ流通に使われ、一般庶民の食事は、ビタミン系は山菜や野草が主で、タンパク質は豆類と魚介類でとっていた。

農家は、主に収穫した「特定の穀物」は地主に献上し、生活の手段は 別に収穫した農産物などで自給自足。漁師は物々交換で成り立っていたと思われる。その他の不労所得者やホワイトカラーは「受け取る権利」又はその「現物(特定の穀物)」を相場にして金銭のかわりに流通させることで価値の交換が成り立っており、そのあいだに商人が入り、商人に使われる者もいた。実際、当時の通貨自体は国内でも どこまで必要とされ流通していたかどうか怪しいところがあったが、そんなことで諸外国と付き合っていけるわけもない為、政権交代後の新政府はこれまでとは違った 諸外国にも通用するような通貨・紙幣が必要だった。

たが、新紙幣などいきなり作ったところで諸外国では当時は金兌換(きんだかん)制であり、そんなものは紙切れ同然、一応貨幣で使っていた金は純度が非常に低く、同じく貨幣で使っていた銀や産出する少ない銀(ぎん)などでは国の資金など賄えるはずもなく、何か秘策が必要だった。そこで、価値かあるかの如く見せかけるため「特定の穀物を受け取る権利」のかわりに、怪しげな架空の国債を大量に発行して手切れ金を給付。権利を受け取る量の多い者は相当な額にのぼった。怖い話だが、急場凌ぎで資産家が存在する既成事実を造り上げたのである。

 

だが、まだ肝心の金(きん)が存在しないのだが…。

 

そして、その中で 多くの架空財産を集めた事になっている資産家に、銀行の権利を安易に与え、なんと自前で紙幣の製造権まで与えていた。カネだけではどうにもならないので諸外国向けに産業の発達している既成事実を無理矢理作る必要があった。現実は、産業自体が国民からの声で成り立っているのではない為、政府が後ろから脅して銀行が半ば強制的に「金(かね)があるから何かしろ!」とまあ命令されたような形。銀行主導で産業が始まったから、実行する側は 知識もないのに何かしなけれはならないのでインセンティブもあるはずはなく、やりたくもないのにやるわけだから諸外国から要人・技術者引っ張って来て、おだてて産業を興してもらったり、機械を作らず輸入し、バラしてコピー。挙げ句になんと!自分たちで考えて創造した技術ではないのに「改良したり、精巧にコピー出来るのが技術者」と まるで改良出来れば原理原則までわかってしまっているような口振りだ。

もともと下手(したて)に出ておいて、手順を覚えたら いつの間にか 他人に聞きかじりを御教授してくる国民性。本来とは違う意味で自画自賛が始まり、こうして国民同士 お互いに洗脳し合うのだった。もうこうなったら努力など無意味だ。とにかく諸外国に自慢・アピール出来そうな技術を持った外国人、またはそのつながりを持つ外国人に出所の不明なカネをつかませたり儲け話を持ちかけ うまいこと技術をもって来させる。あとは、技術を丸暗記してコピーしてちょっと変更して合法的に法改正するだけ。身内で技術的に深い理解をしようもんならバレて反発されるし、そんな学習好きな人物は危険分子だ、育たないうちに排除するしかない。そんなこんなで結局当時は有り金を人任せにする銀行だらけになったが、当然こんなバカな状態は長くは続かず、財閥系と一部の地方銀行が残った。

所が運良く?もしくは取引先の国がA国に投資した分を回収出来ない事に ついに感づいたのか?うまく乗せてA国に戦争を起こさせて 取引先国が兵器を供与し勝利。A国は戦勝国として金(きん)を調達。当時の怪しげな借金は うまいこと返済完了。何故か別の戦争でもロスチャイルド系の商会に莫大な資金を借りるが、どうやったのか証拠が薄いが これもうまいこと返済している。その後は財閥系が貿易の大手商社となったが、その手法は国際的に違法な独占の為、財閥自体が強国の力で強制的に解体されたのだが、ほとぼりがさめると民法をいつの間にか変更して戻してしまった。今では国際的にも独占は禁止のはずなので さすがに国民も気づく可能性もあるから外見上は隠して見えないが、A国の構造は相変わらずだ。したがって、国の成り立ちから言っても当初から常に他人の財布ばかり当てにしている為、A国政府内閣・閣僚・役人・政府に関わる団体などが、災害や公共事業など、常に何かしらネタを探し、使用目的を作り、仕方ないような理由をつけてはプロジェクトを立ち上げる。そして最初に大きな予算を立て、そこに群がる口利き、ピンハネ、中抜きが横行(抜かれた怪しいお金は、市場にあまり流れない)。足りなければ補正予算(多分折込済み)。収入より多い赤字国債は当たり前。批判が来れば「仕方がなかった」と泣き落とし。元々ロジックとして失敗しているA国の半強制的年金の運用は、不勉強のくせに調子に乗り、美味しい情報に踊らされて投資に失敗しておきながら年金が足りないと金額を上げて誤魔化す。たが、結局大してバレず 意外に国民は無反応で受け入れる。もう止まらない。A国政府は放蕩息子の如く目も覆うばかりの結構な金遣いだ。その反面 A国の国民は、その金遣いを逆に応援するが如く どんどんあまやかす人の良さ。国民は自分たちが追い詰められていることに気づいていないのか?事態は逼迫し、A国政府の膨大な借金の為にそこらじゅうで税金税金税金。結局末端の労働者には、日雇いも含め、最低賃金を少し上回る程度の給料。さらに常勤は最低の給料取得者は特に、福利厚生と称して収入の4分の1は払わされるが 期待されるボーナスの保証は無い。ところがA国政府は、まだ税金が取れそうだと、パート・アルバイト等の税金の免除を受けている非正規雇用からも福利厚生をとるために新たな策を見つける。それは、労働組合等の戦利功労に見せかけて、最低時給を強制的に引き上げる事で福利厚生の網にのせてしまえば一石二鳥!収入が増えたと見せかけてついでに税金(ほぼ強制的かつ良心の呵責を取引にした年金・医療・介護保険などは税金と何が違うのか?)をせしめようと言う寸法だ。さらに消費税(売上税?)が常に10分の1前後かかっているが、物の値段には既に道路税・ガソリン税が流通の間で輸送の度にかかっており、さらに輸入コストの関税が、国の産業を守ると称して法外にかかっている。国民は気付いていないが物価の実質はかなりインフレぎみだ。

その為、何か災害が起きる時の補助金の場合、現金給付も制限が厳しくなり、悪習の極みだ。

そもそもA国の場合、国民の所得の把握が曖昧と言う問題がある。しかもそれを明確にする事が現実的に不可能な問題が山積している。なぜなら、そもそもA政府の在り方に問題があるのだ。

実はこの政府。運営している政治家自体 奇妙なのだ。まず選挙だが、出馬するために 政府に最初に払う預り金と、慣習的に選挙も商売になってしまっている為、ユスリタカリの縛りが多すぎて実質 使わなければならない選挙資金が高額過ぎるのも問題だ。マスコミなどで一時的に話題に上がるような経済界に都合の悪い政策を出す新出の人物(A国のマスコミに登場するような人物は貧困層などあり得ない)などは、その筋の空気感が即買収。つまり「その筋の空気感」が、周囲を買収や取引で村八分扱いして、結局迎合しなければ選挙活動は出来ない為、富裕層以外は政治家に存在しない。

もうお気づきの読者もいるかと思うが、個人個人の収支をあまり明確にするとA国を運営する「その筋の人々」が絶対に困るのだ。

とにかく曖昧にしなければまずい。技術大国を謳いながら、実質 裏では不動産で成り立っている贋(にせ)社会の為に、不労所得者ばかりで、他国のような「不労所得は悪」的な風潮は、A国においては即 抹殺される運命にあるのだ。

 

この国はこれでいいのか?

金持ちのやりたい放題だぞ!

 

そりゃたまに政府筋が偽善的になる事もありますよ。

 

「ですが!」ですよ。

 

A国民の所得把握が、富裕層の不労所得者の強力な圧力の為に曖昧にされ、貧困層を助けよう「蜘蛛の糸」を差し出そうとすると、どうやっても「なぜか」自分達が可愛くなってしまって特定出来ないんです。

何か災害が起きて給付金を出そうと思っても、全国民を対象にして富裕層の辞退を期待するような政策しかできず、だからと言って「収支を完全にして納税を明らかにする」事は到底出来ない。だから、まあ諸外国に政策を合わせようと頑張っても、国民に番号をふる程度がせいぜい。だがその程度でも、しようものなら直ぐに個人情報保護と騒ぎたてる(実際には個人情報なんて、わかって困るのは ほとんどお金関係なので、困るのは富裕層なのだ。したがって貧困層は収支を明らかにしてもらった方が良いはず)だからこの手の事はマスコミを使ってすぐに火消しされる。

フゥ…もういくらでも調整されてしまう。

何か災害が起きれば即、政治家・官僚・役人たちに関係した中間業者が間(あいだ)で手間賃をむさぼり、結局給付金は然るべき貧困層へは、お小遣い程度に落ち着くか、逆に多く給付したように見えた場合。言ってしまえば、「隠れ不動産不労所得者」が、ある意味ひまつぶしで事業や政治を行っているために、借地代・家賃・土地転がし等、不動産関係の支払いを税金(給付)で補てんをし、結局支払いや借金返済の滞納を恐れて自分たちが焦げ付かないように「給付側に回収される」給付調整が行われているのだ。その為、実態は現金が市場に出回らず、振込の為に給付された側は、借金等の支払いに関しては帳簿上スライドされ、キャッシュレスなら更にインフレが起こりにくい。実際、国民の財産を勝手に借金まみれにしておいて よくもまあコマゴマと好き勝手放題巻き上げ放題、挙げ句の果てに「使い道はこっちに任せろ。こっちは借金だらけなんだから文句はなしだ!」なんて どんなロジックで成り立っているのか?まさか「まぁ結局は借金も資産のうちですよ」とでも言うつもりか?ところが国民は暴動が起こるどころか 例によって政府の方針に反してないかお互いに仲良く監視し合いながら従順に従っているようなんですね~♪

大体がこのA国存在、お金の在り方、成り立ちからして元々お金と言うか紙幣自体が紙切れに見えてしまうのは気のせいでしょうか?

(もし政府・自治体の成り立ちや在り方を知っていたら暴動が起きますよ)

なんと!これは多くの社会主義が失敗してしまった元凶である「分配側の論理が私欲に負けてしまう」原因だ。

このような税金ありきの社会は、ひと度大きな災害、社会不安が起きると、税金でまかなわれている、または関連事業、その下請け事業者以外は軒並みつぶれてしまう運命にある。結局過ぎてみれば そのようなウラのある企業ぐらいしか残らないし、そうでない企業が存在するとすれば、その優良企業の事業に対して、国からの補助金をあてにしたぶら下がり企業、すなわち「国からの仕送りを受けたゾンビ企業」が、不当な競争を仕掛け、優良企業は手痛い大きな打撃が襲うだろう。A国は諸外国にもこの手を使って各国に不当なダンピングを仕掛けているが、税金注入の証拠自体「A国捏造当たり前社会」の為に、調査しても決定的な証拠を見つけられず、たとえ相手国企業が訴訟を起こしてもA国は下手(したて)に出ながらふてぶてしくも「仕方なしに受け入れた」的な対応をして、相手国企業に不信をかっている。この問題は、諸外国に過去に移住したA国系人も関係していて、彼等はA国人をカモにしている。噂話やもうけ話等はもちろんのこと、訴訟や諸問題に各国のロビイストの買収や要人、政府系団体などあらゆる事にA国の税金を使わせている(彼等はネタを見つける(又は捏造する?)だけで稼げるのでかなり金持ちだ)。A国側も別に国際関係を学習するつもりはなく、彼等に依存していればうまくやれると利用している。結局A国政府どころか国民全体の意識としても、諸外国とコンセンサスをとって仲良く付き合うつもりは無いらしい。つまりA国は、国民も含め総体的に「国際関係はコンプライアンスを″表面上″守ってさえいれば″何をしても″よく、国内的にも 危なくなったら法改正、拡大解釈でなんとでもなる」と思い込んでいるようだ。

 

※ちなみに硬貨は、原材料価格とみなして除外しています。

 

ついにA国はパンドラの箱を開けてしまった!世界史や経済システムの成り立ちをしっかり勉強していたら絶対起こり得ない論理、道徳無視の社会システムをマスメディアを利用してA国民の洗脳を、なし崩しに完了してしまったのである。

 

この無知を、国民全体が お互いに馴れ合い、なし崩しに空気感を作り、知識の無さから 国民同士でお互いを恐れ、病気でも無いのに擬似的パラノイアに陥り、外国を非難前提に付き合っているのにも気付かず、努力と時間を他国から金で買いあさり、根回しで外濠を埋めて他国に縛りを作り文句を言わせない。まぁ他国にとっては誠に迷惑千万極まりないのである。

 

この話しが出たので更に言っておきたい。

ODA(政府開発援助)と言って、途上国に橋や学校など建造物を作る等の支援を先進国が行っているのだが、A国は かなり盛んにODAの支援を行っている。

これを、マスコミを通じて 現地の人の感謝の言葉を映したり、横断幕を現地の人が掲げている映像や、建造物に直接分かりやすく感謝の文が書かれている映像が報道されたりしてA国民は誇らしく思っている。

だが、実際はA国民には表向きには報道されないのだが、A国政府は無償とは違い、「借款」といって「タダであげるのは良くない」と、貸付の方針をとっている。何だか聞こえはいいが、実際は その建造物をA国政府は「技術の乏しい途上国」を利用し「当然ソチラではつくれませんよね」と言わんばかりに A国の商社を通じて「A国側の建設会社」に建てさせ、「労働者のほうは途上国側から雇っているから雇用を創出している」と見せかけて、実際は借款で貸したはずの金を 技術供与に見せ掛けてA国内会社を派遣して即座にODA(貸付金)を回収しておき、その後「借款(しゃっかん)」だけに 後でちゃっかり既に回収したODAをさらに「途上国に返させる」と言うビジネスを、A国内会社とA国政府ぐるみで行っている。

大抵のA国民は知らないが、これを「新植民地主義」と他国から揶揄されてきた。

技術はA国の会社の特許だから後々はメンテナンスと称して修繕等のアフターケアでさらに儲けられる寸法だ。何も知らない途上国民は、後で自分たちが払わされるのも知らずに感謝をA国マスコミに しかも「A国語」で言わされ、それを見たA国民は鼻高々だ。これを最近は新興国に上手い商売だと気付かれて真似されている。これに途上国の法律にまで技術援助なんかしていたら…もう やりたい放題ですね…。

 

さらにA国は、決定的かつA国民が逃れることの出来ない武器を持っている。これが、多くの社会主義国は失敗したがA国のみ成功してしまった理由なのだ!

 

それは何か。

 

実際は、そのA国ぐらいしか通用しない 昔から使われている言語なのだが、国民には「世界でもっとも美しい言語」と洗脳して使わせている。(そんなに良いならもっと広く使われてもよさそうだ)

ところがA国は、他言語を業務連絡程度の語学力しか使えないようにしてしまい、他国と心の意志疎通をさせないようにしているのだ。

そもそも自分の意見すら怪しいA国民。自分の意見を他国民に他言語で主張出来るか?問題ではあります。

その国民性も助け、せっかくの他国の情報もインターネットからの情報のファクターを上手く理解・活用出来ず、もっとも資本主義的民主主義国の方々は他国の自由を尊重しますので、当然なにも暴動すら起こらない他国の自由に対して何か言って来る筈もありません。

ついでに意志疎通がうまくいかないことをカモに、商売に利用しているA国系人も沢山いると思われる。

 

業務連絡程度の会話技術とは?

その方法は極めて単純かつ効果的で、文法と単語を、使用パターンや発音を含めて暗記させる方法をとっている。実際は、A国人の「音節の認識自体を完全に取り違えている」のが原因なのだが、それをまともに理解しようとしたら、A国語での会話の常識を、根本から考え直す事になってしまうのだ。何はともあれ、確かに他国の相手としては機械的な発音・機械的な文法・機械的なパターン文体ではありますが、とにかく聞かれている事は確かなので 当然答えはします。その為にA国民は、まるで会話が出来ているように錯覚してしまう。もしそこまで本当に流暢に他国語が話せるのなら、これだけインターネットも発達している世の中だ。外国人と会話が弾んで、もっと諸外国の情報がタイムリーに、そして正確に入って来ても良さそうなのだが…。ナゼこうなってしまったのか?

…………………………

このひとつの仮説(寓話?)がもしどこかの国で当たっていたら非常に厄介な事になります。なにも成り立っていないし、よくここまでやってこれたなと。あくまでも仮設ですので あまり本気にしないでくださいね!

まあA国の要人は開き直って「聞きかじりでないものなど今の進歩した世の中では存在しない」なんて言いそうですが…

 

「なぜ自分を信用出来ないのか」の答えが垣間見えましたか?

 

ごめんなさい。これはかなり反発の多い内容なのですが、演技を行う上では「社会に対する理解・見解」がないと難しい。もしも他人の顔色を伺って考えを変えている社会性の中にいらっしゃる方がいた場合は とても台本を読み取る力は養えないので、このような方のために寓話を交えて敢えて書かせていただきました。ですが、これを理解していただける方に1人でも知って共感してコンセンサスをとりたいと切に願って書きました。とにかく我が国は資本主義的民主主義の国の筈なので、このような意見もあるとご了承いただきたい。

 

なお、大変申し訳ございませんが、この記事に関するコメントは受け付けませんのであしからず。

 

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◆多数決について。

※民主主義に関しては、学校教育と違う面があるので、気になる方はしっかり世界の歴史・政治の歴史を、ネットではなく、文献で調べて下さい。日本の文献は曖昧なので、たくさん読まなけばなりません。

 

「多数決」は確かに民主主義ではありますが、社会主義や共産主義の中の民主主義の方が、当然のごとく多数決が基本で決められていきます。つまりこちら側の人々の方が「多数決」を前提にしたがり、話し合いが大してこじれてもいないのに「ここは民主的に多数決で行きましょう」と言い出しやすいのです。

ただ、多数決が前提で物事が決められている場合、黙ったまま何の発言もなしに最後まで参加して、そのまま多数決に参加が出来てしまう為、話し合いする前に根回しが横行しやすく、無発言可能なだけに、「考える必要すら無い」と考える者も現れ、金や権力に簡単に巻かれてしまうことも考えられます。多数決前提は、権力者の意見が通りやすく、主催者にとって都合が良いとも言えますね。

 

資本主義の中の民主主義とは、人間の自由は、好き勝手にすれば必ずトラブルが起きる。したがって、まず相手の自由を知る必要があるのだ。つまり他人の自由を許さないのは自由ではないのです。双方の自由を理解しあう必要があり、したがって お互いのコンセンサスが基本にないと自由には出来ない。自由を勝ち取る為に話し合う必要があるのです。つまり会議でもコンセンサスが取れればそれで締結終了。(後々のトラブルを避ける為に文書に残し 署名が必要)つまり意見を言わなかった(あるいは言えなかった)のに 話し合いが決まってしまってから騒いでも相手にされません。だから、日頃から学習して、どんなことも良く聞いて自分の意見がないと話しになりません。自由は甘くありません!努力が足りず、学習が必要な人ほど自分の意見が言えないので、弁護士や事前の根回し、買収など大金が必要。努力と時間をカネで買う以外の選択肢がなくなってしまいます(これは資本主義的民主主義の穴をついた汚いやり方と みなされかねないが、こちらの民主主義は自由を尊重するのでなにも言って来ません。ですが、そういう人はそのうち相手にしなくなるでしょう)。ですからこちらの社会は「社会的弱者」(努力ではどうにもならない人々。もしくは「持たざる人々」)の保護がいつでも話題に上がります。では、多数決はどこでするか?それは、逆に騒ぎになり収拾がつかず こじれて難しければ「多数決を行うためのコンセンサス」をとり、多数決を行う。つまり、最終的に「多数決もあり得る」のがこちらの民主主義です。黙っていたり様子ばかり見ていると知らないうちに決まってしまう為、自由に意見交換が出来る人同士である事が前提ですね。

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………

金(かね)で

「答え(人が発見し、つくった事物)」

「既存の技術」

「人の行動」(いいかえれば人・物・技術)

が買えても、

「能動的な基礎知識への探求」

「基礎知識から来る能動的な創造」

「能動的な人の心」

は買えない。

 

つまり、既(すで)にあるものは必ず識(し)る必要があるが、つまる所、使い古された結果に過ぎないのだ。

 

認識状態は定義しにくいが、

単純に「知っていればいい」だけだと

安易に暗記に走るものでは無い。

理解による認識が増える事で、

多角的な見解をもたらし

個人の自由意思の構成要素を強化する。

その個人々が共有して社会全体を構成する。

その全体が、

先立つ社会全体の能動的思考

すべての構成要素を強化する。

 

人(ホモ・サピエンス・サピエンス)は、能動的な知識と創造を共有してこそ真価を発揮する生物でありたいものだ。

………

なぜ我々は他人を信用せず卑下し、自分を隠蔽してまで自らを信用していないのか。
 
その根底には社会のパラダイムが関係しているのではないだろうか。
 
環境が性格を構成してしまっているのなら、個人の力ではどうにもならないとも考えられる。
 
私が考えているひとつの仮説(寓話?)をご紹介したい。もし、このような世界が身近にあれば、なかなか他人を信用したり、コンセンサスをとるのは難しいのではないでしょうか。
 
少し長いですが読んでみてください。
ちょっと火傷するかもしれませんが、
必ず人生に役に立つことでしょう。
 
さて、世の中は架空の国から始まります…。
 
…つまり、たとえば「A国」というソサエティ(society:社会を構成する存在)があるとします。
 
そのA国の代表の者たち自らが、学力(理解力?)が足りないことを隠蔽するために、他国の創造したものを自国の創造したもののように取り入れていた。(だか彼等は自分たちの行為を少しも模倣と見なしていない)
 だが、実際は取り入れたファクターを理解するほどの知識も無いために、ひとたび問題が起こる度に対応が出来ず、責任の擦(なすり)合いが横行し、危険水域に達した時、実際はA国そのものが成り立ってもいないのに潰し合いの方が先行し、ついにA国の存在自体が他国から疑われ始めた。
そこでさすがに気づき始めた代表者同士が、お互いに「我々の国は成り立っているじゃないか!(表面上は)」という威しにも似た自作自演の既成事実をつくりあげ、外から見たら、なんとなくファシズムにも似たプロパガンダを繰り返し、国民に対して全体主義的な圧力を掛ける。
ここまで来れば 流石に国民も気づきそうだ。
だが、なぜかA国民は、政治を学習して対抗しなかった。
それどころか国民は、自分たちの学力(理解力)が足りないのを棚上げにし、政府の話しを理解したふうを装い、当然の如く仲間同士で同調圧力を掛け合い、架空の既成事実を創り出し、それを暗黙の了解と化している。
つまり「お互い意図的に無知を利用し望んでいる」社会。それを全ての国民が互いに「知らないでいようとする」心のパラダイムとして気付かないほど奥底に秘めているのがこのA国というソサエティなのだ。
 
そんな馬鹿な国があるもんか!とお叱りを受けるかもしれません。まあ続きを聞いてください。
 
なんと!このA国社会は、暗記がすべてで、常に答案を外国からコピーし、答えとその意味をセットで横流しして暗記させ、答えられた者が学力があるとされている。もし脱落しそうになった者がいた場合は、その時の答案の答えだけをそれとなく暗記させて何度も同じテストを受けさせ、まるで最低学力だけはあるかのように見せ掛けている。さらに暗記のエキスパートには世界基準の学力テストの問題に常に高得点を出せるように答えを暗記させ、脱落しそうにな者にも最低限は世界基準の平均はあるかのように国民に暗記させているが、知識人や専門家と言われる人々は、どこかで暗記した事を場当たり的に吐き出すのみ、それは彼らの書物を読んでも明白だ。覚えた意味と答えとその場しのぎの調べた文章の抜き出し・改編の為、コピペの継ぎはぎでまとまりがないため散文的でペダンチック。挙げ句の果てにネタの根拠は参考文献の参考文献で、最後までたどれば外国人の権威者に投げてばかりおり、実験・検証も結局は外国人の権威者の実験・検証結果の確認のみかちょっと付け足してオリジナルっぽく見せかけるなどと根拠が薄く、信用出来ない。大衆小説の作家に至っては、最近知ったであろう知識を長々と引き伸ばして助長しているのみで 深く検証してみると根拠が薄いが、知っての通りA国民は、お互い無知前提主義の知ったかぶりの国民性が彼らを助け、持ち上げてしまう。一方、一般のほとんどの人々は、控え目であろうと無かろうと結局は「勝ち負け」か「自慢」に行き着く。所詮どちらも「虎の威を借る狐」だ。実際は詳しい事を聞かれたら答えられない。
権威は常に改良した技術が基本だ。
例えば、他国のコストがかかりすぎる為に計画を破棄した古い技術を、A国が政府ぐるみで税金を無尽蔵に使い、まるで新技術を開拓したがごとく拝借。もしくはインターネット等で海外の論文からアイデアを拝借した上、ちょっと変えて合法的にごまかす等、常に「後だしジャンケン」が基本。こちらも基礎的な事を突っ込んで聞かれたら誤魔化す技術にかけては天下一品だ。そもそも基礎から創り出したものでない事が全てであるから、問題が起こる度に自分の考えを疑い、常に正しい答え(世間に受け入れられそうな答え)を外部から必死で探してしまうような国民性になってしまった。そのために日常的に自分自身の考えが無く日和見主義(ひよりみしゅぎ)。権威や肩書のある人間の意見を聞くと、何故か「まるで自分の考えと同じだと錯覚してしまう」が突っ込まれるとあせって反射的に逆ギレする始末。そのため他人の言動ばかりが気になり、合否や善悪を常に探し、自ら判断したつもりになって既存の答えで審判し、糾弾(きゅうだん)する。勉強は面倒なので、つまんで調べて「聞きかじり」で他人を添削してしまう。それはもちろん自分の考えでは無いために直接的に言わず、周囲の人間を利用して間接的に糾弾し、上手くいったら自分が最初に考えたと吹聴する。
そもそも学問や技術の「認識」そのものが最初からズレていて、始めから何処かの国の誰かが発見した結果を、後追いで何処かからやり方を手にいれ、それを検証して再確認する事が学問とされ、それに少し手を加えたのが技術としているため、諸外国の研究者との温度差、ファクターの認識の違いが何もかもを難しくしている。先にも述べた通り「暗記」が基本なので、人のアゲアシをとったり、当たり前とされていることを聞かれたら単語や決まった答えは出せるのだ。つまり知っているが、わかっていないのだ。
そして、予期しない問題がひとたび持ち上がると、誰かが詳しい事を知っているんじゃないかと「もともと無い理解」を探して問題をたらい回しにし、首実検(くびじっけん)にかけ、誰かが吊し上げられ、挙げ句の果てに諸外国の研究者を頼り、苦し紛れに都合の良い答えを「餌」で釣り、泣き落として発言させるのだ。
 
政府は国民の鏡だ。
 
国民性は政府の方針と密接に絡んでいる。「政府は それなりに学力がある専門家がそろっているからそんな筈は無い」と思うかもしれないが、よく考えてほしい。国民性から来る政府の嫌な振る舞いは、国民自身も触れられたく無い部分なので 見たくないものは簡単に見逃してスルーしてしまうのだ。
 
したがって当の国民は、国民性から来る振る舞いには気づかないのだ。
 
そして挙句の果てに、他国を「民度が低い」的な表現を使って避難し、A国の、つまり自国の国民性を最初から高いことをベースにしてしまう事で自分たちの「不勉強や経験不足からくる問題」を最初から見ない、または無かったことにする習慣が身についてしまう。
 
※(ここで言うA国の国民性を指しているのは、不勉強や経験不足を互いに馴れ合い的に許可しあっている状態です。A国的ないやらしい言い方ではA国の民度とも言います。そもそもおかしな話ですが、民度という単語自体が、まるで人間という生き物にある一定の基準があるかのような錯覚を与えてしまう単語です(これは寓話なので仮に日本語にすると民度という単語です))
 
たとえばA国政府が、前からあった政策であるかのように「外国名単語」を使った重要な政策を発表してしまう事がよくあるのだが、「前からあった」なら、そう安易に名前を変えられるはずもないし、命に関わる政策であればなおさら問題の筈だ。そうなればそんな大事なことを「外国名の新語」を使うわけはなく、当然 今さら考えついた事はあからさまであり、普通に考えたら 今まで税金で政府は何をしていたのかと国民が糾弾しても良さそうなのに、なぜか暴動も起こらず、逆に外国のネーミングにありがたがって一緒になってその単語を連発しており、そのおかしなロジックに国民はなぜか全く気づかないのだ。
 
この国民性から来るA国政府の常套手段は、社会主義的な対応をとる場合は特にわかりやすい。
たとえば外国の資本主義国の行う「民主主義の象徴的な国」がありますね。
その国の政策。見方によっては社会主義的にも見える「一部の対応」を抜き出し、新聞マスコミ各社に一律に報道させることで もともと資本主義の考え方であるかのように国民を洗脳してしまうのだ。
 
普段はその象徴的な国をA国はマスコミを通じて「自由の悪い例」のような扱いをしている。
つまり自由な行動・振る舞いに支持が集まりそうなネタを常に監視し、発見次第メディアを利用し、ツブしてまわっているのだ。

資本主義で自由意思があれば貧富の差が出来、弱者がルール改編の動きとして暴動が起こるのは必然。そうやって歴史は前向きな人々の自由を勝ち取ってきたのだ。それをなぜかA国は、他国の暴動騒ぎが危険で、逆に自国は安全だと吹聴してまわっているのは「暴動を起こす奴はおかしいぞ!みんなで監視するんだ」と言う洗脳的な社会主義運動にもとれるのだが…
 
つまりA国は「自由意思を恐れている」のは明白だ。

先にも書いたが、自由意思を受け入れるには社会全体を構成する相当な知識量が必要なのだ。
 
マスコミを通じているのは、公式にやってしまうと理屈が御都合主義(ごつごうしゅぎ)なので たちうち出来ない。
実際のところ、資本主義で言う民主主義はコンセンサスが基本なので「一律(いちりつ)の対応を国民に強制する事は難しい」のだ。そこで、ほんの一部の資本主義の国の対応を 都合の良い部分だけ抜き出して置き、まるで強制的に社会主義的な対応を「資本主義国が民主主義でしている」ように見せてしまう。
そこでA国は、アノ国も強制的にやっているのだからとマスコミを通じて空気感を出して逃れられない状況を作り、政府は「我々A国は 強制的ではないが【お願いしている】」と強制的と同じ強制力を持つ全体主義圧力をかけるのだ。ファシズムと同じでは?ファシズムの進化形か…。 
 
ここで問題になるA国の法律はどうなっているのだろうか?
 
この先は次回…
 
…………………………
大変申し訳ございません!
この記事は微妙な問題に絡んでいますので都度変更しております。
そのため、文字数制限にひっかかってしまったので、数回に分けます。
 
これはかなり反発の多い内容なのですが、演技を行う上では「社会に対する理解・見解」がないと難しい。もしも他人の顔色を伺って考えを変えている社会性の中にいらっしゃる方がいた場合は とても台本を読み取る力は養えないので、このような方のために寓話を交えて敢えて書かせていただきました。ですが、これを理解していただける方に1人でも知って共感してコンセンサスをとりたいと切に願って書きました。とにかく我が国は資本主義的民主主義の国の筈なので、このような意見もあるとご了承いただきたい。
 
なお、大変申し訳ございませんが、この記事に関するコメントは受け付けませんのであしからず。
 

前回の補足の中にパラダイムと言う言葉を入れました。

このパラダイムについて、今回はお話ししようと思います。

この「パラダイム」
ある時代や体制などで支配的な ものの考え方や広く受け入れられている思考形態…

あるいはその時その時で常識として当たり前に疑いなくそこにいる人々が考えていること。

これは、我々の日常では理解しにくい…というよりは理解し難い…もしくは場合によっては″理解したくない″といったたぐいの表現ともいえましょう。

例えば、「Aさん」という人物かいるとします。
そして、「Bさん」というAさんより年齢も若く、さらに立場も低い人物がいるとします。
ある時Bさんが、Aさんの「立場上、あってはならない間違い」を指摘した場合、AさんはBさんにどのような処理をするか考えてみてください。※あくまでもそのようなことがあった場合です!

コンピュータ同士なら、プログラムした側のミスが無い限り、このような間違いを指摘する事態にはなりませんが、我々はそうはいきません。
これを仮に「立場・年齢差別」と言いましょうか、非生物的な能力を信じるあまり、ヒューマンエラーを許さない、甘やかさない!といった考え方が横行してしまった社会性もパラダイムといえましょう。

逆にこの「パラダイム」が当初は良い意味であったはずが、定着すると非常にやっかいなのです。
例えば、事態を変えられない、停滞している、馴れ合いがおきていると言った問題の大きな原因のひとつが実はこれだったりします。

パラダイムは全ての個人に存在し、前記の例に限らず、自分から見て あらゆる方面に放射して存在します。

このパラダイム、実際は当たり前すぎて「気付かない」からパラダイムなのです。

ある意味、ある一方面のパラダイムの「ファクター」に気づいて認めてしまっていたら、すでにパラダイムシフトしていて、それについては別のパラダイムに移行しているのかもしれません。

良いパラダイムに見えてもパターン化して慣習的になれば悪習に!

演技にはこの「パラダイム」が重要なポイントになりますのでご注意下さい。(※後々ご説明致します)

いやぁ今回も難しい言い回しだったたでしょうか?

難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから…。


◆補足

最初の例のような考え方は、いよいよ人類の知能をコンピュータが超えてしまうようにいわれる昨今では、前時代的な思考かもしれません。

もちろん中には脳や血管や細胞にミクロ・ナノレベルのロボットを挿入して、人間の持つ機能を制御し、非生物的能力を獲ようという野心的な研究も承知しております。そして、脳の解析によってアルツハイマー病や脳卒中、知覚障害などの神経学的な問題を解決する可能性もあります。ですが、それとヒューマンエラーを指摘し、非難するのとは別問題です。

非生物的な部分は最高の性能を発揮するかもしれませんが、生物的な部分がもつ柔軟性が、人間の持つ最大の武器といえないでしょうか?ヒューマンエラーを恥じるより、利点としていかす社会を目指していこうではありませんか。

民主主義についてのお話しの前に、まだ足りない基本情報がありました。

今回は、以前書いたファクターに続いて大切な言葉に「エレメント(element:要素)」があります。

この表現は、語源をたどっても日本の文化には馴染まない言葉のため、ちょっと考えるだけで、人によっては混乱をまねく用語のひとつではあります。

そのエレメントは、重要でありながら我々の日常では特に必要とされる場面がありません。

例えば、ルーチンワーク的(routine work:きまりきった)な思考や行動を、個人は習慣的に、集団では慣習的に、日常をパターン化する方法を推奨し、見つけ出そうとしている環境下においては、かなり意識的に気付こうとしなければエレメントを発見できません。つまりエレメントはあくまでも要素であり、パターン(pattern:形、類型)では無い。

では、そのエレメントを発見するにはどうしたらよいのでしょうか?

我々の日常生活では、エレメントではなく、セグメント(segment:全体を分割したもののまとまり)を発見しただけで、さらに掘り下げることをせず「これがエレメント(要素)ではないか!」と取り違える。(これが上記の混乱をまねくという意味です)その結果、本質の理解をあやまってしまうのです。

ルーチンワーク的な思考は、命令系統の情報を信じやすい性質をもつ為、与えられた情報の範囲内で答えを出そうとして右往左往した結果「セグメント要素説またはリリース自体が要素説」的な思考を誘発させてしまうのです。

これは世間でリリース(発表)されている情報に、ある一定のバイアス(bias:偏見や決めつけ、思い込み等)がかかっているためです。

そこで「バイアス悪玉説」を唱えるのは時期尚早で、バイアス要素自体が、「そうであってほしい」とか、「そういう考えで今までやって来ているから変えるわけにはいかない」とか、「別の方向だと都合が悪いなぁ」等の私的な思い込みが関係しているため、そのご都合主義の方々の思念が、なし崩し的に込められてリリース(release:発表※上記のsegment注釈の全体と同じ意味と捉えてください)につながっているのです。

マスコミや新聞、政府や自治体の情報に頼りっきりの場合、肩書きやニュースソースを簡単に信頼してしまい、リリース自体を神のように信じ込んでしまえば、もう根拠や証拠を発見することは困難です。

例えば、判断にバイアスがかからないようにしようと大集団でルールを決めようとすると、決定権を持つ一部の権力者集団の都合によって、ルール自体が常に彼らの都合の良い一定の答え(リリース)を導き出そうと誘発するのです。

もちろん、様々な形で発表されている統計データもバイアスがかかったリリースである可能性が高いと容易に想像にできるし、個人々の発言の中にも様々なバイアスがあります。

例えば、ある人物の「世間的に悪いと思われる面」だけを取り出してしまうと悪い人物になってしまうし、自分から「気弱な部分」だけを取り出して吹聴してまわれば弱い人物になり、上手くいけば、助けてもらいやすい人物に仕立てあげることも可能なわけです。逆に本人が「非情な人間である」と「自分が登場する前」に間接的に宣伝すれば、無口を通すだけで冷血な人物にもなれるわけです。つまり、嘘と思い込みや偏見は、元を正せば紙一重的な側面もあります。

さらに不謹慎と思われるかもしれませんが、「生き物を殺してはならない」というバイアスも、様々な側面が考えられるでしょう。(この答えは、筆者としては感傷的な解決法では難しく、知識のみが 解決出来る唯一無二の手段と思っております)

以上のことは最低限踏まえてエレメントを発見しなければなりません。ファクターもやはり「バイアスの罠」に気づけないと理解出来ません。

また、自分自身の理解にも、自分自身にバイアスの罠を仕掛けているかもしれません。

例えば、ある情報を調べようとした場合、自分の都合の良い情報以外は調べない、あるいは見なかった事にする等、思い当たるフシはないでしょうか?

また、証拠隠滅や隠ぺい、臭いものにはフタをする慣習も似た要素を持っていますね。

気づかれたかもしれませんが、台本を読もうとテレビのニュースを視聴しようと、インターネットで仕入れた情報であろうと、リリースしたものは全てバイアスが掛かっているものと理解する必要があります。

先ず、物事のなん足るかを理解するためには、聞き手である自分自身の頭の中の基本情報が、リリースされた情報か、セグメントのみか、エレメントなのかを自分自身の力で判断を下せる必要があります。

リリースのみの情報に頼りっきりの場合、バイアスが掛かっているものに洗脳されている可能性は大いにあります。セグメントも、その寄せ集め的な性質上、寄せ集め側のバイアスは当然掛かっているものと考えて良いでしょう。

では結局エレメントやファクターは無いんじゃないかと考えがちですが、そんな事はありません。これまで紀元前のプラトンやアリストテレス等々~現在の原子やクォークに至るまで、科学、哲学、歴史等に携わって来た沢山の人々が、エレメントやファクターを見つけ出そうと様々な試みをしています。そのなるべく細分化された基本情報を可能な限り多くを知ることでエレメントやファクターを自分自身の努力によって見つけ出すのです。

それだけにエレメントもファクターも一歩間違うと危険で、ニトログリセリンレベルで慎重に扱う必要があります。

そこで今回のテーマである「エレメント」とは一体何か?

これが非常に説明が厄介で、理解自体が哲学的で、直接的な文章では難しく、こちらが間接的にヒントを伝えることによって脳に刺激を与え、それを聞いた各個人が能動的な自助努力によって「なるほど、そういうことだったのか!」と理解し、体感してもらうしか方法がありません。結局の所、バイアスを取り除かない限り、要素どころか存在の本質を見極める事は不可能です。したがって、自身で細かなバイアスを見抜く力が必要であり「自分自身の嘘偽りのない真実」を、まず自分自身のバイアスから解き放ち、さらに「世界でも極めて信憑性が高いと見られる歴史的事実」を脳に積み重ねる事が、物事の本質の理解につながると言うしかないのです。まずは、バイアスに気づけるために正確な知識をつける事が必要です。

根拠の無いみずからの言動、みずからの希望的観測の余地を許してしまうと、たちまち「バイアスの罠」にハマってしまい、「バイアスの悪魔に取り憑かれた者」は忽ちファンタジーの夢の中に…気付いた頃には、もう後戻りは出来ない…なんてね。

いやぁ今回は難しい言い回しだったたでしょうか?

難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

次回こそ民主主義について書こうと思いますが、まだ付け足す要素があったらリリースしますね🖤

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★追記
これは架空の話し……
正のバイアス、負のバイアス。例えば「我が国はとても美しい国で、経済水準は高く、学問も高水準で道徳も素晴らしい物を持っているから犯罪も少なく、したがって純粋な国民であるから他国の荒っぽさには免疫がなく傷付きやすい国民性を持っている」という思い込みがあった場合を想定しますね。実際にはそんなユートピアは存在しないので、そんなことを他国で吹聴したら、他国の国民は、「我々の国を馬鹿にしているのか」というたぐいの反応が考えられます。どういうことかと言いますと、どんなに控え目で柔らかい表現をしたとしても、発言をした時点で【自分達は素晴らしい=あなたたちは素晴らしくない】という構図が出来上がります。つまり、言われた側にとっては負のバイアスが掛かって、「自分達が否定された」と考えるわけです。前者は人権問題に発展しかねないし、危険な思想と言わざるを得ません。前者に正のバイアスがあれば当然負のバイアスがあるわけです。前者の考え方は、あまり強すぎると、身内の国民同士でさえ否定的な事実・証拠・考え方が起こったとたんに村八分、袋叩きが始まり、特に証拠なんかあったらもう大変!そんな証拠は広がらないうちに焚書したり揉み消すでしょうし、実際に起きても当然知らされる事はないでしょう。そして後々非常に危険なシナリオが待っているということが今までのお話しでわかるのではないでしょうか。このような存在しないユートピアを信じていたら、誰も現実や真実を知ろうとしないし、都合の悪い真実や事実が逆に悪とされてしまうでしょう。もし、前者の考え方が国ではなく「自分として」置き換えた場合はどうでしょう?他人は全て悪魔にしか見えなくなるのではないでしょうか?一個人がそのような思想?いや、パラダイムを持っていたら、余程その人物に金や権力や大きなメリットが無い限り、相手にしないでしょう。自分は正しいと言うと同時に間違った人間の存在を確定し、マクベスの魔女の言葉を借りれば、綺麗と言えば汚ない、汚ないと言えば綺麗が存在すると言っているようなもの。誰かを悪者にしたと同時に悪者にした側が正義になるって寸法だ。バイアスやタブーは真実や現実や事実を受け入れる態勢が進まないと消滅に向かいません。何度も言いますが、あくまでも架空の話しです!!
その考え。本当にあなたの考えですか?

「ステレオタイプ」という言葉をテレビ等々でなんとなく耳にした方もいらっしゃるでしょう。

私は「ステレオタイプ的なものの考え方」という言葉を実際、何度か耳にしたことがあります。

これはアメリカのW・リップマンの作品「世論」に詳しく説明がなされていますが、というかこの本が我が国での発生源としか考えられないのですが、上記の「ステレオタイプ的なものの考え方」という表現。「自分は絶対にステレオタイプではない!」という事が前提でないと難しい。全文読んだ事のある方の発言とは考えにくく、当のリップマンでさえ後半には不安をぬぐえない様子でした。自らが神にでもなったつもりでないと、なかなか切り離して考える事は難しい。

では、ステレオタイプとは何か。
それは、人間であれば通常はそのタイプであり、ステレオタイプから逃れる事はほとんど不可能に近いのではないでしょうか。その割合を我々の努力によって少なくする事は可能でも撤廃は不可能でしょう。

さて、その【ステレオタイプ】

人は何かをイメージや確認をする時、見てから定義をしないで、あらかじめ定義してから見る。つまり、先に(あるいは前もって)ある種の固定観念をもってから確認作業に入るため、自動的にイメージが左右されてしまう。

我々は、生まれてから現在まで、当たり前のように意識に入って来る、両親、個人間の会話や個人のローカルな情報、宗教、民族的な慣習、大好きな芸能人の発言、新聞、テレビのニュース、ドラマ、アニメやインターネット等々のグローバル、ナショナリズムな情報等によって、何かしらの事態や状況など、事物に対しての答えや判断基準があらかじめ決められており、まず固定観念として当たり前のように、または自動的に前提条件のフィルターがかけられた状態で判断を下す。そのような状態をさして「ステレオタイプ」という。そして、ステレオタイプが固定観念として個人の前提条件にロックされてしまっているため、当たり前のように常識として、しかもバランスをとりながら、好都合につじつまを合わせつつオートメーションで作用してしまう為、ステレオタイプとして「正しい」と埋め込まれた情報に対して「反対する」意見・理解・事実があったりすると、いきなり反論が始まったりなど、自動的に根拠なく受け入れ難い状況にしてしまうのです。極端に拒否している場合は、みずから受け入れにくい状況に持ち込んでしまう場合もあるでしょう。

【ステレオタイプ自体を、我々が偶像崇拝の対象にしている可能性】
自分が正しいと思っている事や、思わずくちばしってしまった発言が、何かのきっかけで不安になり、つじつま合わせのために、自分の答えが合っていると思われる情報だけを探して正当化をはかるような経験が誰しもあるのではないでしょうか?この根源にステレオタイプが存在している可能性があるのです!


もしステレオタイプで無い人(神は人ではないのを前提として)が存在するならば、そのような人物は、人類の歴史の探求者であったり、宗教的にいわゆる「七つの大罪」がなぜ敵なのか等々。自分自身についてはもちろんの事、人類について、今、この瞬間にも探求し続けている人物でなければなかなか難しい。
つまり、誰でも必ず何かしらの地域、国、民族等々の様々なステレオタイプになってしまうからだ。

なんと言っても、これを書いている自分(私)だって例外じゃない!

これを読んでいるあなたも!「違う!自分はそんなことに流されているはずはない!」と思っているあなたも、「その考え」自体がステレオタイプの可能性があるのだ。

自分なりの判断基準とは何か?

これを読んでいるあなたも、だまされたと思って本当にあるのかどうか疑ってみてください。

自分がたよりにしている「その情報」自体もステレオタイプではないと断言できますか?自分が正しいと思っているその情報が、「自分の中のステレオタイプの判断基準」によって正しいと思っている可能性は?不安になったら最終的に情報ソースの情報元の「肩書き」のせいにして逃げるつもりは?(当たり前じゃないか!情報源がなければ話せないだろう!なんて理屈自体がおかしいと思いませんか?そもそも最初からマタギキでウケウリ思考の可能性は?)


例えば、何か分からない事があった時、答えをインターネットで検索して答えを探していないだろうか?検索で出された様々な回答のなかで、自分の都合の良い答えを選んでいるだけなのに、まるで自分で判断したつもりになってませんか?不安になったら最終的にネット情報やネット回答者の責任にするつもりでは?

また、分からない事は国語辞典や百科事典や電子辞書で調べて終わりにしていませんか?知らず知らず当然のごとく回答を販売者の責任に転嫁し、答えをうのみにして自分の意見のようにするが、反論されたら出版社やメーカーなどの販売側のせいにするつもりでは?

つまりこのような【ステレオタイプ】が【他人事にせず】【自分も含め】【存在する】ことを【認める】事が事がこの問題を解決する唯一無二の手段と思われます。

その上で安易な解決方法はとらず、事実確認を細かく掘り下げる事。情報は内向きにならず、社会全体で能動的に開示してゆき「隠し立てをしない方がメリットが多い」社会にする事が必要。なぜなら、お互いに「相手(あるいは自分)の都合の悪い事は触れないようにしよう」という気持ちが強すぎると、いつの間にか内向きなコンセンサスがとれてしまい、馴れ合いのご都合主義のステレオタイプがルールとして確立してしまうので、権力者にとっては非常に都合がいい。なぜなら、根拠がなくても、それとなく噂を流せば無責任に自分勝手なルールが確立してしまうのだ!そのため、実体のハッキリとしない「権威があるかのような陰口」がステレオタイプとしてそれとなく確立してしまうと…さあ、大変!知らないうちにあなたも被害者になってしまうかも…。

あの大国アメリカでもステレオタイプが引き起こす世論の危険性を感じているわけです。

このようなステレオタイプ的な思考が極端に進んでしまう状況はどのような社会でしょうか?

思い付くところは…

・多勢が良しとするものを良しとする社会。
・その時点における権力に対して弱い社会。
・世間の慣例に物申すことの厳しい社会。
・プロパガンダが簡単に通ってしまう社会。
・善悪がやけにハッキリしている社会。
・ルールに問題があっても、議論によって変わる様子がない社会。
・新ルールが沢山つくられているハズなのに、報道やネットやマタギキのうわさ以外で、実際には何の運動も起きている様子がないし、自分も他人まかせの社会。
・ファシズム
・それとなく噂(うわさ)を流すだけで自分の立場が良くなってしまう社会。
・自分の考えを明確にすると、そう考えなくてはならなくなるため、考えがまとまる前に情報収集して、世の中と同じ考えを持ち、素早く周囲のクウキを察知して他人に目をつけられない存在になり、さらに的確な忖度(ソンタク)をし、あわよくば頭角(トウカク)を表して権力を握る事が必要な社会。

等々…

いかがでしょうか?

なんとなく嫌な予感が…

これは「民主主義」の根幹にかかわる問題です。

もう少しで「演技と会話」についての基本的な骨子が終わりますのでご辛抱願います(^_^;)

いろいろ賛否両論あると思われますが、毎回申し上げております通り、ここは建て前上は人権と民主主義を重んじる国に住んでいるわけですから、寛大なご理解をお願い致します。

そして、ここで気になる「民主主義」とは?
次回はこの危険な問題に挑戦してみます。

(ステレオタイプの語源に関しては、ここで言及は控えます。リップマン「世論」(上)岩波文庫:解説p264【~かれはまた、イメージをつくる祭に人間がある種の固定観念をもつことによってイメージが左右されると説き、それを「ステレオタイプ」と名づけた。】解説:掛川トミ子)
 前回に引き続き、新たに登場した

「ファクター:factor」

こちらも辞書辞典を調べると要素、要因、因子etc...なにやら物理や化学のような感じですが…

この「ファクター」の共有?やはりこれも日本的文化習慣にはあまり馴染みのない表現手段ではあります。

実際の所、これが当たり前に存在せず、曖昧である為に伝達ミスが多く、いちいちマニュアルにしたりスローガンをたてたりしないと徹底出来ない社会なわけですが…

その「ファクター:factor」の共有。
実際大したことはなく、ものごとの「なんたるか」もしくは「今、何の事を議題にしているか」「今、何の話しをしているか」「なにを問題にしているか」「今、なにをすべきか」「結局の所は何か」など、とにかく事物の対象は″何の事(なんのこと)″について問題にしているかをはっきりさせ、それをお互いに共有する事です。

我々の社会では、この辺を誰かがハッキリとさせようとすれば、途端に反発や反論などの抵抗が多く、いつの間にか勝ち負け論に発展したりなど、結局は言い出した方が根負けして、曖昧な会話や議論を余儀なくされ、以降は前提条件等々が曖昧なだけに、言い出しっぺの本人も身の危険性を感じ出し、終いには責任が誰かさえ曖昧になり……なんて事例が多いのではないでしょうか?この曖昧さの技術は、職人というより芸術の域に達していると言っても過言ではありません。

この原因は さまざまですが、欧米のキリスト教「過ちを犯すは人の常 これを許すは神の業なり」すなわち人は必ず過ちを犯すわけで、皆で補完しあわなければならないのですが、日本では過ちは弱さであったり、儒教的に してはならないと見なされる事が多く、ところが現実は未来を的確に予想は出来ませんし、状況は常に流動的に変化してしまい、パターン化は非常に困難です。したがって、当たり前のように何かをすれば何かしらの過ちをおこしてしまうわけで、自然とトラップだらけの状況に。また、お互いのフォローは勝ち負け意識を誘発しやすく、貸し借りにもつながりやすい社会性をもっていますので出来るだけこのカードは使いたくない。過ちはまずいので、ごまかしや隠蔽、開き直りなどが横行してしまうわけです。

つまり我々の社会で抵抗が強いのは、ファクターである前提条件以上(factorは前提条件より広範囲を掌握するため意味が強い)のものをハッキリさせてしまうと個々の問題が発見(発覚)しやすく、自分にも火の粉が落ちかねない。すなわち、過ちが表面化してしまう前に抵抗しておく事で水際で火消をしておきたいって気持ちが起こるわけです。建て前上は問題を発見しようとしている事にしておいて、どこかでボヤがあがったり危なくなったりしたら、気付かれないうちに揉み消すなり隠蔽するなり焚書するなり妨害しておいて、無かった事にしようって事もあるでしょう。本来はあってはならない筈ですが、もしも社会″全体″がこうだったら?誰も本音を言いたくないし、歩いても地雷だらけ、危なくて誰も責任なんかとりたくないですよね。さあ、みなさんはどう思います?

ちなみに、抵抗する事と、ものごとに対して意見をする事は根本的に異なります。様々な意見はあって良い筈です。意見をさせない為や、プライドを傷つけられた腹いせなどに この理屈を利用されかねない為に一応言及しておきます。

いちいち英語になってしまうのは、日本語が常に対象を全体的や曖昧にしてしまう言語の為、それにあたる的確な単語が無く、結局手近な英語になってしまうわけです。この辺はプラトンやアリストテレスが得意技や必殺技をもっているので多分、ラテン語やギリシャ語の方がもっと適当な単語があるはず…

会議であれば「アジェンダ:agenda」なども似た表現だと思われます。

この「ファクター」を、日本文化的ステレオタイプの画一的な曖昧さをもって会話を行う限り、真のコンセンサスはありえないというわけです。

もう少しで「演技と会話」についての基本的な骨子が終わりますのでご辛抱願います(^_^;)

いろいろ賛否両論あると思われますが、前回も申した通り、ここは建て前上は人権と民主主義を重んじる国に住んでいるわけですから、寛大なご理解をお願い致します。

そして、ここで気になる「ステレオタイプ」という新たな単語について次回ご説明致します。

★追記
ファクターに続いて「演技と会話⑤エレメントとバイアスの関係」という記事を書きましたので、こちらの方も合わせて読んでみてください。
●演技における会話とは?

前回は「コンセンサス」について触れました。
consensus...辞書辞典ひいても合意だの同意だの意味不明な契約っぽい感じですが、本音と建て前の日本の文化には あまり登場しない日常の意志ソツウの感じなので、こんな訳になっておりますが...。

※以降難しいなと感じた方は流し読みで大丈夫です。

 コンセンサス。
 とにかくカタチの上での会話では、その会話じたい真実味がないし、建て前上の合意は、都合が悪くなれば、もっともらしい言い訳が出来次第、簡単に破棄されてしまうので大変危険です。
 つまりコンセンサスとは、お互いに共通のファクターを認識し合い、その上でお互いの主張を差別なく自由に考えをつき合わせ、同意できれば、足りない部分は補完しあい、共通のルールを持ち、助け合う感じです。″極端″に言えば「あなたの意見は私の意見。私の意見はあなたの意見」くらい話し合って同意しているわけです。

 逆に日本でありがちな、はっきりとは言わずそれとなしに、または間接的に、または状況(クウキ)というつかみどころのない感じを出す(または相手をソウだと勘違いさせる自己演出か、ソウダロウ?的な集団演出)その上で、なんとなく雰囲気が確定したら、はっきりとした文言は控えつつ「話が決裂したら後で大変なことになるぞ」的な脅しなど、相手の弱みにつけこむネタを大なり小なりチラつかせるなどetc、とにかく何かしらの[※1]パワーバランスがお互いに存在したら コンセンサスどころか、建て前上の同意以外は難しい!(そのネタ自体がないと怖くて話せない人もいるのでは?)気づいたら″毒まんじゅう″つかまされてたり、ハニートラップにあってたりなんてね🖤

 ちなみにコンセンサスを、約束や契約などの「プロミス‐promise」と混同しないでね。

いやぁ難しいなあって感じの人もいれば、そんなのわかってるよ!いやそれは意味が違う!etc…みたいな意見もありますが、まぁまぁ落ち着いて…ここは一応、建て前上は人権と民主主義を重んじている国ですから。

これと演技と会話に何の関係が?
答えーオオアリデス。
ここが問題点だったのです!!

ところで先を知りたい方へ朗報です。ここで気になる「ファクター」を認識?について次回ご説明致します!
…………………………
注釈
※1)この中でのパワーバランスは、いわゆる日本的な忖度(ソンタク)やクウキなど、実体は無いのに当たり前のように力関係が存在し、個人の自由な発言を抑制するような力が自制的に働く事によって、自然と(あるいは自動的に)力の均衡が働くことです。欧米的に(すべてとは言えませんが…)、「たとえ無理やり立場を利用して没論理的に論破してきたり、足下を見る発言、政治的、現実的な圧力があったとしても、立場状況に関係なく個人の自由な発言は許されるべきであり、その時の発言によって、その後の生活に制限かがかけられるべきではない」と言うような方向の思想が我々の社会にあれば、パワーバランスと言う表現は、この場合不適切であります。もし仮に、我が国で「民主主義」を採用するにあたっての議論を国民的に行い、真の意味での民主主義的コンセンサスがとれていたならば、現在のように、まるで当然のごとく、ある意味推奨されるほどに「忖度」や「クウキ」的な圧力が、常識的に存在するかどうかは疑問ですが…。忖度やクウキは支配者階級にとっては非常に効率的で、ありがたい制度ではあります。※民主主義論に関しては、今後の記事に予定しております。